東京大学大学院表象文化論コースWebジャーナル
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2022.12.24

共生の「場所」をまなざす

二井彬緒

私の研究分野はハンナ・アーレントの思想研究である。特に1933年から1950年頃、彼女が難民だった時期の議論を研究している。アーレントはこの時期、パレスチナにおけるユダヤ人とパレスチナ人の共生国家論(バイナショナリズム)を論じていた。この共生論がその後の『人間の条件』『革命について』にどの程度影響したのか、また、今のパレスチナ問題へのインパクトを考えるのが、私の研究だ。ただし、議論を整理するだけでは独自性が薄い。そこで「場所」をキーワードにして、初期から後期の議論を整理している。

「本当にバイナショナリズムは実現可能だと思うか?」「実際に状況を考えると無理ではないか」とよく言われる[1]。要するにこういうことである。共生国家のような「場所」は「ユートピア」で、それは現実に存在し得ないものではないのか。だがそうした考えほど、「場所」を不可能にするものはない。

所属していたゼミには、哲学・現代思想研究を専門にし、かつ東アジアに関心を持つ学生が集まっていた。過去形にしたのは、指導教官の退官で今はもうないからである。東北、福島、韓国、台湾、沖縄、広島。そしてフランス現代思想、日本近現代思想史、文学論、クィア理論。アーレントのバイナショナリズムをテーマにする以外、まだ何の方向性も持ちあわせていなかったわたしは、先輩たちの研究に圧倒され、夢中になり、自分の研究そっちのけで資料を読むようになった。

ある時ゼミで東琢磨『ヒロシマ独立論』(青土社、2007年)が紹介された。広島市内や呉、時に沖縄やハワイを訪れ、被爆者、移民、死者に目を向けるエッセイである。東は最後、広島平和公園に戻り、主権に基づかない、あらゆる人を歓待できる、「避難都市」として広島という街を捉え直そうとする。巻末にはこの考えを下敷きにした「正義と平和のための独立空間ヒロシマ──独立宣言及び憲法私試案」が収録されている。この「避難都市」の考え方に、バイナショナリズムのような、理想的な共同体のヒントがあるように思えた。もちろん、「歓待」と「共生」は異なる。あくまで、パレスチナの場所に先住していたのはパレスチナ人であり、入植してきたユダヤ人によって難民化された。一方で、バイナショナリズムは、当時難民だったアーレントによって論じられた議論であり、突き詰めると難民による歓待を求める側面を持つ。ここに、「独立空間ヒロシマ」との近しさを感じた。2019年、私は東さんと広島で会うことになったのだが、それについては長くなるのでやめておく。

広島を通して、わたしは「場所へのまなざし」を見直したいのだ、と気づいた。ある場所をめぐって、固定的に見えるそのあり方も、違う方向から違う言葉で論じれば、別のものを浮かび上がらせることができる。この考えを決定づけてくれたのは、有薗真代『ハンセン病療養所を生きる』(世界思想社、2017年)である。有薗によると、新自由主義やポスト・フォーディズムの席巻する現代社会では、「動くこと」、すなわち移動の自由さえもが支配体制の権力装置に呑み込まれている、とされる。つまり、この社会で人々には労働者として「柔軟」に移動する、という意味での自由が推奨され、できない場合は排除の対象となる。例えば、再開発によって渋谷の美竹、宮下公園のホームレスが排除されるように。こうした社会の中で「動けない/動かないこと」は「不-自由」ではなく、むしろ政治的な可能性を持っている、と有薗はいう。療養所は「自由」を制限された場所のように見えるが、有薗はそれを鮮やかに覆す。療養所の人々は、「移動の自由」はなくとも、様々な工夫や活動──音楽、詩、随筆、演劇など──によって「自由」の意味を押し広げていた[2]。こうして、病者たちは自らの工夫により活動の「場」をうみ、「自由」を獲得した。自らあたらしいことを始め、つくり、それらを通してまた、あたらしい政治的な契機を拓いていく──アーレントの「活動」「始まり」「自由」の議論と繋がっているように思えた[3]

国立ハンセン病資料館には療養所の地図パネルがあり、そこで沖縄にもあると知った。折しも、当時ゼミには沖縄を研究する方が4人もいて、毎週発表を聞いていた。その中で何回か、川満信一の「琉球共和社会憲法C私(試)案」[4]を読んだ。ある種ユートピア的な場所の話である、難解でありつつも魅力あるこの文章もまた、バイナショナリズムとの近似性があるように感じられ、今度は沖縄愛楽園に行ってみることにした。

愛楽園を語るために十分な言葉を、まだ見つけられていない。沖縄の中でも、日本からも、そして米軍からも、さまざまなレベルから抑圧を受けてきたはずのその場所は、私が想像していたよりもずっと美しく、静かなところだった。園裏手の真っ白な砂浜には、人々の魂がまだ漂っている気がした。そんな雰囲気と裏腹に、悲しいくらい綺麗な海辺だった。園の歴史を紹介した展示を見た後、共生の場所なんてものは結局欺瞞ではないか、と思えた。他方で、こうした忘却に晒されている死者の記憶も共生しうる場所こそ、語ることができるところまでは突き詰めて語られなければならない、それこそわたしが探している場所なのだと考えるようになった。

沖縄愛楽園の裏手にある海

ここまでコロナ以前の話である。2020〜2021年はあまりにも暗い時間だった。大学院や研究関係の知り合いと対面で会うことはほぼなくなり、家族の病気発覚と入院も重なった。一番つらかったのは、家にいて家事をする自分と研究活動をする自分の、空間的区切りが曖昧になったことだった。全てが家の中で完結し、私的/公的領域の間に通勤などの余地がない。いきなり議論がはじまって、終わった瞬間、私的な自分に一気に引き戻される。

私的な自分と公的な自分、両方が混在する「場所」が必要だと感じた。外山滋比古の『思考の整理学』に「三人会」というものが出てくる。縁が薄いが同業で同世代の茶飲み仲間である。これを論文のライティング・グループと掛け合わせられないか、と考えた。コロナで台湾への帰国を余儀なくされたMさん、たまたま参加したオンライン研究会で知り合ったTSさん、それぞれと月1回程度、オンラインで話すようになった。特にTSさんとはお互い研究進捗・計画を報告しあった。各自博論のお手本となる学術本を見つけ章立てを参考にしたり、仮の章立てを元に作業フローをExcelで作り、そこからTo doリストを作ってEvernoteで共有した。こういう会にどれだけ救われたかわからない。予定や目処があるとメリハリが生まれ、なにより少し話すだけで心の中にすっと風が通る気がした。

野上さんのいうような、日常的な習慣のレベルでいえば、タスクに取り組むために、感染状況が許せばなるべく外で、時間を決めて作業するようになった。集中が続かない時は書簡集などの年表をつくる。この時、気づいたことがあれば、まずはLINEか研究ノートにメモしておき、やはり集中できない時に調べるようにしている(この点でわたしは谷口さん福井さんほど、デジタルか紙かなど整理できずにおり、時々メモをどこにとったか忘れてしまう)。疲れや不安でどうしようもない時も、必ず就寝前に翌日の作業に必要なものだけ出しておくことを最低限の目標にした。

最近、『反トランス差別ZINE』の中で、「ユートピア的地平」は「そこにはないものを見る意志」によってもたらされる、と説明している文章を見つけた。この意志こそが、反トランス差別が台頭する今の日本社会で、トランスジェンダーの人々と共生する場所を発現させる──文章は、この社会に今、その意志があるのかを問うていた[5]

もちろん、それぞれの問題に無視できない文脈があり、全てを一緒くたに論じることほど乱暴なことはない。それでも、こう思うことは許されないだろうか。苦しく、思い出したくもないような記憶を携えつつも、あらゆる人が諸権利を享受し、平等で、ともにあるような場所を、あらゆる差別に抗いながら、どうにかまなざすことはできないだろうか。

共生の場所を「ユートピア(ou-topos, 存在しない場所)」と考えるその瞬間、その場所はあり得ないものになってしまう。実現可能か否かというゼロか百かの話ではないし、そうしてはいけない。考えはじめられるか、他者と共に何かをはじめることはできるか。アーレントは「地上において、誰も隣人を選ぶことはできない」という[6]。その現実に即し、共生する場所を見出そうとしている人々は、アーレントのほかにもたくさんいる。これまで巡ってきた場所も、そのきっかけになったゼミや本も、辛い時に逃げ込んだいくつかの会も、その中で考えてきている「場所」も、すべてひっくるめて私の研究の場であり、共生の地図のピースであるように思う。この地図探しは、当分まだまだ広がってゆく。

  1. [1]

    アメリカの中立ちで締結された和平協定であるオスロ合意も完全に破綻した、と言われて久しい。イスラエルは年々右傾化の傾斜が強まっており、一国家での共生はおろか、パレスチナ難民の帰還や諸権利を論じることさえ難しい状況にある。

  2. [2]

    例えば、岡山にある長島愛生園では、近藤宏一を中心としてハーモニカバンド「あおいとり楽団」が立ち上げられたのだが、はじめは病者たちが自分で楽器を手づくりしたり、身体的欠損のある病者にも楽器を扱えるように工夫したり、非-病者の職員から支援を受け、活動を療養所外、さらには全国へと広げた。やがて楽団はハンセン病の理解促進運動もしていくようになる。

  3. [3]

    厳密に整理していけば、アーレントの理論において、身体の問題は私的領域の問題として扱われるため、おそらくハンセン病も公的な問題として浮上しないのだが、「療養所」「病者」という制限された空間と主体にも、政治的な活動をはじめる契機は十分ある、と考えさせてくれた。しかし、それが誰にでもできるものではなく、どこかヒロイックなものになってしまうことは付言しておく。

  4. [4]

    川満信一・中里効編『琉球共和社会憲法の潜勢力──群島・アジア・越境の思想』未來社、2014年所収。

  5. [5]

    清水晶子「背を向けて、彼方を見つめて、向き合って」、反トランス差別ZINE編集部『反トランス差別ZINE──われらはすでに共にある』2022年所収。

  6. [6]

    ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン』みすず書房、2019年。

執筆者

二井彬緒
FUTAI Akio

博士課程在籍。ハンナ・アーレント(1906-1975)の思想研究。移民・難民問題や場所論、共生論に関心があります。名前のポイントはフリガナが「あきを」なところです。https://researchmap.jp/akio-futai21