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ブックレビュー

トランスフェミニンと共にあり続けてきた女性性エマ・ヒーニー『新しい女性 モダニズム文学、クィア理論、トランスフェミニンの寓話』書評

葛原千景

Emma Heaney

The New Woman: Literary Modernism, Queer Theory, and the Trans Feminine Allegory

Northwestern University Press, 2017

Emma Heaney

The New Woman: Literary Modernism, Queer Theory, and the Trans Feminine Allegory

Northwestern University Press, 2017

エマ・ヒーニーの『The New Woman: Literary Modernism, Queer Theory, and the Trans Feminine Allegory(2017)』は、19世紀後期から現在にまで繰り返されるトランスフェミニンの人々の寓話化allegorizeを問題提起するトランスジェンダー研究にとって重要な研究書のひとつである。本書でヒーニーがとりわけ問題とするのは寓話化、すなわち、ある歴史的な文脈や実際の生活実態から一部のトランスフェミニンの人々の物語を部分的に引きはがし、自らの理論や思想の正当化のための道具とすることである。

トランスフェミニンとは、出生時に男性として割り当てられ、女性であることを引き受ける人々、女性代名詞を使い女性であることを引き受け女性や女性的なジェンダーアイデンティティを公に提示する人々、20世紀西洋の固有の地域の文脈に根づいた女性的なトランスの人々を指す用語である(Heaney 2017 xiii)。また、トランスフェミニンは特定の歴史性や社会性の中で醸成された諸実践を指す言葉でもあり、一時的にそうしたトランスの女性性との関りを持つ男性同性愛者を包含する(xv)。そしてまさに、トランス女性、女性性との関りを持つ男性同性愛者、そうした「過剰な倒錯」との距離をとって規範的な男性性を強調する男性同性愛者の歴史的分割に挑戦するための枠組みといえる(このことは性同一性、性的指向、性表現の区分の必要性を疑問視するわけではない)。

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本書は、序章、1章から4章より成る第一部と、5章と6章より成る二部で構成されている。一部では、西欧において性科学者・精神分析家・モダニズム小説家たちが、いかにトランスフェミニンの人々をジェンダーの外部や謎として形象化してきたかを問題提起する。二部では、そうしたトランスフェミニンの還元が、現在のポスト構造主義・フェミニズム・クィア理論にも引き継がれていることを問題提起し、最後にそうした還元に対抗するトランスフェミニンのマテリアリスト・トランス・フェミニズムを理論化する。1章では、性科学がいかにエキスパートなトランスフェミニンのみを抽出し、そうした性科学のメタファーがいかにオルダス・ハクスリーの小説『リンボー』に顕著かを指摘する。2章ではジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』に、第3章ではジューナ・バーンズの『夜の森』にみられるトランスフェミニンの寓話化の問題を指摘する。4章では、ジャン・ジュネの『花のノートルダム』に見られるトランスフェミニンたちの表象を、当時のトランスフェミニンの人々の経験と照らし合わせながら、肯定的に評価する。第二部の5章では、ロラン・バルトの『S/Z』における去勢された人物の扱い、フーコーのエキュリーヌ・バルバンの扱い、ジュディス・バトラーのトランスフェミニンの扱いが、共通してトランスフェミニンを理論的な道具として扱いながらも、第一部で扱った性科学、精神分析、モダニズム小説に典型的な形象を再強化している点を批判する。最後に6章では、こうした寓話化に対抗的なトランスフェミニンの人々の物質的な生に基づく語りを取り上げる。

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ヒーニーが批判する対象は大きく3つに分けられる。第一に、19世紀後期の性科学者や精神分析家たちが、いかに男性同性愛と女性性の関係性を定式化し、極度の倒錯としてトランスフェミニンとの境界を引いたか。そして、いかに性器中心=シスジェンダー中心の性別概念を正当化するために一部のトランスフェミニンを寓話化しその寓話に適さないトランスフェミニンを看過したかという点が指摘される。ヒーニ―は、前者を専門家の枠組みに沿うエキスパート・トランスフェミニンと名付け、捨象された後者をヴァナキュラー・トランスフェミニンと名付ける。このようなトランスフェミニンの寓話化は、性器こそが女性性を定義するというシスジェンダー中心の性別概念を固着化し、現在の認識枠組みを支配している。そして、トランスの人々に対する差別や心身への暴力を助長している。タリア・メー・ベッチャーが指摘するように、いかにトランスフェミニンの人々が、女性として社会的に認識されたり、女性として欲望されようとも、トランスフォビックな枠組みでは、外性器こそがその人のジェンダーを決定的に定義する「真実」として機能してしまう(Bettcher  2014)。シスジェンダーの人々の多くは、服装、顔立ち、体格、声の調子、ふるまい、名前等から一方的に他者を二分法的に男や女と解釈して、その規範にもとづいた性器の形状を期待し、誤解し、トランスの人々に詐欺師のレッテルを張るのだ(Bettcher 2007)。トランスフェミニンの人々にとって、身体への医療的な介入は、必ずしも彼女たちの女性性を定義する事柄ではなく、より快適に生活するための一つの戦術として語られることが多いことをヒーニーは指摘する(Heaney 157)。

第二に、こうした性科学のセンセーショナルな文脈や、リベラルな新しい女性たちや男性同性愛者たちによってもたらされた男性性の危機に対して、同時代のモダニズム小説家(Aldous Huxley, James Joyce, T. S. Eliot, Djuna Barnes)たちが、西洋の男性的な女性や男性同性愛や新しい女たちに向けられたミソジニーを切り離し、唾棄されるべき「女々しさ」をセックスワークを行う女性たちや寓話化されたトランスフェミニンや東洋に付与し、階級化してしまったことをヒーニーは指摘する。この時、トランスフェミニンは女性性の中に包摂されるのではなく、最終的には男性や女性の境界を侵犯するものとして寓話化されてしまうのである。

第三に、ミシェル・フーコーをはじめとするポスト構造主義者や、ジュディス・バトラーといったクィア理論家たちが、常にその理論形成にトランスフェミニン(や時に性分化疾患の人々)を利用しつつも、いかなる場合もジェンダーの外部に位置づけ、女ではない存在として寓話化してきたことをヒーニーは批判する。しかし、必ずしも女性や男性というカテゴリはシスだけが専有する領域だったわけではなく、性器の状態に関わらず社会的に女性と同等に扱われ、抑圧に曝されながらも女性として生活していたトランスフェミニンの人々は、歴史的事実として存在するのである。文脈や実情から切り離され、時に理論化の最後には消失させられ、常に男女の境界を乱すものとして道具化されてきた。だからこそ『The New Woman』は、トランスフェミニンの歴史を再考するのである。なお、こうした批判的態度は、性別を(性器の形状に関わらず)二つに分割することで諸個人の生を絶対的なものとして規定する性別二元論や、それを下支えする異性愛中心主義に抗することを妨げるものではないことに留意したい。トランスフェミニンの人々(やインターセックスと自己を同定する人々)の中には、ジェンダーバイナリーの区分とそれにまつわる規範に抵抗してきた人々が存在する。トランスに対する差別は必ずしも性別二元論では説明できず、バイナリートランスとノンバイナリーの人々の間に固有且つ連帯的政治が必要である。

これら3つの寓話化の問題点は、トランスフェミニンの人々の性器と性別の関係にしか関心がなく、歴史的・社会的な実態としてこうした人々が女性というカテゴリの中で認識され生活していたということを無視していることである。そして、自身の利害や主張の正当化に利用するために、トランスフェミニンの人々を女性性の絶対的な外部に位置づけてしまうことである。性別というエニグマを解き明かしたり、物語のドラマを提供するための単なる道具としてトランスフェミニンは扱われてきたのだ。

トランスフェミニンの寓話化に対して6章でヒーニ―が提示するのは、女性として抑圧を受け続けているトランスフェミニンの人々たちの物質的な生活に依拠した、マテリアリスト・トランス・フェミニズムである。とりわけ、1970年代のアメリカでセックスワークをしながら、お互いが女性として生き延びるためのコミュニティを作り上げてきたトランスフェミニンたちの生活に基づいた政治を取り上げる。そこで、トランスフェミニンたちの女性性とは決して性器の形状や社会通念のみによって形象化された性別概念に依拠するのではなく、彼女たちの人種や階級や移民としての地位や植民地性やセクシュアリティ、といった社会による抑圧の中で編み上げられたものであることが描かれる。そして、異性装やセックスワークの犯罪化といった、まさに女性化されることによって被る(トランス)ミソジニーや、医学的権威やゲイ男性やレズビアンコミュニティからの排斥といったシスセクシズムの抑圧に対して、フェミニストとしてトランスフェミニンの人々が抗い、より豊かな性の認識を積み上げてきた歴史をヒーニーは再確認する。

とはいえ、『The New Woman』にも限界が存在する。ヒーニーの理論は、必ずしもブッチのレズビアンや時に女性としてみなされることによって類縁的な差別を被るトランスマスキュリンやノンバイナリーの人々の経験を包含するとは言えない。ヒーニ―が女性性を定式化するとき、身体性や社会以前の女性性に基づいた本質化を避け、社会的な意味付けの中で女性として位置づけられることに依拠する。なぜなら、シス女性もトランスフェミニンも女性として認識されることによって、(トランス)ミソジニーの抑圧を受け続けてきたからだ。そして、ヴァギナのみならず、全ての身体は貫かれる可能性を持っているという点から外性器の形状のみを女性の定義として強調する本質主義を否定するからだ(Heaney 297)。

しかし、こうした経験的差異をトランスジェンダー全体の問題として普遍化することなく、あくまでトランスフェミニンの歴史的文脈に議論を行ったことは、むしろ有益であると言える。トランスマスキュリンやブッチ・レズビアン、ノンバイナリーの人々が経験する交差的な抑圧を寓話化せず、個別の歴史性を焦点化した研究が今後よりいっそう求められるだろう。

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また、19世紀後期以後、いかに性別が性器に基づいたシスジェンダー中心の概念として人々に刷り込まれてきたか、そしてそれがトランスの性のあり方を医学的診断や手術のみに依拠させる状況を生み出してきたかというヒーニ―の指摘は、現在ますます高まるトランスフォビアに対抗する言説として非常に重要である。

国際的に扇動され、日本のインターネット上でも可視的なトランスフォビアは、まさに生物学的な本質主義をジェンダー規範に結びつけることに抗ってきたフェミニズムの歴史的仕事を顧みず、性器本質主義に基づいてトランスの人々をシス女性や子供に対する脅威として寓話化する(Hines 2020)。ショーン・フェイが指摘するように、現在トランスジェンダーはセンセーショナルな「イシュー」としてメディアで取り上げられるものの、そうした文脈では常にシスジェンダーの人々の興味関心の対象とされ、トイレやロッカー利用の是非やトランスの子どもたちへ医療アクセスの是非をはじめとするお決まりのトピックに還元される。トランスの人々が今なおこの瞬間にも直面している様々な困難に寄り添った視点でトランスが注目されることは本当に稀である(Faye 2021)。

しかしながら、ヒーニ―が記述してきたように、トランスフェミニンの人々は、他者の思考実験のための道具などでは決してなく、社会を生きる人間なのだ。そして、歴史的にトランスフェミニンの人々は女性として共にあり、(トランス)女性とみなされることによる抑圧を受け続けている。女性という領域には、歴史的にトランスフェミニンの人々たちが存在し、これからも存在し続ける。そのことを無視してはならない。「女性とはシスのカテゴリであったことは決してないのだ(Heaney 20)」。

参考文献

Bettcher, Talia Mae. “Evil Deceivers and Make‐Believers: On Transphobic Violence and The Politics of Illusion.” Hypatia 22.3 (2007): 43-65.
──. “Trapped in the wrong theory: Rethinking trans oppression and resistance,” Signs: Journal of Women in Culture and Society, No.39.2 (2014): 383-406.
Faye, Shon. The Transgender Issue: An Argument for Justice. ‎Penguin Books, 2021.
Heaney, Emma. The New Woman: Literary Modernism, Queer Theory, and the Trans
Feminine Allegory. Northwestern University Press, 2017.
Hines, Sally. “Sex Wars and (Trans)gender Panics: Identity and Body Politics in Contemporary UK Feminism”. The Sociological Review Monographs. 68.4 (2020): 699-717.

執筆者

葛原千景
KUZUHARA Chikage

博士課程。健常性や生殖/再生産を中心とするシスジェンダー規範に基づく時間と、他方から他方への一回限りのジェンダー移行という規範的時間、どちらにも与しないトランスジェンダーの時間について研究しています。

Phantastopia 1
掲載号
『Phantastopia』第1号
2022.03.08発行