午前2時、隣人が発狂し始める。
最初は短く、唸る声が数回。激しい日には物を叩きつける音が聞こえる。
それでも壁を殴るようなことはなく、あくまで自分ひとりの部屋で、騒ぎ、嘆く。うめき声は次第にへたってゆき、やがて鎮まる。
壁越しに本を読む。うつらうつら、すこし火照った私には、隣人の苦悩を想う余裕はない。けれど文字を追いながら響いてくる声は、かすかに喉を震わせた。
午前10時、光が差す。
朝は語学に充てる。RFI, Radio France internationale. 欠かすことのない日課。一度聴いて、理解する。Transcriptionを見ながらもう一度。分からない単語、使えると思った表現は、文章単位でAnkiDroidに入れる。イメージ画像も付けるとなお良い。単語を検索し、Synonymeや使えそうなフレーズごとコピペする。覚える。もう一度聴く。シャドーイング。
« Bonjour. »
Chat GPT相手でも、挨拶は欠かさない。親しき仲にも礼儀あり。
« À partir de maintenant, quand j’écris en français, j’aimerais que tu corriges mes textes et que tu me donnes des idées pour les améliorer avant de me répondre. Merci ! »
こう入力しておけば、後からする会話のなかでも修正案を呈示してくれる。
そのままいくらか会話を重ねる。本当にそうか? と思う返答があれば、都度調べる。「4o」から「o1」に切り替えると、たちまちシャンとすることもある。
一通りやり取りを重ね、もちろん最後はこう告げる。
« Merci beaucoup ! »
午後1時、教室へ向かう。
博士課程でそれほど単位が必要ということはない。私の場合は少し特殊で、修士の終わりごろからロシア語を始めたため、「学部向け」の東欧関係の授業に参加することがある。
「学部向け」と書いただけでは誤解を生むなら、「初級者向け」あるいは「中級者向け」と書いてもよい。けれどもちろん、「初級」と名の付いている授業にも人生の転機があるし、そもそも「上級」と名の付く授業も「学部向け」の範疇にある。
思うのはだから、学問はひらかれているという、そのことだ。余計な衒いはもう無い。こころから学び、年齢を気にする機会も減った。「初級」だろうが「上級」だろうが、教室にいる友と学び、あたうかぎり、全力で臨む。
Я помню чудное мгновенье:
Передо мной явилась ты,
Как мимолетное виденье,
Как гений чистой красоты…
暗誦する。
暗誦する。
暗誦する。
午後3時、書類を記す。
生活のために、事務手続きは欠かせない。
住宅の書類、税金の書類、奨学金の書類……「生き延びる」ために事務は必須だ。私の場合、とりわけ修学を継続するため、多くの書類に取り組んできた。学部時代から数えて9年、奨学金や授業料に関する申請をしなかった年は1度もない。
正直言って、気が滅入ることもある。授業料免除などの書類は、自分が(あるいは家庭が)これだけお金がありませんよ、ということを自ら “証明” しなければいけない。お金がなくて困っている側が、さらに手間をかけて方々に頼み込み、書類をかき集めてお金が無いことを示さなければいけない……と考えてしまうと少し落ち込む。
けれどそれしか手段はなく、実際のところ、修士に入ってからは5年連続で授業料を全額免除してもらっている。種々の恩恵に与らなければ、研究を続けることは間違いなくなかっただろう。
このような境遇のため、昨年はとりわけ授業料値上げに関するさまざまな運動にも、自分のできる範囲で参加した。いまも多くの学生が自治組織を再建するなど、心強い取り組みを行ってくれている。協力したいし、とにかく親の協力が得られない人も不利にならないような制度の拡充を願う。
午後4時、沈黙。
夕暮れを眺めることが多い。
午後5時、帰路に就く。
移動時はポッドキャストを垂れ流しにすることが多い。French With Panacheという番組が最近のお気に入りだ。ViolaineとNathan、二人の会話が主となるこの番組は、独り言よりもリズムがあり、フランス語のやり取りの勉強になる。トランスクリプションには言い淀みや間投詞も転写され、生の手触りがあり、愉しい。
家に着く。夕方はだいたい文献を読む。自分はためらうことなく本に線を引くし、付箋は使わず、大切なところは紙を折る。集中して読みたい本、引用に用いる本に関しては、Wordでメモをとる(Wordを使えば、論文を書くときにそのままコピペできるし、語彙検索もかけられる)。一読しただけでは絶対に忘れてしまうため、章ごとに自分の言葉で要約する。
自分の研究分野は、まずはフランス思想史である。修士論文で扱ったバタイユ全集(Œuvres complètes)は当然揃えているし、全文検索がかけられるような手配も済ませてある。思考のベースはここにあり、ほんの数行でも、毎日祈るように読む。
« L’expérience elle-même est l’autorité (mais que l’autorité s’expie) ».[1]
午後7時、夕食をつくる。
一時期、狂ったようにパスタを作っていた。にんにく、鷹の爪、おいしいオリーブオイル。ここまでならいい。けれどアンチョビ、ケッパー、ローズマリー……となると話が変わってくる。
「イタリア料理はムラの美学」。よく動画で見る料理人がそう喧伝するので、それならと、最初の三つで粘ってみたものの、オリーブオイルを “選ぶ” ようになってしまい、辞めた。
だから納豆、たまご、キムチ(あるいは鳥のささみ)。これである。冬は適当に野菜を鍋に詰めれば(煮詰めれば)、食物繊維もなんとかなる。何もない日の夕食は、とにかく切り詰めておかなければ、いざという時困る。
午後8時、気絶。
午後9時、パソコンに向かう。
なにかしらの会合がこの時間にあることが多い。先輩たちとの読書会、同期と始めた同人誌の打ち合わせ、italkiというアプリを介したフランス語会話、あるいは、ネットの友人たちとの談笑。
もちろんみんなオンラインで済む。2020年、ちょうどコロナ渦のなかで修士課程に入った私たちにとって、Zoom や Discord といった通話アプリは、すっかり馴染みのコミュニティ空間だ。それを介して得られる「質」だけが「他人」だったこともあるし、いまだにそれだけが「その人」であるような人も在る。
特筆すべきはきっと、同期たちと始めた『SAPA』という同人誌のことだろう。いまではほかのいくつかの大学や社会人のメンバーも加わり、同誌は4年連続で「文学フリマ」という即売会で頒布されている。編集は見よう見まねで始め、Adobe の InDesign を利用し、自分たちで紙面をデザインしている。コロナ以降、こうしたオンラインから始まったコミュニティを維持している人たちは、おそらく少なくない。
むろん対面の集まりも大切にしている。自分はアカデミアの外にも友人が多く、地元の友人とは毎年旅行に出掛け、高校の仲間とは定期的に会食し、学部の同期とは美術館に行く。先日は習い事の友人の結婚式に参列したし、ネットの友達とオフ会、ということも間々ある。
友人ごとに「言語」は違い、それぞれに応じた「言語」で、わたしは交流を試みる。なかには文字通り話さない友人、あるいは二度と話せない友人も在るが、もろもろ含めて「交流」できる奇跡を想う。
午後11時、Gallicaを開く。
Gallicaは──以前谷口さんが述べていたように──フランス国立図書館(BnF)のオンライン・データベースで、数百万点にもおよぶ資料をオンラインで閲覧・ダウンロードすることができる。近年わたしは、風刺画家のカラン・ダッシュ(Caran d’Ache, 1858-1909年)に関する研究を進めており、同氏が風刺画を寄稿した新聞・雑誌を調べるのにもっぱらGallicaを用いている。
その検索性はたいへん優れていて、たとえば「Caran d’Ache」と入力すれば、本人が描いた風刺画はもちろん、当人についての評論や当時の死亡記事までヒットする。1ページが3つか4つのコローヌ(印刷物の縦の行)に隔てられていたとしても、OCRがかなりの精度で働いており、サイト左柱の「OCR」欄にある文章をコピーすれば、すぐに必要な資料の抜き書きも作れる。
むろんすべての新聞・雑誌が電子化されているわけではないが、網羅性は相当なもので、Gallicaのなかだけでいくらかの課題は完結し得る。資料に目を通すだけでも本当に楽しく、現実の図書館と同じように、目的になかった雑誌まで、つい読みふけってしまう……。
そうして夜もまた。
午前2時、隣人が発狂し始める。
最初は短く、唸る声が数回。うー、うー。
ふと、友人たちのことを思い出す。毎日数件のインフラ設備の修理に当たる友人、毎日数百の飲食物を提供する友人、毎日数千の医薬品の流通を管理する友人、あるいは、子どもの終末医療に携わる友人のことを。「とくに何も感じない。自然の摂理だから」。最後の人はたしかそう言っていた。
「もしも言葉がなかったら、私たちはどうなっているのだろうか。」[2]
いつか引いたバタイユの一節が、頭を離れない。表象の溢れる当世、書き言葉は淋しく、もはや別様のコミュニケーションのほうが円滑であるようにすら映る。
それでもなお、と私は綴った[3]。案の定、歴史にまみれるその言葉は、いまのところ、ほんのわずかな響きのほか、何の波風も立てていない。「この不足が伝わるか。この諦念が分け合えるか」。
綴る。
ちっぽけな箱のなかで。
幾重もの回転運動のなかで。
のどの奥がかすかに鳴った。
Georges Bataille, L’Expérience intérieure [1943], Œuvres complètes, t. Ⅴ, Paris, Gallimard, 1987, p. 19.
Georges Bataille, L’Erotisme [1957], Œuvres complètes, t. Ⅹ, Paris, Gallimard, 1987, p. 270(『エロティシズム』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2004年、470頁).
石野慶一郎「【研究手帖】言葉、それでもなお」『現代思想 2023年11月号 特集=〈水〉を考える』青土社、246頁。