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ブックレビュー

美的な多様性についてドミニク・マカイヴァー・ロペス、ニック・リグル、ベンス・ナナイ『なぜ美を気にかけるのか』書評

銭清弘

Lopes, Dominic; Nanay, Bence & Riggle, Nick

Aesthetic Life and Why It Matters

Oxford University Press, 2022

Lopes, Dominic; Nanay, Bence & Riggle, Nick

Aesthetic Life and Why It Matters

Oxford University Press, 2022

その他の判断や価値や経験とは区別される、美的な判断や価値や経験の本性について記述することは、美学という学問のコアをなす課題である。映画を鑑賞し、スニーカーを選び、料理を盛りつけるときに、私たちは美を気にかけている。私たちが美しいものを欲し、美しいものに駆り立てられてふるまうとき、そこには単に実利的でも道徳的でも認識論的でもない、独特な美的配慮がある。『Aesthetic Life and Why It Matters』は、このような美的生活を主題とした論文集である。体裁としては教科書を意識して書かれているようだが、構成やテーマの網羅性からしても、あまり初学者向けではないような印象を受けた。ひとまずは、現代美学を代表する三人の論者がそれぞれの理論を手短に展開する論文集として読まれるべきであろう。

まずは本書の背景と著者らの立ち位置をマッピングしよう。三者による論考はおおむね独立したアイデアと議論を展開するものだが、通底しているのは、美的生活について伝統的に与えられてきた描像への対抗意識である。この描像は、いわゆる美的快楽主義、とりわけそこに理想的鑑賞者という項目を組み込んだ見解から生じる。この見解、すなわち理想化された美的快楽主義によれば、あるアイテムが肯定的な美的価値を持つとは、適切な能力と経験を備えた評価者に、肯定的な美的快楽を与えることにほかならない。アングルの絵画が美しいのは、それを見る私たちの目を喜ばせるからであり、肯定的な価値を持った美的快楽を与えられるからこそ、アングルの絵画には肯定的な美的価値があるのだ。この伝統的見解は、美的生活について次のような描像を与える。すなわち、美的生活の中心をなす営みとは、ある芸術作品がどれだけの美的快楽を与えうるのか、趣味の良い批評家が正しく判断することにほかならない。このような描像は美学という学問が発生した時代、すなわち近代という啓蒙の時代と深く結びついている。

伝統的描像は、少なくとも四つの点で偏っている。第一に、そこでは芸術作品が偏重されている。美しさや優美さといった美的価値は花や鳥といった自然物でも持ちうるものだが、伝統的に美学者が着目してきたのは絵画や彫刻といった芸術作品であった。第二に、そこでは快楽ないし経験が偏重されている。まずもって価値を持つのは美的快楽ないし美的経験であり(気持ち良いことが良いことであるのに、さらなる説明はいらない)、芸術作品はそういった経験を提供する限りで道具的な美的価値を持つのだ。第三に、そこでは紳士が偏重されている。美的生活のコアメンバーはハイブローで趣味の良い個人たちであり、私たちはみな彼らを模範とすべきだとされる(例えば、逆張りしてB級映画を好むべきではない)。第四に、ある特定の関与のモード、すなわち評決ないし判断が偏重されている。美的な生活における達成とは、美しさや優美さについて客観的に正しい判断へと至ることであり、私たちはみなそのための趣味や感受性を養う必要がある。ある程度のカリカチュアを恐れずに要約するならば、ここには美的エリート主義がある。

ベンス・ナナイ[Bence Nanay]、ニック・リグル[Nick Riggle]、ドミニク・ロペス[Dominic Lopes]による論考は、それぞれ少なくともひとつの偏りを批判することで、美的生活のより多様な側面を前景化させる試みとなっている。ナナイははっきりと判断偏重を批判しており、美的生活において肝心なのは美的判断よりも能動的な美的経験であると主張する。この点でナナイは少なからず快楽偏重ではあるが、それによって、美的生活への参与を動機づけるのは客観を志向した判断ではなく主観的な経験であることを強調している。リグルは個性と自由を重んじる美的共同体を記述し、そこに食文化との類比を見て取る。食文化が、単に栄養や美味しさの問題ではなく、採取や調理を含む共同体的実践であるのと同様に、美的な生活も共同体的である。ロペスは美的生活において冒険的な選択を行うメカニズムを解明することで、硬直的な伝統的描像とは異なる動的な描像を提案する。美的実践において、私たちは多元的な価値に触れたいという欲求を満足させることができる。美的生活を豊かにするのはバラエティであり、私たちは新しい美的実践へと参与するきっかけに囲まれているのだ。

この書評では、それぞれの議論を検討する代わりに、彼らの議論が立脚しているひとつの直観についてコメントしたい。とりわけロペスの論考に顕著であるが、重要視されているもののひとつは美的な多様性である。

なぜ美的関与は人生を良くしてくれるのか。その答えが美的生活の驚くほどの多様さに関係していることは確実だ。[…]美的生活がなぜ大切かというと、時にわたしたちは違いを大切にしているからだ。(『なぜ美を気にかけるのか』訳書p. 97, 原著p. 61)

美的生活には多くの、互いに代替不可能な価値や経験があり、多様であるのは良いことなのだ。このような、いわば西海岸的な価値観は、イントロダクションにおいてとりわけ印象的な『インフィニット・ジェスト・ライト』の思考実験にも現れている。デヴィッド・フォスター・ウォレス[David Foster Wallace]の小説『インフィニット・ジェスト』(1996)に出てくるある映画作品は、ひとたび鑑賞し始めたらあまりの素晴らしさに衣食住すら忘れて観続けてしまうので、鑑賞者はやがて死んでしまう。著者たちが取り上げるのはそのライト版、衣食住を忘れるほどではないが、あらゆる美的アイテムのなかで最高の価値を持ったアイテムであることを誰もが認める映画、『インフィニット・ジェスト・ライト』である。ミケランジェロだろうがピカソだろうが、『インフィニット・ジェスト・ライト』より美的に優れたアイテムは存在しないし、誰であろうと選べる場合にはつねに『インフィニット・ジェスト・ライト』が与える美的経験を優先する。美的価値に関してのチャンピオンが完全に決まってしまった世界、というわけだ。著者たちがこの思考実験によって引き出そうとする直観とは、『インフィニット・ジェスト・ライト』のようなものを私たちは求めていないし、美的に見てそれよりはるかに劣るアイテムしかないにせよ、多様性と意見対立に満ちた世界のほうがベターだと思われる、というものだ。そして、理想化された美的快楽主義では、『インフィニット・ジェスト・ライト』のなにがまずいのかを説明できない。したがって、理想化された美的快楽主義には疑うべき理由がある。

『インフィニット・ジェスト・ライト』の思考実験は、アレクサンダー・ネハマス[Alexander Nehamas]が『Only a Promise of Happiness』(2007)において提示した別の思考実験(通称「ネハマスの悪夢」)に触発されたものである。ネハマスの仮想する世界では、誰もが同じ趣味や感受性を持ち、同じものを好み、同じ美的判断を下す。『カラマーゾフの兄弟』が『ちいかわ』より優れていることぐらい誰でも認める世界というわけだ(その逆でも構わないが)。ネハマスは、こんな画一的な世界は悪夢であると述べ、同様に美的多様性や意見対立の重要性を強調する。それぞれの趣味やスタイルがあることは、私たちそれぞれに人としての個性があることと同義である。異なる趣味、異なる美的楽しみ、異なる評価や判断があるからこそ、美的生活は豊かなのだ。

これらの思考実験は、伝統的見解の至らなさを適切にあぶり出すものなのか。私は懐疑的である。ロバート・ノージック[Robert Nozick]は『Anarchy, State, and Utopia』(1974)において、ひとたび脳を接続すれば、考えられうる限り至高の快楽や経験を無際限に提供してくれる機械を取り上げ、同様に、その望ましくなさを印象づけようとしている。この思考実験に対する著名な反論は、私の考えではそのまま、『インフィニット・ジェスト・ライト』やネハマスの悪夢に対する反論にもなりうる。私たちは、天秤の一方に現実の生活を、他方に仮想された状況をのせ、前者のほうが望ましいと適切に判断できているのか。そうでないと考える理由のひとつとして、私たちには現状維持バイアスがある。現在の状況とはラディカルに異なる別の状況というのは、誰にとってもそれだけで不安であり、その点に限って言えば拒否したくなるものである。また、美的に画一的な世界に向かう過程で、一体どのような悲劇が生じるのかも定かではない(当局による抑圧、暴力、洗脳など)。思考実験に最初から含まれているわけでもない、過程のシナリオをさまざまに想像してしまうなかで、私たちは仮想された状況への反感を膨らませる。

次のように考えてみたらどうだろう。私たちは美的に多様な生活を送っているつもりだが、あるとき宇宙の彼方からトラルファマドール星人がやってきて、次のように告げる。『カラマーゾフの兄弟』と『ちいかわ』は、彼らの目から見ればまったく似通ったものであり、総じて、地球人の美的生活は大したバラエティのない画一的なものである。地球にある美的アイテムは、『最後の晩餐』にせよハローキティにせよ、いずれも彼らが「ポプラフ」と呼ぶものの事例たちであり、地球には「ニカカエム」も「ナダイェガ」も「ランムパ」も無い。彼らの美的生活は、私たちには想像すらできないほどに多様なのだ。望むなら、宇宙の彼方からそれら全てを持ち込んでくれるそうだが、一体どれだけの地球人がこのような美的多様性の大爆発を欲するだろうか。もし、この話に気が乗らないのだとしたら、それは美的に画一的な世界へ向かうほうの反感と同様、現状維持バイアスが働いているからかもしれない。

まとめると、美的に画一的な世界への反感を確認しようとする思考実験には不備がある。私たちは、仮想された状況を好ましく感じるだけの材料を十分明確に与えられているわけではないし、現状維持を好ましく感じる認知的な習性があるのだ。このことは、伝統的描像や、それをもたらす理想化された美的快楽主義への反感を、いくらかトーンダウンさせることに繋がるだろう。もちろん、伝統的見解からの離反を十分に動機づけられていないからといって、新しい考えを試してみてはならないわけではない。そして、本書は独立した検討に値する、新しい考えたちに満ちている。

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銭清弘「美的な多様性について──ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ニック・リグル、ベンス・ナナイ『なぜ美を気にかけるのか』書評」『Phantastopia』第3号、2024年、115-119ページ、URL : https://phantastopia.com/book-review/aesthetic-life-and-why-it-matters/。(2024年11月21日閲覧)

執筆者

銭清弘
SEN Kiyohiro

博士後期課程。専門は美学、芸術哲学。研究テーマは批評、芸術のカテゴリー、美的価値など。

(2022). An Institutional Theory of Art Categories. Debates in Aesthetics 18(1): 31–43.
(2022). 制度は意図に取って代われるのか. 『フィルカル』 7(3): 92–111.
(2021). 画像がなにかを描くとはどういうことか. 『新進研究者 Research Notes』 4: 124–132.

https://www.senkiyohiro.com/
https://researchmap.jp/senkiyohiro

Phantastopia 3
掲載号
『Phantastopia』第3号
2024.03.22発行