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2023.05.13

踊るように歩きたい

田辺裕子

路地には、いまバラの花が大笑いしている。家は、さらに奥に進んだつきあたり。部屋は10畳くらいで、手前にキッチンと、お手洗いがひとつ。築60年くらいの木造。本郷にあったシェアハウスから、絵3点と、手作りのコタツをもらい、本棚はりんごの木箱でなんとかしている。黒板も手作りで、黒いスプレーを使ったあと、マスクをしていたのに鼻くそがまっくろで驚いたのは良い思い出。やすりをして腰を痛めた作業テーブルもある。たばこを吸うひとは小さな庭でどうぞ。

かみいけで家を借りて、コミュニティスペースを始めた。もう3年が経とうとしている。 いちおう「たんきゅう」という言葉をテーマに掲げていて、なにかを丁寧に言葉にしたり、じっくり考えたりするという理念に共感したひとびとが月額いくらという形でメンバーシップを結び、自由に鍵を開けて使っている。自分ともうひとりが少し持ち出しもして、家賃がなんとか払えるか払えないかという感じ。

かみいけの道は細く狭く、そこにピカピカのマイホームが毎月のように建っていく。一方で、長年かけて住みこなされた古い木造家屋もいっぱいあって、「道路予定地」と名付けられたまま何年もそのままの、役割を宙吊りにされた土地が散在する。いわゆる木密地域だ。かみいけのまわりには、板橋、巣鴨、大塚、そして池袋があって、すこし北へ足を伸ばせば王子がある。

特になにというわけでもないコミュニティスペースを紹介するのはけっこう大変で、「おいしいものを作って食べたり、なにかあったら相談したりできるよ」と話したら、後輩にネットワークビジネスだと思われたこともあったし、地震対策のヘルメットを見て、学生運動を連想した訪問客もいた。「政治や宗教とは違う集まりかたがあるとすれば、ここでは、それはどんなものなのだろうね」と、ある先生に言われたことは折に触れ思い出す。

筆者の研究関心は、板橋に向かおうか、巣鴨に向かおうか、池袋のほうか? 王子も遠くはないな……といった具合に右往左往してきた。高校のときまでは演劇とはあくまで舞台上の俳優が大きな声で感情表現をすることだったし、大学生のときは論文を読んで書くことを研究と言っていたのだけれど、そのどちらの基礎も固まらないまま、「演劇」という言葉と「研究」という言葉がおのおの膨張しはじめた。取るに足らない日常にも常に複数の現実が同時に進行し、そのズレの原因を相手の思い込み(虚構)として軽んじ、あるいは軽んじられる。舞台と客席のあいだで起きていると思っていたことが日々の人間関係のなかで繰り返し発生し、上演と鑑賞が無数に交差して、それに翻弄されてしまった。現代美術や教育の現場にかかわったり、精神医療や地域コミュニティにおけるユニークな活動に強く惹かれたりと、自分の居場所はさまざまに可能だということがわかった一方で、研究という点では、自分の思考が連想とインスピレーションに飲み込まれ続け、自分が取り組むべき「演劇」と「研究」の整理が済んだのはほんの最近のことである。

山道、地面の特徴にあわせて、姿勢や足の裏に注意が向く。バランスをとるために、ひざをまげたり、腕を左右に広げたりするし、みぎ・ひだりというリズムも当たり前に一定ではなく、地面に呼応して刻まれる。拡大し散逸する演劇と研究のなかで、それでもそのふたつが手がかりとして残り続けた理由は、どちらも、生き生きと自由に「散策」する技がたくさんあるのだということを教えてくれたからだ。二本足で背筋よくまっすぐ歩けなくても、それ以外に魅力的な歩き方をみつけたひとたちがたくさんいて、自分が方向感覚を失って手をついたときも、もうしばらくいろんな動きを試せば、ひとまとまりの研究のトポスについて散策地図を描ける日も来るのではないか、そういう希望を持つことができた。これまでみなさんが書いた研究の現場の描出は、どれも、おひとりおひとりが試行錯誤してきた、コンタクト・インプロヴィゼーションの軌跡と、そうして確立された振り付けの一部だと思った。

木下さんがアーカイヴス施設で従事されている「素材が要求する道具と動作、そして経年の仕方を知ること」についての文章は、まさに体の動かし方を伴う研究活動のありようを具体的に教えてくれるものだ。長大な時間と膨大な資料に向き合うために研究の「道具」の習得をなさってきたことは、自分にとってもヒントになった気がする。

また、谷口さんの研究プロセスのほとんどがデジタルな作業であることには、もちろんもう全く珍しくないのは承知だけれど、改めて驚き、読むのを中断していったん顔を上げ宙を見つめてしまった。はじめから目や手や思考に馴染んだのでしょうか? わたしは画面上だと言葉が上滑りして居心地が悪いときがあるのですが、どんなレベルのテキストでも感触は変わらないのでしょうか? いろいろ尋ねてみたくなる。フィリップ・ルジュンヌの研究日誌にはとても興味が湧き、それを受け取った谷口さんにも、生活のなかに織り込められた研究の物語があるにちがいないと想像した。

二井さんが書いた、探究心に突き動かされた旅の報告文からは、物理的な移動によってもたらされる研究のインスピレーションにこそ新鮮さと手応えとがあることを思い出させてくれた。克服困難で受け入れ難い残酷な現実を前に、ありえるかもしれない共生の場を想像し、淡々と構想することはどのように可能なのか。これは、そのヒントを手に入れるためだけでも、くじけてしまいそうな数のトライアンドエラーが必要だろう。ひとつ思い起こされるのは、二井さんと一緒に受けた授業で、話題にしにくい問題も含めて言葉にし、そこから一緒に考え始めることができる場があったことである。かみいけのコミュニティ・スペースでも、あまり言葉にしたことがなかったこと、言葉にする準備が整いつつあること、そういったあたりの思考を持ち寄って、丁寧にこたつの上に並べるようなことができればと思っている。旅先の発見を持ち寄ったら、ここにはないけれどここにありうるものに思いを馳せる、そういう信頼関係の場を築けるのかもしれない。筆者自身、多くの友人との対話のなかで、自分が思いつきもしなかった選択肢が見えてきたり、現実の理解が大きく変化したりして、そうやって生き延びてきた。

今日もわたしは近所を歩き回っている。さまざまな家のかたち、窓枠や屋根を見て楽しむ。おとなりさんと挨拶をする。近所の「くるちゃん」を撫でる。公園を眺め、再開しない中華屋さんを覗く。研究のトポスの散策はまだおぼつかないが、次はどこに手を置くか、どちらのほうへ爪先を伸ばすか、あたりがつけられるようになってきたとは思う。これからも、みなさんのエッセイを拝読しながら奮闘したい。

良かったらかみいけにも遊びに来てください。道端で転げまわっているひとを見かけたら、それがわたしです。

執筆者

田辺裕子
TANABE Hiroko

シェイクスピア作品に取り組みつつ、最近は「演劇の実践的研究」を掲げて七転八倒している。平日はアートギャラリーを拠点に芸術・文化・教育活動に従事し、プライベートでは2020年から豊島区・上池袋にてコミュニティスペースを運営。ご連絡は、info@laboratorybuncho.comまでどうぞ。