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「名もなき人間」とモンタージュについての覚書

小城大知

田中純先生の研究・著作を振り返ってみると、その領域の深さと広さにただただ驚かされるばかりである。一介の修士課程の学生、更に言えば研究と雖もその対象が映画にとどまっている筆者のような人間が田中先生の作業について何が書けるだろうかと考えたとき、やはり映画という観点から田中先生の作業を考えてみたいと思う。

近年の田中先生の著作の中で触れられた映画作品を振り返ってみると、彼の映画に対する関心が広いことを理解できるだろう。その中で例えば『過去に触れる──歴史経験・写真・サスペンス』(2016)では、『マイノリティ・リポート』(スティーブン・スピルバーグ、2002)、『チェンジリング』(クリント・イーストウッド、2008)の分析を通して「サスペンスとしての歴史叙述」が検討されている[1]。そして『イメージの記憶かげ 危機のしるし』(2022)では、『旅芸人の記録』(テオ・アンゲロプロス、1975)から、『シン・ゴジラ』(庵野秀明、2016)、『アウステルリッツ』(セルゲイ・ロズニッツァ、2016)に至るまで検討される映画の範囲が拡大している。しかしながら、この二つの本を比較してみると、取り上げられる映画の性質に変化が生じていることに気づかされる。

それは前者と異なり『イメージの記憶かげ 危機のしるし』で取り上げられる映画の大半が、「名もなき人間」に直結するテーマを持つということであろう。直近で田中先生が積極的に論じているセルゲイ・ロズニッツァの映画が大衆を映し出したアーカイブ映像によって構成することで明確な人物中心主義に抗うという手法を取っていることや、トーマス・ハイゼの映画『ハイゼ家 百年』が、ハイゼの家族史という体裁を取りながら過去作である『マテリアル』(2006)や『現代』(2014)と同様に東ドイツのアーカイブ史をたどることを主眼とする作品であることからも、また『旅芸人の記録』という作品の分析対象が、大島渚のテクスト[2]の引用に基づいた大衆の結合と散開をもたらす長回しのシークエンスであることからも、田中先生の近年の映画的な関心が「名もなき人間」の在り方に向いていることがわかる。

「名もなき人間」というのは、田中先生の著作の中でもたびたび言及される美学者ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが、2012年に『名前の無い男』(王兵)を論じた論考の題名でもある。ディディ=ユベルマンは「名前」「財産」「資産」というような、現代社会が公的なものとみなす事物を持たない男を以下のように論じている。

「名前のない男」の生きざまは、大地の生そのものである。すでに年老いた男の生活は、季節の荒波に埋もれ、 日々の労苦により背中が曲がることを通して、ゆっくりと経過していく。毎朝何らかの形で出現するに違いないものである。穴倉によってもたらされる生活は、言葉あるいは汚い布切れを手放すのだろうか。そしてほぼ何も残らないことに抗うのである[3]

無論ディディ=ユベルマンも男の肖像に、ボードレールが「ルンペン」、ヴァルター・ベンヤミンが「屑屋」と呼称するような一種の惨めなイメージを想起したことを認めてはいる。だがディディ=ユベルマンの整理では、「ルンペン」ないし「屑屋」と男の徹底的な違いは「名前のない男」の日々の生活は「社会性の欠落」や「惨めさ」ではなく、土地と男の原始的な政治的同化に基づいているということである。「名前が出ない」という一種歴史に埋もれた人間を撮影するワン・ビンの作品を通さなければならないとはいえ、ディディ=ユベルマンは、「名もなき人間」から労働とは何かという問題を提起した。その中で彼は「名前のない男」に、賃労働が決してなしえない「労働装置と労働主体が切り離されない」労働形式としての疎外されない労働、すなわちカール・マルクスが『ドイツ・イデオロギー』における資本主義社会分析の中で、分業による賃労働には果たしえない労働形態(交通形態)と指摘するような、一種の動きを見出す。枯れ木を拾い、火をつけるという生存のための行為は、私有財産の意識とのある種の闘争である。ディディ=ユベルマンは、「名前のない男」自身の労働作業の実践と貧しさ、そして変容する廃墟(穴倉)の分析を通して彼に世界の把握者としての「屑拾い」としての役回りを見出した。

クリス・マルケルは1982年に発表した映画『サン・ソレイユ』で、泪橋で交通整理をする男に、「屑拾い」としての役割を見て取った。マルケルは、そのような「名もなき」男が交通整理をすることで「社会に報復している[4]」存在なのだと論じる。とはいえ彼は『サン・ソレイユ』以前から、既に「名もなき人間」をよりラディカルな政治的位置で捉えていた。それは『空気の底は赤い』(1977)におけるラストの献辞から明確に理解できる。

この映画の真の作者は、彼らの作品の使用に関して相談は受けてはいないが、名もなきカメラマン、音響編集者、証言者や武装した兵士であり、彼らの作業は権力という常日頃から絶え間なく我々から記憶を抹殺したい存在と対立することである[5]

『空気の底は赤い』は、マルケルの献辞が示すように「名もなき人間」たちによって撮影・録音された映像がモンタージュされることで成立した作品である。そのため、冒頭のクレジットからも理解できるように、マルケルは本作品における自らの役割を「編集および構成」(Montage et Composition)と位置付けていた。マルケルにとって「名もなき人間」を巡る映画的並びに政治的位置取りに重要なのは、他ならぬ「モンタージュ」であったと考えることが出来るだろう。

「モンタージュ」という概念を巡っては、今日様々な議論がなされてきたが、田中先生の近年のテクストでは、「モンタージュ」を巡って以下のような問題提起がなされている。

「すべてに抗して=それでもなお (malgré tout)」の「場所」―この空舞台は動かない。だがそれは、動かないことによってこそ、複数の地ないし非-図の対立が生むずれや裂け目を通して、歴史的な時間の無意識をなす脈動を感知させているのである。(中略)ディディ=ユベルマンはそこで「すべてに抗して=それでもなお」イメージを生成させる方法を「モンタージュ」と呼んだ。だが、そのとき真に問題にされるべきだったのは、彼自身がランズマンの映画に見出していたような、複数の歴史的時間が対立する「場所」としての、動かない「空舞台」だったのではないか。そこで空舞台は皮膚―歴史の皮膚―となるのである[6]

だが、動かない「空舞台」とは何なのか。それは本当に堅固なものなのだろうか。ここで、広島(ヒロシマ)を巡る近年の状況からこの問いにアプローチしてみたい。なぜなら「アウシュヴィッツ」と同様、広島も「裂け目」が提起された場でもあり、「複数の歴史的瞬間が対立する場」でもあるからだ。

アラン・レネ『ヒロシマ・モナムール』(1959)の冒頭は、まさしく「空舞台」としての広島を舞台とした「名を表さない」男女による問いの投げかけである。「君は、広島を決して見ていない[7]。」と男が女に投げかけ、それに対し「わたしは、全てを見たわ[8]」と女が応答する。「病院があった、私は確かに見たの。病院は広島にあった。どうして見ないでいられようか。[9]」という女の証言を裏付けるかの如く、病院の映像が挟み込まれる。広島の病院の映像は、原爆症(白血病)で入院する女性たちの実際の姿を映し出す。カメラが彼女たちの顔を正面から映し出すことで、観客は広島で起こっていることの事実を強い衝撃、即ち映像から「見られる」感覚によって受け入れざるを得ない状況に置かれるであろう。

抵抗するのはセリフ回しである。原爆資料館に陳列されている原爆がもたらした都市の破壊とその悲惨さを証言する展示品やパネルが映し出される。女は写真や展示を見て凄惨な暴力を目で表層的ではあるが理解している。だが、男は「きみは、広島を見ていない」と応答する。「見ている」という事実に対する「見ていない」というセリフが、映画における裂け目、すなわち運動としての日常の新たな把握になりうる。『ヒロシマ・モナムール』は、広島とヌベールいう場に舞台を限定しながら、それこそ「複数の歴史的瞬間が対立する」場として広島を位置づける。シナリオ・テクストで示されているように女性は「映画というものが、最も真なる可能性を持つ[10]」と主張し「忘却というものを理解している」とすることで記憶を映像にすることこそが真実の映像をもたらすと応答するが、男は女に対して「君は、忘却というものを理解していない[11]」と返答する。なぜならジャック・ランシエールが指摘しているように、記憶とは情報ではなくフィクションそのものであり、また忘却、否定、無知といった記憶が立証しようとする事項が観客の社会的な想像力とスクリーンの特徴との間の鏡像認識を保証するという「フィクションの実在」への対抗は紋切り型の思考でしかないからである[12]。その結果として、映画は単一な事実叙述に対して「抗する」シナリオにより男の故郷「ヒロシマ」と女の故郷「ヌベール」の間の懸隔を縫い合わせようとする。このように「広島」を巡って、様々な映画監督たちが「空舞台」の上で映像表現を通じた思索を展開してきたことは言うまでもないことである。

しかし「空舞台」としての広島は、決して不動な存在ではない。広島は、常に「複数の歴史的瞬間の交錯」を抹殺しようとする権力からの暴力にさらされてきた空間でもある。2023年はまさにそれが究極の形として生じた年でもあった。

2023年4月、広島市教育委員会は小中学生向けの平和教材から『はだしのゲン』(中沢啓治)と「第5福竜丸事件」に関する記述を削除する改訂を行った。被爆当事者によってその当時の生々しい現状を告発するコミックとしての『はだしのゲン』を削除するという教育委員会の方針は広島市民の間で賛否両論を招いた。ある教員は「ゲンの生活は現代の子供たちの実態と会わない」とこの改訂を容認した。一方で、ある市民団体の代表者は「子供が戦争や原爆の悲惨さを学ぶことが出来る大きなきっかけを失ってしまう」と懸念の声を示している[13]。しかしながらこの問題の根幹にあるのは、広島の悲惨な歴史に対する一つの怒りを表象する作品を抹殺したい主体が、他でもない権力者(統治者)にあるということだ。それは、5月に開催されたG7広島サミットからも理解できるだろう。

G7広島サミットで採択された「広島ビジョン」は、中国・ロシアなど俗に「侵略者」・「脅威者」とされる国家の核兵器は弾劾しながら、その一方でウクライナ・NATO・西側諸国の既存の核兵器は容認するという「核抑止論」に基づく平和体系の維持を宣言するものであった。よりグロテスクなのは、ウクライナやNATOによる核戦争の正当性を示すこの宣言が被爆地である「ヒロシマ」で提唱されたことである。これには被爆者の多くが怒りを露わにし、広島市と深いつながりを持つ中国新聞でさえもサミットに対する批判的な論調を展開した。しかし同時にここから理解できるのが、事前に『はだしのゲン』や「第5福竜丸事件」を公共教育の教材から削除しなければ、「核抑止論」に基づいた会議を広島という被爆地で開催することなど不可能に近かったということである。こうした歴史修正主義の暴力にさらされながら「空舞台」は不動の位置を保つことはできるのだろうか。

「G7サミットの本質は、戦争のための会議である」。そのような主張の元、厳戒警備の態勢が敷かれた広島では、サミット期間中多くの人間が開催に反対するデモ行進に参加した。その中である市民団体が主催したデモでは、二人の逮捕者が出るなど緊張した光景も見られたという。その逮捕劇を巡った、少し興味深い事例に着目したい。

最初の逮捕者は、5月18日に原爆ドーム近くで「警察官の足を踏んだ」とする公務執行妨害容疑で逮捕(その後不起訴釈放)された。その人物は全学連の主要な活動家であったこともあり、翌日全学連側はSNSで逮捕者の名前を公開した。この逮捕劇の映像を見てみると、主要な人物とされるこの学生に対し、機動隊員が執拗に狙いうちしたことによる逮捕劇であったことが容易に理解できる。つまり、権力による「名のある人物」への暴力的弾圧であったことを意味するのだ。この人物の逮捕は、市民団体のデモ参加者と機動隊の双方に、平時のデモ行進時よりも強い緊張関係をもたらした。その後のデモ行進においても、機動隊とデモ行進の度重なる衝突がみられ、サミットに反対するデモ隊の怒りの声とそれを何とか粉砕したい権力の代行者である機動隊の激しい鍔迫り合いが3日間にわたって続くこととなる。

転機となったのは5月21日のデモである。この前日にG7はウクライナからゼレンスキーを招聘しサミットに参加させることを発表した。このことはG7がゼレンスキーによる戦争に共闘する立場を宣言することに等しい。同日制定された「広島ビジョン」に反対するデモ行進で、機動隊は白昼堂々、人通りの多い商店街でデモ行進に参加する人々への暴力的な襲撃を行い、「警察官の肩を殴った」として二人目の逮捕者を生み出した(その後については一人目と同様)。しかしこの逮捕は、一人目の逮捕の事例と様相がやや異なる。全学連のリーダーとされる赤嶺氏のデモ行進後の発言を引用してみたい。

はっきりしたのは、私は5分くらい首を絞められたり、制圧されたりしましたが、(機動隊が)私の顔を見た瞬間、「こいつ(註:発言者)は制圧でいい」「向こうは公妨(公務執行妨害)」と言いました。だからこっちが何をやったかなんかは関係ないんですよ[14]

一回目の逮捕と異なり機動隊の今回の逮捕対象は「名もなき人間」であった。事実この暴力的衝突を報道したBBCの映像を確認しても、最も激しい暴力的弾圧を受けているのは赤嶺氏であることがわかる。しかしながら機動隊は「名のある人間」である赤嶺氏ではなく、「名もなき人間」である別のデモ参加者を逮捕した。市民団体側も、防衛の観点からこの人物に関する情報を一切明かさないという戦術をとった。そこからも理解できるように、この逮捕劇には権力の「名もなき人間」への底知れぬ恐怖が存在する。5月18日になされた「名の知れた人間」の逮捕は、「名もなき人間」のさらなる怒りの増幅と蜂起を促したのではないのだろうか。「名もなき人間」を逮捕することでデモ隊の戦意を挫かんとする権力者の目論見は、「名もなき」カメラマンによって編集及び拡散されることで瓦解する。それは「空舞台」の防衛ではなく、名もなき参加者の怒りと名もなきカメラマンの結合によってモンタージュされた抵抗のアーカイブとなりうるものではないだろうか。

「怒り」というのは、ディディ=ユベルマンにとっても「再モンタージュ」を巡る重要なファクターとなりうる。ディディ=ユベルマンは以下のように説明する。

自身の怒りを、わたしたちの怒りを呼び起こす世界のイメージについての忍耐強い作業へと高めること、それらイメージと世界の暴力の結びつきを理解しようと、たゆまず試みること。たえず学びなおすこと。示されたものをつかみとる―まして所有する―などと決して思わないこと。観る者の手をとり、ついでその手を放しながら、観者の眼差しを解放すべく、いつでもすべてを再モンタージュすること。だが、この作業全体のもとにある怒りを決して忘れないこと。したがって、たゆまずに、モンタージュのうちで仮初に再形成されたあらゆる確実性、あらゆる統一性を断ち裂くこと。弁証法のリスク―リズム―を保つこと[15]

モンタージュは、「空舞台」が持ちうる確実性やその背景にある繊細さを断ち裂くのかもしれない。しかしながら「モンタージュ」が何度もなされる限り、「名もなき人間」の闘争に終わりはない。それはエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(1925)からはじまり、この作品に多大な影響を受けたマルケルが『空気の底は赤い』の中で闘争の映像を編集することで死者たちの怒りを喚起するように、そのようなマルケルの作業からパトリシオ・グスマンが、『チリの闘い』(1978)を撮影した半世紀後に新作『My Imaginary Country』(2022)で、マルケルから学んだ格言を引用しながら現代の「名もなき人間」たちの闘争を記録することに果敢に挑戦していることからも理解できよう。私自身も、一人の闘争者としてサミット反対デモでの衝突の中で喚起したのは、『空気の底は赤い』の冒頭シークエンスの後半で弾圧を受ける名もなき学生たちの隊列だった。そして例え暴力的な弾圧を受けようとも、デモ隊は抵抗し前進するのである。

死したゴダールは『ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争』(2023)においても、フィクションへの回帰や物語性の片鱗を見せる予告としてのモンタージュを追い求めていた(長編化されないまま自死してしまったことが悔やまれる)。そこには初期作品から追い求められてきた戦争を巡る土地への言及があり、まるでイスラエル/パレスチナの再びにわたる虐殺戦争を予言していたかのようである[16]。ゴダールは『勝利まで』(1970)のフッテージをもとに制作した『ヒア&ゼア こことよそ』(1974)の中でパレスチナ人民の虐殺を「モンタージュ」という手法で思考しようとするが、そこには「名もなき人間」が虐殺されることによって「忘却」されることへの激しい抵抗がみられた。そのような抵抗は以降のゴダールの実践によって先鋭化され、最後の長編作品となる『イメージの本』(2018)ではアラビア情勢を巡るゴダールの怒りが、「モンタージュ」に更なる「モンタージュ」を結合させる手法で表現されることになる。そこにはゴダール自身の老いも見られながらも、ゴダール自身のたゆまぬ「モンタージュ」による「アーカイブ」形成への努力が理解できるだろう。「私たちに未来を語るのは、“アーカイブ”である」とゴダールが語るのであるならば、「名もなき人間」たちによるアーカイブを構築するための「モンタージュ」を思考することは、なおのこと重要な作業であるに違いない。

映画芸術の意義を考えるとき、田中先生の近年の「モンタージュ」に対する問題提起は、私達に大きな課題を残してくれた。世界情勢が目まぐるしく動いていく中で、「完全で終結しうるものではない」「モンタージュ」の議論を引き受け、何らかしらの実践へと開いていくこと:それは他でもない今後の私たちの役割なのである。

 

  1. [1]

    田中純『過去に触れる―歴史経験・写真・サスペンス』、羽鳥書店、2016年、367-376頁。

  2. [2]

    大島渚「希望のカメラワーク」『わが封殺せしリリシズム』、文春文庫、2023年所収。

  3. [3]

    Georges Didi-Huberman, Peuples exposés, peuples figurants, Paris, Minuit, 2012, p. 242.

  4. [4]

    クリス・マルケル「サン・ソレイユ 日の光もなく」福崎裕子訳、『すばる』1986年9月号、集英社、1986年、107頁。

  5. [5]

    Chris Marker, Le fond de l’air est rouge : scènes de la troisième guerre mondiale, 1967-1977, Paris, François Maspero, 1978, pp. 199-200.

  6. [6]

    田中純『イメージの記憶かげ危機のしるし』、東京大学出版会、2022年、78頁。

  7. [7]

    Marguerite Duras, Hiroshima Mon Amour, Gallimard, 1960, p. 16.

  8. [8]

    ibid., pp. 16-17.

  9. [9]

    ibid., p. 17.

  10. [10]

    ibid., pp. 19-20.

  11. [11]

    ibid., p. 24.

  12. [12]

    Jacques Rancière, La fable cinématographique, Paris, Seuil, 2001, p. 203.

  13. [13]

    以下の記事を参照。https://www.jiji.com/jc/article?k=2023080600229&g=soc (最終閲覧日2024年1月19日)

  14. [14]

    以下動画を参照。https://www.youtube.com/watch?v=wh2wnHPViPI(最終閲覧日2024年1月19日)。該当発言は2分59秒から。

  15. [15]

    ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『受苦の時間の再モンタージュ』(松井裕美、森元庸介訳)、ありな書房、2017年、128頁。尚、以下も参照。Georges Didi-Huberman, Remontages du temps subi, Minuit, 2009, p. 131-132.

  16. [16]

    これは、『アワーミュージック』(ジャン=リュック・ゴダール、2004)の第 2 部「煉獄編」からの引用である。該当箇所は以下から確認できる。「『アワーミュージック』シナリオ採録」『ゴダール アワーミュージック』パンフレット、東宝(株)出版・商品事業室、2005 年、32 頁。

執筆者

小城大知
OGI Daichi
専門は映画研究、表象文化論。おもにフランスの映画監督クリス・マルケルの映画を中心にフランス映画、ドキュメンタリー映画、映像、アーカイブなどについて研究している。また関連して不定期に映画上映・字幕翻訳を手掛けている。
Phantastopia 3
掲載号
『Phantastopia』第3号
2024.03.22発行