東京大学大学院表象文化論コースWebジャーナル
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2025.09.20

生きている──トポスに灯る火のもとに

小手川将


バルト海を渡る船上より(撮影:2023年6月21日)

イメージできるものはすべて現実である。だからひとは夢を見る。それはいずれ死よりも強い夢になるだろう。

過日、ディレクターとして携わったとあるミュージックビデオは『悪魔のいけにえ』を下敷きにしていたのだが、無意識のうちにラストシーンを作中には一度も出てこない海辺に設定していた。編集を進めていくうちに、海岸線に向かってチェンソーを振り回す男の末路が、2015年冬から2016年春にかけて初めて監督した短編映画の最後のショットとほとんど同じ構図で撮影されていることに気づいて愕然とした。押し寄せる波を眼前に膝をつく一人の男を捉えるロングショット、黒い服を着ていて、顔を見ることはできない。ズームバックする。暗転。
男は期待しているのだろうか、あるいは絶望しているのだろうか。少なくとも何かがその男を通り過ぎたことだけは間違いないだろう。男はそこに置き去りにならなければならなかった。黙する男はそこを動けない、だからもう決してわかりあうことはできない彼の姿を見続けてあげたい。カメラの視線は機械的に冷めているけどそれ自体に人間的な欲望が備わっているはずだから、情けなく取り残された男とのあいだを平面で区切って、ショットを繋いで、たしかにそこに彼の姿を認めることができるようにしておく。

不意に音もなく夜の帷がまた下りる。ずっとよく眠っていた。16時間くらい眠る日も珍しくなかった。何度か目が覚めるのだが夢の尻尾をつかまえておけば、水を飲んだりトイレに行ったりしても、瞳をとじてまた睡眠のなかに入っていくことができる。いくつもの締切が、方々からのメールが、労働と休息が交代するリズムが、夢と現実のあいだに境目を設けておいてくれるだろうから心配はしていない。今のうちに眠り続ければ、あと二、三日は起き続けておくことができるだろう。まだずっと夢を見続けることができるだろう。
9歳だった。過去という時間を知ったのは9歳だった、それは確かなことだ。そこから蓄積が始まった、過ぎ去るものたちの、消えていくものたちの、とりとめのない記憶がイメージとなって留まり、そうして忘却がある。膨大な忘却。明確な日付を持たない断片が残る。そのうちのひとつ、富山、おそらく冬の季節、未就学児だった頃、厚い布団にくるまれてまったくの暗闇のなか、いつもなら母がいるはずの場所に、その夜は父がいた。低い抑揚のある声で即興の物語を語る父、後年になって、その物語がシドニィ・シェルダン『ゲームの達人』からの引用であり、オリジナルではなかったことが判明する。でもそれは重要ではない。誰かといっしょに眠った最初の記憶、そのように識別している古層の、官能的とさえ言える思い出、一人っ子だった、まだ一人っ子だった、あの時、声は楽しげに語っていた。記憶のなかから自由に物語を語っていた。誰が語っているのか、物語の内に誰がいるのか。言うまでもなく研究倫理に照らせば、他者の作成した文章を参照する際は、出典を明記し、引用符や註釈をつけなければならないが、物語の回想を語る言葉にどんな引用符や註釈をつけられるだろう。

制作と研究はあなたにとってどのように違うのかと問われることがしばしばある。あまり違いはないような気がするというのが率直な反応だが、それだけ言うと怪訝な表情をされることが少なくないとわかっているので、最近では、制度の違いが二つを分けていると思います、と言葉を継ぐようにしている。制作の制度……と思い巡らせてみると、助成金申請の煩雑な手続きがあり、上映/展示空間のシステムや慣習があり、文化政策やキュレーションや評定評価のための制度があり、それはすなわち制作の成果が作品として認知され、流通し、公共性を獲得するための条件である。同じようなことが研究にも当てはまる。大学をとりまく諸々の条件(さしあたり昨今の「文系不要論」や学術会議会員任命拒否問題を思い起こせばよいだろう)、期待される成果や実現可能性、社会的意義を記す必要のある諸々の書類、学術共同体がある研究を学術的に正当であると承認することで当の共同体を再生産する査読制度、等々。このように研究も制度とは無縁ではいられないが、そこにはつねに制度と接する実践の場がある。個人の、そして複数の具体的な行為がある。ときに制度を変えることもある、固有の思考の生き生きとした運動。

もし「考えること」に「技法」があるとしたら、その最初のものはおそらく注意力でしょう。考えるという集中の作業が行われるべきその場、その焦点を見出すこと。ギリシア以来の伝統的な語法によるいわゆる「トポス」(場=論点)を発見すること。それは、たとえばただ単に環境問題、民族問題というような大きな主題のことではありません。そういう大きな問題をそのまま考えるなどということは不可能です。そうではなくて、「考える」ことが実際に実践されるそれぞれに特異な論点がなければならない。その論点に従って、言わば大きな一般的な問題を自分なりに──自由に──変奏していくわけです。[1]

そんな自由を目の前で体現しながら、雅量をもって、しかし手加減なしに、初めて映画をつくるきっかけを与えてくれたのも卒業論文の実質的な指導の任を担ってくれたのも小林康夫先生だった。それはほとんど同時期のことだった。いまだそのことの大いなる借りをまったく返せていないまま、制作と研究のあいだにはあまり違いはないと口走ってしまうのは、そんな個人的な思い出の影響もあるのだろう。制作がしたいんですか、研究がしたいんですか、どちらが本業ですか……などと質問が重ねられることもあり心底辟易とするのだが、元来の性格の良さが災いして、自然な微笑を浮かべ、制度上の違いゆえにアウトプットは違いますが本当を言えば見分けがつかないくらいには重なり合っているんです、と返答する。でも、こんな暗い森のような曖昧模糊としたトポスでいったい何を考えているのだろうか。基本的には、研究に要請されているのは事実や論理に基づく公的で開かれた言説の構築であり、制作が目指すのは主観的実存的に歴史や文化などを含む共同体的な世界を切り取り固有の作品をつくることである。制度が違えばなおのこと思考法の違いも生まれ、すべてが一本の束に繋がっているわけでもなく、衣食住を維持する収入を得るための労働も挟まって、一日のなかでさえ乖離して、何を考えているのかいつもわからなくなり、それでもなお、と気を張って、もうずっと長いこと同じ部屋に帰り、同じ机に向かい、同じベッドで眠り、同じであることに安堵して、おそらく同じ人間がまたうつらうつらと夢を見る。
不意に音もなく夜の帷がまた下りる、目の前で燃えているのが見えないなら悲しいという声が聞こえる、聞こえていると信じている、まだ聞こえているから死んでいない、死んでいないから生きている、生きているに違いないと思っている、これまでのようにずっとそう、生きなければならないから、だから死んでいないに違いない、そう信じて疑わない、考えることはしない、死が信じられない、生きている限りは死なない、まだ燃え続けているから心配ない、苦しみの涙では消えない、揺らめきが止まることはない、火の気が衰えてもくすぶる火種は温かい、温かくて心地よい、いつまでも温かいと思っている、温かくないと困るから、日々の寒さが怖いから、消えないように見張っていないといけない、見失わないように見続けなければいけない、温かさで瞼が重いけどずっと見ていたい、そうすれば火は消えない、消えてしまってはいけないから、ほかのところに目を開くことができない、だから灯火と暗闇をほとんど識別できない、もしかしたらとうに消えてしまったのかもしれない、それでもまだ考えることはできない、もしかしたらもう喉が枯れてしまったのかもしれない、それでも聞こえていると信じることしかできない、聾しているのは横たわる携帯電話で盲いているのは病んだ室内のほうだと思う、ずっとこうしていたい、ずっとこのままでいられるから、見続けることができるから、そうして待ち続けることができるから、だからここから動くことはできない、何かを書くことはできない、何かに触れることはできない、何かを失うことのない限り何かを言うことはできない、無言を続けなければならない、伝えることはないから、声が聞こえなくなるから、息が続かないから、意味がないから、動かないまま敷居をまたぐことなく見続けなければならない、寒いのはこちら、温かいのはあちら、燃えていてくれないと寒い、だから燃えている、死が燃えている、ここから先にはきっと何もない、だから見続けなければならない、そうしていたい、そうして失う、失うことも見続けたかった、そう思っていた、もう過ぎてしまった、過ぎてしまったことだ、これまでのようにずっとそう、もう随分と昔のほとんど掠れてしまったはずの記憶が悠々と反復して、およそ23年前から同じマットレスと枕で眠っているせいだろうか、いつか何度も夢に出てきたイメージ、夢についての雑然とした覚書、日付は2019年4月と記されている。この家でも「本を読む机と食事する机は同一である」が、論文や脚本や夢日記やエッセイや荒削りのメモを書くのも、定額制動画配信サービスやBlu-ray等を用いて映画を観るのも、Adobe Premiere ProやDaVinci Resolveで編集作業をするのもこの机である。13年前、完全な独居を始めるにあたってIKEAで新調したもので、今ではなぜか表面に穴が開き、少なく見積もっても5年は開いていない本が奥隅に転がっている。トポスとは空間的に分割されたり重なり合ったりするように、時間が重畳するところでもあるし、机や書棚や部屋のように具体でないこともあるが、ひとはしばしば物事を具体的に峻別したがり過ぎる。この岸を挟んで川向こう、失われたものが過去でまだ手にしていないのが未来、わたしたちとわたしたちではないあなたがた、ハレとケ、光と闇、覚醒と昏睡、生と死、中心と周縁……向こう側がなければこちら側を見ることができないからである。向こう側へとこちら側をプロジェクションするためである。自己が他者へと横滑りして、相同の分身をそこに確信させる。「人間は人間にとっての鏡なのである[2]」。他者を錯視する欲望の眼は視覚を限りなく接触に近づけるために逆説的に距離を求める。しかし本来的には時空間は泥状の地層で、万法一如ではなかったのか。向こうの方ではバベルの塔はとうの昔に倒壊したが、所詮は言語の問題である。言語の不可能な屹立の問題である。破壊され飛び散った塔の破片がひとびとを囲繞しているところが今でも世界と呼ばれている。
かつて、まだこの家に住んでいなかった少年は長いこと重度の吃音症を患っていた。発声の困難のみならず、文字がこの意識を表現する仕方もよくわからなかった。何を言うべきかを考える時間と、舌先と唇が動く時間とがまったく同期しない。流暢に言葉を交わしているように思える周りの人たちの発声をどうにか書き言葉に変換して音と結びつけながら反芻する、あるいは意味をつかまないまま息を詰めて耐える。それはえもいわれぬ最上の悦楽だった。文は思考そのものではないからだ。でもそれなら言葉はどこからやってくるのだろう。感情や思索を出力するために発せられる言葉がひとびとの世界であるように思え、言葉は憧れの対象となり、憧れしかないから何ひとつ知らないのでもあり、言葉を知ることは明確な自己破壊だった。やがていくつもの発話、無数の異物な言葉たち、それらの多様なパターンが身に食い入る必要に迫られることになる、まだ引用の作法を知らずにいた頃、いまさらあの時代について何を知っているというのだろう、きわめて幸福なことにこちら側とあちら側の区別はひどく曖昧だったような気がしていて、あまりに長期にわたった子供時代、自分について話そうとして言葉が霧散しないように文字でいっぱいになるのをやめられず、頭のなか、それともずっと遠くで、夜毎、着信を通知するバイブレータが振動していたのだがこれもまた夢の話である。もしもし、声が聞こえる。昨日はね、という前置きを合図に物語が始まって、三文小説の朗読のようだと感じたのはいつの誰だったか思い出せないが、耳朶と枕のあいだで甘美な響きがリフレーンして、そこではすべて近くても遠くても昔々の今のこと、学校でこんな行事があってね……コンビニに新しい駄菓子があってさ……うん、聞こえる、聞こえるよ。ただそこにいることを示すだけの音が聞こえているよ。でもあのとき聞こえていたのはあれの声ではなかった。その声には固有の持ち主が一人いて、具体的な言葉を語っていたし、あれとは別々だった。どうやら実際に電話は鳴っているらしかった。無意識と意識のあいだを通り抜ける着信音。なんとか起き上がって携帯電話を手に取る。電波がつなぐ発話者は、先ほどの夢の続きを、それを見る前からすべて知っていたような気がしているに違いない。夜毎、火の爆ぜる音がしていると錯聴していたのは何てことはない、長い沈黙のあいだに聞こえる単なるホワイトノイズだったのである。

区別、注意深い分節、神経症的な境界線、その境目で生じるノイズ混じりの摩擦音をミシェル・ド・セルトーは浜の窪地に打ち寄せる潮騒のざわめきに喩えたのだろう。海辺にいると、波が大地に辿り着こうとしているようにも見えるが、陸地のほうが海水を鋳型にして生まれているようにも思える。いずれにしても潮騒が聞こえる。重要なのは、壁のように二つを分け隔てるということではなく、その間隙を縫って浸透してゆくものの運動を知ることである。映画もそう。やってくる、運ばれてくる、現実的なイメージを構成する諸要素が、ボストンバッグに詰められた衣服や化粧品のように、口に放り込まれた上等な肉が咀嚼されるように。観客が映画へと延長していくこともある。想像力の話ではない。そんなやわなものではない。見えてくる、聞こえてくる、唖になる観客たち、一人ひとり別々に、註釈など加えずに、呆けたように前を向いて、矩形の面に滲み出るのがこちら側の何であるのかを知ること。醜く歪んだ転移の苦しみとともに。
「創造へと衝き動かすもの、その基盤はすべて子供時代に形成されたのだと思います。もし、それが忘れ去られてしまったら、きっと何も生み出せなくなってしまうでしょう……[3]」。子供時代に淵源を求める試みは必ず失敗する。だが、否定しがたい郷愁が取り憑く子供時代がほかの何よりも重要だったのである。いや、何もかも忘れることはない。忘れるということはありえない。忘れたと思っているとしても脳のどこかが決して忘れてくれない。しかしまた、何もかも忘れ去られてしまうという不安が常につきまとうだろう。忘れたものさえ忘れてしまい、そうして自らの基盤のいっさいが失われるのではないかと恐れるだろう。根こぎにされることを恐れなければならないようになっている。たった一人の誰某がその人であると規定する無数の法、権力関係、規範、あらゆる紐付けから真の意味で自由になることを恐れているのだろうか。どうして無数の法、権力関係、規範、あらゆる紐付けなしに、たった一人の誰某をその人であると規定することができないのだろう。「起源の泥の生ぬるさ 侵しがたい闇 突然 存在していなかったのに存在するものすべてのように[4]」……不意に音もなく夜の帷がまた下りる。ここはどこだ? 世界の那辺にいるのか? よく見渡してみよう、何もかもに注意を向けてみよう、そこかしこで適度に刺激的な産業電波が飛び交って受信と送信の違いさえわからなくなり、このプラットフォームで袖の下を通すように無料で取引される無数の文字列の散乱する廃墟には決して風が吹くことがないのに素早く通り過ぎてゆく時間に光も影も差しこまないので方向感覚が失われてしまって、今やもう……いつか来たるべき生に至るはずだった幾万の道半ばよりもはるか手前で存在しかけたばかりの自己の保身と洒落込んで……そう、画面の前の、お前のことだ……

「真の生活への道半ばで、われわれはある暗い憂鬱メランコリーに取り巻かれていた[5]」。夜の帷がブルーに染まる。15年前はいつもグレーだった。あの年はずっとグレーで、灰色の靄のなかでは此岸も彼岸も曖昧で、ただ半端な浮遊があるばかりだった。空気の色が違って見えるようになったのに、今でもずっとどうしてこんなことを続けているのか、いったい今何をしているのか知りたい。あれを言いたい。あれのために。結局のところすべては退屈しのぎに過ぎないのかもしれない。閑話休題、寄り道、行ったり来たり、何の益になるわけでもない、たまには良いことがあるかもしれない、いずれにせよ紛らわしが起こるだけのように思われる。わからないことばかり。どれもこれも何を意味するのかわからないまま、生きることが無知の悲哀を知ることだとすれば試みに終わりはないがそれを人生と呼ぶに違いない。実のところ、ここで語られているのは没トポス的な身体のことである。この語られる身体は回想のなかに自分自身を見出している。
夜もだいぶ更けてきた。本当のことを言えば、今はあと少しで正午になる時刻、そろそろ晴れ間が見えそうな雲行きである。矛盾した感情を抱えて、回想のなか、この身体はいつも変わり続けることを願っていた。何度でも自分の生を始めること、もう一度始まりの鐘が鳴ること、開始の合図でまた新たに出発すること、たとえ一瞬でも未来と過去から自己が身を引き剥がされること、そうした瞬間はいつでも生き生きとしている。そうしてまた始まったと思う。時間と変化は同じことではない。でも、かつて出発が生じたことはあっただろうか。何度始まったのだろうか。そもそも到着ということは可能なのだろうか。どこかに到着したことが一度でもあっただろうか。今こんな仕方で時間のことを思わざるを得ないのだから、何と遠くまで来てしまったのだろう。どこまで行ったら終わることになるのだろう

死はひとつではない。いくつかの死。終わりがあるとはまだ言わない。いくつか約束が残っている。ひとびとみんな別れを告げる、いつかそんなことがあるかもしれないが、これもまた回想の内での、迂回の最中でのことになる。

 

  1. [1]

    小林康夫『大学は緑の眼をもつ』未來社、1997年、79頁。以下も参照。「現場──それが、結局、われわれの企図にとってのキー・ワードである。とかく生き生きとした現場から乖離して自閉的になる傾向のある学問的な知に対して思い切った現場性を回復すること。それぞれの学問とそれと関係のある現場とのアクチュアルな結びつきを提示するだけではなく、同時に学問あるいは大学という場そのものが持つ現場性(教育と研究)をはっきりと認識すること。言うまでもなく、現場とは、完全にはコントロールできない場、つねに予測できない出来事が起こり、見知らぬ他者が現われるような場、それゆえに危険であると同時に魅力的な場のことである」(同前、69頁)。

  2. [2]

    モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』滝浦静雄・木田元訳、みすず書房、1966年、267頁。

  3. [3]

    Тарковский А.А. Исповедь // Континент. 1984. № 42. С. 389.

  4. [4]

    サミュエル・ベケット『どんなふう』宇野邦一訳、河出書房新社、2022年、12頁。

  5. [5]

    ギー・ドゥボール『映画に反対して ドゥボール映画作品全集 下』木下誠訳、現代思潮社、1999年、92頁。

執筆者

小手川将
KOTEGAWA Sho

博士課程在籍。映画論、表象文化論。主に映画の研究・制作。現在の研究対象はロシア・ソヴィエト映画、とりわけアンドレイ・タルコフスキーについて。
https://researchmap.jp/kotegawasho