東京大学大学院表象文化論コースWebジャーナル
東京大学大学院表象文化論コース
Webジャーナル
2022.04.01

研究の「場」を作ること

野上 貴裕

筆者は哲学・思想をフィールドの中心としつつ、それらに伴って営まれる人々の生や運動について研究を進めています。修士論文では20世紀フランスのシチュアシオニストという運動団体について書きました。ただ、「研究」とは言ってもまだ修士論文を仕上げただけなので、ここでは修士課程のあいだに行っていたいくつかの事柄について書きたいと思います。

自分の場合、研究の中心にあるのは自室での書物の読解であり、まずはそこを中心に場が形成されているように思います。「形成されている」としたのは、学部生のころ初めてレポートを書いたときから徐々に出来上がってきたものであるからです。都度の自分の感覚やときおりもたらされる助言などを取り入れながら今のやり方に落ち着いていきました。文庫本であれば手に持って読むこともありますが、より重量のあるハードカバーなどの場合にはまず机に小さな台を置き、さらにその上に書見台を置いて読むようにしています。これで首や腰に負担をかけることなく読むことができるのです。姿勢を整えることが集中することや研究寿命に影響してくるのではないか、そうして長い時間粘る力がなければよいものは書き得ないのではないか、そう思っています。

読む本にもおおまかな段階を設けていて、ほぼ全文についてメモを取りつつ読み込むべき本、重要な箇所はメモを残す本、参考程度にめくる本など、自分が行う作業に応じて書籍を振り分けています。メモはA4サイズの大きめのノートに手書きで取ることが多く、一方で抜き書きはあとで引用するときのためにWordに貼り付けておきます。ノートには主に短い文章を書くページと、アイデアを出すために単語を使って概念図のようなものを作るページとが混在しています。一体ノートは無地の方がよいのか、あるいは罫線の入ったものがよいのかと迷い続けた結果、今は交互に使うということになっています。無地のものばかりだと何か基準が欲しくなる、一方で罫線に沿って書いているとだんだん自由な向きに書いていきたくなる。脳が疲れてくると全ての文章が重要に思えてきて、要点のメモのつもりがそのうち全文書き写すということになってきます。そのあたりが止めどきで、休憩を入れるかその日はもう休むことにしています。

図書館の静謐で張り詰めた空気があまり肌に合わないということもあり、本はお金が許す限りで手許に置くようにしています。特に図書館の哲学関連の棚の周りにはあまり人がいません。大きな本屋や人文書を扱う古書店ではそれらを手に取って眺める人も多く、本を買いに来るひとの趣向が作り出すそうした若干の凹凸込みで本を眺めるのが楽しいようです。また、本は買ったあと例え長い期間読まずに置いてあったとしても研究の養分になるような気がします。本棚を日々眺めるうちに、タイトルや表紙が自らに馴染んでいき、いざ必要になったときにいまや自分の習慣の一部であるかのように手に取ることができるのです。本のタイトルと棚の中での位置が記された地図を作ること、これが自分にとっては研究の地盤となっているように思えます。

論文や記事を書いていく場面では、まずはノートを見ながら書くべきことを一息に書いてしまいます。これだけでは外に出せるものにはならないので、そこから加筆したり削ったりして成形していきます。多くの論文指導書ではまずアウトラインを作ることを勧めていますが、自分の場合はまず書き始めるということをしなければアウトラインを作ることができません。書くことで初めて定まってくる「言いたいこと」を伝えるために全体の構造を作っていく、というイメージです。もちろんかなり非効率なやり方ですが、これが最も性に合っているようです。(博士課程以後はそうも言っていられなくなるかもしれませんが……。)

友人たちと定期的に開催している読書会も欠かすことはできません。一つの研究をラボ単位で進めるというわけでは決してありませんが、それでも研究はさまざまな人との関りのなかでしか進まないものであると思っています。研究という営みには、もちろん書物を書いた誰か、それを出版した誰か、そもそも「研究」という制度を形成し維持している誰かとの協働という点は前提として含まれていて、さらに日常的に会話をする友人たちや指導教官からの何気ない一言が物事を前進させることがしばしばあります。そうした機会をある意味で能動的に引き出すことができるのが読書会だと考えています。もちろんそこには選書や読解の傾向性を巡る権力関係の発生や、偏った言説空間の生成などの危険性もありますが、それでもそのなかから生まれてくる研究の鍵のようなものを軽視することはできません。この意味で読書会は筆者の研究の場において大きな一部をなしていると言えます。

直接に研究と関わること以外では、二日に一度は挟むようにしている散歩の時間や、買い物、料理、洗濯、掃除、好きな靴や服の手入れの時間も研究の重要な一部として捉えています。上で記したような仕方で本を読む習慣をかたちづくることと、生活するうえで必要な習慣を生きることとのあいだに質的な差異はないのではないかと思えます。繰り返し読む中で新しいことが分かるということと、いつも作っている料理にほんの少しの変化を加えることとは本質的に同じことなのではないでしょうか。いつもの散歩ルートから逸れてみること、いつもはない汚れに応答するために洗剤を変えてみること、毎日掃除していたのに気づかなかった汚れに気づいて拭き取ること、靴をなぞる布の動かし方に変化をつけること、いつもと違う組み合わせで服を着たり、閉めるボタンを変えてみたりすること。こうした習慣と変化のダイナミズムこそが研究の場を徐々に作っていくのです。

研究者にはそれぞれ独自の「研究のトポス」のようなものがあるとして、筆者はいまだそれを形成していく途上にあるのだろうと感じています。あるいはずっと作り続けていくということになるのかもしれません。それでも、「場」という広がりの意識をもってこれからの研究を続けていきたいと考えています。

配管の写真

これは昨年家の近くで撮れた配管の写真です。繋ぐ位置を変えたり、そもそも管の出る位置を変えたり、管を壁に接着する位置を変えたりした様子が見て取れます。おそらく一度の工事でこうなったのではなく、それぞれ一定の期間使用されながら少しずつ変えていったのでしょう。それにはこの管が繋がっている内部および外部の構造にも変化が伴ったのではないかと思います。より大きな変化の根元をこうした細部での対応が支えている、ということがしばしばあります。戦術的に継ぎ接ぎされた証しが平面で残っている様が気に入っています。

執筆者

野上 貴裕
NOGAMI Takahiro

博士課程在籍。「日常性」について広く調べています。修士論文ではシチュアシオニストという運動団体について書きました。

Archive