p.123一 アニメ・キャラクターとアニメ声優の同一視
「すぐ役と声優さんを合致するなお前らは!」[1]
これは声優・櫻井孝宏が「『アクティヴレイド』ニコ生~ダイハチ広報部~」という2016年の生放送番組で発した言葉である。当番組では、櫻井孝宏、島崎信長、小澤亜李、石上静香の4人の声優がテレビアニメ「アクティヴレイド―機動強襲室第八係―」のキャラクターについての印象を述べるコーナーがあり、小澤はそこで、花江夏樹が演じるミュトスについて、「変人」というキーワードをあげた。島崎は即座に、「これは花江っちとは関係ないよ!」と視聴者に主張し、それを受けて櫻井が上記の言葉を発したのだ。
もちろんこれは櫻井が番組の効果のために発したものであり、本気の非難ではなく視聴者を笑わせるための冗談である。だが、よく考えると、それが視聴者に会心の笑みを浮かべさせることができるのは、キャラクターと声優を同一視する──キャラクターを観るときに声優のイメージをそのキャラクターに重ね、逆に声優を観るときにキャラクターのイメージをその声優に重ねる──という認識の基盤が、少なくともアニメ声優に関心を寄せるファン[2]の間ですでに共有されているからである。別の言い方をすれば、もしファン側にアニメ・キャラクターとそのキャラクターに声を当てる声優との間に何らかの共通項を見出そうとする受容の仕方がなければ、そもそも島崎は「変人であるミュトスと花江夏樹とは違うよ」といった面白半分の付言をわざわざする必要もなく、ましてや櫻井の冗談も成立しないだろう。そして、声優本人が番組の中で、たとえ番組の効果のためだとしても、「キャラクターと声優の同一視」に言及することは、このような受容の仕方がファンの中で一般化しつつあることを暗に証明している。
「キャラクターと演ずる者の同一視」、つまり、キャラクターと演ずる者のイメージを相互に重ねつつ楽しむような観賞の仕方は、アニメ声優に限るものではなく、広い意味での「役/役者」関係に起こりうることである。たとえば映画研究者の四方田犬彦は、「映画における俳優の審級」という理論的枠組を提示し、俳優のイメージが「彼なり彼女が特定のジャンルのフィルムに頻繁に登場し、特定の役柄を演じることを通して醸成される」[3]こと、そしてそのイメージが製作者から観客まで共有されることは、映画の製作そして観賞にも影響を及ぼすことを明確に論じた。また、2.5次元舞台についての議論で須川亜紀子は「記号的身体」と「現象的肉体」という演劇論の概念を援用しつつ、2.5次元舞台の役者たちはたとえ舞台外においてもキャラp.124クターのイメージが内包される「記号的身体」に重ねられながらファンたちに注目されていることを指摘した[4]。だが、アニメ・キャラクターとアニメ声優が同一視される現象は、映画俳優や舞台俳優のそれとは根本的に異なる点がある。すなわち、映画俳優や舞台俳優が自分の身体を用いてキャラクターを演じているのに対して、アニメ声優は声だけをキャラクターにあてるのであって、他の身体的特徴を直接的にキャラクターに与えていないのである。より端的には、アニメ声優はアニメ・キャラクターと、声以外の姿形上の共通項が存在せず、映画俳優や舞台俳優のように、俳優の身体をベースとし、一方を通じて他方を想起するという回路が成立しにくいと言ってもおかしくない。しかし、現実にはその回路はファンの間で、アニメ声優本人が言及するほどにしっかりと成立している。その理由は何か。
これを解明しようとする議論はすでに存在する。それらの議論において、「インデックス記号」、つまり肉体の物理的痕跡として捉えられる声はキャラクターと声優との間の橋渡しとして位置づけられる。たとえば今井隆介は「言語であろうとなかろうと、声はそれを発した身体のインデックス記号とな」[5]ると論じるが、それは「キャラクターという記号的身体の創造にいそしんできたアニメーションにおいて、声は生身の肉体の痕跡(あるいはそれそのもの)としてあり、しかも「魂」という最も重要な位置を占めてきたからである」[6]と主張し、アニメにおける声に、その声の提供者であるアニメ声優の「生身の肉体の痕跡」を想起させる機能を見出し、その機能を「魂」という概念を用いて説明した。そして鈴木真吾は今井の議論を踏まえ、「声優に付随する物理的な特徴でもある声の「インデックス性」」[7]があるからこそ、「特定の声優と強く結びついたキャラクターが表象され、視聴者はイメージと刺激のズレを生じさせる声優の交代に難色を示すのだろう」[8]と述べた。言い換えれば、鈴木はアニメ声優の肉体的な存在が「声」という「痕跡」によって提示されるからこそ、アニメ声優がキャラクターの成立に密に関わるようになったと主張しているのだ。
ところが、今井と鈴木の議論においては、肉体的な存在としてのアニメ声優と平面的な存在としてのキャラクターは依然として別の存在であり、それらが二重写しのように見られる原理は依然として不明である。本稿はこれらの研究を踏まえた上で、アニメ声優とアニメ・キャラクターが同一視される原理をさらに掘り下げたい。
結論を先に言えば、本稿はその原理が、抽象度の高い線画記号による人物造形、リミテッド・アニメーション[9]の手法、そしてリップ・シンクしない声を併用する日本のテレビアニメが生み出すキャラクターの独特の身体性と、第二次声優ブーム[10]以来成立してきたアニメ声優のスターダムによって構築されるアニメ声優の身体性との、両方に基づいていると考える。後に詳述するが、アニメ・キャラクターもアニメ声優も、幻想的な統一性と有機性のない独特な「身体」を有しているからこそ、ファンの読み込みが可能となり、キャラクターと声優との間の回路もそれで成立するのだと本稿は主張する。これを論証するため、まずアニメ・キャラクターの身体性を解明し、その上で、アニメ声優のスターダムとその成立によってもたらされる声優の身体性を検討したい。また、以下の議論において特に断りのない場合、本稿での「アニメ」は、主にリミテッド・アニメーションを使用して作られる日本のテレビアニメを指す。
p.125二 「組立図」としてのキャラクターと「魂に充ちた身体」
アニメ・キャラクターの身体性を検討するためには、視覚的な要素と聴覚的な要素の両方について考察する必要があるが、本節ではまず視覚の面から分析を始めたい。ここで主に参照するのは、視覚的要素を重要視した日本アニメの研究者であるトーマス・ラマールによるアニメ・キャラクターの身体論である。
ラマールはリミテッド・アニメーションが生み出すキャラクターの身体性について、次のように論じた。
リミテッド・アニメーションは、「魂に充ちた身体」を生み出す方向に向かっている。これはつまり、精神的、情感的もしくは心理学的な質がその表面に刻み込まれた形で現れる身体のことである。[11]
この記述を理解するためには、まずラマールが言う「精神的、情感的もしくは心理学的な質がその表面に刻み込まれた形」という言葉が、何を意味しているのかを把握しなければならない。そのためには、ラマールのアニメ技術論の根底を支えるリミテッド・アニメーションの特徴を踏まえて説明する必要がある。
前節で述べたように、日本のアニメは制作において、リミテッド・アニメーションの技術を主に用いている。「この手法はもともと、四〇年代後半のアメリカで、ディズニー的なリアリズムへの反発から生み出された。つまりそれは、当初は、アニメーションという表現媒体の可能性を引き出すために選ばれた、芸術家の側の積極的な選択だったわけだ。しかしその手法は日本では、手塚治虫が作った『鉄腕アトム』以降、TVアニメを効率よく生産するための必要悪へと変わってしま」[12]ったとも言われる。このことが示すように、手塚によって日本で発展を遂げたリミテッド・アニメーションは、その流暢ではない動き方や、極端なまでに減少された画面の変化と動作のバリエーションを理由に、芸術性の欠ける貧相なものであると評価する向きが強かった。しかし、近年、批評の風潮が変わり、フル・アニメーションと違う美学を見出そうとする傾向が強まってきた。トーマス・ラマールはその代表とされる一人であり、異なる視点でこの手法が生み出す独自の美学を評価した。
ラマールによれば、アニメのキャラクターが静止に近いようなぎこちない動き方しかできないという事実は、リミテッド・アニメーションにおけるキャラクターが特殊な性質を有することに拍車をかけたという。つまり、アニメ・キャラクターは、動きの表現のバリエーションが少ないため、他の構成要素によって運動と心理状態が表現されなければならず、したがってそれらの要素に含まれる情報量が多ければ多いほど、その表現が上手くいくということになる。そのため、アニメ・キャラクターの成立を支える諸記号、とりわけラマールによれば視覚的記号[13]は、非常に密度の高い情報量を持ち、単体でもキャラクターの何らかの性質を表現できるものでなければならなくなってきた。その結果、「精神的、情感的もしくは心理学的な質がそのp.126表面に刻み込まれた形」、つまり、きわめて多くの情報量を内包する記号によって構成されるキャラクターが出来上がったわけである。
このようなアニメ・キャラクターの身体性を、ラマールは「組立図」[14]に例えて説明した。キャラクターの成立を支える諸記号は、まさに組立図の諸パーツのようなものであり、個々の性質を強く主張しつつも、一方が他方を支配することなく、アニメ・キャラクターの「身体」──その「組立図」から連想される総体としての何か──を生起させているのである。ラマールはこのキャラクターの線画記号に還元不可能な「身体」を「魂」らしきものとして捉え、「魂に充ちた身体」と名付けた。だが、彼はこの「魂に充ちた身体」について、さらなる議論をしなかった。本稿はこの「魂に充ちた身体」の性質こそが、アニメ声優とアニメ・キャラクターの「同一視」現象が起こりうる原理的基盤を支える一端であると考えるため、ここでさらに具体的に、この「身体」がいかに生起されるのかについて議論したい。
「リミテッド・アニメーションが運動の不在やアニメーションの欠如という観点から解釈されてしまうと、アニメにあるしごく明白なダイナミズムについて論じることができなくなる。このダイナミズムは、動画の力であるとともに、「視る者」といわゆるリミテッド・アニメーションとの間で展開する力である」[15]という記述から読み取れるように、ラマールは動きの制限によって個々の記号に極めて多くの情報量が含まれるようになったリミテッド・アニメーションは、視聴者の参与を促すことができると主張する。その参与とは、「分解図を熱心に拡張して強化することによって、そこに住み着く」[16]ことである。つまり、個々の記号に多くの情報量が内包されているからこそ、視聴者は熱心であればあるほど、それらの情報を読み解くこと、そして他の関連情報をそこに読み込むことに快さを見出すのである。言い換えれば、「「アニメーション」に関する膨大なデータ(これは日本語でしばしば「ネタ」と呼ばれる)としての制作の細部に注意することが求められる」[17]のである。熱心な視聴者たちは、自分自身の「読み」を通じて、アニメ作品と絶えず協働しているのである。
視聴者による「読み」は、アニメ・キャラクターの「魂に充ちた身体」の生起と感取に非常に重要である。なぜ記号の集まりでしかなく、フルに動くこともできないアニメ・キャラクターたちは「魂」らしきものとして感じ取られることができるのか。それはアニメの熱心な視聴者たちが、絶えずそれらの記号を読み解き、さらにはそこに自分自身の知識と経験に基づく情報を読み込んでいるからだ。この「読み」のプロセスを経てようやく生起され感取される「身体」は人それぞれの読解に依拠しているため、確実な姿形を有していない。ラマールがそれを「魂に充ちた身体」というやや曖昧な呼称で呼ぶのも、このためであろう。本稿は以降、この視聴者が個々の記号に含まれる情報を読み込むことを通じてこそ感取可能で、単なる記号にも現実的な人間身体にも、どちらにもつかぬものである「魂に充ちた身体」を、括弧つきの「身体」というふうに表記する。
「精神的、情感的もしくは心理学的な質がその表面に刻み込まれた形で現れる身体」という新しい「身体」概念をもって、ラマールはキャラクターが記号の集まりであるという特性と、それが「読み」のプロセスを経て「魂」らしきものとして視聴者に感取されうるという特性を、p.127表裏一体のものとして示唆的に論じた。しかしながら、キャラクター・デザインこそがキャラクターの「身体」生起における鍵であると捉えたラマールの議論をベースに理論化されるこの「身体」に、現段階では視覚的要素しか含まれておらず、キャラクターの「声」との関係はまだ不明瞭であるということには注意が必要である。よって、次節において本稿は、聴覚的な要素をも視野に入れ、キャラクターの身体性をさらに探求し、キャラクターと声優との重なりがいかにして可能なのかを解明する。
三 キャラクターの「身体」に声が入る場合
「伝統的に口の動きをできるだけ簡略化するように進化してきた」[18]日本のテレビアニメは、声と映像の同期、つまりリップ・シンクの技術をさほど追求してこなかったことが特徴である。このリップ・シンクの不在こそは、声のあるアニメ・キャラクターの身体性、さらにはキャラクターと声優の同一視を理解するための鍵である。もしアニメにおける視覚的な要素が「組立図」で描かれる個々のパーツのように並列しており、そして互いに支配関係のないままキャラクターの記号と現実の中間にある「身体」を生起させるのであれば、リップ・シンクしない「声」はどう機能しているのだろうか。
まず、リップ・シンクする/しない声と映像における身体との関係性を、トーキー映画やディズニー・アニメーションに関する議論を参照しながら整理したい。メアリ=アン・ドーンは、トーキー映画誕生以来、声と画像の完全同期、つまり声を画面上のキャラクターに完全に還元させることが絶え間なく追求されてきたと指摘する。ドーンによれば、音声を画像に従属させようとするこの強迫観念の根底には、映画によって作り出される身体の統一性と有機性を維持しなければならないという強固な観念がある。「映画のテクノロジーと様々な実践によって構築された…幻想的な身体の属性は、何よりもまず(諸感覚の一体性を強調することを通して得られる)統一性と自らに対する現前である」[19]というドーンの言葉は、映画における身体性の核心、つまり、統一性と有機性を有する身体という幻想について明確に言及するものだ。そして、ドーンをはじめとする映画音声の研究者たちは、映画のキャラクターにリップ・シンクが達成された声を与え、その声を完全に映像に従属させることによって、この幻想的な身体がさらに完全な形へ昇華されると論じてきたのである。
映画と類似する形で、ディズニーがその代表とされるフル・アニメーションもまた、リップ・シンクに固執していると、アニメーション史研究者である細馬宏通は主張する。細馬によれば、ディズニー・アニメーションはその誕生から、トーキー映画と同じように、技術的限界さえ顧みず、ただ執念深くリップ・シンクの完全達成を目指してきたとのだという[20]。このリップ・シンクの完全達成のため、ディズニー・アニメーションは「プレシンク」という技術を採用した。「プレシンク」とは、アニメーションの映像を作る前に、前もってセリフを収録することを指す言葉である。日本語では、「前採り」ともいう。この前採りの手法によって、アニメーションはセリフや、ときにはそのセリフを読み上げる声優の顔の筋肉の動きまで参考にし、声p.128と完璧に合致できる映像を作ることができるようになった。細馬は、このリップ・シンクの達成がもたらした効果について、次のように述べる。
アメリカのアニメーションにおけるプレシンクされリップ・シンクを達成された声は、目の前の身体を人間に擬装させ、「人間/非人間」の境界を危うくさせる。[21]
声が映像と完全同期することによって、明らかに本物の人間ではないアニメーションの中の形象は、人間のように視聴者に感取されることになる。細馬は明言こそしなかったが、このことを可能にしたのは、映画が生み出す統一性と有機性を有する身体に類似するような、映像的身体にまつわる幻想であると考えられる。つまり、ディズニー・アニメーションにおいてリップ・シンクされる声は、明らかに他の人間によって当てられる声であるにもかかわらず、映画の声と同じく、画面上のキャラクターに還元され、あたかもそのキャラクターによって発されているという幻想を生み出している。そしてその幻想は、統一性と有機性のある幻想的身体を生み出して、視聴者に受け入れられているのである。視聴者は、このような統一的な幻想的身体を感取することを通じて、アニメーションの、もともとは単なる線画記号であるキャラクターを、まるで本物の人間のように感じ取るのである。
一方、初期から現在に至るまで、リップ・シンクという技術をさほど重要視してこなかった日本のアニメについて、細馬はそれが「ポストシンク」あるいは「アテレコ」、すなわち、先に制作された映像に声を付け加えるという手法を多用することを説明したうえ、次のように論じた。
日本のTVアニメは伝統的に口の動きをできるだけ簡略化するように進化してきた。[…日本アニメにおける唇の動きは]必ずしもセリフのあいうえおと一致しているわけではないし、唇が閉じて開くはずのマ行やバ行やパ行でいちいち正確に唇が動いているわけではない。[22]
このように、日本アニメはリップ・シンクを追求せず、唇の動きとセリフとの一致も追い求めていない。細馬は、「アテレコ的な身体が、リップ・シンクの不完全性や不在によって、かえってこの世ならぬ者らしさを表す」[23]と述べた。すなわち彼は、アニメにおけるキャラクターは、リップ・シンクされる声が与えられていないため、現実にいる人間とはかけ離れているような身体性を有していると示しているのである。これはどのような身体性なのか。もし「音がその源から分離され、表象された身体にもはや繋留されなくなるやいなや、記号表現としてのその潜在的な作用が明るみに出されることになる」[24]という指摘を踏まえるならば、次のことが一つの解として浮上する。すなわち、リップ・シンクしないアニメにおいては、声は動く唇に完全に還元されることも、映像に支配されることもなく、それ自身が映像とは異質なものであることを明らかにするように機能している。このことによって、声は視覚的要素に従属するものp.129ではなくなり、視覚的要素と並列するもの、つまりラマールの言う「組立図」の一パーツとなる。したがって、アニメにおける声と視覚的な諸記号の間には、一方が他方を支配するような力関係は存在せず、すべて「組立図」に描かれる諸パーツのように並列され、キャラクターの「身体」生起に加担していると考えられる。アニメにおける声がしばしば「アニメ声」と呼ばれるような、現実にはありえないほど特徴的な声であるのも、そのためである。つまり、声もまた視覚記号と同様に、キャラクターの動きの無さを補強するように要請され、大量の情報量を有さなければならなくなったのである。ラマールが一言だけ言及した、「声の使い方に対する関係までもが新しくなったため、声の質や言葉での説明がアクションの代わりにな」[25]ってしまったということも実際、声がキャラクターを力強く表現できるような記号となり、他の諸記号と共にアニメ・キャラクターの「身体」を生起させていることを示していると考えられる。
もし前節で議論した通り、大量の情報量を内包しながらアニメ・キャラクターを構成する個々の視覚的記号が、熱心な視聴者の読み解きや読み込みを惹起する力を有しており、そしてこの「読み」のプロセスこそがアニメ・キャラクターの「魂」らしき「身体」を生起させる肝心な要素であれば、視覚記号と同じく密度の高い情報量を持つアニメ・キャラクターの声もまた、視聴者、特にアニメ声優のファンの「読み」を惹起する力を発揮できると考えてもおかしくないだろう。アニメとその関連情報に詳しい声優ファンたちは、声の質や発音の特徴からある種の「ネタ」を読み取ることができ、さらにはそこから連想される別の「ネタ」をそこに読み込むことができるのである。このプロセスによって、キャラクターの「魂」らしき「身体」は声からのデータをも含む形で生起され、ファンに感取されるのである。
アニメ・キャラクターの声は「組立図」の一パーツとして、それ特有の情報を持ち、声と声優に詳しい視聴者の参与を促し、キャラクターの「身体」の生起に貢献する。本稿はこのことこそが、冒頭で提起した「アニメ・キャラクターとアニメ声優の同一視」を可能にさせる原理的基盤の一側面であると主張したい。なぜならば、声を通じても「読み」が入る回路が開かれているからこそ、声優ファンたちはアニメ・キャラクターを観ながら、そのキャラクターに声を提供する声優のデータを「ネタ」としてキャラクターに重ねることができるからだ。前節で論じた通り、このように生起される「身体」は、映画やディズニー・アニメーションのようなリアルで流暢な動きや、完璧に達成されたリップ・シンクによって生起されるものではないため、本物の人間/生き物の身体を彷彿させるような幻想的な統一性と有機性を有さず、むしろファンそれぞれの解読によってその内実が異なるものとなる。そのため、アニメ声優に詳しい視聴者であればあるほど、声優の諸情報を備えた状態で、アニメ・キャラクターと戯れることができるのである。
以上の議論で、なぜアニメ・キャラクターを観ながらアニメ声優を想起する可能性が開かれているのかについての答えがある程度示された。しかし、ここで新たな問題が二つ浮上する。一つは、声によってもたらされ、アニメ・キャラクターの「身体」の生起に参入するアニメ声優の諸情報が、どういった情報なのか。もし今井や鈴木が述べるように、声は声の提供者の「インデックス記号」であり、その提供者の肉体的存在を指し示すのであれば、ファンがアニメ・p.130キャラクターを観賞すると同時に想起するのは、アニメ声優の肉体的特徴となる。しかし、多くの場合、アニメ声優の姿形はキャラクターと全く似通わない。そのキャラクターとギャップがありすぎる肉体的特徴が想起されるのならば、かえってアニメ・キャラクターの観賞に支障をきたす可能性があるのではないか。実際、石田美紀によれば、『鉄腕アトム』のアトムに声を当てた清水マリは、自分とキャラクターとの身体的齟齬がキャラクターのイメージを壊しかねないとかなり葛藤したという[26]。とすれば、この齟齬がアニメ・キャラクターの「身体」の生起のプロセスにおいて、いかに調和されるのかについて、さらなる検討が必要となる。そして二つ目には、これまで議論した原理的基盤では、アニメ・キャラクターを観ながらアニメ声優を想起することしか説明できていないということである。それでは、アニメ声優を見てアニメ・キャラクターを想起することは、どのような原理に基づいているのだろうか。
本稿はこれらの問いを解く鍵が、第二次声優ブーム以来成立してきた声優のスターダム、そしてそのスターダムを通じて形作られたアニメ声優の身体性にあると考える。次節では、これらの点について検討する。
四 アニメ雑誌が構築するスターとしての声優「身体」を観ること
石田美紀によれば、そもそも1970年代末までは、キャラクターと外見や年齢、ときに性別さえも異なるアニメ声優を表舞台に立たせることは一般的ではなかった。しかし、第二次アニメブームの真っ只中で創刊されたアニメ情報誌『アニメージュ』は「読者/視聴者の声優への関心に積極的に応え、声優を表の存在にした」[27]。石田は『アニメージュ』が諸々の記事で声優の容姿や内面にフォーカスし、声優のスターとしてのパーソナリティの構築に大いに貢献しただけではなく、読者による人気投票まで行い、読者たちの聴取経験や声優に対するイメージを流通させ、一般化させたと説明する。このような「アニメ雑誌の登場によって、声優は視聴者に自身についての情報を独自に届けられるようになり、演じる個々のキャラクターを超える自身のパーソナリティを構築する機会を得た。結果、声優はキャラクターの音声面を担当するスタッフ以上の存在、つまりはスターとして受容されていったのである」[28]。
声優がスターとなり、そのパーソナリティがファンたちに共有されることは何を意味するのか。前節での結論を敷衍させれば、それはファンたちがアニメで馴染みのある声を聴くときに、その声の提供者である声優の顔立ちや性格などをたやすく「ネタ」としてアニメ・キャラクターに読み込めるようになった、ということだ。だからこそ、声優のスターダムが成立すると「声優の容姿に彼/彼女が演じるキャラクターの姿を見いだそうとする視聴者の期待」[29]も必然的に生まれたし、その期待に応答するような、たとえば『超時空要塞マクロス』(1982~83年)のリン・ミンメイ(飯島真理)のような声優の配役、つまり性別も年齢も外見も、そして経歴さえもキャラクターと類似する声優の配役もなされ始めたのだろう。石田はこの「キャラクターと声優の近似性に基づく配役によって、声優身体がキャラクターに回収され、その結果、キャラクターが声優身体をよりしろにして物語の外に効率よく拡張した」[30]と述べる。しかし、こp.131の議論はキャラクターと声優との間に何らかの共通点がある場合についてのみの説明にとどまる。ところが、本稿の冒頭で紹介した生放送での島崎や櫻井の反応が示したように、昨今ではキャラクターと声優の同一視は、ファンの間ではより一般的な現象として発生している。その所以は何か。
いましばし、スターとなったアニメ声優の身体性について考えたい。そもそもアニメ声優はいかにキャラクターと近似性を持つとしても、キャラクターと完全に同一であるはずがない。たとえ飯島真理でも、厳密にはリン・ミンメイとの間に距離があるだろう。ましてやアニメ声優が演じるキャラクターが多ければ多いほど、それらのキャラクターたちの間に、そしてキャラクターたちとアニメ声優自身との間に、必ず齟齬が存在するだろう。ここで参照となるのが、映画研究者のリチャード・ダイアーによる議論である。ダイアーによると、スター・イメージを構成する諸要素は、場合によってはそれぞれの間に「ある程度対立や矛盾をかかえこんでいたりする。この場合には、スターのイメージは、諸要素のあいだの差異を調整し、調停し、覆い隠す試み、あるいは緊張をかかえた諸要素をたんに維持しようとする試みによって特徴づけられる」[31]という。であれば、ファンは一人の声優を観るとき、その人物が背負っているこの多義的なイメージを想起することが可能である。その時にファンは果たして何を感じ取っているのだろうか。
ダイアーのスター論に解題を付ける浅見克彦は、スターの多義的イメージを説明するために、「パーソナリティ」という概念を抽出し、次のように論じた。
スターのパーソナリティは、過去のそして現在の映画のテクストによって構築され、他のメディアが送り出すエピソードやオーディンスの読解によって織り上げられるイメージである。それは、スターの性格や行動パターンや精神性にかぎった話ではない。モランがスターのパーソナリティの実在性の根拠とした、「惚れ惚れするような身体と顔」さえも、テクストとして構築されたものである。[32]
このように浅見は、ダイアーがいうスターの多義的なイメージ──スターの身体や顔などの外見的要素から、性格や行動パターンなどの内面的要素全部含めて──が、「パーソナリティ」というスターの肉体だけに還元され得ないものとして結晶すると議論する。この「パーソナリティ」という概念をもって、ここで再度、前節で論じたキャラクターの身体性に立ち帰りたい。前述したように、様々な記号の集まりであるアニメ・キャラクターの「身体」は、それらの記号が読み解かれ、さらには読み込まれることによって生起されるものであった。そのような「魂」らしき「身体」は、キャラクター図像とも現実の肉体ともつかない、中間的な「身体」である。これを踏まえた上で、さらに次のことを主張したい。つまり、アニメ・キャラクターだけではなく、すでにある種のスターとして活躍するようになったアニメ声優も実際、このような「身体」を有しているのだと。具体的に言うと、アニメ声優の様々なイメージは、キャラクターのp.132様々な記号と同じように、アニメ声優のファンたちの解読を惹起させ、アニメ声優の「身体」──単なる肉体ともただの記号とも異なるような構築物──を生起させている。そしてその幻想的な統一性と有機性を有さない「身体」を、ファンたちは種々の「ネタ」を読み取ったり読み込んだりしながら感取するのである。
このアニメ声優の「身体」という概念をもって、前節の最後で提起された二つの問いに答えることができる。まず、アニメ・キャラクターの声を読み込むことによって想起されるのは、今井や鈴木が論じるアニメ声優の肉体的存在ではなく、アニメ声優の「身体」である。その「身体」はアニメ声優の肉体的特徴に同定されるのみのものではなく、むしろその肉体的特徴をも含むような様々な対立や矛盾さえ抱えるイメージによって生起されるものであるゆえ、相殺されることなくキャラクターの「身体」生起のプロセスにもすんなりと入ってくる。その場合、声優に詳しい視聴者は実際にキャラクターと近似性を持たないアニメ声優の顔や内面を、キャラクターに見出すことができる。そして、アニメ声優が表舞台に立つ場合は、声優ファンたちは声優の声から、その人物が今まで演じてきたキャラクターのデータを「ネタ」として読み取ったり読み込んだりすることができる。このことによって、声優ファンはアニメ声優を観るとき、キャラクターの「身体」を想起することができ、その「身体」をも意識する形でアニメ声優の「身体」を感取するのである。端的に言えば、アニメ・キャラクターとアニメ声優とのあいだの、身体性をベースにするこの循環的な回路が存在するからこそ、飯島真理とリン・ミンメイとのような近似性がなくとも、キャラクターと声優の同一視が可能になるのである。
すなわち、リミテッド・アニメーションのメカニズムによって生起されるアニメ・キャラクターの「身体」と、アニメ情報誌などの宣伝を通じてスターとなったアニメ声優の「身体」、この二つの条件が揃えばこそ、キャラクターと声優はたとえ年齢、外見、経歴、場合によっては性別[33]さえも共通しなくとも、両者が同一視されることも可能になるのだ。しかし、ここで注意しなければならないのは、このような原理的基盤があるだけでは、必ずしもキャラクターと声優の同一視が一般化されるわけではないことである。言い換えれば、この原理的基盤をベースにしつつ、キャラクターと声優とを重ね合わせながら鑑賞することを活発化させ、普及させる動きが無ければ、昨今よく見られるような同一視現象も起こりえないのだ。結論に入る前に、この観賞の仕方を普及させた功労者の代表格である『アニメージュ』の動きに着目したい。
1986年11月、それまで主に声優の個人的魅力にフォーカスしてきた『アニメージュ』は、「VOICE FLASH!」という新企画を立ち上げ、声優本人にキャラクターを見出そうとする方針を提示した。たとえば三ツ矢雄二と日髙のり子が主演のミュージカルの紹介記事では、二人が抱き合う舞台写真の下に、次のように書かれている。
「キャーッ、やめて!くっつかないで!!」
女の子からも男の子からも、こんな声が聞こえてきそうな名場面をキャッチ!これを撮ったのは「タッチ」のアフレコ終了後、ふたりのあとをつけて、こっそり……。では、ありp.133ません!じつは、さる9月12日(金)~15日(祭)の間、東京・渋谷エピキュラスで上演されたプロジェクト・レヴュー第六回公演・ミュージカル「孤独の夜のサーカス」でのラスト5分前をクローズアップしたものだ。[34]
ここでは、舞台の内容が「タッチ」という二人が共演したアニメと全く無関係であるにもかかわらず、まるでそのキャラクターたちが舞台上の三ツ矢と日高から立ち上がったかのような口調で説明がなされている。これはまさしくアニメ声優の「身体」を観賞するときに、声優によって演じられるキャラクターの「身体」をもその観賞の回路に持ち込むように仕掛けるものだ。そしてこの傾向は、1987年から幾度も組まれたヒット作アニメ「聖闘士星矢」の特集では特に顕著である。キャラクターの看板を持つ声優の写真に付けられた、「声をあてているうちに性格も顔もだんだん似てくるから不思議だ」[35]という説明文から明確に分かるように、『アニメージュ』は「聖闘士星矢」の宣伝を通じて、声優とキャラクターのイメージを融合させてきたのである。それは、アニメ・キャラクターの「身体」とアニメ声優の「身体」との間の循環的回路を確固たるものとし、一般化することに多いに貢献したと言えるだろう。
五 結論
アニメ・キャラクターとアニメ声優を同一視する現象の背後にある原理的基盤は何か。本稿はリミテッド・アニメーションのメカニズムによって生み出されるキャラクターの身体性と、第二次声優ブーム以来アニメ情報誌によってスターダムが構築されるアニメ声優の身体性の両方について議論することで、その解明を試みた。アニメ・キャラクターもアニメ声優も、様々な記号によって生起されるような「身体」──記号とも肉体ともつかぬ、ファンの読み込みを通じてこそ感取可能なもの──の持ち主である。この二つの「身体」があってはじめて、昨今よく見られるような、姿形が全く似通わないアニメ・キャラクターとアニメ声優とが同一視される現象が起こりうるし、本稿の冒頭で言及した櫻井「すぐ役と声優さんを合致するなお前らは!」という言葉もギャグとして成立すると言えるだろう。
本稿の議論は、日本のアニメ、アニメ・キャラクター、そしてアニメ声優にまつわる様々な現象と変容を理解するための土台となると考える。たとえば、今日のアニメ業界においては、「アイドル」系作品、すなわち、キャラクターたちがアイドル活動をし歌い踊るような作品が隆盛し、それらのキャラクターに声を提供するアニメ声優もアイドル化しつつある。このような現象を理解するアプローチとして、「身体」という概念はさらに有用性を増すことになるだろう。また、現在のアニメ声優業界においては、ジェンダーによる差異が見て取れ、男性声優のドラマCDという聴覚的コンテンツへの出演が女性声優と比べて圧倒的に多い傾向がある。このような差異の検討にあたっても、「身体」は手掛かりとなるだろう。
様々な記号、様々なイメージが目まぐるしく織り交ざる中、それらの中間的なところで「身体」という構築物が立ち上がり、アニメ声優とアニメ・キャラクターとの境界を曖昧にさせる。この「身体」を踏まえた上での、日本アニメとアニメ声優に関するさらなる理論的展開が要請p.134されていることを再度主張し、本稿の結びに変えたい。
参考文献
浅見克彦「解題 自己のイドラ スターの夢と幻」『映画スターの<リアリティ> 拡散する「自己」』青弓社、2006年、329-355頁。
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社、2001年。
石田美紀『アニメと声優のメディア史 なぜ女性が少年を演じるのか』青弓社、2020年。
今井隆介「声と主体性 アニメーションにおける声の機能」『ポピュラーカルチャー研究』第1巻第4号、2007年、34-49頁。
佐藤桂一「「第一次・第二次声優ブーム」(1960年代・1970~1980年代)を通して見る声優業の進化と分化 現代日本における声優の歴史(2)」『文学研究論集』第51号、2019年、95-115頁。
須川亜紀子『2.5次元文化論 舞台・キャラクター・ファンダム』青弓社、2021年。
鈴木真吾「サウンド/ヴォイス研究 アニメを奏でる3つの音 アニメにとって音とは何か」『アニメ研究入門 アニメを究める9つのツボ』小山昌宏・須川亜紀子編、現代書館、2013年、96-119頁。
ダイアー、リチャード『映画スターの<リアリティ> 拡散する「自己」』浅見克彦訳、青弓社、2006年。
ドーン、メアリ=アン「映画における声 身体と空間の分節」松田英男訳、『「新」映画理論集成②知覚/表象/読解』岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編、フィルムアート社、1999年、312-327頁。
細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』新潮社、2013年。
堀一輝・堀川瞬「VOCIE FLASH! 特別版 瞬なんてもうかばってやんない!「聖闘士星矢」兄堀一輝 VS 弟堀川瞬対談」『アニメージュ』1987年9月号、徳間書店、193-196頁。
松田咲實『声優白書』オークラ出版、2000年。
四方田犬彦「俳優とスターをめぐる簡単なノート」『日本映画は生きている第5巻 監督と俳優の美学』黒沢清・吉見俊哉・四方田犬彦・李鳳宇編、岩波書店、2010年、155-164頁。
ラマール、トーマス『アニメ・マシーン グローバル・メディアとしての日本アニメーション』藤木秀朗・大﨑晴美訳、名古屋大学出版会、2013年。
「指さきに力がこもる迫真の演技!「タッチ」の達也(三ツ矢雄二)と南(日高のり子)の未来を予告するラブシーン!?」『アニメージュ』1986年11月号、徳間書店、84頁。
Notes
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[1]
「『アクティヴレイド』ニコ生~ダイハチ広報部~」2016年3月8日https://live.nicovideo.jp/watch/lv254467128 (2022年現在は視聴不可)
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[2]
佐藤桂一によると、1977年8月公開の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』は、「第二次アニメブーム」を引き起こすとともに、アニメ声優に対する関心をも活発化させ、「第二次声優ブーム」のきっかけになった。「「第二次声優ブーム」の特徴としては、「雑誌、音楽活動による声優の「顔出し」というような表舞台への登場」、つまり「声優の活動範囲の拡大と、声優という職業的存在の変化」」(2019: 106)という記述からわかるように、「第二次声優ブーム」はアニメ声優のマルチタレント化に拍車をかけただけでなく、「アニメ声優ファン」というコミュニティの顕在化と拡大にも影響を及ぼしたのである。そして、「平成に入ってからは、キャラクターを超え「素」の声優にファンがつき始め」(松田、2000: 13)たことを鑑みれば、アニメ声優のファンダムがアニメ声優のさらなる活躍とともに発展してきたことは疑いない事実であろう。今日では、アニメ声優に強い関心を示し、アニメ声優のことを常に念頭に置いてアニメを観賞する「アニメ声優ファン」は看過できない規模に達している。本稿が扱う「アニメ声優とアニメ・キャラクターとの同一視」現象も、アニメ声優の様々な情報を参照しつつアニメを楽しむ「アニメ声優ファン」の中では特に多発する現象である。以降の議論で使う「ファン」という単語は、特に断りがなければ、「アニメ声優ファン」、少なくとも「アニメ声優に関心のあるアニメファン」のことを指す。
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[3]
四方田犬彦「俳優とスターをめぐる簡単なノート」『監督と俳優の美学』黒沢清・吉見俊哉・四方田犬彦・李鳳宇編、岩波書店、2010年、159頁。
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[4]
須川亜紀子『2.5次元文化論 舞台・キャラクター・ファンダム』青弓社、2021年。
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[5]
今井隆介「声と主体性 アニメーションにおける声の機能」『ポピュラーカルチャー研究』第1巻第3号、京都精華大学表現研究機構、2007年、35頁。
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[6]
同書、37頁。
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[7]
鈴木真吾「サウンド/ヴォイス研究 アニメを奏でる三つの音 アニメにとって音とは何か」『アニメ研究入門 アニメを究める9つのツボ』小山昌宏・須川亜紀子編、現代書館、2013年、111頁。
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[8]
同書、112頁。
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[9]
リミテッド・アニメーションとは、一秒につき24枚の画像を使うフル・アニメーションと対をなすものであり、一秒につき24枚以下の画像を使うアニメーションの技術を指す。以降、特に断りがなければ、「アニメ」がリミテッド・アニメーション、とりわけ日本のリミテッド・アニメーションを、「アニメーション」が、ディズニーがその代表とされるフル・アニメーションを指すものとする。
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[10]
一般的には、1960年代の洋画吹替による声優への関心を「第一次声優ブーム」、1970年代のアニメブームと同時に起きたアニメ声優人気を「第二次声優ブーム」、そして1990年代アニメ声優の大規模なマルチタレント化を「第三次声優ブーム」と称す。
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[11]
トーマス・ラマール『アニメ・マシーン グローバル・メディアとしての日本アニメーション』藤木秀朗・大﨑晴美訳、名古屋大学出版会、2013年、245頁。
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[12]
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社、2001年、20-21頁。
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[13]
ラマールが視覚的記号だけを重んじることには問題点があるが、その問題点については後述する。
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[14]
組立図とは、機械や器具の組立方を示している図像であり、ラマールのいう「組立図」とは、各部品が対角線に沿って並列され、表示されているような分解投影図である。
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[15]
トーマス・ラマール、前掲注(11)、227頁。
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[16]
同書、188頁。
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[17]
同書、183-184頁。
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[18]
細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』新潮社、2013年、271頁。
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[19]
メアリ=アン・ドーン「映画における声 身体と空間の分節」松田英男訳、『[新]映画理論集成②知覚/表象/読解』岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編、フィルムアート社、1999年、312-313頁。
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[20]
細馬宏通、前掲注(18)。
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[21]
同書、334頁。
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[22]
同書、271頁。
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[23]
同書、323頁。
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[24]
メアリ=アン・ドーン、前掲注(19)、318頁。
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[25]
トーマス・ラマール、前掲注(11)、248頁。
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[26]
石田美紀『アニメと声優のメディア史 なぜ女性が少年を演じるのか』青弓社、2020年。
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[27]
同書、121頁。
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[28]
同書、126頁。
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[29]
同書、132頁。
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[30]
同書、135頁。
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[31]
リチャード・ダイアー『映画スターの<リアリティ> 拡散する「自己」』浅見克彦訳、青弓社、2006年、119頁、傍点原文。
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[32]
浅見克彦「解題 自己のイドラ スターの夢と幻」、リチャード・ダイアー『映画スターの<リアリティ> 拡散する「自己」』浅見克彦訳、青弓社、2006年、334-335頁。
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[33]
日本のアニメにおいては、例えば女性声優が少年を演じるという、クロス・ジェンダー的な演出の文脈があり、これは一見アニメ・キャラクターとアニメ声優の同一視を解体する働きのように見える。ところが、石田美紀(2020)による女性声優の緒方恵美に対する考察からわかるように、このような演出は必ずしも、アニメ・キャラクターとアニメ声優の同一視を解体するわけではない。石田によれば、テレビアニメ『幽☆遊☆白書』(1992-95年)の少年キャラクターの蔵馬でデビューした緒方恵美は、蔵馬の人気に応じながら、自分にも「非常に男性的な部分」があるという風に、自身のパーソナリティを少年キャラクターに寄せつつ戦略的に構築したという。この事例から明らかになったのは、少なくとも緒方がデビューした90年代には、「アニメ・キャラクターとアニメ声優を同一視する」という風潮がすでに声優に関心のあるアニメファンの間で浸透しており、キャラクターと性別さえ不一致な声優にも、キャラクターとの接近が要請されていたことである。つまりここでは、クロス・ジェンダー的な演出はアニメ・キャラクターとアニメ声優の同一視を解体したというより、むしろその同一視の風潮に呼応し、声優本人のクロス・ジェンダー的な戦略を促したのである。また、近年では「男性声優が、少年マンガを原作とし、やはり女性人気が高いアニメで少年主人公を演じることが顕著に増えている」(石田、2020: 198)ことからも、アニメ・キャラクターとアニメ声優を重ねて鑑賞したいという根強い欲求があるだろうと推測される。したがって本稿は、アニメ・キャラクターとアニメ声優を同一視する現象は、男性声優にも女性声優にも、そしてクロス・ジェンダー的演出がある場合でも起こりうる事象であると考える。ただし、例えば緒方恵美の場合、彼女の「身体」と重ね合わせつつ観られる少年キャラクターたちの「身体」、あるいは少年キャラクターたちの「身体」と重ね合わせつつ観られる彼女の「身体」から、いかに単にジェンダー規範にもとづくのではない身体性を見出すことができるかについては、さらなる検討が要請される。その検討は、次の機会に譲るとする。
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[34]
「指さきに力がこもる迫真の演技!「タッチ」の達也(三ツ矢雄二)と南(日高のり子)の未来を予告するラブシーン!?」『アニメージュ』1986年11月号、徳間書店、84頁。
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[35]
「VOCIE FLASH! 特別版 瞬なんてもうかばってやんない!「聖闘士星矢」兄堀一輝 VS 弟堀川瞬対談」『アニメージュ』1987年9月号、徳間書店、196頁。
この記事を引用する
程斯「アニメ・キャラクターとアニメ声優を同一視する現象の原理的基盤をめぐる一考察」『Phantastopia』第2号、2023年、122-139ページ、URL : https://phantastopia.com/2/character-seiyuu-dual-phantasmal-vision/。(2024年11月21日閲覧)