本論集『Spielraum』は、2024年3月の田中純先生のご退職に際して先生に贈るべく企画され、さまざまな専門領域と自由な表現手段によるテクストとイメージが集合する場として完成した。研究論文、エッセイ、批評、写真、映像など、多彩な著作が集まったことは、先生が私たちの学究に向けて門戸を大きく開いてくださったことを何よりも表している。
序文とあとがきを含む一部の論考・エッセイは、本Webジャーナル『Phantastopia』にて公開された。本文はタイトルのリンクから閲覧可能である。
00 序──“Spielraum”からの手紙 菊間晴子
01 私記の語り部としての歴史家──書物の生命をたどって 山田惇一
歴史叙述のための調査は、事物に残存する記憶をたどる冥府巡りの旅である。過去に魅せられ、死者に導かれる魔性の旅の経験は、とりわけ書物という媒体によって物語られてきた。生者を呪縛する歴史の魔力は、たほうで時空を超えた邂逅を可能とする希望の謂れでもある。歴史家は、過去に触れる経験の叙述を通して歴史における希望を示す。本論もまた、田中純の書物に宿る生命に触れたわたしの経験を語り継ぐ物語にほかならない。
02 田中純先生へ──私家版論集のための半・公開書簡(のような独り言) 谷口奈々恵
直接お送りするには重たくて気恥ずかしいながら、広く公開されるわけでもない私家版論集であればこそ許されるだろうお手紙…のつもりで始めたら、計10ページの長大な独白のようになりました。『建築のエロティシズム』と「アーシアを探して」という二つの文章を軸に、指導学生としての自分の迷走の軌跡を振り返りつつ、田中先生のご研究のスタイルとパッションへのあこがれを愚直に綴った私信的エッセイ(?)です。
03 70年代の探偵たち:犯罪都市と「迷子」探し 田口仁
『過去に触れる』のサスペンス論への応答として、1970年代のネオノワール映画を論じた。指導を受け始めた頃の記憶を糸口に、ボウイ論、ヴァールブルク論との接続を含む、駆け足気味の田中純論。
04 「即興 ホンマタカシ」展における「影」の問題 西川ゆきえ
「即興 ホンマタカシ」展をとりあげ、「影」を鍵概念に論じた。部屋をピンホール・カメラに仕立て制作された写真にのこる光のうつろいの妙やその陰影と、会場造作に象徴されるところの薄暗い部屋の内部に結ぶイメージを覗こうとする人間的な欲望。両者が並存する本展を辿りながら、田中先生のイメージ論とも緩やかに繋がる写真観を共有したい。補として、本論と対応する筆者自身の写真制作ノートを添えた。
05 「しるし」に対して臆さないこと──田中純という先達 菊間晴子
ある大学で「歴史と人間」というテーマの授業を担当することになった際、私が目標に掲げたのは、現実から切り離された史実としての歴史ではなく、私たちの「経験」の対象としての歴史を、学生たちに示すことだった。そしてそのような「経験」の可能性こそ、私が田中先生から学んだものであった。本論考では、田中先生の映画『シン・ゴジラ』論を参照しながら、作中に登場する謎めいた「巨大不明生物」の表象を、換喩的な「記号」としてではなく、まさに私たちの「経験」の対象として、すなわち「徴候」=「索引」としての「しるし」として読み解くことの意義を考えていく。
06 街の報せ 一之瀬ちひろ
ジョナス・メカスの足跡をたどるアーカイブ資料調査で滞在した街、立ち寄ったカフェで書いた先生へのみじかい手紙。研究成果からはこぼれおちてゆくたいせつなものをすくい綴じる、写真とテクストによる小さな本。
07 「生命」の証拠写真━━エルンスト・フーアマン『生き物としての植物』を支柱として 相馬尚之
本論考では、科学と芸術の二元論的境界を横断する写真実践について、ドイツ人芸術家エルンスト・フーアマン(Ernst Fuhrmann 1866–1956)の写真集『生き物としての植物』(Die Pflanze als Lebewesen, 1930)を中心に論じる。数多の植物の動的様態を可視化した植物写真は、「精密」自然科学の専横に挑戦した彼の汎「生命」的な世界観の証拠写真であった。
08 「名もなき人間」とモンタージュについての覚書 小城大知
田中純先生が近年いかなる映画に関心を持っているかを検討したうえで、映画作品に共通するテーマ「名もなき人間」、そして田中先生の著作で批判的に検討されている概念「モンタージュ」へのアプローチを試みるもの。ジャン=リュック・ゴダールもトーマス・ハイゼもあの世へと旅立った。だが、映画が残存する限り闘争の不死は約束されている(Luta ca caba inda)。
09 『デヴィッド・ボウイ』の声を聴く━━絶対的な初心者として 石川愛
これは、田中純『デヴィッド・ボウイ』という書物を中心に広がる星々をめぐるエッセイである。田中がかつて著したボウイ論と同書の差異や、両者に通底する「聞こえるか?」の問いについての考察を通じて、田中が同書において選択した、ボウイの歌声への注目とルビの多用という戦略の意義を考える。こうした考察は、田中による「ぼくらはまったくの初心者だ」という呼びかけに対する、現時点での筆者からの応答でもある。
10 記録 蜂起/野戦攻城2017@駒場──「出来事」(として)の知 小手川将
2017年春、田中純ゼミでは、フランスの哲学者・美術史家であるジョルジュ・ディディ=ユベルマンの企画による展覧会「蜂起(Soulèvements/Uprisings)」のカタログが主に取り上げられた。そこでの議論の成果をもとに同年7月29日に実施された4時間超におよぶシンポジウムの記録映像を編集し、2017年の駒場で生じた「出来事」の復元を試みた。
11 明るい亡霊、あるいは鏡からの離陸について 高部遼
『都市の詩学』所収の「チマタのエロティシズム──映画による夕占」を出発点に、先生と筆者との出会いについて触れた論考。「暗い」文体で書かれた先生の、地中や大海の底へと沈んでゆくような歴史叙述とは反対に、ロラン・バルトが「鏡」からの離陸という比喩で描いた、大都市のエロティシズムに身を委ねるような軽くて明るい「歴史経験」の可能性を問う。
12 あとがきにかえて──敷居をしるす 木下紗耶子
本論集制作の発端から着地までの目撃談のようなもの。