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明るい亡霊、あるいは鏡からの離陸について

高部遼

田中先生の直接の指導学生でもなく、ゼミにも数回しか参加したことのないわたしに、先生についてなにか書く資格など到底持ち合わせてはいないものの、いま、ここで書き留めておかなければ、わたしが先生から受け取ったいくつかの大切な何かをみすみす溢してしまうような気がして、それが何であるのかを探るためにも、先生にまつわるわたしのささやかな記憶を取り出して、その時の光景に触れていこうと思う。

先生とわたしとの最初の遭遇において、決定的なテクストとなったのは、『都市の詩学』に所収されている「チマタのエロティシズム──映画による夕占ゆうけ」であった。当時のわたしは都内の私立大学に通う4年生で、卒業論文の準備をしている途中であった。卒論ではATG映画と1960年代の新宿文化を題材にすることは決まっていたものの、しかし、これといった切り口が見当たらない。当時の新宿という都市が持つ祝祭性のようなものは多くの人々がすでに語っており、もはやほとんどクリシェと化していた。新宿における祝祭性だけをただ取り上げても書き物としてものたりない。ATG映画に映る1960年代新宿の都市には、ただのお祭り騒ぎやどんちゃん騒ぎと形容するだけでは済まされない、何か無気味にうごめく翳りのようなものがあるのを実感として感じ取っていたからだ。そして、そうした都市における翳りの部分を驚くほど繊細な手つきで分析していたのが、上記のテクストにほかならなかったのである。

この論考は、ロラン・バルトの「映画館から出て」と題されたエッセイの話から始まる。その前には、北原白秋の詩がエピグラフとして挿入されている──

たそがれどきはけうとやな、
傀儡師くぐつまはしの手に踊る
華魁おいらんの首なまじろく、
かつくかつくと目が動く……

ダニエル・シュミットや成瀬巳喜男、ヒッチコック等の名前が登場するこの論考には、決してATGの諸作品の名前は出てこない。しかし、わたしはこのエピグラフを目にして、篠田正浩がATGと共同で製作した映画『心中天網島』(1969年)の中で、黒衣たちの手によって人形のように動く岩下志麻の、あの血の通っていないような目を想起せずにはいられなかった。

バルトは上記のエッセイで、映画館から出て、灯のともった夜の街を歩いてカフェへと向かう自分の身体の様子について描写している。そこで人は、映画がもたらした催眠術から徐々に覚めかけている「薄明の夢想」の状態にいるのだとバルトは語る。

映画そのものがもたらす催眠効果とは別の仕方で魅惑される「薄明の夢想」。それが、映画館の闇であり、またその外に広がる都市空間を「官能化」することで生じるエロティシズムである。バルトは映像をではなく、それを超えるもの、つまり「音のきめ、館内、闇、他の身体の暗い集団、光の筋、入口、出口」をフェティッシュ化する倒錯的な身体によって、映画という「鏡」からの「離陸デコレ」をはかるのである[1]

先生の論考はそこから、ヴィクター・バーギンによる「連鎖的イメージ」へと「連鎖」してゆく。映画を見終えたあと、映画の記憶はナラティブから切り離されて、断片的なものとなる。その断片的なイメージは、記憶のなかの他の断片的な映像へと連鎖されてゆく。たとえば、ヒッチコックの『めまい』で海に身を投げるキム・ノヴァクのイメージから、ボッティチェリの《ウェヌスの誕生》、そしてジョン・エバレット・ミレイの《オフィーリア》へといった具合に。

先生による「連鎖」はさらに映画からも逸脱し、都市空間における「薄明(Twilight)」の朦朧状態を、「黄昏時(Twilight)」の交通空間における「夕占」へと読み替えてゆく。夢とうつつの境界が不明確になる「薄明の夢想」と同様、昼と夜の境目である夕暮れには人の姿が見分けにくくなり、表情や輪郭はぼやけてしまう。世界が薄明のなかに沈んでしまい、自分の存在までもが夕闇にまぎれて、自他の境界が溶暗すると、「人間と亡霊の区別もつけがた」[2]くなる。

古来より日本で夕方に行われていた占い「夕占」では、複数の道が交差する「チマタ」や「辻」において、人々ひとりひとりの顔も判別できなくなる「誰そ彼」の状態で道ゆく人の言葉をもとに占いをするのだという。視覚による認知能力が低下した黄昏時に聴覚が異常に研ぎ澄まされ、ホワイトノイズまで含めて、かすかな兆候のすべてを掬い取って解釈を行う夕占で人は、路上を行き交う「亡霊たちの声を聴く」[3]のだとされる。

映画館から出て、薄暗い路上で、大都市のエロティシズムに身を委ねる人々もまた、それと知ることなく夕占を行なっているのかもしれない、と先生の論考は締め括られる。それは、映画という「鏡」のなかへ落ちてゆく果てに巡り会う「亡霊」との交流ではなく、そこより「離陸」して、都市空間を彷徨うなかで不意に何者かにすれ違うという、ある種の軽さのある経験にほかならないだろう。そこは漆黒の闇に包まれた夜というよりも、むしろ暗さと明るさが入り混じった「黄昏のチマタ」[4]なのだと、先生は書いている。

『都市の詩学』では、その他にも森山大道を扱った章があり、森山が撮った新宿の街に、領域的な拡がりをもった敷居としてのパサージュという性格を認め、そこは「異人たちや神霊、妖怪が横行する境界」[5]なのだとまで書かれている。こうした先生のレトリックに勇気づけられて勘違いしてしまったわたしは、臆することなくATG映画とそれが上映されていた当時の新宿の映画館、そしてその街を横行していた「亡霊」の表象を、映画の中から探るという無謀な卒業論文を仕上げたのであった。

院試の面接で、こっぴどくツッコミを頂いたのは言うまでもない。まず田中先生からは、「君は亡霊の存在を信じているのですか」と訊かれ、およそ大学院の入試面接とは思えない面接が始まった。桑田先生からは、「君は田中先生に大きな影響を受けているけど、田中先生の文章は暗いが、君のは明るい。そう言われて君はなんと答えますか」と訊かれた。東大表象文化論の院試面接という得体の知れないイニシエーションを前にガチガチに緊張していたわたしは、咄嗟に、「その明るさは祝祭性から来ていると思います」と、当てずっぽうにもほどがある回答をしてしまった。

しかし、この当てずっぽうにも全く根拠がないわけではなかった。『都市の詩学』に所収されている赤瀬川原平の『超芸術トマソン』を扱った論考で、「魂鎮めとしての超芸術」というテクストをわたしは好んで読んでいたからだ。言うまでもなく、赤瀬川の文章は、田中先生のそれに比べて、圧倒的に「明るい」。しかし先生は、赤瀬川たちによる「トマソン物件」の採集に、「根深い終末感と暗い死の気配」[6]を感じ取るのである。

たとえば、「浅草地下道にある階段の窒息死体」と名付けられた「トマソン物件」では、階段上の空間部がコンクリートによって埋め込まれ、「生きていた空間の死」、「空間の霊」という気配が漂い、ゾッとするような恐ろしさがあると赤瀬川は述べる[7]

先生はそのテクストで、赤瀬川ら路上観察学会の営みには、中世日本において枝垂れ桜の下で行われていた「花の下連歌」に似た構造があると指摘し、「花の下連歌が、冥府への入り口と考えられた枝垂れ桜の下で、言葉の熱気によって死者怨霊を鎮魂しようとする営みであったように、超芸術の実践者たちもまた、都市の屍体の存在を感じながら、トマソンという幽霊の気配を写真に記録していたのかもしれない」[8]と述べて、次のように記述している──「そして確かに、魂鎮めには、しかつめらしさよりも、カーニヴァルのような祝祭的笑いと熱狂こそがふさわしい」[9]

わたしが卒論で用いた「亡霊」というレトリックもまた、「トマソニアン」的な「祝祭的笑いと熱狂」のもとに後押しされたものであったように思われる。もっとも、わたしの卒論が「明るい」文体でしか書けなかったのは、当時22歳であった自分の人生経験の浅さゆえでもあったのだろう。

その後無事に大学院に進学し、入学初日のオリエンテーションで催されたお花見会──まさに、桜の下での宴──で、わたしは田中先生に、「自分では明るく書いたつもりはなかったので「明るい」と言われて心外だった。理想的には、明るさと暗さのあわいにあるような、薄明の文体で書けるようになりたいのですが、どうすればよいですか」と質問したことがある。すると先生から、「人生経験ですね」と、至極真っ当なお返事を頂いたことが記憶に残っている。

先生の文章は確かに「暗い」。それはわたしには到底真似できないエクリチュールであり、わたしはわたしの生理的感覚に則って文章を書いていくしかないのだと今は諦めてもいる。しかし、本当に先生の文章はただ「暗い」だけなのだろうか。とりわけ、『都市の詩学』や、それと同時期に刊行された『イメージの自然史』には、翳りや暗さの中にある笑い、「憂鬱気なヒヒヒ笑い」[10]といったようなものが随所に顔を見せ、そこには「ユーモラスでありながらどこか暗い熱狂」[11]に読む者が酔わされる経験があったように思える。それは決して漆黒の闇に包まれた暗さなどではない。

『都市の詩学』の「跋」では、読めもしない書物を手にした幼児が、ひたすらページをめくる行為を飽きることなく繰り返していた頃の、あの幸福なときめきの余韻について語られている。そこには闇の底に身を沈めるように「イメージの記憶」を発掘するというよりも、バルトが薄明の夜の街を歩きながら、いましがた見てきたばかりの映画の記憶を断片的に呼び覚ますこととも通底するような、そんな心地よい軽さがあったようにも思える。

しかし、先生は「思考のモード」を、そこから10年以上経て、「根本的に変えなければならない」[12]と感じているのだという。これは、2022年に出版された近著『イメージの記憶かげ──危機のしるし』の「跋」に書かれてある言葉である。「謎語」に導かれて、これからますます「かげ」の方へと向かっていく──と、ここでは強く宣言されているのである。

2018年に発行された『REPRE 33』の「アーカイヴの魅惑と倫理」と題されたprefaceで田中先生は、アルレット・ファルジュを参照しながら、アーカイヴの「大海」の中へ身を投じたあと、そこからの「帰還」の困難さについて書いている。歴史家は真理のかけらを海中で見つけ、それを拾い上げて浮上し、地上へと「帰還」しなければならない。そこで先生は次のように問う──「しかし、もはや帰るべき地上が失われているとしたら?」[13]

現代のテクノロジーの進歩によって世界が汎アーカイヴ化するなかでは、アーカイヴからの「帰還」よりもむしろ、そこからの「脱出」こそが問題となり、「テクノロジカルなアーカイヴ化によるインスタントな不死性獲得の誘惑に逆らいつつも」、「みずからの秘密を生のかけらとして残す」ためには、「闇のアーカイヴ」、「灰のアーカイヴ」という、アウシュヴィッツ絶滅収容所におけるゾンダーコマンドたちが地中に残したような、もっとも暗い次元における実践的な課題が必要とされると説く。

しかし、汎アーカイヴ化する世界からの「帰還」、および「脱出」は、それほどまでに困難で、もっとも暗いものなのだろうか。バルトが映画という「鏡」の底へ落ちる前に「離陸」をはかったように、映画館の外に広がる大都市のエロティシズムに身を委ねながら、「イメージの記憶」を反芻するような、ある種の軽さのある「歴史経験」は不可能なのだろうか。

人生経験の浅さゆえか、わたしの生理的感覚は、この軽さ、ないし明るさをどうしても求めてしまうようである。「帰るべき地上」は、外に広がる都市空間のエロティシズムが保障していると言うべきだろうか。あるいは、汎アーカイヴ化した世界では、もはや都市のエロティシズムすらその存在が許されないと言うべきなのか──。

先生がわたしに下さった言葉の中で、特に印象深いものが二つある。一つは、修士論文の中間発表会でのこと。当時のわたしは、学部時代とは全く専門性の異なる研究を前にして、それこそアーカイヴの「大海」の中に訳もわからず沈み込み、身動きが取れず、禁欲的になっていたのだろう。先生は「欲望を解放しなければ、修論なんて書けませんよ」と力強く励ましてくれたのだ。それから夏休みを挟んで、修論をわずか数ヶ月で勢いのままに書き上げることができたのも、「欲望を解放せよ」という先生の言葉に後押しされたからである。

また、修論提出後、世界はまたたくまに新型コロナウィルスの猛威に晒され、大学はどうなってしまうのか、世界はどうなってしまうのか、そもそもわたしは生き延びられるのだろうかという強い危機感に誰もが陥る期間が続いた。当然、修士号授与式も時間ごとに数人ずつ区切られる異例の形となり、全員マスク着用のもと、緊張感のある式典となった。そのとき田中先生は、「コロナ禍の緊張は長期戦になることが予想されます。だから、普段よりリラックスすることを心がけて、肩の力を抜きましょう。ボッカッチョの『デカメロン』で、ペストが猖獗を極めた14世紀フィレンツェの人々が馬鹿話しをしたように、我々の授業も来学期からは「馬鹿話し」をしましょう」とおっしゃっていた。

わたしはその次の年度で先生の授業を取らなかったので、先生が本当に「馬鹿話し」をしたのかどうか定かではない。それから、またもう一度だけ先生の授業をオンラインで受講したが、そこで「馬鹿話し」のようなものが行われることはなかった。

わたしは先生と「馬鹿話し」がしたかったのだと思う。メランコリックで、翳りがあって、どこか暗さを帯びていたとしても、ユーモラスで、ふっと身体が軽くなるような笑い──薄明の笑いとでも言えるような他愛無い会話をしたかったのだと思う。暗さと明るさが入り混じった、魂鎮めのような笑いを。

  1. [1]

    ロラン・バルト「映画館から出て」『第三の意味──映像と演劇と音楽と』沢崎浩平訳、みすず書房、1984年、99-106頁。

  2. [2]

    田中純『都市の詩学』東京大学出版会、2007年、135頁。

  3. [3]

    同書、138頁。

  4. [4]

    同前。

  5. [5]

    同書、259頁。

  6. [6]

    同書、278頁。

  7. [7]

    赤瀬川原平『超芸術トマソン』ちくま文庫、1987年、294頁。

  8. [8]

    田中『都市の詩学』前掲書、279頁。

  9. [9]

    同書、280頁。

  10. [10]

    田中純『イメージの自然史──天使から貝殻まで』羽鳥書店、2010年、121頁。

  11. [11]

    田中『都市の詩学』前掲書、280頁。

  12. [12]

    田中純『イメージの記憶かげ──危機のしるし』東京大学出版会、2022年、307頁。

  13. [13]

    田中純「アーカイヴの魅惑と倫理」『REPRE 33』表象文化論学会、2018年、<https://www.repre.org/repre/vol33/greeting/>(最終閲覧日:2023年12月26日)。

執筆者

高部遼
TAKABE Ryo

博士課程。映画研究、表象文化論。主に吉田喜重をはじめとした日本映画について。業績として「半醒半睡のシネマトグラフ──映画における東京と眠りの共同体について」『東京時影 1964/202X』羽鳥書店、2023年(共著)、「水平性の暴動──吉田喜重監督、別役実脚本未映画化シナリオ『万延元年のフットボール』を分析する」『Phantastopia』第2号、2023年など。

https://researchmap.jp/takaber25

Phantastopia 3
掲載号
『Phantastopia』第3号
2024.03.22発行