p.89はじめに
吉田喜重は、1969年から1973年の間に「日本近代批判3部作」(『エロス+虐殺』(1969年)、『煉獄エロイカ』(1970年)、『戒厳令』(1973年))を作り上げた後、長らく映画が撮れなくなる期間に入る。その間、テレビ・ドキュメンタリーシリーズの『美の美』(1974-77年)といったテレビ番組などを数多く手掛けているが、長編劇映画は1986年の『人間の約束』を撮るまで、13年間作ることができないでいる。その間には『万延元年のフットボール』や『侍・イン・メキシコ』など、途中まで準備が進められていた長編劇映画の企画もあったが、どれも頓挫してしまっている。
1974年にシナリオが執筆された『万延元年のフットボール』は、1967年に講談社から刊行された大江健三郎の同名小説を原作としており、監督は吉田喜重、脚本は別役実、製作は岡田茉莉子と葛井欣士郎のスタッフで、現代映画社と日本アートシアターギルドの共同作品として企画・準備が進められた。葛井によると、キャスティングまで決められていたらしく、中村敦夫と原田芳雄、三國連太郎が出演予定だったとされる。しかし、結局撮影には至らなかった大きな理由として、原作者の大江が許可しなかったからだと葛井は言う──「大江さんがだめだと言ったから、諦めましょうと吉田さんが言いました。別役さんには時間をかけてもっと考えましょうって伝えたんです。そうしないと傷ついちゃいますからね」[1]。
『万延元年のフットボール』映画化の企画の前に公開された吉田の映画『戒厳令』もまた、脚本は別役実、製作は岡田茉莉子と葛井欣士郎、上野昂志で、現代映画社と日本アートシアターギルドの共同作品であったことから、映画『万延元年のフットボール』は『戒厳令』とほぼ同じ製作陣で企画が進められたと考えられる。しかし、シナリオをよく読んでみると、『戒厳令』とは全く異なる美学が描かれていると推測できる。『万延元年のフットボール』の映画化は、吉田にとって過去作を乗り越えるための転換点となっていたのではないか。本論文では、映画として実現することのなかった『万延元年のフットボール』のシナリオを詳細に分析することで、この幻の映画がいかなる表象システムのもと駆動するはずだったのか、その美学を分節化し、13年の空白の期間に吉田が映画で何をしようとしていたのかを明らかにしたい。
本論文が分析対象とするシナリオは、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館図書室がARC台本として所蔵しているものであり、一般に流通していない資料である。
このシナリオを吉田のフィルモグラフィーに位置付けて分析する上で、3つの難点が予想される。ひとつは、この脚本を執筆したのが別役実ただ一人であり、吉田はほとんど関与していp.90ないという点である。葛井によると、吉田は「その脚本でもやれないことはない」と語ったものの、「あまり注文を出さなかったんじゃないでしょうか」と述べており[2]、吉田がこのシナリオにどの程度コミットしているのか不明確である。第二に、このシナリオが原作から大きく改変されているわけではないという点がある。別役のシナリオには細部にわずかな違いこそあるものの、物語の大枠はほとんど原作に忠実に描かれており、セリフもほとんど原作と同じように語られているため、一見してシナリオのオリジナリティーがどこにあるのか識別し難い。第三に、シナリオを映像化する際は、無限の可能性が考えられ、シナリオをただ読んだだけでは、いかなるショットとしてスクリーンに映し出されるか未知であるという点がある。特に吉田の演出は、撮影現場での直感によってカットを割る傾向があり、現場という「生きた空間」における俳優の身体の偶然性を重視しているとされるため、コンテなどは作っていないと彼は語っている[3]。
こうした3つの難点を踏まえてシナリオ分析を開始するにあたり、以下の3点を留意したい。①シナリオを書いたのは別役一人であるとはいえ、彼は吉田が監督することを見越してシナリオを書いているはずであり、前作の『戒厳令』で既に別役は吉田のために脚本を書いた経験があることから、完全に吉田を無視してこのシナリオを論じるのも間違っていると言わねばならない。言うまでもなく映画制作は共同作業であり、別役のエクリチュールもまた、別役一人の意志に還元されるものではない。テクストは重層的な思考によって織り上げられており、そこに吉田的想像力が混在していることを認めるのは難しいことではないだろう。②原作から大きな改変は無いとはいえ、細部には確かに差異が存在し、その差異を丁寧に分析することで、原作とは異なる構造が見出せるのではないか。『アダプテーションの理論』でリンダ・ハッチオンは、「動機が何であれ、翻案者の観点から見ると、アダプテーションは私的使用あるいは回収の行為であり、そこには解釈とそれから新しいものの創造という二重のプロセスがつねに存在している」と述べている[4]。シナリオ版『万延元年のフットボール』が、大江の原作を映画に翻案する上で、いかに「解釈」と「新しいものの創造」を行なっているのか、それを本論文で分析する必要があるだろう。③ときに映像テクストはシナリオを大きく裏切るかもしれない。しかし我々にできることは、ありうるさまざまな可能性を考慮しつつ、シナリオを精読したうえで想像力を最大限に膨らますことであろう。脚本の段階で別役は吉田にどのような映像を──画面にいかなる形式と姿を──与えようとしたのか、それを本論文では探ることにする。
そのとき浮かび上がってくるのは、原作の小説が本来備えている垂直の構造に、新たに表面の主題を導入すること、そしてその表面に対して水平の性質を導入することによって生み出される、「垂直」対「水平」の緊張関係である。両者が揺れ動くダイナミズムを、我々は見届けることになるだろう。
1. 白の臨界点
『万延元年のフットボール』のシナリオ分析に入る前に、吉田が「日本近代批判3部作」で何p.91をしていたのか軽く触れよう。『万延元年のフットボール』を、吉田の過去作を乗り越えるための転換点として位置づけるためにも、まずは過去作における表象システムがいかなるものであったのかを明らかにする必要があると思われる。
「日本近代批判3部作」を特徴づけるもののひとつに、スクリーンに放たれる強烈な白い光がある。筆者は、そこで投射される白い光を権力そのもののあらわれだとして議論を展開している[5]。映画の中で人々は、光に向かって飛ぶ虫のように、白い光=権力に幻惑され、それを欲望していたと言える。日本の近代史における権力志向の物語を、それぞれ大杉栄と伊藤野枝ら大正のアナーキスト(『エロス+虐殺』)、1950年代と70年代の極左テロリスト(『煉獄エロイカ』)、昭和維新の革命家・北一輝(『戒厳令』)に託して、彼/彼女らの欲望を批判的眼差しで描いている。
『エロス+虐殺』では、白い焔が若い男女の欲望をかき立て、白い光を放つ短刀が正岡逸子(楠侑子)の嫉妬心を狂わせ、甘粕憲兵大尉の着ける白い手袋によって大杉らが虐殺され、シャワー室のガラスに装着された白いぼかしの背後で永子(井伊利子)は自慰を始めている。これら白い光は身体に直接的に作用する権力装置であり、続く『煉獄エロイカ』、『戒厳令』でもその光は画面に登場する人物をまばゆく照らし出し、スクリーンを見ている観客の眼を鋭く射抜いている。『煉獄エロイカ』では、スタンドライトの光によって尋問中の人物を痛めつけるショットがあり、また太陽光によって画面全体がホワイトアウトするショットが見られる。強い破壊力を持つレーザー光線の技術士である男が主人公のこの映画は、スクリーンそのものを強い光によって焼き尽くすかのような勢いで最大限の光量を放ち、画面全体を白一色にすることで、表象の臨界点へと達する。『戒厳令』では、正午の太陽に照らされた北一輝が白昼の空に天皇の姿を夢想し、のちに昭和天皇となる皇太子からは何も書かれていない白紙の手紙をもらっている。真っ白な紙に権力構造の中心である天皇を幻視することは、真っ白なスクリーンに光を投影することで映像が現れる映画のシステムとよく似ている。権力の中心としての白い光が表象の臨界点に達するとき、これ以上は「DEAD END」(『煉獄エロイカ』のラストに掲げられた標識)とならざるを得ない。
『戒厳令』を撮り終えた吉田は「これ以上は前に進めない」、「これ以上は無理だ」、「これからは『戒厳令』の映像を反復するような映画を撮るより仕方がないのだろう」という思いがして、「気持ちがなえてゆく」[6]のを感じたという。
彼の口から直接語られることはないが、光=権力への欲望を批判的に描くことは、暴力に魅入られてしまうことへの危うさをも同時に意味し、権力に距離を取りつつも権力へ絡め取られてしまう矛盾をも意味するのだろう。こうした実践は持続不可能であり、自己模倣によって延命するしかなくなる。そうした自己同一性にとどまることは、吉田にとって「危機」[7]を意味していた。
では、新たなる創造性を獲得するためにはどうすればよいのか。吉田は1974年から『美の美』の制作で長らく海外へと渡ることとなる。それは、自らが異邦人となることで、光=権力という中心から逃走線を引くことを意味していたのだろう。ここにおいて、彼は中心から周縁p.92へという転回を果たすことで、新たなる創造性を求めていたのだと考えられる。
白い光という権力の中心に吸い込まれてしまうことに抵抗し、そこから身を引き剥がすため、周縁へと赴くことで新たなる創造性の活路を見出そうとした吉田にとって、東京から四国の森の奥深くにある村へと「新生活」を始める『万延元年のフットボール』のプロットは魅力的なものであったのだろう。しかし、実際なぜ吉田が『戒厳令』の後に『万延元年のフットボール』を撮ろうとしたのか、その事実について彼の過去のインタビューなどでは一切語られたことがないため、真相はわからないままである。だが、残されたシナリオを丹念に読み解くと、彼はこの作品を作り上げることで、過去の作品のスタイルからの決別をはかろうとしていたことが明らかになるのではないだろうか。
次節から、我々は『万延元年のフットボール』のシナリオ分析を開始する。
2. 削除された第1章
本節では、『万延元年のフットボール』を映画化するにあたって、いかに原作とは異なる構造をシナリオが導入しているのかを明らかにする。
先述した通り、シナリオ版『万延元年のフットボール』の物語の大枠は、細部にわずかな違いがあるものの、大江の原作にほとんど忠実に描かれている。しかし、原作とは決定的に異なる点が、冒頭の始まり方にある。原作では第1章「死者にみちびかれて」から始まるところを、シナリオでは大胆にカットし、第2章「一族再会」の空港のホテルの一室のシーンから始まっているのである。
葛井の自伝によると、企画の初期の段階ですでに原作の冒頭の数十ページはカットされることになっていたとされる──「「万延元年のフットボール」はATGに企画を出しました。文庫本を買って、皆さんに渡しました。「悪いけど、60ページまで読んでください」と。60ページ以降は大衆小説の構造をもってるんですね。吉田さんも前半は外して、後半の兄弟の自殺の問題から始まって、ある種のコミューンと不思議な天皇と巨大な女、これを使うということでした」[8]。葛井の自伝は事実と不正確な記述が多く、記憶違いも目立つことから、あまり信頼性が担保できないものの、彼のこの発言を素直に受け取るとするなら、冒頭の第1章を削除したのは吉田のアイディアであった可能性が高い。では、なぜ小説の第1章を削除する必要があったのか。
小説の第1章には、夜明けまえの暗闇の中、庭の土に穿たれた「穴ぼこ」の中へと身をひそめ、過去の記憶を「観照」する主人公が描写されている。そこでは、地面よりも低いところにある竪穴へ身を屈めることで、ある種の下降運動が描かれることとなる。この下降運動こそが、四国の森の奥深くに位置する「谷間の窪地」へと向けて移動する小説全体の主題になっている、と蓮實重彥は語る。彼はその下降運動を、鷹四が作品のラストで語ることになる「本当の事」へと至るための垂直的な運動なのだとして、次のように述べる──
p.93この下降運動は、「本当の事」とめぐりあうために誰もが通過すべき一つの試練にほかならず、冒頭の挿話はこのことをも予告しているのだ。『万延元年のフットボール』は垂直の構造を担っている。その説話的な持続を担っているのは、縦の上下運動である。そしてその垂直の軸に従って位置を変える人物たちは、そこにかたちづくられる縦の空間の最深部に埋蔵された「本当の事」との距たりによって悩み、意気沮喪し、絶望することになるだろう。その隠された真実に操作され、人は死に、また再生しもする。だからその下降体験は、きわめて倫理的な意味をはらんでいるはずだ。作家のメッセージが読者の手にゆだねられるのも、間違いなくその縦の空間の最深部が地表に暮すものたちの視線に触れる瞬間ということになるだろう。作品の導入部にあてられた「死者にみちびかれて」の章は、少なくみつもってもそれだけのことを、律儀な雄弁さで語っている。竪の窪みに着目せよ。そこでこそ、人は、歴史と垂直に交わりあうことになるだろう。歴史が過去への遡行的な視線だなどと思ってはならない。それは、いま、この瞬間、存在を縦の軸に従って貫くきわめて倫理的な運動なのだ[9]。
しかし、ここで決定的に重要なことは、シナリオでは第1章が削除されたことにより、作品の導入部に「竪の窪み」など存在しないという事実である。シナリオ版『万延元年のフットボール』の冒頭は、小説の持っていた「垂直の構造」を否定する。その代わりにシナリオで最初に登場するのは、隙間から白い光を漏らしているであろう「ブラインド」であった──
1 空港内のホテルの一室
ブラインドを背にして、椅子に腰をおろした菜採が、静かにウイスキーを飲んでいる。(a-1)[10]
「穴ぼこ」という垂直の構造が否定される代わりに、シナリオではブラインドという実に表面的な素材を映すことから物語が開始されている。この表面性を作品の冒頭に映し出すことこそ、吉田+別役が大江の小説を翻案する際に新たに「解釈」した「新しいものの創造」にほかならない。
大江の小説では、該当箇所は次のように書かれている──「妻は合成樹脂の薄片を綴りあわせた日覆いのかかった窓(日覆いが外側からの光をすっかり遮断しているというのではない、室内にはほのぐらい光が逃げ場のない煙のようにたまっている)を背にして、すなわち顔が翳り、誰にも表情を見すかされることがなくなるように工夫して、低い肘かけ椅子に坐りこむと、静かにウイスキーを飲んだ」[11]。この場面がいかなるショットで映像化されることになるはずだったのか、正確に判断することは不可能であるため、確実なことは明言できないが、小説では「日覆いが外側からの光をすっかり遮断しているというのではない」とあるように、ブラインドの隙間からは白い光が漏れ出ていると考えられるだろう。言うまでもなく、ここで漏れ出ている光は、「日本近代批判3部作」から届いてきた光に違いあるまい。しかし、ここでp.94妻の菜採は光の方へ顔を向けてはいない。彼女は光を背にして、逆光で顔が翳っているのである。もはや彼女は光を欲望していない。ここでの彼女の身振りに即応するように、シナリオではこの後、まばゆい光から身を引き離すように暗い森の奥深くへと移動してゆくのである。
3. 水平運動による周縁への移動
本節では、光に満たされた空間から暗い周縁へと向かうためにシナリオがいかなる構造を採用しているのかを分析する。そこで明らかになるのは、表面に対して水平的に移動する運動である。
シナリオではその後、空港内のホテルにアメリカから帰ってきたばかりの鷹[12]がやってくると、鷹、蜜、菜採、星男、桃子の5人は、ホテルの廊下で、「それぞれ歩きながら」、四国の村へと旅立って「新生活」をはじめないかと話をする。小説では、彼/彼女らはそれぞれ静止して話をしているのだが、シナリオではここで歩行の運動が導入されるのである。
3 空港内のホテルの廊下
それぞれ歩きながら……。
鷹 「新生活をはじめなければいけないよ、蜜……」(a-4)
「それぞれ歩きながら」というト書きは、実に些細なものに過ぎないかもしれない。しかし、該当箇所を小説と比較してみると、なぜシナリオではここで「歩く」という運動が導入されているのか極めて不自然に見えてくるだろう。なぜなら、小説におけるホテルの空間は、ひたすら垂直運動ないし下降運動が強調して描かれているからである。妻の菜採子は「低い肘かけ椅子」に座り込んで静かにウイスキーを飲み、星男と桃子はベッドの上に座り込んで「トランジスタ・テレヴィのスポーツ番組」を見ており[13]、蜜三郎は日覆いの隙間から空港を眺めている。4人はそれぞれ静止して動かないまま鷹四の人間性にまつわる不毛な議論を続けていると、突如桃子の叫び声が聞こえてくる──「あっ、あっと桃子が叫びたててベッドに文字どおり垂直に立ちあがった」[14]。そして彼女は次のようなセリフを発する──
「飛行機が落ちた、燃えている、燃えている!」と少女は泣きむせんだ。
「飛行機は落ちていないよ、泣くなよ」と泣いている少女をわれわれにむかって恥じているように若者は憤ろしげな太い声を発した[15]。
少女は垂直に立ち上がり、飛行機が燃えながら墜落してゆくのを幻視する。小説におけるホテルの空間は、重苦しいほど垂直的で下降的な構造が部屋中を充満している。そして蜜三郎は妻に対して「彼女自身の内なる螺旋階段をはてしなく下降しはじめるのを警戒」[16]して妻を慰安し、蜜三郎自身は「ネズミそっくり」に「床にじかに横たわって」[17]眠り始める。鷹四が部屋p.95に到着しても、彼/彼女らはその場から動かないままでいる。そして鷹四は言う──「端的にいえば、蜜はいま下向きだ、下降している感じだね」、「もっと長びくと蜜の顔にはそうした下降型の印象が固着してしまうよ」[18]。
原作では徹底して下降運動が強調されていたにもかかわらず、シナリオでは鷹がやってきた途端、下降的構造を無視して5人はホテルの廊下を歩き出すのである。これは実に不自然ではあるまいか。
もっとも、シナリオにおいても、鷹がホテルの部屋にやってくるまでは、蜜は小説と同様じかに床に横たわって寝ていた。しかし、鷹が登場した途端に人々はホテルの廊下という平滑的な表面上を移動し出す。そして「新生活」を、すなわち四国の谷間の窪地へと4人をいざなおうとする。ここでは、ブラインドの表面がホテルの廊下という表面へと連鎖しているのがわかるだろう。吉田+別役の『万延元年のフットボール』は、原作本来の垂直的構造に、表面性という新たな構造を接ぎ木するのである。
そしてこの表面性を体現し、作品に導入する人物こそ鷹にほかならない。ホテルの玄関を出ると、鷹と星男、桃子の3人は、シトロエンの車で四国へと向かう。あくまでも陸路を水平的に移動することで周縁へと向かう彼/彼女らは、中心から周縁へという平面的な地形に沿ったきわめて合理的な移動手段を用いているといえるだろう。表面に対して水平的に移動するという意味において、鷹とその「親衛隊」である星男、桃子は、水平性を備えた人物であると考えられる。
一方、蜜は上の3人のように水平性を持つ人物ではなかった。小説で描かれる「夜明けの百分間の穴居生活」からも分かるとおり、彼は水平性というより、垂直性を備えた人物であると言った方がよい。先述した通りシナリオでは第1章における「穴ぼこ」は省略されていたものの、蜜の持つ垂直的性質は、シナリオ版でも引き継がれていると考えられる。その証拠に、シナリオでの蜜は小説と同様、四国の村において鷹らの活動に一切関与せず、「倉屋敷の二階」という垂直的な場に引きこもるのである。少なくともシナリオでは、鷹vs.蜜の対立は、水平性vs.垂直性の構図で描かれていることが分析できるであろう。
ここで、ひとつの問題が生じる。中心から周縁へと向かう合理的な移動手段として車という水平移動の装置が導入され、それに乗って水平的人物である鷹とその「親衛隊」の3人は水平的に移動していたのに対し、垂直的人物である蜜はいかにして周縁という平面の彼方へと向かえばよいのだろうか。彼は、水平的人物である鷹がいなければ、決して水平移動することができない。垂直方向で周縁へと向かうことは不可能なのである。では、蜜と菜採が四国の森へとどのように移動していたのか、シナリオを詳細に読んでみよう。
4 空港内のホテルの玄関
五人、まぶしい陽光のもとに出てくる。
菜採 「鷹のいう新生活をはじめたらどう。私にもそれが蜜に必要なことはわかるわ……」
鷹 「タクシーを拾って行っててくれ。おれたちは、こいつのシトロエンで追いかけるよ。p.96(と、行きかけて、振り返り)それにおれは、あの万延元年の一揆の時の、曽祖父さんとその弟の事件を、村で正確に聞きだしたいと思ってるんだ。そのためにも、おれはアメリカから帰ってきたんだよ」二人を残して三人去る。
5 村への道
森林の中である。菜採は道端にしゃがみこんでいる。蜜は立って、煙草を吸っている。(a-5~a-6 強調は引用者。)
シーン4からシーン5の間が、空港のホテルから四国の森へと移動していたであろう時間を指すが、ここでは移動の時間が直接的に描かれていない。「まぶしい陽光」という「日本近代批判3部作」から続いているに違いない光に満たされた空間である空港内のホテルの玄関で、蜜と菜採は2人残されてシーン4はカットされる。その後、ショットは突然、森のなかへと変わるが、蜜と菜採は相変わらず2人静止したまま画面に現れるのが想像できるだろう。この二つのショットがつなぎ合わされるように編集されていたと考えてみると、垂直的人物である蜜がいかにして周縁へと侵入可能となったのかが理解できるのではないだろうか。すなわち、彼は水平的に移動することなく編集の技術で森の中へと移動していたのである。
大江の小説では、第3章「森の力」の冒頭で蜜と菜採の2人はバスに乗って村へと続く森の道を走っている様子が描かれているが、シナリオではバスに乗るシーンが省略され、突然森の中へと侵入し、蜜は立ち止まり、菜採はしゃがみこんでいる。「まぶしい陽光」の世界から一瞬にして森林という暗い周縁へ、一歩も動くことなく、あたかもワープしているかのように編集されているのだ。
そして、2人が会話をしている間に、「遠くからジープが走ってくる」(a-8)。水平的人物である鷹が2人を迎えにきたのである。こうして蜜は、鷹の運転する車に乗せられることで、村へと到達する。あくまでも水平的人物の援助がなければ、蜜は水平移動によって周縁にある目的地へと辿り着くことができないのである。
4. 「純粋な表面」という遊戯の規則
本節では、シナリオ分析で浮かび上がった表面という主題について、吉田の過去のフィルモグラフィを参照しつつ議論を展開する。
表面上を自在に移動し、水平的構造を体現する人物である鷹は、シナリオにおいてさらに、小説では描かれることのない運動を刻み込むことになる。それは、シーン23で描かれるフットボールの練習風景である。原作において、鷹四らの率いるフットボール・チームの練習風景は決して直接的に描写されなかった。それは、物語の語り手である蜜三郎が頑なに彼らの練習風景を見に行こうとしなかったからである。しかし、シナリオでは、フットボールの練習風景がp.97直接描き出され、それを蜜が見ている光景が差し込まれる。
23 小学校の運動場
青空にフットボールが高々と舞い上る。鷹の怒鳴る声に追はれて、星男を含めた青年達が一目散にそれを追う。ボールを一人が抱きすくめ、それに全員が群がってもみあう。鷹が呼笛を吹きながら走りより、中に割って入る。蜜が遠く、それを見ている。(b-4)
このように、シナリオでは青空の下でフットボールを行う集団の映像が映し出されるはずだったことが想像できる。このフットボールの練習風景は、吉田の過去のフィルモグラフィにおけるスポーツの主題と深く結びつくだろう。まず最初に思い起こすのは、『エロス+虐殺』に登場する、大杉栄の骨壷をラグビーボールに見立てて蹴り合うシーンである。そこでは、ラグビーのユニフォームを着た1969年の「現在」の選手たちと、着物を着た大正時代の選手たちが、スクラムを組み合い、大杉の骨壷を奪い合っていた。映画の中で過去と現在の人物が最初にぶつかり合うシーンである。シナリオ版『万延元年のフットボール』におけるフットボールの練習が、百年前の一揆の歴史を喚起させる、「想像力の暴動」のための準備であったことを考えると、ここにおいても『エロス+虐殺』と同様の過去と現在の衝突が見て取れるだろう。
かつて蓮實が指摘したように[19]、吉田のフィルモグラフィにはスポーツの主題が多々見受けられる。『甘い夜の果て』(1961年)における自転車競技場、『秋津温泉』(1962年)におけるバレーボールの練習風景、『嵐を呼ぶ十八人』(1963年)における広島球場のプロ野球試合、『日本脱出』(1964年)における市民プールと自転車競技場、ゴルフ場、聖火ランナー、『さらば夏の光』(1968年)における闘牛、そして『エロス+虐殺』におけるラグビーなど、そこにはスポーツする身体の運動が画面に躍動していたといえる。『万延元年のフットボール』におけるフットボールの練習風景もまた、吉田のスポーツの主題の系譜に連なるものであったはずだろう。
そしてこのスポーツの主題こそ、この作品における表面性と深く関わるものであることを見過ごしてはならない。蜜が垂直的人物となって「倉屋敷の二階」に引きこもっていたのとは対照的に、弟の鷹は「小学校の運動場」という表面的な空間を自由に駆け回る。かつて吉田は、過去作でもこうした表面的な空間を駆け回る人物を描いていた。それは『日本脱出』のラストに登場するゴルフ場を駆け回る主人公である。
マチュー・カペルによると、『日本脱出』において世界は表面の世界と深層の世界に二分されているのだという。映画の序盤、緑色の水をした市民プールで主人公の竜夫は、彼のアニキたちによって水の中に強引に沈められ、溺れさせられるシーンがある。バックでは悠長なハワイアン・ミュージックが流れているものの、それとは対照的に、映像では過酷で息苦しい光景が映し出されている。竜夫は水面に顔を上げようとするものの、アニキたちによって再び水中に沈められる。彼は苦しみながら、緑色に濁ったプールの水面と水底を行ったり来たりする。このように、プールの深層に行こうとすれば息苦しくなって表面へと浮かび上がってしまうという構図が、この映画全体にも適用される。彼らは、追ってくる警官から逃れるために自転車競p.98技場の地下室という深層の空間に身を潜めるが、薬物中毒の禁断症状が現れ、つねに息苦しそうにしている。そうしていつのまにか、表面の世界へと浮かび上がってしまうのだが、そこで登場するのが、ゴルフ場のシーンである。映画の後半で竜夫はゴルフ場の中を一人疾走し、大勢の警官から追われてしまうが、カペルはここで映し出されるゴルフ場のことを「純粋な表面」と呼び、主人公は出口のない、深みのない世界に囚われてしまうのだと述べる[20]。
『日本脱出』において、人々は深層へ潜ることができず、表面へと浮かび上がってしまっていたとするならば、『万延元年のフットボール』で描かれる谷間の窪地は、決して深層への下降運動によって到達する空間ではなく、あくまでも水平運動によって到達される表面的空間であることを忘れてはならない。そしてこの村における「純粋な表面」の空間が「小学校の運動場」であることは言うまでもないだろう。吉田喜重におけるスポーツの主題、それはフィルムに「純粋な表面」を召喚させるための遊戯の規則にほかならないのだ。
鷹が自由に動き回ることのできる「純粋な表面」の空間は「小学校の運動場」だけではなかった。シーン31で描かれる、降り積もる雪の上を鷹が全裸で転げ回るシーンもまた、「純粋な表面」と戯れるシーンだといえよう。
31 倉屋敷の二階
小机に蜜がうつぶせになって、うたたねをしている。ドスン、ドスンというような重い音がする。蜜、目を上げて、立上り、窓から外を見る。ふりしきる雪の中に、素裸の鷹が一人、輪を描いて駆けている。やがて鷹は雪に膝をつき、両手で雪をなでまわし、それからうつうつとうめきながら雪の上をころげまわる。雪にまみれて立上り、ゆっくりと戸口の方へ歩く。そこからバスタオルをもった桃子が現れ、鷹をつつみこむ。二人、母屋に入り、板戸が閉まる。(b-18)
鷹は全裸で雪の上を転がり、雪の表面を撫で回し、「純粋な表面」と戯れている。彼は決して地下へ潜ることはなく、表面の上を水平的に転げ回るのである。大江の小説では、このとき鷹四は、ペニスが勃起していたことが強調して描かれている──「僕はかれのペニスが勃起しているのを見た。それは運動選手の上膊部の筋肉が隆起しているのと同じく、ストイックに規制された力そのものと不思議な憐れさを感じさせる。鷹四は力瘤を隠さないように勃起したペニスを隠さなかった」[21]。しかしシナリオではペニスについての記述は一切なく、映像化される際も、彼の股間は映らないように工夫されるはずだったのだろうと考えられる。ここで、ペニスという垂直性を備えた器官は丁寧に隠されているのである。こうして周到にも、鷹の水平的性質は維持され、雪の上を転げ回るシーンは徹底して水平的な構造を保っているのだと考えられる。シナリオ版『万延元年のフットボール』は、吉田が得意とする表面性の導入によって、原作とは異なる構造を描いてみせるのである。
p.995. 攻撃手段としての水平性
そんな水平的人物である鷹が戦いを挑みかける相手が、垂直的人物である兄の蜜であり、同時に「スーパーマーケットの天皇」でもあるのは言うまでもない。本節では、鷹の持つ水平的性質がいかに垂直性を侵犯しているのか分析し、周縁と水平性の関係について議論してゆく。
谷間の窪地に資本主義を導入し、村の中心的役割を持った存在であるスーパーマーケットもまた、垂直的性質を備えていた。正月の休みの間、スーパーマーケットの建物の上には旗が翻っているのである。
遠いスーパーマーケットの建物のうえに、黄と赤の三角旗がひるがえっている。(b-27)
谷間の窪地という周縁の村の中で、中心的な存在感を示しているスーパーマーケットには旗がひるがえっている。この旗は遠い倉屋敷の二階からも見えるということから、おそらく高くそびえる棒に旗がひるがえっていると考えて良いだろう。スーパーマーケットの建物の上には垂直な棒が屹立しているのであり、水平的人物である鷹は、この垂直性に戦いを挑むのである。ではどのようにして垂直性と戦うのであろうか。それは、垂直的なるものを倒し、水平にするのである。次のシーンを読んでみよう。
40 村道
蜜が歩いている。いきなり、家と家との間から、竹竿が何本かガラガラと倒れてくる。立止って見ると、屈強な男が二人、黙々と取組みあい、殴りあっている。二人とも黙って、しらふで、闘っているのである。降りつもった雪だけが、これも音もなく、散る。蜜、茫然とそれを見ている。(b-25)
「竹竿が何本かガラガラと倒れてくる」という描写は原作にはない。垂直に立てかけられた竹竿が「ガラガラ」と倒れることで水平へと近づく。ここでは「屈強な男」が二人黙々と殴り合っているだけだが、ここで初めて垂直的なものへの挑戦を読み取ることができるだろう。
続いて、実際にスーパーマーケットの垂直性へと戦いを挑む姿が描かれているのが、ジンの息子の盗んだゴルフクラブの描写である。
ジンの大きい方の息子が、ピカピカ光るクラブの何本か入ったゴルフバックを、引きずるようにして現れ、蜜と菜採の目にあっておびえたように離れへ走る。(b-31)
スーパーマーケットは正月休みの間、警備を鷹とそのチームに任せ、村の人々に一人一品ずつ商品を無料提供するという、実質的な「略奪」を鷹は企むのであるが、ここでジンの息子はゴルフクラブを盗んできたのである。原作にはゴルフクラブを盗む描写は描かれていない。ジンp.100の息子は、スーパーマーケットからゴルフクラブという垂直性を備えた商品を盗んで、「引きずる」ことで、スーパーマーケットに攻撃をしかける。それを見た蜜は次のようにセリフを発する──「もしかしたら、谷間の何かが、壊されつつあるのかもしれないよ……」(b-31)。このセリフも原作にはない。ここで何が「壊されつつある」のか。それは、スーパーマーケットの持つ垂直性であり、その中心性であり、また作品の終盤になって解体されることになる倉屋敷の垂直性でもあるのだろう。
こうしてシナリオからは、垂直性=中心性に攻撃をしかける水平性という対立を読み取ることができた。ではそもそもなぜ、吉田+別役は鷹の主要な攻撃手段として水平性を導入したのか。それは、吉田にとって周縁がはらむ想像力が、つねに水平的レベルでのみ捉えることが可能となるからにほかならない。
彼は、「周縁がはらむ想像力」というテクストのなかで、メキシコの辺境に居住するインディオであるコーラ族のカーニヴァルを、文化人類学者の山口昌男とともに見に行った体験記を綴っている。そこでは次のような「冥府めぐり」を経験したのだという──
祭りはもう始まっていた。夜の闇にまぎれてすれ違うコーラ族の男たちは、すでに変身していた。異形、異人、妖怪変化、この世の者とは思えぬ眷属一切がまさに百鬼夜行するさまであった。
コヨーテ、山犬、鹿などの動物をかたどった仮面をかぶり、裸体には白黒の骸骨文様を描きだし、さながら幽鬼と化して村を彷徨する[22]。
こうした辺境の地での祝祭空間を、吉田は迷い、苦しみながら過ごしたと回想する。なぜなら、彼は「祭りの全体を見とおすための視点がみつからずに不安、焦燥」[23]しており、つぎつぎと祭りが仕掛けてくる混沌とした暗号や記号を構造的に捉え、それを範型的にコード化することに慣れていなかったからだと語る。そして彼を最も戸惑わせたものの一つが、祭りの仮面であった──「道化役がかぶる猿の面はあまりにも現代的であった。それもハリウッドのサイエンス・フィクション映画『猿の惑星』に使用されたような、精巧にできたゴム製品であった。何故コヨーテや山犬のような伝統的な手づくりの仮面をかぶらないのだろう。ゴム製品の生々しい感触が祭りのイリュージョン、その憑依的な聖性を破壊しかねない」[24]。吉田は、コーラ族の伝統的な仮面のなかに、現代的な猿の仮面が混じっていることに戸惑い、不安に駆られる。それは、祭りを「伝統的/現代的」という通時的な捉え方をしてしまったがゆえの過ちであったと吉田は述懐する。彼は、伝統的なものと現代的なものを「あくまで水平の共時的な構造のレベルで類推してゆかなければ」、祭りを享受することはできないと後になって悟るのである[25]。
そこで吉田が例として挙げているのが、戸井田道三の『能芸論』で語られる金太郎あめの比喩である──「たとえば、金太郎あめを輪切りにして金太郎の顔をその断面に論理的に見るか、たてにうなぎをさくように切って歴史的発展において見るかの二つの見方があるとすれば、わp.101たくしの今こころみようとしているのは、断面に金太郎の顔を見ようという方なのである」[26]。戸井田がここで語っていることは、能を歴史の流れに沿って通時的に縦割りしたのでは、内部がはらむイメージが消えてしまうということであり、吉田はコーラ族の祭りにも同様のことが言えるだろうと指摘する。コーラ族の伝統的な仮面と、それとは対照的な現代の猿の仮面とを、「同じ水平の平等のレベルでとらえたような、強靭な想像力」[27]こそが、「周縁がはらむ想像力」であり、その想像力に身を委ねることで、周縁は中心を侵犯することができる。吉田はこのテクストの中で大江の『同時代ゲーム』を取り上げ、この小説が、周縁としての沖縄を水平的レベルで捉え、縦の垂直軸で「私たち」を繋ぎ止めようとする天皇制という中心を構造的にするどく批判するものであったと語るが、そのとき図式化される水平性と垂直軸の対立は、シナリオ版『万延元年のフットボール』において我々が分析してきた鷹とスーパーマーケットの天皇の対立という図式にそのままあてはまるだろう。縦の垂直軸で人々を繋ぎ止める中心を侵犯するためには、水平のレベルで捉えられた周縁がはらむ想像力による暴動が必要不可欠なのである。だからこそ鷹は、万延元年の一揆と現代のフットボールを共時的な想像力で同一化し、水平のレベルで村の人々を扇動するトリックスターとなり、スーパーマーケットという中心に対して暴動を仕掛ける周縁人となるのだ。
6. 見出された竪穴
吉田は、今までの作品で築き上げてきた表面というスタイル、そしてそれに対して水平的なレベルを利用することで、権力の中心から周縁へと逃走線を引くことを可能にした。しかし、ここで注意しなければならないのは、彼は水平性を利用することで、彼のスタイルである表面というシステムを反復・維持してしまっている点である。なるほど、彼は周縁へと赴くことで光=権力の中心からは逃れられたかもしれない。しかし、彼が真に自己のスタイルから決別し、自己模倣を否定し、新たなる変貌を更新するためには、表面というシステムこそ突き破らねばならないもうひとつの様式であったに違いない。本節では、シナリオのラストに登場する「地下倉」について議論を進めるが、それを吉田の過去のスタイルからの決別として解釈してゆく。
物語の終盤で、水平性の構造は破局を迎えることになる。鷹は村の少女を強姦し殺害したと告白し、フットボールチームのメンバーは手のひらを返したように彼を見捨てることで鷹は孤立してしまう。鷹の告白に対し、蜜が「それは事実じゃない」と反駁するが、なぜか鷹は頑なに自分が罪を犯したことを主張し、自分が不利になる状況へと自己を追い込んでゆく。ここでシナリオにおける鷹の動作をよく読むと、水平的人物であった彼が、なぜか次第に垂直性へと引きずられてゆくように見える。少女の殺害を告白した後、村の人々によるリンチから自分を守るために、鷹は「曽祖さんの弟同様におれは倉屋敷に閉じこもるべきだろう」(c-25)と述べ、彼は蜜が普段寝泊まりしている倉屋敷の二階という垂直的な空間にやってくる。
「倉屋敷に閉じこもるべきだろう」と発するセリフの中には「(銃を支えにして、ゆっくりと立上る)」と書かれており、ここには床に対して垂直に立った銃の姿が想像できるだろう。原作p.102では、「猟銃と霰弾の箱を傷ついていない片手に鷲づかみすると緩慢に立ち上がった。僕はかれが猟銃の重みで倒れればたちまち失神しそうにも衰弱しているのを認めた」[28]とあり、鷹四は決して猟銃を支えにはしておらず、むしろ「猟銃の重みで倒れ」そうになっているが、シナリオでの鷹は猟銃を垂直にすることで倒れるのを防いでいる。彼はここで垂直性を利用し始めるのである。
彼はこれまで水平的人物として村の人々を扇動していたのだが、終盤になって急に垂直性へと引き摺り込まれることによって、村の人々から孤立する。そして彼は猟銃によって凄惨な自死を遂げるが、その場所が、垂直的空間である倉屋敷の二階であるのは言うまでもない。シナリオは原作通りのフィナーレを迎え、小説が一貫して持っていた垂直の構造へと収斂してゆく。
なぜ、鷹は水平性を打ち捨てて垂直性へと吸い込まれるのか。結局鷹の起こした水平性の暴動は、垂直の軸で人々を繋ぎ止めるスーパーマーケットという中心に打ち勝つことができず、敗北に終わってしまう。
その後、シナリオは原作の物語と同じ道を辿って、スーパーマーケットの天皇と五人の若者が倉屋敷を解体しにやってくるが、解体作業中に倉屋敷には地下倉が存在していたことが発覚される。万延元年の一揆の指導者であった曽祖父の弟は、一揆に失敗したのち、この地下倉に自らを幽閉していたという。そこへ、蜜も一人で入り、じっとうずくまるのである。
67 地下倉の中
ほこりをかぶった本や反古の山の中に、蜜がじっと坐っている。(c-35)
原作通り、蜜はこの新たに見出された竪穴のなかで、100年前の曽祖父の弟と垂直のレベルで同一化する。そこは地面よりも低い位置にある空間であり、もはや「純粋な表面」は失われている。このシナリオに一貫して描き出されていた表象システムとしての水平性は、ここで矛盾を来たし、崩壊してしまうのである。
だが、この新たに見出された竪穴こそ、吉田が過去の作品のスタイルから真に決別し、変貌を遂げるために必要な空間であったと言わねばならない。それは、垂直性=中心性の勝利・復活というよりも、過去の吉田作品を支えていた表面というシステムへの挑戦と理解した方がよいだろう。吉田はこの作品で過去作のスタイルである光=権力を乗り越えた先に、表面性をも乗り越えようとしている。過去作からの決別のプロセスは、この作品で2段階的に用意されているのである。
美術批評家であり、吉田喜重の大学時代の親友でもある宮川淳は、かつて背後のない表面の世界について論じていた──
背後のない表面。のみならず、われわれを決して背後まで送りとどけることのない表面。われわれは表面をどこまでも滑ってゆく。横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに? だが決して奥へ、あるいは底へではない[29]。
p.103表面の裏に背後はない。背後に隠蔽された真実ないし超越的なシニフィエなどというものはなく、ただひたすら表面の世界における戯れを見届けること。それが宮川の美術批評であり、かつこれまでの吉田作品を支えていた「純粋な表面」の世界であったはずである。しかし、『万延元年のフットボール』のラストにおいて、吉田は明らかに、「純粋な表面」を突き破り、その奥へと進もうとしているように見える。では、表面の背後に見出された竪穴とは一体どんな空間なのだろうか。
吉田の次回作である『人間の約束』(1986年)には、痴呆になった三國連太郎が、自殺するために先祖の墓の前で穴を掘り、自分を生き埋めにしようとするシーンが映し出されていた(図1)。また、その次の作品である『嵐が丘』(1988年)では、愛する女の遺体の埋められている墓を暴こうとする主人公(松田優作)が映し出されていた(図2)。いずれも、死のイメージに彩られた、禁忌としての背後の世界が描かれている。『戒厳令』のラストにおいても、処刑される北一輝が磔にされた十字架は、なぜか地面よりも低い位置に存在していたことを忘れてはならない(図3)。表面の背後を覗いてみると、そこには死が横たわっているのである。
p.105しかし、吉田にとって表面の背後の世界とは、生存不可能な死のイメージだけではなかった。『美の美』で繰り返し映し出されることになる、扉を開けるイメージ、あるいは窓の奥に広がる風景のイメージもまた、表面の奥の世界だと言うことができるだろう。たとえば、「ルネサンスへの旅立ち フラ・アンジェリコ、その天上の美」では、開け放たれた扉の向こうに《受胎告知》の絵画が飾られており(図4)、ラストのショットでは、扉が開けられてフィレンツェの街を一望する映像が映し出されていた(図5)。また、「ヴァン・ゴッホの自殺 画家はついに故郷に帰れず」では、扉が放たれて家の庭が見えるショットが挿入され(図6)、またゴッホが自殺を遂げた部屋の小窓からは、外の景色が小さく見えていた(図7)。「古代エジプト 遥かな原風景 ピラミッド空間の出現」では、ゆっくりと扉が開けられ、古代エジプトの壁画が飾られてある部屋へと吉田が入り込むショットが映し出されていた(図8)。
p.106『美の美』で映し出されるこうした扉を開ける運動とは、表面の向こう側へと穿たれた奥行きを作り出す効果を生み出す。それは、丹念に絵画の表層を注視しつつも、イメージの奥底へと鑑賞者を運んでゆく演出を作り出しているとも言えよう。そこにはもはや死などない。ただ、豊かなイメージの広がりが待ち構えているだけである。こうした、表面を突き破り、その奥へと向かっていく運動、それこそが空白期の吉田が構想していた新たなる創造性であり、その端緒が『万延元年のフットボール』のラストに見出されるのだと言えるのではないだろうか。『万延元年のフットボール』における地下倉は、曽祖父の弟がそこで暮らし、蜜もまた長い時間そこでじっとうずくまっていることが可能な空間であった。その竪穴には、死のイメージなど存在していない。むしろ、表面上に干上がった水平的暴力から逃れて生き延びるために生成された、空間の襞であると認識した方がよいだろう[30]。吉田は、「日本近代批判3部作」で完成させた光=権力、そして表面の美学からも二重に決別するプロセスとして、『万延元年のフットボール』を構想したと考えることができる。そしてその夢は、ついに実現されることなく流れ、今では映画化の企画があったことさえ忘却されようとしているのである。
むすび
吉田喜重は、1973年に「日本近代批判3部作」の3作目である『戒厳令』を撮り終えると、これ以上作品を作り続けることはできないと諦め、映画制作から離れてしまう。それは、自己模倣し続けることへの嫌悪であると同時に、3部作で描いてきた白い光が臨界点に達し、白い光という権力の中心に自己が絡め取られてしまうことへの危機をも意味していたと考えられる。光=権力という中心から自己を引き剥がし、新たなる創造性を獲得するために、吉田は『美の美』を制作することで、中心から周縁へと想像力の活路を見出す。『万延元年のフットボール』もまた、この思想的背景のもとで企画が進められていたのだろうと考えられる。『万延元年のフットボール』のシナリオを読むと、原作の第1章にあたる部分が削除され、第2章から始まっているのが確認できる。それは、第1章で描かれていた「穴ぼこ」という垂直性の否定に他ならず、シナリオはブラインドの表面性から始まっているのが確認できた。この表面性は、弟の鷹が四国へ行って「新生活」を始めなければならないというセリフを歩きながら語る場面での、ホテルの廊下の表面へと繋がっていく。鷹は表面に対して水平的に移動する水平的人物となって、登場人物たちを森の窪地という周縁へと運ぶのである。一方、主人公の蜜は、「倉屋敷の二階」という垂直的空間に引きこもる垂直的人物に他ならず、彼が森の中へ入る時は、移動することなしに編集によって周縁へとワープするかのような意匠が施されているのが確認できた。鷹の持つ水平性は、「純粋な表面」としての「小学校の運動場」や、降り積もる雪の庭をシナリオに登場させ、そこの上を駆け回る鷹の水平的運動を確認した。この水平性は、垂直的構造を持つスーパーマーケットに対する「暴動」の手段に他ならず、村の人々は垂直的なるものを略奪し破壊することで、村の中心を侵犯しようと試みた。しかし、物語の終盤で鷹は垂直性へと引き摺り込まれてしまうことで、村の人々から孤立し、自死を遂げる。水平性は敗北し、解体p.107された倉屋敷からは地下倉という新たなる垂直性が見出されることになる。そこに蜜は入ってしばらくの間じっとうずくまるのだが、それは表面を突き破ってその奥底へ向かうという、それまでの吉田作品を支えていた表面性への挑戦と理解することができる。こうして吉田は、過去のスタイルから決別し、新たなる自己を生成するための変貌の倫理として『万延元年のフットボール』を構想したと考えられる。
参考文献
大江健三郎『万延元年のフットボール』講談社文芸文庫、1988年。
Capel, Mathieu, Évasion du Japon : Cinéma japonais des années 1960, Les prairies ordinaires, 2015.
葛井欣士郎『遺言 アートシアター新宿文化』河出書房新社、2008年。
現代映画社「万延元年のフットボール」1974年、早稲田大学演劇博物館蔵。
高部遼「白の欲望、白の神話 吉田喜重「日本近代批判3部作」論」修士論文、2019年。
戸井田道三『能芸論』勁草書房、1965年。
蓮實重彥「無時間的体験の演技者」『シネマ70』1970年8月号。
蓮實重彥『大江健三郎論』青土社、1980年。
リンダ・ハッチオン『アダプテーションの理論』片渕悦久・鴨川啓信・武田雅史訳、晃洋書房、2012年。
宮川淳『紙片と眼差とのあいだに』水声社、2002年。
吉田喜重「周縁がはらむ想像力」『叢書 文化の現在4 中心と周縁』岩波書店、1981年。
吉田喜重『メヒコ 歓ばしき隠喩』岩波書店、1984年。
吉田喜重・船橋淳『まだ見ぬ映画言語に向けて』作品社、2020年。
「パッションとしての映画」吉田喜重インタビュー『ユリイカ 総特集・吉田喜重』青土社、2003年。
Notes
-
[1]
葛井欣士郎『遺言 アートシアター新宿文化』河出書房新社、2008年、360頁。
-
[2]
同上。
-
[3]
「パッションとしての映画」吉田喜重インタビュー『ユリイカ 総特集・吉田喜重』青土社、2003年、18頁。
-
[4]
リンダ・ハッチオン『アダプテーションの理論』片渕悦久・鴨川啓信・武田雅史訳、晃洋書房、2012年、25頁。
-
[5]
拙修士論文「白の欲望、白の神話 吉田喜重「日本近代批判3部作」論」2019年。
-
[6]
「パッションとしての映画」前掲書、34-35頁。
-
[7]
吉田喜重・船橋淳『まだ見ぬ映画言語に向けて』作品社、2020年、312頁。
-
[8]
葛井『遺言 アートシアター新宿文化』前傾書、360頁。
-
[9]
蓮實重彥『大江健三郎論』青土社、1980年、138-139頁。
-
[10]
以下、シナリオのテクストを引用する際は、引用の終わりに括弧で該当するページ番号を記載する。
-
[11]
大江健三郎『万延元年のフットボール』講談社文芸文庫、1988年、43頁。
-
[12]
シナリオでは小説と異なり、人物の名前が一部省略されている。以下では、小説とシナリオそれぞれに合わせて登場人物の名前を使い分けることにする。
-
[13]
シナリオではテレビではなく「トランジスターラジオ」を聴いていることになっている。
-
[14]
大江『万延元年のフットボール』前掲書、51-52頁。強調は引用者。
-
[15]
同書、52頁。
-
[16]
同書、58頁。強調は引用者。
-
[17]
同書、59頁。
-
[18]
同書、67頁。原文の強調は削除した。
-
[19]
蓮實重彥「無時間的体験の演技者」『シネマ70』1970年8月号、14-15頁。
-
[20]
Mathieu Capel, Évasion du Japon : Cinéma japonais des années 1960, Les prairies ordinaires, 2015, p.340.
-
[21]
大江『万延元年のフットボール』前掲書、242頁。
-
[22]
吉田喜重「周縁がはらむ想像力」『叢書 文化の現在4 中心と周縁』岩波書店、1981年、228頁。
-
[23]
同書、232頁。
-
[24]
同書、233頁。
-
[25]
同書、238頁。強調は引用者。
-
[26]
戸井田道三『能芸論』勁草書房、1965年、5頁。
-
[27]
吉田「周縁がはらむ想像力」前掲書、249頁。強調は引用者。
-
[28]
大江『万延元年のフットボール』前掲書、383頁。
-
[29]
宮川淳『紙片と眼差とのあいだに』水声社、2002年、15頁。
-
[30]
空間の襞が作り出す、「すきま」や「奥行き」について吉田はさらに『メヒコ 歓ばしき隠喩』における「見えがくれする湖テスココ」の章で考察を深めている。吉田喜重『メヒコ 歓ばしき隠喩』岩波書店、1984年、86-117頁を参照。
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高部遼「水平性の暴動──吉田喜重監督、別役実脚本未映画化シナリオ『万延元年のフットボール』を分析する」『Phantastopia』第2号、2023年、88-111ページ、URL : https://phantastopia.com/2/the-uprising-of-horizontality/。(2024年10月06日閲覧)