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論文

声にあらわれるアイデンティティの葛藤はっぴいえんど「はいからはくち」を例に

石川愛

p.141はじめに

日本のポピュラー音楽文化にとって、1960年代後半は大きな転換点であったと位置づけられている[1]。この時期に起こったとりわけ重要な動きは、当時英米で流行していたロックを自らの手で生み出そうとする音楽家たちによって「ニューロック」と呼ばれるジャンルが形成され、日本にロックが本格的に導入され始めたことである。そして、この時期の日本へのロック導入にあたって重要な役割を果たしたバンドとして知られているのが、はっぴいえんどである。

ニューロックの形成には雑誌メディアの与える影響が大きく、『ニューミュージック・マガジン』を中心とした雑誌上で「日本語ロック論争」なる議論が繰り広げられた。この論争は、歌詞の言語選択をめぐって英語詞派の内田裕也らと日本語詞派のはっぴいえんどが対立したものとされているが、実際には「メッセージ性/サウンド重視、ローカリズム/普遍主義、商業主義/対抗文化」[2]という複数の問題系を内包し、「日本にロックをどのように導入すべきか」をめぐって争われたのであった。

はっぴいえんどは、1970年前後の日本のポピュラー音楽状況において規範的とされていた価値観やスタイルを拒否ないし否定することで自らの音楽の真正性を確立してきたとされている。はっぴいえんどは、歌謡曲的なラブソングを歌うことを拒否すると同時に、フォークがもつアメリカ文化に対する否定のイデオロギーを否定しようとしており[3]、これらは当時の日本のポピュラー音楽において主流だったジャンルの拒否を示すものであった。さらにニューロックの担い手の間においても、はっぴいえんどが日本語でのロックを選択したことは、英語詞派にとっては彼らが最も重要視していたロックの「反商業主義的な対抗文化」の側面の拒否であるように思われた[4]。このような拒否や否定の姿勢は、はっぴいえんどを「日本のロックの始祖」とみなす言説[5]の後ろ盾となってきたのである。

これまではっぴいえんどの楽曲について論じる際には、上記のような論争を巻き起こした日本語のテクストとサウンドの関係にもっぱら注目が集められてきた。音楽社会学者の小川博司は、はっぴいえんどの楽曲には、n音の多用などによる音節数の減少や、意味のまとまりや標準的アクセントからの解放など、日本語の歌詞をどうやって洋楽のリズムに乗せるかという課題を克服するための工夫が施されていると指摘している[6]。テクストとサウンドの格闘は、はっぴいえんどが日本とは明確に異なる文化圏で生まれてきたロックのもつグルーヴを身体化するために避けて通ることのできない課題であった[7]。しかし、はっぴいえんどの「歌声」という要素は、楽曲に直結しているにもかかわらず、日本におけるロックの身体化を考える際の観p.142点としてあまり論じられてこなかった。先行研究によれば、「声は我々の個人的な、かつまた我々の社会的な身体の痕跡であり、ある個人の特異性のインデックスであると同時にその文化の特異性の指標でもある」[8]とされている。声がこのような特性をもつならば、はっぴいえんどの歌声は、たとえ英語で歌うのであれ日本語で歌うのであれ、ロックを生み出した「英語圏の白人男性」の文化的アイデンティティからはどうしても逸脱する何かをあらわすことになる。1970年前後という時期にはっぴいえんどはどのようにして自らとロックを接続しようとしたのか、そしてロックの身体化によって個人の内部で異文化としてのロックを経験する過程を通じて「日本のロック」の真正性をどのように確立しようとしたのかを考えるうえで、異文化としてのロックに対してそこから逸脱せざるを得ないはっぴいえんどの「歌声」は重要な観点となるだろう。本稿は、はっぴいえんどの歌声、あるいは歌声と歌詞の関係に着目し、1970年前後の日本のポピュラー音楽状況のなかで、また当時の日本に大きな影響を与えていたアメリカのロックに対して、はっぴいえんどの音楽はどのようにして真正性を確立しようとしたのかを美学的な観点から論じるものである。

第1節では、アメリカのロックがいかにして日本に導入されたかをたどり、はっぴいえんどにとってアメリカのロックと日本のロックはどのような関係にあったのかを探る。第2節以降では、「アメリカと日本」という対立に関するはっぴいえんどの自意識がよくあらわれている楽曲「はいからはくち」を取り上げ、その歌声に着目して分析を行う。「はいからはくち」は、「12月の雨の日」とともにはっぴいえんどの1枚目のシングルとして1971年に発表され、彼らの代表曲のひとつとなっている。この楽曲は3度スタジオレコーディングされており[9]、それぞれシングル版、1971年発表のセカンドアルバム『風街ろまん』収録版、1973年発表のベストアルバム『CITY』収録版として聴くことができる[10]。本稿では、3つのスタジオレコーディング音源を分析の対象とし、とりわけ多彩なパーカッションを用いて他のスタジオレコーディング音源とは一線を画したアレンジとなっている『風街ろまん』収録版を中心に扱っていく。第2節では、歌謡曲やフォークの歌声の特徴との比較を通じて、「はいからはくち」のヴォーカルである大瀧詠一の歌声の特徴を明らかにする。第3節では、「はいからはくち」の歌詞テクストを分析したうえで、歌詞にあらわれている主題と大瀧の歌声がどのように関連しているかを検討する。

1 「アメリカのロック」対「日本のロック」

1970年前後における日本へのロックの導入は、英米のロック文化状況の変遷に強い影響を受けながら進んでいった。とりわけはっぴいえんどがサウンド面で参照したのは、バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレープといったアメリカのフォーク・ロックであった[11]。本節では、ロックンロールの誕生から日本へアメリカのロックが導入されるまでの過程を概観し、1970年前後に日本でロックを始めようとした若者、とりわけ日本語でロックを歌うことにこだわったはっぴいえんどにとって「アメリカのロック」とはどのような存在だったのかにつp.143いて確認しておきたい。

1950年代にアメリカで誕生したロックンロールは、黒人のR&B(リズム&ブルース)を源流としつつ白人のC&W(カントリー&ウエスタン)を混ぜ合わせることで生まれた[12]。ロックンロール人気を不動のものとしたエルヴィス・プレスリーの楽曲や扇情的なパフォーマンスは「黒人文化への共感や性的解放のエネルギー」[13]を白人の若者たちに伝えるものであったが、それはあくまで黒人の音楽を白人が模倣・変形することによって生み出されたものであり、それを受容していたのもまた白人が中心であった。しかし、1950年代末には、親世代の大人たちによる激しいロックンロール批判とスター歌手の喪失などが重なって、ロックンロールはよりポップスに近いかたちへと変化して勢いを失っていく[14]。R&BとC&Wをかけ合わせて生まれたロックンロールは、黒人の音楽文化がそなえていた人種差別や労働者階級支配に対する反抗の側面を、大人に対する若者の反抗という性質に変形し、これをロックンロールの根源的な性質としていった。

1960年代に入り、ロックンロールに代わってブームとなっていたのは、戦後のベビーブーム期に生まれ成長した大学生を担い手としたフォークだった。このフォーク・ブームは、1930年代から1940年代にかけて起こったモダン・フォーク・ソング・ブームのリバイバルとして起こった。リバイバルの過程で多くの黒人シンガーの音楽に注目が集まったものの、中心的な担い手となったのはやはり白人であった[15]。つまり、ロックンロールと同様にフォークにおいても、黒人による伝統的な民族音楽が白人によって模倣・変形され、展開されていくという過程を辿ったのだ。このフォーク・リバイバルのなかで最も注目された歌い手はボブ・ディランであった。ディランは公民権運動に参加しながら、現在でもプロテスト・ソングとして歌い継がれる「風に吹かれて」を1963年に発表し、公民権運動とフォークの連携を象徴するプロテスト・シンガーの代表的な存在とみなされるようになっていく[16]。しかし、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルに登場したディランは、バックバンドを引き連れたロックンロールのスタイルで自身の楽曲を披露した。この出来事をきっかけにフォークとロックンロールが交差し、「フォーク・ロック」と呼ばれるスタイルが発展していく[17]

文学の技法を用いて歌詞における表現の可能性を大きく広げたディランの影響[18]を受けて音楽的にだけではなく政治的、文学的、哲学的に深みを増した音楽は、ロックンロールから区別されて「ロック」と呼ばれるようになった[19]。ロックは、ヒッピーに代表される1960年代後半の若者による対抗文化と強く結びつき、この対抗文化のイデオロギーはロックの真正性を判断する基準となってきた[20]。しかし一方で、黒人などのマイノリティたちはヒッピーの思い描くユートピア的なコミュニティを戯言として冷淡に見つめていた[21]。つまり、1960年代のフォーク・リバイバルからフォーク・ロック、そして対抗文化としてのロックへと展開する過程においても、その中心的な担い手かつ受容層であったのは白人の中産階級の若者であったのだ。1969年には対抗文化としてのロックを象徴するウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェスティバルが開催された[22]が、奇しくも同年にドアーズのジム・モリソンが「ロックの死」を宣言したことは、商業的な理由での人気バンドの解散やロック・スターの薬物中毒死などにp.144端を発するロック・コミュニティの幻想の崩壊を予告する出来事だったとされている[23]

このようなアメリカのロック文化の状況に対して、戦後日本のポピュラー音楽はつぶさに反応していた。プレスリーの流行を受けて1950年代後半にはロカビリー・ブームが起こり、1962年にベンチャーズが来日するとエレキ・ブーム、1966年にイギリスからビートルズが来日するとGS(グループ・サウンズ)ブームが起こった[24]。ロカビリー・ブームの時期には洋楽のヒット曲に日本語詞をつけて歌うカヴァーが流行したものの、1音符1音節という日本の歌謡曲の原則のために洋楽のリズムがしばしば犠牲にされた[25]。また、GSの流行にはテレビが大きな役割を果たしたが、その結果歌い手のアイドル的な側面の重視が強まり、音楽性は二の次となって1968年後半には勢いを失っていった[26]。ロカビリー・ブームからGSブームにかけて楽曲制作を担っていたのは歌謡曲を作るプロの作詞家・作曲家であり[27]、1950年代後半から1960年代にかけての日本のロック受容は、あくまでも従来の歌謡曲──この頃の歌謡曲はすでに多様な音楽ジャンルの影響を取り込んでいたが──にロック的な要素も取り入れられる、あるいはロックが多分に歌謡曲化されて市場に供給されるかたちで進んだ。

日本の最初期のロック導入は既存の音楽産業体制を変革するような性質をもってはいなかったが、同時期に起こったキャンパス・フォークのブームと相まって多くのアマチュア・ミュージシャンを生み出した[28]。キャンパス・フォークは1960年代初頭に始まり、大学のアマチュアサークルが主にアメリカのフォークソングをコピーして活動していた。こうした多くのアマチュア・ミュージシャンの誕生により、市場の都合を最優先とする文化産業には与しないミュージシャンの活動が活発になっていく[29]。1960年代半ば以降には、政治的・社会的な問題に関する異議申し立てを歌うプロテストフォークが支持を得るようになった。とりわけ関西では、ベトナム反戦運動や学生運動などと強く結びついてアンダーグラウンドに活動する「関西フォーク」と呼ばれる動きが登場し、岡林信康のような「フォークの神様」と称されるスターを生み出した[30]。フォークは商業主義的な歌謡曲を否定し、日常の問題を本音で率直に歌うことに真正性を見出して若者の支持を集めた。そして、歌謡曲/フォークの二極化が明確になるなかで、はっぴいえんどのようにそのどちらにも属さない「ニューロック」と呼ばれる存在が登場する[31]。当時のニューロックは主にイギリスのブルースロックやハードロックに影響を受けていた[32]が、はっぴいえんどが志向したのは先述のとおりアメリカのフォーク・ロックバンドであった。はっぴいえんどは1970年に岡林のバックバンドを務めたことをきっかけに注目され[33] 、このことは日本におけるフォークとロックの交差を象徴する出来事となった。しかし、アメリカではディランがフォーク・ロックの出発点となったが、日本では岡林ではなくむしろはっぴいえんどがフォーク・ロックを先導していく。ニューロックが起こり始めたとされる1969年前後はアメリカでウッドストックが開催された時期であり、日本で本格的なロックが始まったときアメリカではすでにロック・コミュニティの幻想が崩壊へと向かい始めていた。

1960年代に急増したアマチュア・ミュージシャンたちがフォークとロックに分かれていったのには、単なる音楽的な嗜好の違いだけでなく、当時の日本で「ロックを始める」ことの特権性に関係があったと考えられる。フォークの場合、アコースティックギターは持ち運び可能で、p.145中古であれば比較的安価に手に入れることができた。対して、ロックを始めようと思うとエレキギター、アンプ、ドラムを揃えなければならず、金銭的な負担が大きいうえに、持ち運びをするとなると車も必要となる[34]。つまり、1960年代に日本でロックを始めるためには経済的な余裕がなければならなかった。加えて、地理的な特権に恵まれていることもロックを始めるためには欠かせなかった。当時、海外のロックに直接アクセスできるメディアが限られているなかで大きな役割を果たしたのはラジオの深夜放送やFEN[35]であった。FENはアメリカ軍基地向けのラジオ放送であるから、「東京近郊、沖縄、岩国、三沢、佐世保など受信できる地域は限定されていた」[36]。これらの周辺地域に暮らしていることは、最先端のロックに直接触れる機会を多く獲得するために欠かすことのできない要素であった。

はっぴいえんどのメンバーは、これらの経済的特権と地理的特権の両方を享受できる境遇にあったといえる。細野晴臣は東京都港区白金に生まれ、蓄音機やレコード、楽器に囲まれた環境で育っている。松本隆は東京都港区青山に生まれ、高級官僚の父をもつ。鈴木茂は東京都世田谷区に生まれ、中学の頃にはギタリストになることを考えていたというほど恵まれた音楽環境のもとで育っている[37]。大瀧だけが唯一地方である岩手県の出身で母子家庭に育っているが、中学の頃に「プレスリーのシングルすべてと主なLPを揃え、それらの作品を作曲家別に分類していた」[38]ことから、比較的裕福な家庭であったといえるだろう。また、岩手であれば三沢基地からのFENにアクセスすることも可能であったと考えられる。はっぴいえんどが当時の日本でロックを始めるための前提となった経済的・地理的特権は、ロックが「純粋芸術」であるために社会への無関心を貫くという彼らの姿勢[39]の背景にもなっている。

先述したとおり、ロックの真正性の基準となる対抗文化性は、ロックンロール形成時に黒人音楽がもっていた人種差別や階級差別に対する反抗の性質が白人の若者による大人に対する反抗へと変形され、さらにロックへと発展するなかで社会的・政治的な反抗という対抗文化のイデオロギーを鮮明に自覚するようになることで確立されてきた。しかし、日本で本格的にロックが始められようとする時期、すでにアメリカではロックの対抗文化性の核心をなすロック・コミュニティの幻想が崩壊し始めていた。1970年代に入ってから細野と鈴木は「狭山アメリカ村」[40]へ、大瀧は福生・瑞穂地域の米軍ハウスに移住するが、彼らはそこでの生活にアメリカのロック文化の真正性を求めながらも、自らが身を置く米軍ハウスの共同体がフィクショナルなものであることを自覚していた[41]。これは、彼らが米軍ハウスに暮らしながら米兵との直接的な交流の機会をもっていなかったから[42]だけではなく、ロック文化の真正性の基準となるロック・コミュニティの幻想が崩壊しつつあるアメリカの状況に基づく意識があったからだろう。つまり、はっぴいえんどはアメリカのロックに憧れながらも、その対抗文化性の核心をなすロック・コミュニティに関しては懐疑的であり、当時の日本においてロックを始めるための特権に恵まれた彼らのロックは、純粋な意味での対抗文化とはなり得なかった。

日本でのロックの導入は、従来の歌謡曲のなかにロックの要素が取り込まれたものが流行することから始まっており、ニューロックのミュージシャンにとって「ロック的な歌謡曲」とは異なる真正性を見出すことは重要な課題であった。なおかつ、フォーク・ミュージシャンが日p.146常生活や社会問題に関するメッセージを歌う誠実さに見出した真正性とも異なる真正性を求めることも必要だった。しかしそれと同時に、「アメリカのロック」もまた、はっぴいえんどがロックを始めるにあたって対抗しなければならない存在であった。当時の日本にとって、アメリカ由来のロックは一種の「植民地文化」とさえいえる状況であったのである[43]。日本人にとって音楽的な刺激を提供してくれるアメリカのロックは、アメリカでロックンロールの源流となった黒人文化のような「支配されてきた人々の文化」ではなく、むしろ戦後の日本を「支配してきた文化」だった。そのようなアメリカ文化に対して、白人の若者たちが主導したロックンロールからロックへの発展の過程と同じ道筋を辿って「日本のロック」を作り出すことは不可能だっただろう。つまり、はっぴいえんどのロックが目指さなければならなかったのは、音楽的な刺激を与えてくれるアメリカのロックを源流としつつも、アメリカのロック文化の真正性の基準となる対抗文化性を支えるロック・コミュニティと一体化するのではなく、なおかつアメリカでのロックンロールの形成からロックへの発展が辿ったのとは異なる仕方で、「日本のロック」の真正性を確立することだった。

2 スター性をあらわさない声

ここからは、「アメリカと日本」という対立に関するはっぴいえんどの自意識がよくあらわれた楽曲「はいからはくち」を取り上げ、ヴォーカルを務める大瀧の歌声の特徴に焦点を当てて議論を進めていく。「はいからはくち」のサウンドは、1960年代後半に活躍したアメリカのフォーク・ロックバンド、モビー・グレープの「オマハ」(1967)から強い影響を受けている。特にシングル版と『CITY』収録版は、全体の音色やギターのバッキングを多用したアレンジ、ヴォーカルの重ね方など「オマハ」の影響の大きさを感じさせる部分が多い。一方で『風街ろまん』収録版では、楽曲冒頭のお囃子や、ギロ、チャイム、クラベス、カウベル、コンガといった多彩な打楽器を用いており、アメリカ的なバンドサウンドにとどまらない異文化混交の様相をなしている。

さっそく、「はいからはくち」でヴォーカルを務める大瀧の声に注目していこう。まず、イントロ後に「はいから」と繰り返し歌われる部分では、メインヴォーカルの大瀧の声に加えて、コーラスの細野、鈴木の声が重ねられている。1番ヴァースに入ると、大瀧の声は、「ぼくははいから」では右耳側から、「きみははいから」では反対に左耳側から聞こえる。一方2番では、「ぼくははいから」の部分は左耳側から聞こえ、「きみははいから」は右耳側から聞こえてくる。そして「ぼくは|ぼくははいからはくち」になると両側から声が響き、細野や鈴木のコーラスとの声の重なりも強調される。また、「ぼくははいか」「賑やかな都市を飾る おみえし」「ぼくは|ぼくははいからくち」の傍点で示した部分では、大瀧のしゃがれた声を聞き取ることができる。しかし、ヴォーカルの聞こえ方の変化が登場人物やその立場の変化などをあらわしているわけではなく、細野や鈴木のコーラスが大瀧のヴォーカルに重ねられる部分でも、3者の声はひとつの共同体となるというよりはむしろ異質なもの同士のままにとどまっている。コp.147ーラスの2人の声はメインヴォーカルの声とほとんど同じヴォリュームで聞こえるために、メインヴォーカルの声がコーラスの声に対して明確な優位性をもつことはない。さらに「ぼくは|ぼくははいから は は はくち」の部分では、「は」の音を3者が順番に発声して重ねていくことによって、かえって3者の声質の違いが強調されるようになっている。

ポップミュージック[44]論者のディーデリクセンによれば、ポップミュージックにおいて「アイデンティフィケーション可能な個人の声」[45]は何よりも重要であり、ある楽曲がその歌い手に属するものであるという考え方は現在も広く受け入れられている[46]。そして、声の身体性、すなわち「声のきめ」こそがスターの真実性を証明するものと考えられ[47]、声が歌い手のスター性を構築するうえで重要な役割を果たしてきた。ベンヤミンが論じたように複製技術によって生産された芸術品においてアウラが喪失したことによって、そこで失われたものを補う存在として、芸術品とその受容に謎として取り憑く「個人」とその身体性が注目されるようになった[48]。つまり、ポップミュージックにおける声は、楽曲やパフォーマンスの単なる一要素であるという以上に、聴き手によって受容され、歌い手のスター性が構築される過程で極めて重要な役割を果たしているのである。

では、はっぴいえんどが活動した1970年前後の日本のポピュラー音楽状況において、歌声と歌い手のスター性はどのように関係し合っていたのだろうか。この頃、幅広い人気を得ていた音楽ジャンルは歌謡曲であった。戦後のレコード産業やマスメディアの発展と強く結びつきながら進展してきた歌謡曲の歌い手にとって、テレビなどによる視覚イメージが歌い手のスター性を構築するための重要な要素となっていた[49]。視覚イメージと歌い手のスター性が強固に結びついた「歌手第一主義」は1950年代初頭には完全に普及しており、たとえばその時期に登場した美空ひばりは、浪花節、民謡、ジャズなど幅広いジャンルの歌唱に精通していた[50]。すなわち、この時期の歌謡曲においては「訓練された美声」であることもまた歌い手のスターとしての価値であったといえる。さらに、歌謡曲とりわけ演歌においては、演者自身のジェンダーとは異なるジェンダーの登場人物の気持ちを歌うジェンダー交差歌唱[51]が比較的頻繁に実践されてきた。歌唱パフォーマンスを行う際、その主体となる自己は「(1)個人(person)—(2)演者(performer)—(3)登場人物(あるいは役柄 character)の少なくとも三層に重層化」[52]されると考えられている。日本のポピュラー音楽ではこの三層のペルソナはそれぞれ分離したものであるととらえられ、男女二元論という保守的な価値観を前提としたうえでのジェンダー交差歌唱が比較的容易に受け入れられてきた[53]。歌謡曲でのこのような現象は、演者のペルソナは歌い手個人のペルソナにある程度依拠しているものの歌い手というパフォーマーの存在を認識するうえで個人のペルソナよりも演者としてのペルソナが重要視されていたことと、演者のペルソナと歌詞の登場人物との間での一貫性がそれほど求められていなかったことを示している。

1960年代から1970年代にかけて流行したもうひとつの音楽ジャンルはフォークだった。1960年代後半に支持を得るようになったプロテストフォークにおいてとりわけ重視されたのは、「個人—演者—登場人物」が一貫性を有していることであった。一方で、自身の生活や社会問題について平易で日常的な言葉を用いて歌うとき、歌謡曲の歌い手が有していたような「美声」はp.148必要とされていなかった。むしろ、ぎこちなく「訓練されてなさ」を示す声の特徴こそが歌い手固有の真正性をあらわすものとして機能し[54]、聴き手はそのような特徴にこそ歌い手のスター性を見出すようになる。また、関西フォークは独自の音楽雑誌や自主制作レコードの通信販売組織をもち、ラジオの深夜放送が関西フォークの広がりを促していた[55]。つまりフォークは、メディアとの関係においても、テレビによる視覚イメージが歌い手のスター性の構築に寄与した歌謡曲の場合とは異なる状況にあった。

歌謡曲やフォークとの比較を通じて、はっぴいえんどの歌声の特徴はどのようにとらえられるだろうか。「はいからはくち」における大瀧のしゃがれた声のように、はっぴいえんどの歌声は訓練されていないぎこちなさを感じさせ、決して「美声」とは言えないという点で、歌謡曲のスターにおける歌声とは明らかに異なっている。ぎこちなさをそなえた声質という点では、はっぴいえんどの声質とフォークの声質に決定的な違いはないといえるだろう。しかし、はっぴいえんどの場合には、歌声のぎこちなさが歌い手の真正性をあらわすものとしては機能していない。フォークの歌唱パフォーマンスにおいては「個人—演者—登場人物」の一貫性が重要な条件となっており、「登場人物」として歌う声にあらわれたぎこちなさが歌い手「個人」の真正性へと直結していた。一方で、はっぴいえんどにおいてはこの「個人—演者—登場人物」の一貫性が希薄になる場合が多い。「はいからはくち」でヴォーカルを務めているのが作詞を担当した松本ではなく作曲を担当した大瀧であるように、はっぴいえんどのたいていの楽曲では歌い手と作詞者が一致しておらず、作詞する個人のペルソナと歌う演者のペルソナの一致が生じることは少なかった。さらに、松本の詞に登場する「ぼく」は、心情描写が少ないために人物像を構築しづらく、作詞者あるいは歌い手と登場人物の共通性を見出せるような手がかりもほとんど見つけられない。したがって、はっぴいえんどの歌唱パフォーマンスにおいて「個人—演者—登場人物」の一貫性は認められず、統一的な存在としての「ぼく」の実体は希薄なものとなる。

演劇学者フィッシャー=リヒテによれば、1960年代以降の演劇およびパフォーマンス芸術は、脱身体化を通じてテクストに表現された意味を担う記号的な「身体を持つこと」と、パフォーマー個人の身体性が強調されて現象的に知覚される「身体であること」の二重性が根底に置かれている[56]。フィッシャー=リヒテの言う現象的身体とは、いかなる記号的な意味も含まない、あるいはあらゆる記号的な意味の前提となるような、世界内存在としての身体である[57]。この議論は、ポップミュージックにおける歌唱の主体となる個人/演者/登場人物という三層の自己に対して、そのような複数の次元における記号的身体の前提となる身体が存在することを示唆している。はっぴいえんどの歌唱に特徴的なのは、歌声がそこに存在している個々の身体の痕跡をあらわしている一方で、その歌唱における個人/演者/登場人物という三層それぞれの自己の実体をとらえることが困難であるということだ。はっぴいえんどでは楽曲の作曲者がメインヴォーカルを務める場合がほとんどであり、特定のメンバーがメインヴォーカルを務めると決まっていたわけではなく、歌唱パフォーマンスの主体としての「演者」のペルソナはひとつに定まりにくい状況にあった。テクストにおいては、登場人物の具体的な心情を描かず情景p.149描写を中心に構成することで、聴き手が明確な「登場人物」像を描くことを困難にしている。そして、「はいからはくち」のヴァースのように左右から交互にヴォーカルの声が聞こえてくることや、メインヴォーカルの声とコーラスの声が異質な存在のままに重ねられることなどといった特徴は、その歌声があらわす個々の身体の存在に対して特定の「個人」という記号を読み込むことを妨げている。したがって、はっぴいえんどの歌唱パフォーマンスにおいて、歌声によってその存在を示唆される身体を、個人/演者/登場人物といった記号を意味する身体として理解することは非常に難しく、このことによっても「ぼく」と歌う記号的主体の実体は希薄になる。はっぴいえんどの歌声が示しているのは、「ぼく」というかたちで記号化される前の現象的身体の痕跡なのである。

「はいからはくち」の大瀧の声のように、はっぴいえんどの歌声は歌い手や歌詞の登場人物の強烈な個性を示すものとしては機能せず、スター性をあらわさないことが最も重要な特性となっている。そのような声の特性を生み出しているのは、「個人—演者—登場人物」の一貫性の欠如や、歌声が示す現象的身体に対して個人/演者/登場人物といった記号を読み込むことの困難さによる「ぼく」の実体の希薄さであり、これは歌声と歌詞の関連のなかで生じてくるものであるといえる。次節では、「はいからはくち」の歌詞を分析することからはじめて、はっぴいえんどの声の特性についてさらに考察を深めていく。

3 真正性内面化の挫折

「はいからはくち」の歌詞における最も明白な特徴は、ダブルミーニングの使用である。タイトルの「はいからはくち」は、西洋風で目新しいものや、西洋風や都会風を気取る人やその様子を意味する言葉として明治時代に用いられるようになった「ハイカラ high collar」と重度の知的障害を表す「白痴」を組み合わせた語であると同時に、「肺から吐く血」という意味ももちうる言葉である。この楽曲のなかで「はいから」と歌われるとき、基本的には「ハイカラ」と「肺から」の両方が含意されていると考えられるが、「きみははいから裳裾をからげ|賑やかな都市を飾る 女郎花」「きみははいから唐紅の|蜜柑色したひっぴーみたい」のように、「きみ」に関して「はいから」という語を用いるときには「きみ」が流行を追うさまが描かれ、「ハイカラ」の意味合いが強くあらわれている。一方で「ぼくははいから血塗れの空を」「ぼくははいから 血を吐きながら」のように、「ぼく」について述べるときの「はいから」は必ず「血」のモチーフをともなっており、それゆえに「肺から」の意味合いを強く感じさせる。さらに、「きみの のおにただ夕まぐれ」という部分の「のお」を、否定の “NO” であると同時に「脳」を意味するダブルミーニングであると考えるならば、「はいからはくち」の歌詞は「肺」「血」「脳」といった内臓のモチーフが繰り返されるという特徴をもっているといえる。

また、「はいからはくち」の歌詞におけるもうひとつの大きな特徴は、アメリカ文化に対する距離の取り方である。「ぼくははいから血塗れの空を|玩ぶきみと こかこおらを飲んでいる」ではアメリカ文化を象徴する飲料としてコカ・コーラが登場しており、「きみははいから唐紅のp.150|蜜柑色したひっぴーみたい」では「きみ」が1960年代後半のアメリカの対抗文化運動を担ったヒッピーのようだと歌っている。両者に共通しているのは「こかこおら」「ひっぴー」とひらがなで記されていることであり、外国語や外来語を日本語として表記する際にカタカナではなくひらがなを用いる手法は、はっぴいえんどにしばしばみられるものである。この表記方法は、日本語を意味から疎外されたマテリアルとして機能させる効果をもっている[58]。アメリカ文化に関する語をあえてひらがなで表記することは、日本という国の伝統やアイデンティティと日本語の自明とされてきた結びつきに疑問を投げかけ[59]、それと同時にアメリカ文化の絶対的な真正性を突き崩そうとしていることのあらわれとして考えられる。近代日本文学研究者であるボーダッシュによれば、一般的な話し言葉とは一致しないアクセントで歌うことや、たいして意味をもたない音節が過剰に引き延ばされる箇所──「はいからはくち」において例をあげるとすれば「こかこおらを飲んでいる」の「ん」を引き延ばしている部分──なども、はっぴいえんどが「歌詞の言語が、国家的な共同体と結びついた透明なメディウムとしてではなく、不透明な物質性の形式として機能する」ことを志向した例であり[60]、この点ではっぴいえんどはアメリカの文化的帝国主義に対抗するものとしての日本固有の文化を要求するフォーク[61]と異なっている。さらに、「蜜柑色したひっぴー」というフレーズが黄色人種である日本人がアメリカのヒッピーのように振る舞うことを指していると考えられることや、「こかこおらを飲んで」体内に取り入れていることから、「ぼく」あるいは「きみ」がアメリカ文化を内面化しようとしていることが読み取れる。つまり、「こかこおら」「ひっぴー」という表記は、アメリカ文化に対する批判であると同時に、アメリカ文化を内面化する日本人に対する批判的な視線もあらわしている。

ここで、タイトルの「はいからはくち」について改めて考えてみたい。「ハイカラ白痴」という語の組み合わせからは、アメリカ文化への接近・憧憬がありつつもそれに対して軽蔑の念が向けられていることが読み取れる。さらに、とりわけ「ぼくははいから」と歌う部分では「肺から吐く血」の意味が重ねられ、「ハイカラ」を内面化した「ぼく」が内側から蝕まれていく様子が描き出されている。つまり、タイトルの「はいからはくち」もまた、アメリカ文化に対する批判であると同時に、それを内面化した日本人である「ぼく」自身をも批判しているのだ。大瀧は、「はいからはくち」に取り組む過程で、当時の西洋崇拝の風潮に対する皮肉を主題とした松本の詞に、自身の諧謔精神をふんだんに盛り込んだことを語っている。とりわけ楽曲冒頭の「High collar is beautiful」という語りは、当時話題になったCM「フジカラー・イズ・ビューティフル」のパロディとなっている[62]。CMをもとにした諧謔は、「ハイカラ」という日本の西洋化を指す明治30年代の流行語を1970年前後のアメリカ的資本主義の強い影響を受ける日本の商業状況へと接続し、「はいからはくち」というフレーズを1970年前後の日本におけるアメリカ文化の浸透に対する皮肉として機能させるための一助となっている。

このように、「はいからはくち」の歌詞テクストにおいては、アメリカ文化の真正性に対する憧憬と、無批判なアメリカ化への冷笑という二重化された態度が描き出されている。アメリカ文化のヘゲモニーを否定し、日本固有の文化や対抗文化的なメッセージを日本語で伝えることp.151を重要視していたフォークとは異なり、はっぴいえんどのテクストは日本語と国家的なアイデンティティの結びつきを意図的に解体しようとする試みを含んでいた。そのうえで、はっぴいえんどのテクストは、アメリカ文化への抵抗として振る舞うのではなく、アメリカ文化への憧れを抱いていることをはっきりと表明している。一方で、無批判なアメリカ化への冷笑的視線は、戦後の日本における「現在というトラウマ」[63]に対応するために、自らの楽曲がアメリカ文化の勝利をしるしづけるものとして語られることを拒否するというはっぴいえんどの戦略[64]のあらわれともいえる。しかし、「はいからはくち」のテクストにおいて特に重要なのは、アメリカ文化を内面化しようとして内側から蝕まれる様子が、「肺」「血」「脳」といった内臓のモチーフの繰り返しによって示されていたことである。アメリカ文化を内面化する自分自身への批判とその内面化による自己の浸蝕・破壊は、アメリカ文化否定というフォーク的イデオロギーの否定やアメリカ文化に対する無批判な同一化の拒否にとどまらず、二重化された態度のなかで試みつつあったアメリカ文化の内面化が「挫折」してしまったことを意味していると解釈できる。はっぴいえんどのテクストがもつ決定的な特徴は、アメリカ文化に対する二重化された態度や当時の主流派の音楽がもつイデオロギーの拒否というよりもむしろ、真正性の象徴としてのアメリカ文化を内面化しようとして「挫折」したという身振りにあるのではないだろうか。

ここで、コーラスのクライマックスにあたる「ぼくははいからくち」の傍点部分の大瀧の声に注目してみたい。モビー・グレープ「オマハ」のサウンド面での影響を強く感じさせるシングル版と『CITY』収録版において、大瀧はこの部分をスムーズに裏声に移行させて歌っている。裏声直後の「はくち」の傍点部は地声での発声に戻っているために、「は」の裏声の響きがいっそう強調されている。それに対して、『風街ろまん』収録版では、大瀧は「はいからくち」を地声のまま歌っている。しかしながら、シングル版や『CITY』収録版での「くち」の音と比べると、『風街ろまん』収録版のそれは、わずかではあるが明らかに音程が低くなっている。つまり、地声で発声しようとしたものの裏声で歌ったときの音の高さまで達しなかったということである。さらに、『風街ろまん』収録版での「はくち」の傍点部は音程をもっておらず、吐き捨てるように歌われている。音程の正確さや裏声の的確な使用は「訓練された歌声」であることを示す指標となるが、『風街ろまん』収録版で「ぼくははいからくち」と歌う大瀧の声は、「訓練された歌声」の指標としての裏声を発しようとするなかでの「挫折」を体現しているといえる[65]

前節でも述べたように、訓練された美声が歌い手のスター性の構築に重要な役割を果たすのは歌謡曲においてであり、フォークではむしろ歌声に残る訓練されていないぎこちなさにこそ歌い手固有の真正性を見出していた。はっぴいえんどの声質は、フォークのそれと決定的な違いはないように思われるが、歌謡曲的な歌声の真正性をわずかな瞬間においてではあるが希求している点でフォークの歌声とは異なっているといえる。「はいからはくち」にあるような「裏声の挫折」は、「訓練された歌声」という歌謡曲的な歌い手の真正性の根拠を得ることの「挫折」として考えることができる。そして、この「真正性獲得の挫折」を示す声のあり方は、テクストが描き出している「アメリカ文化の内面化の挫折」という主題と強く結びついている。同時p.152に、「ぼくははいからくち」と歌う大瀧の歌い方の変化は、サウンドの違いによって要求されたものでもある。すなわち、モビー・グレープの影響を強く感じさせるサウンドアレンジの場合には、裏声での発声を成功させてアメリカ文化という真正性の獲得を想起させ、テクストにあらわれる「アメリカ文化の内面化の挫折」という主題は後退することになる。一方で、日本のお囃子の音色など多様な文化の打楽器を用いることでアメリカ的なロックサウンドに限定されないアレンジを採用した場合には、「アメリカ文化の内面化の挫折」という主題を象徴する「裏声の挫折」が提示されるのである。

以上の議論を踏まえると、はっぴいえんどの音楽実践は「真正性内面化の挫折」によって特徴づけられていることが明らかになる。1970年前後の日本の文化において大きな権威性をもっていたアメリカ文化に対して、「はいからはくち」の歌詞はアメリカ文化への憧憬と無批判な同一化への冷笑、そしてアメリカ文化を内面化しようとする「ぼく」の試みの挫折を描いていた。歌詞に刻まれた「真正性内面化の挫折」は、「ぼくははいからくち」と歌う大瀧の「裏声の挫折」によっても表現されていた。同時にこの「裏声の挫折」は、裏声を「訓練された歌声」のひとつの指標としてみなすとき、当時の日本のポピュラー音楽のなかで支配的なジャンルのひとつであった歌謡曲の歌い手がもつ真正性をはっぴいえんどが内面化しようとして挫折したものとして考えることができる。はっぴいえんどが一瞬ではあるが裏声を用いて歌謡曲的な真正性を志向していることや、フォークの重要なイデオロギーであったアメリカ文化の否定を拒否していることは、はっぴいえんどの音楽をフォークと区別するために役立つ観点であることは明らかだろう。しかし、前節で議論したとおり、フォークとはっぴいえんどの音楽の違いを決定づけているのは、はっぴいえんどのパフォーマンスにおいては歌声によって身体が存在しているという痕跡が示されているにもかかわらず、そこで示される身体に対して個人/演者/登場人物という記号を読み込むことができず、歌唱パフォーマンスの主体が統一的な実体をもてないことである。つまりはっぴいえんどの歌声は、フォークの歌い手の真正性の基盤となっていた歌い手の統一的実体の「挫折」をも提示しているのである。このように、はっぴいえんどの音楽の決定的な特徴となるのは「真正性内面化の挫折」であり、はっぴいえんどはこの「挫折」によって自らの真正性を確立していったということができる。

おわりに

アメリカで誕生したロックンロールは、黒人のR&Bを白人が模倣する過程で、黒人音楽がそなえていた人種差別や労働者階級差別に対する抵抗を、大人に対する若者の抵抗へと変形させた。若者による抵抗としてのロックは、1960年代になるとヒッピーに代表される対抗文化と強く結びつき、対抗文化のイデオロギーはロックの真正性を確立するのに欠かせないものとなった。はっぴいえんどにとってアメリカのロックは憧れの対象であったが、一方で彼らは対抗文化としてのロックを象徴するロック・コミュニティには懐疑的な立場をとっていた。それに加えて、はっぴいえんどにとって「アメリカのロックに対してどのように対抗するか」というp.153課題は、1950年代以降ロックンロールを従来の日本のポピュラー音楽システムに取り込んできた歌謡曲や、政治的なメッセージの伝達を重要視するフォークと異なる真正性の獲得と並んで重要であった。

以上のような、アメリカのロックに対するはっぴいえんどの認識を踏まえたうえで、本稿は1970年前後の日本のポピュラー音楽状況のなかで、そしてアメリカのロックに対して、はっぴいえんどの音楽がどのように真正性を確立しようとしたのかを考察してきた。「はいからはくち」のタイトルや歌詞テクストからは、アメリカ文化への憧憬と無批判な同一化への冷笑、そしてアメリカ文化を内面化しようとする「ぼく」の試みの挫折を読み取ることができ、テクストが描く「真正性内面化の挫折」は「ぼくははいからくち」と歌う大瀧の「裏声の挫折」を要請していた。訓練されていないぎこちなさを感じさせるはっぴいえんどの歌声は、訓練された美声にスターの真正性を見出す歌謡曲との違いが明らかであるが、この「裏声の挫折」は、はっぴいえんどが歌謡曲的な真正性をわずかながらも志向しており、それが挫折してしまったことをあらわしていると考えることができる。一方で、フォークの歌唱と比較してみると、はっぴいえんどの歌唱はフォークで重要視されていた「個人—演者—登場人物」の一貫性が認められないばかりか、歌声によって立ちあらわれる個々の身体に記号的な意味を読み込むことができない。そのため、はっぴいえんどの歌唱において、統一的な実体としての「ぼく」をとらえようとする聴き手の試みは「挫折」せざるを得ないのだ。

「挫折」によって自らの音楽の真正性を確立したはっぴいえんどの楽曲は、現在に至るまで多くの音楽家に影響を与え、参照され続けてきた。日本のロックをめぐる状況が変化し続けるなかで、はっぴいえんどが「挫折」によって提示した日本のロックの真正性は、のちの音楽家にどのようにして引き継がれたのか、あるいはどのようにして解体されうるのかについては、今後検討していく必要があるだろう。

参考文献

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渡辺潤『アイデンティティの音楽 メディア・若者・ポピュラー文化』世界思想社、2000年。

Notes

  1. [1]

    南田勝也「日本のロック黎明期における「作品の空間」と「生産の空間」」南田勝也編著『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか 日本ポピュラー音楽の洋楽受容史』共栄書房、2019年、102-103頁。

  2. [2]

    増田聡『聴衆をつくる 音楽批評の解体文法』青土社、2006年、127頁。

  3. [3]

    Michael K. Bourdaghs. Sayonara Amerika, Sayonara Nippon: A Geopolitical Prehistory of J-pop. New York: Columbia University Press, 2012, 168-169.

  4. [4]

    増田『聴衆をつくる』121-125頁。

  5. [5]

    このような「はっぴいえんど史観」は、1970年代半ば以降の音楽状況に応じて構築されてきた「神話」であるというべきだろう。詳細は以下を参照。輪島裕介「「はっぴいえんど神話」の構築 ニューミュージック・渋谷系・日本語ロック」『ユリイカ』36巻9号(2004年9月号)、青土社、2004年、180-192頁。

  6. [6]

    小川博司『音楽する社会』勁草書房、1988年、54-65頁。

  7. [7]

    井上貴子「熱さの根源としての「ロックする身体」 ウッドストックからJ-ROCKまで」井上貴子編著『日本でロックが熱かったころ』青弓社、2009年、26-34頁。

  8. [8]

    Doris Kolesch und Sybille Krämer. „Stimmen im Konzert der Disziplinen. Zur Einführung in diesen Band.“ Doris Kolesch und Sybille Krämer (Hg). Stimme: Annäherung an ein Phänomen. Frankfurt am Main: Suhrkamp, 2006, 11.

  9. [9]

    「はいからはくち」はライブでもアレンジを変えながら繰り返しパフォーマンスされており、『ライヴ!! はっぴいえんど』(1974)や『はっぴいえんど LIVE ON STAGE』(1989, 2009, 2020)などで音源化されている。

  10. [10]

    本稿においては、『CITY』収録版は『CITY』(1973)の音源を、シングル版は1974年発表のベストアルバム『SINGLES』がCD化されたのち品番改定および廉価版により再発された『SINGLES Bellwood Selection 21+2』(1995)に収録された音源を参照している。

  11. [11]

    増田『聴衆をつくる』133頁。

  12. [12]

    渡辺潤『アイデンティティの音楽 メディア・若者・ポピュラー文化』世界思想社、2000年、49-51頁。

  13. [13]

    広田寛治『ロック・クロニクル 現代史のなかのロックンロール』河出書房新社、2012年、106頁。

  14. [14]

    ロックンロール排斥の過程は、以下を参照。広田『ロック・クロニクル』44-69頁。

  15. [15]

    三橋一夫『フォーク・ソングの世界 〈都市の論理〉と人間の歌と』音楽之友社、1971年、231-234頁。

  16. [16]

    広田『ロック・クロニクル』79-80頁、94頁。

  17. [17]

    広田『ロック・クロニクル』135頁。

  18. [18]

    村上東「ウッドストック世代のロックとその先輩たち」中山悟視編著『ヒッピー世代の先覚者たち 対抗文化カウンターカルチャーとアメリカの伝統』小鳥遊書房、2019年、199頁。

  19. [19]

    渡辺『アイデンティティの音楽』83頁。

  20. [20]

    渡辺『アイデンティティの音楽』248頁。

  21. [21]

    渡辺『アイデンティティの音楽』103-104頁。

  22. [22]

    広田『ロック・クロニクル』210頁。

  23. [23]

    井上「熱さの根源としての「ロックする身体」」16頁。

  24. [24]

    井上「熱さの根源としての「ロックする身体」」22頁。

  25. [25]

    小川『音楽する社会』42-45頁。

  26. [26]

    北中正和『[増補]にほんのうた 戦後歌謡曲史』平凡社、2003年、147-148頁。

  27. [27]

    渡辺『アイデンティティの音楽』199頁。

  28. [28]

    北中『[増補]にほんのうた』130頁。

  29. [29]

    南田「日本のロック黎明期における「作品の空間」と「生産の空間」」103頁。

  30. [30]

    小川『音楽する社会』46-47頁。

  31. [31]

    南田「日本のロック黎明期における「作品の空間」と「生産の空間」」105頁。

  32. [32]

    増田『聴衆をつくる』132頁。

  33. [33]

    北中『[増補]にほんのうた』170頁。

  34. [34]

    大和田俊之「「洋楽の音」の追求と都市型音楽シティ・ポップス 牧村憲一氏インタビュー」南田勝也編著『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか 日本ポピュラー音楽の洋楽受容史』共栄書房、2019年、128頁。

  35. [35]

    Far East Networkの略称。

  36. [36]

    井上「熱さの根源としての「ロックする身体」」23頁。

  37. [37]

    鈴木茂『自伝鈴木茂のワインディング・ロード はっぴいえんど、BAND WAGONそれから』リットーミュージック、2016年、27-35頁。

  38. [38]

    南田「日本のロック黎明期における「作品の空間」と「生産の空間」」110-111頁。

  39. [39]

    南田「日本のロック黎明期における「作品の空間」と「生産の空間」」108-111頁。南田は、ブルデューの「生産の空間」の分析を参照し、歌謡曲を「商業芸術」、関西フォークを「写実派芸術」、ニューロックを「純粋芸術」に当てはめて1970年前後の日本のポピュラー音楽状況を説明している。

  40. [40]

    「狭山アメリカ村」は、朝鮮戦争の時期に埼玉県入間市と狭山市にまたがって所在した米軍ジョンソン基地に集められた米兵の居住場所として建てられた米軍ハウス群がもとになっている。(塚田修一「1970年代の米軍基地文化に関する一考察 「狭山アメリカ村」を中心に」『三田社会学』22号(2017年7月号)、三田社会学会、2017年、100-101頁。)

  41. [41]

    塚田「1970年代の米軍基地文化に関する一考察」101-103頁。

  42. [42]

    塚田「1970年代の米軍基地文化に関する一考察」102頁。

  43. [43]

    Bourdaghs 2012, 164.

  44. [44]

    ディーデリクセンの議論では、ポップミュージック(Pop-Musik)という語は「イメージ、パフォーマンス、(たいていはポピュラーな)音楽、テクスト、現実の個人に結びついた物語の関係」を意味する語として定義されている。(Diedrich Diederichsen. Über Pop-Musik. Köln: Kiepenheuer & Witsch, 2014, Ⅺ.)以下、本稿で「ポップミュージック」の語を用いる際には、ディーデリクセンの定義に準じているものとする。

  45. [45]

    Diederichsen 2014, 268.

  46. [46]

    ディーデリクセンは、ポップミュージックにおけるカヴァーの実践はこの「楽曲はその歌い手に属しているものとする」という原理が完全に行きわたっていることによって可能になっていると指摘している。(Diederichsen 2014, 270.)

  47. [47]

    Diederichsen 2014, 271. 「声のきめ le grain de la voix」については、ロラン・バルト「声のきめ」『第三の意味 映像と演劇と音楽と』沢崎浩平訳、みすず書房、1998年、185-199頁。バルトのこの概念は「声の粒」とも訳され、ドイツ語では »die Rauheit der Stimme« と表記されている。

  48. [48]

    Diederichsen 2014, 277-278.

  49. [49]

    園部三郎『日本民衆歌謡史考』朝日新聞社、1980年、186頁。

  50. [50]

    園部『日本民衆歌謡史考』191-192頁。

  51. [51]

    中河伸俊「転身歌唱の近代 流行歌のクロス=ジェンダード・パフォーマンスを考える」北川純子編『鳴り響く〈性〉 日本のポピュラー音楽とジェンダー』勁草書房、1999年、239頁。

  52. [52]

    中河「転身歌唱の近代」239頁。

  53. [53]

    中河「転身歌唱の近代」240-243頁。

  54. [54]

    Diederichsen 2014, 281-284.

  55. [55]

    北中『[増補]にほんのうた』160-161頁。

  56. [56]

    エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭ほか訳、論創社、2009年、114-122頁。

  57. [57]

    フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』122-139頁。

  58. [58]

    Bourdaghs 2012, 173-174.

  59. [59]

    Bourdaghs 2012, 174.

  60. [60]

    Bourdaghs 2012, 174.

  61. [61]

    Bourdaghs 2012, 161.

  62. [62]

    『はっぴいえんどBOOK』プライム・ディレクション、2004年、55-56頁、76頁。

  63. [63]

    Bourdaghs 2012, 164.

  64. [64]

    Bourdaghs 2012, 176.

  65. [65]

    この「裏声の挫折」は、1971年8月21日に東京日比谷野外音楽堂で行われたロック・アウト・ロック・コンサートでの「はいからはくち」(『はっぴいえんど LIVE ON STAGE』(1989初出、2020参照))など、はっぴいえんどのライブパフォーマンスにおいてより顕著にあらわれている。

この記事を引用する

石川愛「声にあらわれるアイデンティティの葛藤──はっぴいえんど「はいからはくち」を例に」『Phantastopia』第2号、2023年、140-158ページ、URL : https://phantastopia.com/2/conflicts-of-identity-expressed-in-voice/。(2024年03月01日閲覧)

執筆者

石川愛
ISHIKAWA Ai

修士課程。日本のポピュラー音楽における声について、ドイツ語圏の演劇学の理論を応用することで、音楽学や社会学とは異なる仕方でアプローチする研究を行っています。

英語要旨

Conflicts of Identity Expressed in Voice

A Case Study of Happy End’s “Haikarahakuchi”

ISHIKAWA Ai

Happy End (1970-1973) is considered one of the most important bands since the dawning of rock music in Japan. While critics have noted how the band developed the relationship between their Japanese lyrics and the beat of their American rock-influenced songs, Happy End’s vocals have received far less attention. Since the band’s vocals unavoidably deviate from those configured in the identities of American rock musicians and listeners, who perform and listen in a very different cultural context, Happy End’s singing voices are a significant factor when analyzing the band’s connection to and independence from the American rock genre. This paper investigates how Happy End established authenticity in the sound of its Japanese rock, focusing on the band members’ singing voices and lyrical content.

Section 1 surveys the history of American rock music and the situation of Japanese popular music from the 1950s to the 1960s, introducing Happy End as a case study to explore the relationship between American rock music and the Japanese new rock genre. Happy End’s members were attracted to American rock but took a skeptical view of the countercultural American rock community. At the same time, the band had to establish the authenticity of its music in Japan, creating a form of rock that was different from its American counterpart because it emerged from the colonial culture of the postwar period. Section 2 and Section 3 analyze “Haikarahakuchi”, one of the most famous songs of Happy End’s oeuvre, the composition of which shows the band’s awareness of the contrast between American and Japanese culture. Section 2 discusses the singing voice of Ohtaki Eiichi, the main vocalist of “Haikarahakuchi”, comparing his vocal style with those found in Japan’s popular and folk music genres. Section 3 examines the connection between Ohtaki’s singing voice and the lyrical theme of “Haikarahakuchi”, which describes the frustration of a (Japanese) man who could not internalize the authenticity of American culture. This theme demanded the characteristic vocal style of the “collapse of the falsetto” and played a significant role in Happy End establishing its musical authenticity in Japan.

Phantastopia 2
掲載号
『Phantastopia』第2号
2023.03.27発行