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2022.09.22

いっそうゆっくりと進むために──あるリズムについて

大岩可南

先日もやはり、西洋史学科を修了した友人と上野の怪しげな水煙草屋にしけこみながら、「なぜわれわれはこうも社会生活に向いていないのか」という類の話をしていた。ほとんど嘆息めいた甘ったるい煙を交互に吐き出しつつ、さしあたり「文系院生たるもの、毎日同じ時間に起こされ、規則的に働かされることが耐えられないのではないか」という結論に落ち着いたのであるが、自分が修士論文を執筆していた時期を思い返してみると、たしかに腑に落ちないわけでもない。一日20時間書き続けられる日もあれば、今日はもう無理だ、という日もあり、今週はもうお手上げだ、という日もあり、今月はもう山にでも籠もってしまおうか、という日もあった。というか、ほとんど後者だったような気もする。

のっけからこんな話をして恐縮だが、わたしは現在一般企業に勤めつつ、社会人博士というかたちで研究をおこなっている。今回、社会人院生の研究生活を書いてほしいという依頼でバトンを受け取ったわけではあるが、すでにそれを渡し終えた方々が、それぞれ研究の〈場〉における「もののやりかた」をどのように練りあげてゆくか、という観点で書かれているのだとしたら、多少なりとも異質なバックグラウンドをもつわたしに期されていることは、むしろその〈場〉をいかにして形成するのか、ということなのかもしれない。そしてそれは、わたしが日々の大半の時間を割いている労働の、いわば陰画的表現として現れているように思われる。

シモーヌ・ヴェイユは『工場日記』のなかで、工場就労の過酷さを、思考する余地のなさ、とでもいうべきもののうちに見ていた。疲労に圧しつぶされながら、頭痛に苛まれながら、それでもなんとか不慣れな機械を動かしつつ、働く。求められた達成率を下回らぬよう、伝票を〈流さ〉ぬよう、目の前の作業をただひたすら進めるうちに、おのれの思考能力が、いまみずからが手にしている機械かあるいはもっと大きな別のなにかに同調してゆき、いつのまにか取り去られてしまったかのような状態に陥る。「機械は思考の介入をいかにわずかなものにせよ排除する。完了した操作を意識することさえも。達成率リズムがこれを妨げる[1]」とヴェイユが述べるこうした思考の簒奪は、やがて彼女を「自分にいっさい権利がないという感覚[2]」に導いてゆく。

ヴェイユの経験に自分のそれをなぞらえようというわけではないのだが(それでも「土曜の午後と日曜の朝にしか解放されない」といった心の叫びに触れると、まるで現代のサラリーマンの心情を代弁しているかのような普遍性を感じてしまい、どこか勇気づけられるような気持ちになるものである)、この「思考」と「リズム」の関係についてしばし立ちどまってみたい。

ヴェイユをこよなく愛した作家ピエール・パシェはあるテクストのなかで、工場では「別のことを考えることができない、何も考えられない」という彼女の一節を引きながら、ここにあらわれているのは思考の不在や死ではなく、あくまで思考の禁止だと述べる。思考そのものが消滅するわけではないが、思考の潜性力は着実に削がれてゆく、とでもいうべき事態。「この内容をともなわない思考とはいったいなんなのか」とみずからに問いかけつつ、パシェは次のようにいう。

〔ヴェイユの言葉を借りて〕「思考することは、いっそうゆっくりと進むことである」とするならば、時間が過ぎるのを忘れながらさすらい、空間を覆ってゆくことであるとするならば、シモーヌ・ヴェイユがこれ以降その存在を待ち構える「思考」は、張り詰めくたびれているものであり、時間と空間を奪われ、挙句のはてには空っぽになってしまう[3]

達成率リズムがそれを妨げる」──自身に固有のリズムが、機械の秒刻みの運動リズムへと同化し、労働の一様な達成率リズムへと還元される。工場での労働は、時間を数秒での単位に切り詰める。こうした観点に立ってみると、どうやら冒頭の与太話も、それなりに正鵠を射ているような気もする。朝決まった時間に起き、パソコンで「勤務開始」のボタンを押す。するともはや、なにか別の磁場へと自分が引き込まれてしまったような気持ちになり、おのれの針はすでに、あれやこれやのデバイスの電磁波に狂わされてしまっている。あとはもう、ひとまず目の前に置かれた「タスク」の解消に向かって、一挙に進んでゆくだけだ。身体は現在の一瞬一瞬に生き、精神は時間を支配しつつそのなかを自由に駆けまわるものであるが、この身体と精神とのあいだの関係性を規定するものが、工場労働の時代では自分と自分の上司とのあいだの関係性を規定していた、とヴェイユは語っている。すなわち思考を奪われた主体はもはや精神を持ちえず、身体の位置に留め置かれてしまう。リズムを捨象する、あるいは自身を疎外するまったく別のリズムへと向かわせてゆくこの磁場から、かたとき身を離すにはどうすればよいのか。パシェはヴェイユのうちに、拘束をいったん引き受けながらも、そこからまた思考が開始されるようなモメントを探っているように思われる。

それ〔精神の地位を追いやられること〕は、考えないようにすることを自分に強いるのと同様に、考えないようにと考えねばならないという責め苦を受けることなのだが、しかしこのことは、思考することのチャンスを自身のうちに生かしておくということを前提としている。同様に、自分の注意をあれこれの身振りに制約することは、その微細な捉えがたさのうちに、別の注意の形式(制約することへの注意)をほとんど手つかずのまま残している。この注意の形式は、苦しみながら働き、あらゆるものを奪われてもなお、絶えずみずからに贈りつづける別れの挨拶のようなもののなかで、自身にたいして現前している存在の実質なのだ。この否定的な啓示に頼りながら、禁じられた思考のもっとも近いところで、シモーヌ・ヴェイユはこれ以降、思考してゆこうとする[4]

思考を禁じられるということは、考えないようにと考えることにおいて、それじたいのうちに新たな思考の萌芽を兆してもいる。ひとたび誤れば死をともなう作業にみずからの注意を制限することは、その制限に注意を向けているという点において、ひとりの人間の実存を証し立ててもいる。絶望の深淵に、目を凝らしてようやく認めうる一条の希望の光──そのような極限状況を前にして、ほかになにを言うべきだろうか。わたしはただ、なんらか別のしかたで思考を始めてみようという後押しを、漠然と、しかしたしかに受けとめるのみである。チャンスの原義が「落ちてくる」ものであるならば、こうした場であるからこそ落ちてきたものを掴みとり、そこから思考を編み直してゆくほかないだろう。思考がなんらかの否定性を被るのであるならば、その否定を蝶番として、自身に固有の時間と場所を──トポスを──回復してゆくほかないのだろう(あるいはそれはもしかすると、福井さんのいうセルトーの「海」や「浜辺」のように、すでにわたしたちの耳が、その音をなつかしんでいるものなのかもしれない)。そのような営みの一環としてわたしの研究生活は、まだいろいろとおぼつかないことばかりだけれど、立ち現れてくるような気がするのだ。

  1. [1]

    シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』冨原眞弓訳、みすず書房、2019年、171頁。

  2. [2]

    同上、155頁。

  3. [3]

    Pierre Pachet, « Simone Weil et l’appel du présent », Aux Aguets, Paris, Maurice Nadeau, 2002, p. 158.

  4. [4]

    Ibid., p. 158.

執筆者

大岩可南
OIWA Kanan

博士課程1年。労働・マネジメント・マーケティングといった問題について、思想史の側から捉え直すことを目標に研究しています。ときおり、広告コミュニケーションについて書いています。