東京大学大学院表象文化論コースWebジャーナル
東京大学大学院表象文化論コース
Webジャーナル
ブックレビュー

よみがえる悪童ララ・サギサグ『手に負えない無垢な子どもたち 革新主義時代のコミックスにおける子どもと市民の構築』書評

鶴田裕貴

Lara Saguisag

Incorrigibles and Innocents: Constructing Childhood and Citizenship in Progressive Era Comics

Rutgers Univ Pr, 2018

Lara Saguisag

Incorrigibles and Innocents: Constructing Childhood and Citizenship in Progressive Era Comics

Rutgers Univ Pr, 2018

本書は、米国の最初期のコミックスにおける子どもの描かれ方に注目する。 米国コミックス史において初期というときには、基本的には20世紀転換期を指し、特に新聞の日曜付録に掲載されたものが念頭に置かれる。新聞コミック研究ではひとコマ漫画(カートゥーン)とコマ割りマンガ(コミック・ストリップ)との区別が念頭に置かれることもあるが、形式というよりは表象に注目する本書では、それらを広くコミックスという括りで論じている。

米国には19世紀を通して大量の移民がやってきた。革新主義時代と呼ばれる1890年代前半から1920年にかけても同様であったが、既に定住していた移民たちの子どもや孫たちが、親世代のアイデンティティと出生地との間で揺れ動いていたのも同じ時期だった。いわゆるイエロー・ジャーナルに掲載されていた初期コミックスは、英語を解さない移民労働者に受容されたとしばしば言われる。しかし、実際の紙面にあふれる英語のジョークを見れば、英語を母語とする移民2世・3世たちをもターゲットに含んでいたことは明らかである。

初期コミックスにおいて、子どものキャラクターは主役と言うべき地位を占めていた。いわゆるWASPの子どものみならず、アフリカ系、移民二世、そして女の子を含めた幅広いアイデンティティが表象されていた。だが、それは現代で言うところのダイバーシティが確保されていたということを必ずしも意味しない。本文の記述を借りれば、「新聞コミックスは、子どものシチズンシップが定義され、議論される場であり、また子どもを「未来の市民」と「非-市民」とに選別あるいは再選別するために、人種やエスニシティ、ジェンダー、階級といった観念が用いられる場所となっていた」(p. 5)。そしてシチズンシップを測る基準のうちには、人種差別が影に日向に組み込まれていた。

対象こそ古いものの、全体的な記述は2018年という出版時期のアクチュアリティに──すなわちドナルド・トランプ政権に象徴される白人中心主義的な雰囲気の高まりに裏打ちされている。初期コミックスにおけるマイノリティの描写には、現代的な視点からすると許容し難いものも多い。本書に限らず、2010年代後半の米国コミックス・スタディーズの出版状況には政治への関心の高まりを読み取ることができる。初期コミックス分野における同時期の類書には、たとえば2020年に出されたジーン・リー・コール『向こう半分の人々の笑い 米国文化におけるコミック・センシビリティ 1895-1920(How the Other Half Laughs: The Comic Sensibility in American Culture, 1895-1920)』がある。この本は初期コミックスと文学、絵画を行き来しながら革新主義時代における移民の位置づけを論じている。

児童文学研究者でありフィリピンから米国に移民してきた出自を持つ著者ララ・サギサグ(Lara Saguisag)は、初期コミックスの差別性を十分に認めつつ、しかし一方的に断罪もしない。本書の中心的モチーフである悪戯好きかつ純粋な子どもたちは、一方では規律に抵抗する困りものであるが、他方では国の未来を担うべき次世代にふさわしいエネルギーの持ち主とされた。こうしたパラドキシカルな位置づけは当時のエスニック・マイノリティと重なるものであったが、やはり同じ悪戯でも白人の子どもとそれ以外とでは、さらには男の子と女の子とでは意味合いが異なった。とはいえ重要なのは、子どものこうした錯綜した位置づけは、白人中心的な価値観を前提としつつも、それを転覆させかねない緊張に満ちていたことだ。この緊張が初期コミックスのうちに様々なかたちで表れていることを、サギサグは端的かつ明快な分析によって次々と明らかにしていく。一見すると保守主義の安上がりな尖兵にも見える初期作品は、本書を通してより複雑な読み方へと開かれていく。

駆け足ではあるが目次も見ておこう。第1章では、初期コミックスでは珍しい部類に入る東アジア移民の子どもに注目しつつ、移民の親ではなく子どもを描くことの背景にあった同化政策的な考え方について論じられる。第2章ではブラックフェイスのモチーフを手がかりとして、白人の子どもと黒人の子どもとの交流がいかに描かれていたかが読み解かれる。第3章では当時の人気作「バスター・ブラウン」を取り上げ、中産階級白人の家庭において悪童のイメージが重要な役割を果たしていたことを指摘する。第4章では「夢の国のリトル・ニモ」に代表されるファンタジックな世界が、子どもの内面性と親の社会性とをいかに架橋していたかが示される。第5章では、当時多くの作品に登場していたにも関わらず研究ではあまり注目されてこなかった女の子のキャラクターが取り上げられ、初期コミックスが悪戯好きの女の子を家庭への抵抗として提示しつつも、だからこそ「良き母」の理念へと回収してしまうという逆説が論じられる。

いずれの章にも取り上げたい箇所があるが、特筆したいのは10頁ほどの短い結論である。この最終章で舞台は20世紀転換期から21世紀転換期へと一気に飛躍し、純粋で乱暴な子どもというテーマが「カルヴィンとホッブス」や「ブーンドックス」といった近年の作品へと脈々と受け継がれていることが示される。そして最後の一文が、近年の「雑誌カバーや政治カートゥーン、ウェブコミックスでは」、トランプ大統領が「どうしようもなく手がつけられない子ども(a hopelessly incorrigible child)」(p. 186. 強調引用者)として描かれている、と指摘するとき、私たちは初期コミックスを今読むことの意味に気づかされることとなる。

引用文献

Jean Lee Cole, How the Other Half Laughs: The Comic Sensibility in American Culture, 1895-1920. University Press of Mississippi, 2020.

Further Reading

三浦知志「19世紀アメリカのマンガ史概略 」『マンガ研究フォーラム』http://mstudies.org/2016/12/04/398(2021年12月16日閲覧)

初期米国コミック・ストリップの歴史について日本語で記述した貴重なテクストのひとつ。まずはこれを一読することを勧める。

 

Robert C. Harvey, Children of the Yellow Kid: The Evolution of the American Comic Strip, University of Washington Press, 1999.

豊富な図版とともにコミック・ストリップ史を簡単に紹介している書籍であり、読みやすく目にも楽しい。ただし、タイトルにもある「イエロー・キッド」を出発点とする歴史観は、三浦のテクストにも示唆されているように現在では疑問視されており、その点は留意すべきだ。

 

Matthew Frye Jacobson, Barbarian Virtues: The United States Encounters Foreign Peoples at Home and Abroad, 1876-1917. Hill & Wang, 2000.

革新主義時代における移民の文化的背景については膨大な議論があるが、今回紹介したサギサグの議論との関連で見たときに重要と思われるのがこれである。特に第2部第1章における都市スラムのジャーナリズムと海外冒険記との比較は初期コミックスを理解する上で重要。

執筆者

鶴田裕貴
TSURUTA Yuki

博士課程。20世紀転換期の米国コミック・ストリップを研究しています。日本のマンガを読んで育った私が、米国のコミックス史をフッテージとして理論的な議論をするとどうなるのか、ということを実験しています。

鶴田裕貴「20世紀転換期の「壁紙コミックス」 初期「ハッピー・フーリガン」における人物類型とレイアウト」『マンガ研究』vol. 27, 日本マンガ学会、2021年、8-34頁。
──「「クレイジー・キルト」におけるモダニズム絵画の影響 : コミック・ストリップはアーモリー・ショウにどう反応したか」『マンガ研究』vol. 26, 日本マンガ学会、2020年、32-53頁。
「山本直樹を読むという体験 : 操作可能性のエロティシズム」『ユリイカ』第50巻第13号、2018年9月、101-109頁。

Phantastopia 1
掲載号
『Phantastopia』第1号
2022.03.08発行