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あとがきにかえて敷居をしるす

木下紗耶子

本書は、東京大学総合文化研究科田中純教授のご退職に際し、田中先生より薫陶を受けた私たちから、これまでの学恩に対する深い感謝を何らかのかたちにしたいという思いに端を発して企画されたものです。寄稿は、超域文化科学専攻表象文化論コースの学生として在籍しているか、最近まで田中先生に論文のご指導をいただいた方に限定して、 先生には秘密裡に進めてまいりました。

2023年8月のある夕方、有志が表象の学生室に集まり、 田中先生のご退職を記念すべく何ができるだろうかと検討しました。 記念品の贈呈やパフォーマンスのイベント、シンポジウムなどの候補のなかから「勇気を出して…、束になってかかろう!」というアジテーションとともに論集の制作が決定されました。 10月にデザインチームが発足して 「廃墟」 をモチーフとすることが決定し、同時期に表象文化論の学生によるウェブ・ジャーナル『Phantastopia』 編集委員会との協働により、本書の概要および一部の著作が『Phantastopia』に掲載されることとなりました。2024年1月に“Spielraum”と名付けられ、3月に刊行を迎える本書は、書物のかたちをとった廃墟としての/のなかの遊びの場として、多様な専門領域と自由な表現手段によるテクストとイメージが集合する場となりました[1]

この場を借りて個人的なことを記述させていただくならば、15 年程前に、私が最初に触れた田中先生のご研究はアドルフ・ロースに関する論考でした。午後のあたたかな日差しの入る図書館で、なんとか読み通してみたものの理解が及ばず、 堅牢な壁を前に取り付く島のない気持ちになったことを記憶しています。しかし、表象文化論という方法の持つ繊細かつ鋭利な切れ味のようなものに触れた記憶もまた残り続けたのでした。数年の後、表象文化論コースへの入学を目指す際、その感触を頼りにしたと言うことは、やや大げさかもしれませんが、うそではありません。2ヵ年3回の出願を経て表象文化論コースで学ぶ機会を得た今、見よう見まねでその壁の肌理に触れ、壁の高さとその向こうに広がる迷路に気づく見晴らしを得ましたことを率直に嬉しく思います。

通過することがその人にとって不可逆的で決定的なものとなり得るような魔力を持った敷居の存在は、数人の人が逡巡している様子によってそれと示されるといいます[2]。そうであるならば、ここに集まり、 廃墟の相貌を持つ本書をかたちづくるにいたった、執筆者および協力者こそが、 田中先生というひとつの敷居経験を指し示しているにちがいありません。 本書に収録された田中先生との応答が鳴り響く論文、エッセイ、写真および映像がしるしづけているように、 先生から投げかけられる問いかけの言葉あるいは声(直接的なものに限らずSNS等での投壜的ご発信を含む)に対して回答を試みること自体が、 自身の研究を発掘し構築する重要なきっかけになり得るということなのだと思います。

本書の制作過程では、原稿のとりまとめをおこないました私の力不足により、著者の皆様には相当慌ただしい日程でさまざまにご対応いただくことになってしまいましたし、もとより田中先生のご退職を記念する方法としては、本書とは異なったあり方を無限に構想し得たことでしょう。 この意味において、 本書は突貫工事による仮設的な構築物であるのかもしれません。しかし、あるいはだからこそ、各著者は今後も田中先生のご研究に接し、それぞれの考察を各方面で展開させ、その構築をさらに続けていかれることになりましょう。 そのような展望とともに、テクストとイメージによって「駒場」の空気を密封しようとしてここで一旦かたちを結んだ本書を先生にお渡しできることは、 著者および編集委員一同にとって何ものにも代えがたい大きな喜びです。

著者各位をはじめ、本書の制作過程でさまざまにアイディアをいただきました皆様に感謝申し上げます。 とりわけ、 デザイナーの小熊千佳子さんは、実験的な造本により 「廃墟」を物理的に立ち上げてくださいました。『Phantastopia』編集委員会の谷口奈々恵さんおよび原田遠さんが柔軟な連携を実現してくださいました。 菊間晴子さんは、本書編集の進行を見守り、私たちの思いを汲み取って序文を寄せてくださいました。そして、編集委員兼デザインチームの一之瀬ちひろさん、田口仁さんの冒険的かつ粘り強いディレクションにより本書は実現しました。

そして最後に、 田中先生にあらためまして深く御礼を申し上げまして本書を閉めたいと思います。あたたかく真摯なご指導、そして学究に対する幅広く惜しみのないお力添えを本当にありがとうございました。

2024年2月14日

追記

2024年3月25日の田中先生の最終講義の場で、竹峰義和先生のお計らいにより、田中先生に贈る論集を制作していますことと完成が間近であることをご報告させていただきました。このうえなく素晴らしいご報告の機会をくださった竹峰先生に、ここに記して感謝申し上げます。最終的に『Spielraum』は2冊1組の書物として6月10日に完成にいたりました。本論集の制作過程においてはいくつかのチャレンジがありましたが、関わった全員がその都度力を尽くすことで乗り切ることができました。困難に直面した際、田中先生ならどのようにご対処されるだろうと考えることは我々の大切な指針でありました。結果として、予期した場所から大きく逸脱し、いわばアクロバティックに転回してねん挫しつつ着地した本書ですが、田中先生への心からの感謝の印として、また、我々の試行錯誤の軌跡の記録として謹呈いたします。

2024年7月15日

  1. [1]

    「Spielraum」はヴァルター・ベンヤミンの言葉に拠る。そのうえで、多様な執筆者による自由な寄稿という本書の成立ち、 および 「ポストモダン様式の知の廃墟」というデザインのモチーフに沿って、 空間の遊びと遊びの空間、双方の意味を重ねた言葉にイメージを広げて本書のタイトルに据えられた。

  2. [2]

    ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論』第1巻、今村仁司ほか訳、岩波書店、1993年、174頁。

執筆者

木下紗耶子
KINOSHITA Sayako

博士課程。近現代美術、表象文化論。「旧東京都庁舎(1957)における丹下健三と岡本太郎の協働」(修士論文、2019年)「岡本太郎の描く眼―盲目と眼状紋」(『超域文化科学紀要』、2022年)

Phantastopia 3
掲載号
『Phantastopia』第3号
2024.03.22発行