東京大学大学院表象文化論コースWebジャーナル
東京大学大学院表象文化論コース
Webジャーナル
論文

神を撲つ『告白的女優論』に至る岡田茉莉子=吉田喜重の方法

高部遼

p.461. 序

岡田茉莉子はその自伝『女優 岡田茉莉子』の中で、晩年の小津安二郎との会話を次のように回想している──

私は小津さんの隣で、楽しくお酒を飲んでいた。やがて、少し酔ってもいたのだろうか、「これまで監督の作品に出た女優のなかでは、誰が四番バッターだと思います?」と、私は小津さんが好きな野球にたとえてお訊きした。小津さんは迷うことなく、「それは杉村春子だよ」と、おっしゃった。
「杉村さんのどこがですか?」と、私がお尋ねすると、それには直接答えられずに、「四番がいなければ、野球にならない」といわれただけだった。「それでは私は、何番バッターですか?」と、お訊きすると、「お嬢さんは一番バッター、トップ・バッターだね」と、楽しそうに笑われた[1]

杉村春子が名女優であることは間違いないが、岡田は彼女が野球の四番バッターのように映画の中心人物として振舞うスターとは思えず、四番バッターには大スター・原節子の名前が出ると思っていただけに、小津の答えを意外に思ったと語る。

さらに岡田は、山本嘉次郎監督の『七色の街』(1952年)に出演した際、デビューしてまもない彼女に山本から「あなたはスターなのに、芝居をするんだね」と言われたと語る。それは彼女の演技を褒めた言葉なのか、それともスターは演技するものではないと注意した言葉なのか、どちらとも取れる意味だったために、スターとして生きるべきか、それとも芝居をする女優として生きるべきか、大きなディレンマに引き裂かれた彼女は苦悩する[2]

エドガール・モランによれば、映画スターは完全に無表情でも成り立つとされる。映画は演劇とは違い、クロースアップやモンタージュなどの技術によってより繊細な表現が可能となるため、誇張された演技を必要としなくなった。人間でない動物や物体でさえも、豊かな表情を演出することが可能であり、映画俳優はモノの状態にまで還元されることが可能となる。こうして映画俳優は「自動人形」と化し、彼/彼女らの演ずる顔や身体、声は、日常生活と同様の「自然らしさ」がカメラの前でも求められるようになる。そしてスターと呼ばれる人物は、この顔、身体、声が、すでに日常生活の中においても、「一種の聖なる神秘の担い手」となるまで高まっているとモランは述べる──「そうしたスターの美は、中国やインドやギリシャの聖なるp.47マスクと同じくらいに感動的で魔術的で効果的でありうるし、彫像の美と同じくらい雄弁でありうるのだ」[3]。「スターなのに、芝居をする」と語る山本嘉次郎もまた、スターはモノの状態ですでに魔術的であると考えていたのだろう。しかし、岡田はこの思想から逸脱してゆく。

サイレント時代の映画スター・岡田時彦と宝塚歌劇団のスター女優・田鶴園子の娘であり、芸名の名付け親は谷崎潤一郎、デビュー作は成瀬巳喜男の『舞姫』(1951年)という、あまりに恵まれた環境で育った映画界のサラブレッドでありながら、彼女の苦悩、その問題意識は深く女優としての彼女の人生に影を落としている。本論文は、映画女優と映画スターの狭間を揺れ動く中で、いかに岡田茉莉子がスターである自分のイメージと実際の自分との相克を演技によって乗り越えてきたのか、その方法を問うことにする。扱う作品は主に吉田喜重作品が中心だが、特に『情炎』(1967年)と『告白的女優論』(1971年)を詳細に論じ、後者の作品で大きく展開されることになる映画女優論へと彼女の問いを繋げることを試みる。

2. 複数の岡田茉莉子──問題の所在

岡田茉莉子は1951年6月2日に東宝演技研究所に入所してから2週間後、突然撮影所のスタジオへ呼ばれて成瀬巳喜男の『舞姫』のためのカメラテストをすることとなるが、そもそも岡田は(この時はまだ本名(旧姓)の田中鞠子であった)当初、映画俳優になろうとは思っていなかった。しかし、叔父や母から映画俳優になるよう説得され、亡き父・岡田時彦に対する「宿命」から研究所に入所したと自伝にはある。この演技研究所は、本来であれば半年間の養成期間を終えて選ばれた人のみがニューフェースとして映画にデビューできるのだが、わずか2週間でデビューが決まった彼女は異例であった。デビューが決まるとすぐに映画プロデューサーと共に熱海の谷崎潤一郎の自宅へ向かい、芸名をもらうことになる。岡田茉莉子の父、岡田時彦もまた、谷崎から芸名をもらっており、父と同じ岡田姓がいいと谷崎が判断してこの名前になったとされる[4]

岡田茉莉子は、自らの意思で「岡田茉莉子」になったわけではなく、母や叔父、撮影所、そして亡き父の見えざる手によってつくり上げられた。サイレント時代のスター・岡田時彦の子供として売り出すために、映画制作者たちは彼女を次世代のスターとして準備し、加工し、つくり上げ、商品化する。ここには当時のスター・システムの生々しい製造過程が描かれているが、岡田は日本映画の第2の黄金時代と呼ばれる1950年代のスタジオ・システムの圧倒的な勢いに翻弄され、戸惑いながら、自己のアイデンティティの危機に対峙する──

数日後、撮影所のなかの試写室で、私は「ラッシュ」をはじめて見せられた。撮影した場面のフィルムを上映して、監督やスタッフが参考までに見るのだが、私はスクリーンに映しだされる私の姿を、そのとき、はじめて見たのである。
それは、私ではなかった。私によく似た誰かが、台詞をいい、演技をしている。変な声! 嫌な顔! その場に居たたまれない気持ちで一杯だった[5]

p.48この記述からは、それから20年後に撮影されることになる『告白的女優論』のあるシークエンスを思い起こさせるであろう。濡れ場の撮影を終えた浅丘ルリ子が、直前の自分のセリフの録音を聞いて、思わず「恥ずかしいわ」と漏らす場面である。映画俳優でない我々にも、自分の声の録音を聞いて不快な思いをした経験は少なからずあると思うが、岡田は自分自身と、複製され映しだされる自分のイメージとのずれに引き裂かれ、「自己喪失症とでも呼べそうな危険な精神状態」に見舞われる──「私を取りもどしたい、私は私。女優としての岡田茉莉子の名を、私は認めたくなかったのである」[6]。当時18歳の少女の素朴な反応として微笑ましく読めるものの、「ほんとうの私」とは何であるか、それは一体存在するのか、むしろ「ほんとうの私」と思っていたものこそ虚構じみて見えてしまうのではないかという、のちの『告白的女優論』まで貫く岡田の大きな問いの萌芽がここに読み取れる。

その後岡田は月に一本のペースで映画に出演するが、その度に演じさせられる役のイメージが固定されてゆくのを、彼女は苦々しく思っていた。アプレゲール娘を演じた『思春期』(丸山誠治監督、1952年)や、温泉芸者を演じた『芸者小夏』(杉江敏男監督、1954年)といった映画がヒットするたびに、スターとしての岡田茉莉子のイメージが定着し、同じような役が再び与えられる。そして1955年、彼女は成瀬巳喜男の『浮雲』に、温泉宿の女の役として出演するのである。岡田はこの映画で共演した主演の高峰秀子や森雅之を間近で見て、「自分自身を演じてい」る演技を感じ取ったという。そして彼女らに触発されて岡田も、与えられた役を演じるだけでなく、「私自身を演じたい、私自身を表現したい」という思いに駆られるようになる[7]。与えられたスターのイメージ、レッテルに抵抗したいという意思がこの頃から芽生え、「岡田茉莉子を岡田茉莉子である私自身が演じるという、実現不可能な夢」[8]を、彼女は追い求めるようになる。

しかし、「岡田茉莉子」を「岡田茉莉子」が演じるとは、一体どういうことか。それは彼女の言う通り「実現不可能」なことなのではないか。与えられた役のイメージとしての「岡田茉莉子」も、「私自身」であるところの「岡田茉莉子」も、どちらも虚構にすぎないだろう。前者の「岡田茉莉子」は、映画会社が、あるいは大衆の欲望の眼差しが作り上げた虚構のイメージに違いない。そして後者の「岡田茉莉子」もまた、作り上げられた虚構のイメージへの反応・反発によって新たに作り上げられ、二次的に捏造されたものに他ならない。

リチャード・ダイアーによれば、スターのイメージは「プロモーション」、「パブリシティ」、「映画」、「批評と解説」という、複数のメディア・テクストから重層的に構築される。制作サイドからの意識的なイメージの創出が「プロモーション」であるのに対し、ここでいう「パブリシティ」とは意識的でないイメージ形成のことであり、新聞や雑誌、テレビでのインタビューなどによって新たに発見されるものを指す。例えば、マリリン・モンローの場合、「セックス・シンボル」とは異なる無垢なブロンド少女というオルタナティブのイメージがそれである。ダイアーによれば、「パブリシティに関して重要なのは、ハリウッドが売り出そうとするイメージから、外見上、あるいは実際にもずれていることによって、それがより「本当」らしく思われp.49るという点」だという[9]。だが、それが「本当」らしく思われても、実際に「本当」であるかどうかはわからない。重層的に織り上げられたイメージからは、無垢な「ほんとうの私」など識別不可能だからだ。ダイアーによると、スターは役者の本当の存在と、彼/彼女が演ずるキャラクターとの区別が切り崩されていると述べる[10]

岡田は、映画会社から一方的に押し付けられた「岡田茉莉子」のイメージから逃れるべく、東宝を退社してフリーとなり、その後松竹に入社して数々のメロドラマ映画に出演する。メロドラマに出演することは彼女の希望であり、「岡田茉莉子らしいメロドラマ、女優が与えられた役を演じるのではなく、岡田茉莉子自身を私自身が演じることができるのは、メロドラマかもしれない」[11]と、彼女はついにデビュー当時から抱いていた問題を解決できたかのように見える。

だが、「ほんとうの私」としての「岡田茉莉子」が何であるのか、その実体を掴むのが本質的に不可能である以上、「岡田茉莉子らしいメロドラマ」というイメージも、新たに捏造されたものに過ぎないだろう。岡田は、渋谷実や大庭秀雄、木下恵介、そして小津安二郎らのいた松竹大船撮影所という「家庭的な雰囲気」[12]の中で、非常に幸福な時間を過ごしていたと振り返る。確かに、松竹の「巨匠」たちの映画に登場する岡田の演技は、とても生き生きした、素晴らしいものであることは間違いない。だが、岡田自身、再び女優としての人生に問いを突きつけられるほど衝撃を受け、目を覚ますきっかけをつくったのは、吉田喜重に他ならなかった。

岡田は1962年に自らプロデュースした『秋津温泉』の監督として吉田を起用し、その翌年の1963年、彼女は多くの女優賞を受賞したが、その受賞パーティーで彼女は女優引退宣言をしようか迷ったという。それは、もうこれ以上映画女優として高い評価を得られることはないだろうと思い、喜びのうちに引退したいと考えていたからだと述べている[13]。ちょうどこの年の12月、小津安二郎は60歳で亡くなり、そして原節子も表舞台から姿を消すことになる。もっとも岡田はパーティー会場で母や吉田から説得されることで引退を諦める。おそらく、彼女はスターのまま「喜びのうちに」引退することを妨げるような、不確かにわだかまる問いの存在がまだ残っていたのではあるまいか。

不確かにわだかまる彼女の問いは、吉田の次回作『嵐を呼ぶ十八人』(1963年)を見ることによって決定的に叩きつけられることになる。これを観客席で見た彼女は次のように語る──「「私は、なにをしていたのだろう? これまで私が出演した映画は、なんだったのだろう?」私自身にそう問いかけたくなるほどの強い衝撃を受け、しばらく席を立つことができなかった」[14]。それが「映画らしい映画」ではなかったことから、「映画というものは自明の存在ではない」ことに彼女は気がつくが、この言葉はそのまま、「岡田茉莉子というものは自明の存在ではない」とも言い換えられうるだろう。彼女の女優人生はこの瞬間から更なる変貌を遂げてゆくのであり、我々の分析もまた、これ以後の岡田茉莉子を対象にする。

岡田が『嵐を呼ぶ十八人』を見ていた時期、彼女は大庭秀雄監督の『残菊物語』(1963年)の撮影中であったが、この映画の登場人物である尾上菊之助の問題意識が、岡田の問いと重なり合って響くように見えるのは偶然だろうか。岡田は、ちょうど菊之助が自らの芸に疑問を抱いp.50て家を出てゆくのと同様、「家庭的な雰囲気」であった松竹を翌年退社するのであった。

3. ただひとつの岡田茉莉子──方法としての身体

松竹を退社し、吉田とともに現代映画社を設立して初めてつくられた映画『女のみづうみ』(1966年)のあるシークエンスを見てみよう。

夏の日盛りの海辺、露口茂と岡田茉莉子[15]がこちらへ向かって歩いている。上着を肩に乗せて気怠そうに歩く露口の後ろを追う岡田。2人の視線の先には、廃船の周りでポルノ映画の撮影をしているスタッフたちがいる。レールの上をカメラが横切り、レフ板を持った男たち数名に囲まれて、若い男女が抱き合っている。サングラスをかけた監督と思わしき男は、若い女の顔を強く掴んで、演技指導をしている。そのやり方が少々強引なためか、彼女の表情は固く苦しそうな顔をしている。ポルノ撮影の現場を素通りして、再び歩き出す露口と岡田。しばらくして立ち止まり、再度撮影現場を遠くから見物する。その間、セリフはなく、聞こえてくるのは風の音と、潮騒、カメラの回る音、そして池野成による静かな音楽だけである。

岡田はストーカーのようにつきまとう露口に自身のヌード写真を盗まれたことから、彼の後を追って取り返しにきたわけであるが、なぜか海辺で2人の仲は縮まり、海岸の岩場で一緒に親しく撮影の手伝いをやりだす。すると、突然画面外から女の鋭い叫び声が聞こえてくる。慌てて駆けつける2人。撮影中の若い女が上半身裸でうずくまり、咽び泣いているのだった。岡田と露口は彼女を連れて、先ほどの廃船の場所へ戻るが、いきなりその女は逃げ出してどこかへ行ってしまう。残された2人。周囲には誰もいない。岡田が廃船の中へ入るとそこへ引き込まれるように露口も中へ入り、そして2人は静かに抱き合う。この間、11分にも亘って一言もセリフが発せられない。

彼女がなぜ、ストーカーのようにつきまとっていた男を廃船の中へ自ら誘うようにして抱き合うことになるのか、その心情は彼女の口から説明されない。我々はただ、時間をかけて徐々に近づき合う2人の運動を見るだけである。このときの演技について、岡田は次のように述べる──

このように演技の意味が、あらかじめ決められていない演技をすること、それが吉田の意図だと、私なりに理解し、自分の肉体の動くまま、表情の動くままに、演技した。それが台詞のまったくない、あの長い抱擁シーンを演じたときの、私のいつわりのない気持ちだった[16]

ポルノ映画の撮影現場で見られた男女の抱擁を反復するかのように、岡田と露口は廃船の中で抱き合う。しかし、ポルノ映画の監督が強引なやり方で演技指導していたのとは異なり、吉田はほとんど俳優たちに演技指導をしなかったという──

p.51吉田は私たち俳優、そしてスタッフになにも説明せず、ワン・カットずつ、素早く撮りつづけた。私たちの演技を見ながら、その場で次のカットを発想するといった、吉田の現場を重視する演出に圧倒されて、私も私自身の体が、知らぬまに私に演じさせてくれる、そういった思いで、演技をしていた[17]

すでに観客に読み取られてしまった演技をなぞるようにして演じるのではなく、「あらかじめ決められていない演技をすること」。2組の男女の抱擁を反復して撮影することによって浮き彫りになるのは、この差異にほかならない。ポルノ映画撮影での単純化された演技に対して、岡田のパフォーマンスからは、一義的に意味を決定することが不可能な、身体の両義的な揺らぎに身を任せて、「肉体の動くままに」動く様子が感覚的に伝わるだろう。

岡田は続く『情炎』での抱擁シーンについても、「それは私にとって、演技といえるようなものではなかった。演じていることの意味を私自身忘れさり、ただ身体を動かすしかない、演技というよりおそらく舞踊に近いものだったのだろう」[18]と述べている。「私の身体が、本能的に演じるだけである」[19]とも語る彼女の演技は、ある種身体と身体の反射運動に近いような演技であると言えるかもしれない。そしてこの演技方法は、『さらば夏の光』(1968年)においても実践される。この映画のラストシーンの撮影について岡田はこう振り返る──

吉田は、私に簡単な動きを説明しただけで、噴水の彼方にあるカメラのほうに行き、望遠レンズが私を撮りはじめた。私は一瞬、孤独だった。私は動くしかない。演技をしているというより、私は自分の身体がおのずから動くに任せるしかない。それは同時に、この私の身体と私自身がひとつになれる、もっとも充実している瞬間でもあった[20]

あらかじめ決められた「岡田茉莉子」のイメージを優先させるのではなく、彼女の「動くまま」の身体を優先させること。それは複数のイメージからなる「岡田茉莉子」ではなく、岡田茉莉子のただひとつの身体(もちろんこの身体には複数のベクトルに向かって揺れ動き変化する運動がある)を信頼することであり、それが松竹を退社して吉田とともに発見した、彼女の新たな演技方法であったのだ。

だが、岡田の身体の「本能的」な運動にも関わらず、吉田の映画には「身体性」が欠けているという批評が数多くあることも事実である。斎藤綾子は、「不思議なことに、岡田茉莉子の圧倒的な現前性と存在感にもかかわらず、なぜか「女がいない」という強迫的な思いを私は拭い去ることができない」と述べ、吉田の映画において「女」は、「不在性」を映し出す鏡であると解釈している[21]。さらに斎藤は、矢島翠の次の文章を引用して、自説を裏付ける。「それぞれの人物は性格をはぎとられて「役割」に還元され、映画は人物の「関係」のドラマへと還元されていく。そうした吉田の世界は、しだいに空気が希薄になるようで、現実感にとぼしい。この非現実感は、人工的な世界のそれではなく、何かが欠けている世界という印象から生まれるものだ。この世界にはすべてのものから、それぞれに何かが欠けている」[22]

p.52こうした印象が吉田映画に見られるのは否めないだろう。しかし、岡田の「不在性」が強調されるあまり、映像テクストを通して見られる彼女の具体的なパフォーマンスから容易に眼を逸らしてしまう危険性があることも事実なのではないだろうか。斎藤はジェンダー論の視点から精神分析を援用して吉田作品を論じるが、そこで彼女が明らかにするのは、吉田がいかに女性の視線を「専有化」して「語りのポジション」を獲得するかという「語り」の構造分析であった。だが、吉田映画の魅力は、そうした「語り」以前に、映像テクストの次元において見るものを強烈に惹きつけているといえるだろう。吉田映画では「それぞれの人物は性格をはぎとられて」いるものの、それは決して「「役割」に還元され」ているわけではない。むしろ、単純に還元される「役割」から積極的に逃れる運動こそ、岡田の方法ではなかったか。

吉田映画に対する批評に亡霊の如くつきまとうこの「不在性」という言葉から岡田を解放するにはどうすればよいのか。そのためには、我々の側に潜む「見るという行為への不信」[23]に自覚的である必要があるだろう。吉田の「見ることのアナーキズム」のテクストによると、視覚は、他の知覚と異なり、自らの肉体の中へ容易に組み込むことのできない冷ややかな知覚であり、他者との出会いがなんの結実もないままに宙吊りにされてしまう状態だという。この状態に耐えかねて人は言葉を求め、見ることをやめて読もうとしてしまう。絵画を見るときの、その不確かな宙吊り状態からくる見ることへの「不信」について、吉田自身、次のように告白する──

私の視線がとらえる絵はブーメランの遊戯のように、私自身に舞いもどってきてしまう。私には私自身のことしか考えられないきわめて狭量な固執がそうさせてしまうにしても、ひとつのフォルム、質感、色彩がそれぞれ関係をたちきられ、眼のさきに漂い、それら全体をつらぬきとおす連続、ひとつのイメージが私には喚起されない。
私はうろたえ、あわてて言葉を捜しもとめ、それが徒労にすぎないことを知ったとき、私は絵を見ている私自身に、そのどうしようもなく変わらぬ自分自身に気づいて辟易するのである[24]

我々が岡田茉莉子のイメージを見る際も、この見ることへの「不信」が働いていると言えるのではないだろうか。言葉による「説明」を跳ね返す岡田の身体イメージは、ただ我々の「眼のさきに漂」うだけで、自らの肉体の内側へ捉え入れ呑み込むことができない。この空虚な宙吊り状態から逃れようと、ひとたび言葉によって捉えてしまうと、彼女の身体イメージはたちまち他者としての存在を奪われて、「不在性」という言葉に置き換えられてしまう。彼女の身体に「不在性」を認める前に、我々は岡田茉莉子の姿から眼を逸らさずに正しく見ることができているのかという、より根源的な問いから出発する必要があるだろう。

松本清張原作、大曾根辰保監督の映画『顔』(1957年)では、東京行きの列車で殺人事件を起こした岡田茉莉子を目撃した大木実が、警察署で彼女の指名手配用のモンタージュ写真を作るシーンがあるが、その写真は岡田の顔に少しも似ていない(図1、2)。岡田に恋心を抱いたp.53大木が彼女を助けるためにわざと全く似ていないモンタージュ写真を作ったのだろうと物語の文脈から解釈することもできるが、そもそも彼女の顔を想像の中だけで再構築することなど不可能なのである。映画のセリフでも語られるように、彼女の顔がいかに「一度見たら最後、決して忘れられない顔」をしていたとしても、我々は記憶の中のイメージを頼りにするのではなく、画面に映る彼女のイメージを注視する必要がある。なぜならば、吉田映画における彼女は、あらかじめ決められたイメージから常に逸脱し続ける女優に他ならないからだ。

(図1)映画『顔』、大曾根辰保監督、1957年

(図2)映画『顔』、大曾根辰保監督、1957年

4. 失語の地点から──『情炎』における変貌

映画会社から一方的に押し付けられた役や、様々なメディア・テクストによって作り上げられた固定的なイメージから逸脱して、「肉体の動くまま」に演技をすることで、映画スターでありながら演技をするというディレンマを乗り越えたかに見える岡田茉莉子だが、果たして彼女の言葉をどこまで信用して良いのかという問題にも意識的であるべきであろう。岡田の言う通り、吉田とともに作られた一連の岡田茉莉子主演作品を見てみると、まるで「舞踊」のようになめらかに、心地よく演じられているのが感覚的に理解できる。しかし、それはあくまでも「感覚的」に伝わるのであって、言語化して論理的に説明することには困難がつきまとってしまう。本当に彼女が「本能的」に、「肉体の動くまま」に演技をしているのか、映像テクストから内在的に確証することは不可能だからである。

例えば、『情炎』の次のショットを見てみよう。洋館の一室に住む労働者(高橋悦史)の部屋へ入った岡田は、これ以上自分の義妹(しめぎしがこ)に手を出さないでほしいと懇願するのだが、却って自分が高橋に犯されてしまう。しかし、むしろ岡田は自分から進んで高橋に犯されに行ったのだと後でセリフによって語られるように、そこには両義的な欲望の揺らぎがある。岡田は当初、迫り来る高橋の手から逃れるのだが、木の柱の前に来ると、徐々に2人の距離は縮まる。カメラが左回りに回転し始めて間もなく、岡田は顔を歪ませて高橋の愛撫を拒み(図3)、身を翻して彼から体を離す。カメラが半回転すると、彼女は高橋の眼を見つめながら身を引いp.54ていく(図4)。そしてその眼に引き寄せられながら、再度高橋は岡田を強く抱きしめる。その時の彼女の表情は、図3と比べ穏やかになっている(図5)。カメラが3/4回転すると再び岡田は身を離すが(図6)、カメラが1周すると高橋によって動きを封じられる。その時の彼女の表情は、次第に弛緩しているのがわかる(図7)。だが、その直後、彼女は勢い良く高橋から身を翻す(図8)。その時の勢いで、岡田の着物は徐々にはだけ、肩が露わになってくる。そしてカメラが1周半回ったところで岡田はしばらく木の柱にもたれ懸かり、じっと停止する(図9)。次に彼女が動き出すのは、カメラが2周半を迎えるときである。岡田は高橋の眼をじっと見つめる(図10)。そして彼女は抵抗することなく彼の愛撫を正面から受け止める(図11)。カメラがちょうど3回転目を迎える時、岡田は恍惚的な表情を浮かべて崩れ落ちるのである(図12)。

(図3)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

(図4)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

(図5)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

(図6)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

(図7)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

(図8)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

p.55

(図9)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

(図10)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

(図11)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

(図12)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

カメラが回転するたび岡田の表情が変わっていくこのショットは、彼女の言う通り「舞踊」的な演技と言えるのかもしれない。まるで踊るように岡田と高橋は身を引き離しては近づき、両義的な欲望の揺れを身体的に表現している。その後のシークエンスで岡田が再びこの洋館を訪れた際に、この部屋の上でバレエダンスのレッスンがあったことは、決して偶然ではないだろう(図13)。この洋館に人々は踊りにやってくるのである。

(図13)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

p.56だが、これが本当に彼女の「本能」の「動くまま」だったのかどうか、確かめることはできない。もしこれを彼女の「動くまま」と理解してしまうと、彼女が身を委ねたのも自発的な動きだったと捉えられ、単なるレイプを正当化してしまうことにもなりかねない。もしかしたら彼女は高橋のことなど少しも求めておらず、身を許すふりをしただけかもしれない。映像だけを内在的に見て彼女の心理を一義的に解釈することは不可能なのである。

俳優がいかなる方法で演技をしていたのか把握するためには、映像テクストだけでは限界があり、俳優本人の語る外在的なテクストにある程度頼らざるを得なくなる。おそらくここに、俳優の演技について語ることの困難があると言えるのだろう。蓮實重彦は岡田との対談において、俳優を語ることの困難について次のように語っている──

岡田茉莉子さんを、どう評価したらよいのか、これは私にとって困難きわまりない問題です。私は一九六九年に初めて映画批評を書き、今日まで四十年もこの仕事をしてきましたが、俳優とは何かということを本気で理論化しようとしたことは、一度もありません。〔…〕
俳優とは私にとってあくまで謎であり、俳優というものについて考え始めるとついに考えがまとまらなくなってしまいます。俳優とは、未だに私を遠くから招きつつ、近づいていくと姿を消してしまう謎めいた存在であるように思います。〔…〕いつも楽しいことを言って笑わせてくださる岡田さんですが、スクリーンの中では普段の印象とは全く違います。いや、違うというより、岡田茉莉子でいて岡田茉莉子でない何かへと変貌している、言ったほうがいい。〔…〕
そんな私にできることは、吉田喜重作品の岡田さんは素晴らしい、小津さんに出た岡田さんも素晴らしい、成瀬さんに出た岡田さんもすばらしいと、心に触れた作品を芸もなく列挙することでしかありません[25]

蓮實は俳優という「謎めいた存在」を前にして失語に陥ってしまう。自分ではない人物を演じ、肉体の「動くまま」に演技をする岡田は、日常の岡田茉莉子とは全く異なる何かへと変貌していく。しかし、この変貌してゆく運動はあまりに曖昧であり、ただ感覚的に知覚されるのみで、映像から彼女の内面的な心理や演技の意味を内在的に決定することは不可能である。おそらくここに俳優を「本気で理論化」することの不可能性、すなわち失語の原因があるのだろう。そして、失語に陥るのは蓮實だけではない。『告白的女優論』の冒頭で岡田茉莉子は失語症となって現れるが、それは映画スターそのものが失語症的徴候を持つ存在なのだということを示していよう[26]

『情炎』で岡田は趣味であった短歌を辞めてしまったことから、彫刻家の木村に「歌を忘れたカナリア」と呼ばれることになる。木村は彫刻家として毎日「物言わぬ石」と向き合っているが、彼が愛撫する岡田の顔もまた、まるで「物言わぬ石」のように固まって動かない(図14)。この映画のラスト、木村は彫っていた巨大な石の下敷きに遭い、半身不随となって入院するが、そのとき窓に向かって岡田が発したセリフには声が入っておらず、何を言っているのか聞き取p.57ることができない(図15)。この映画で岡田はまさに「歌を忘れたカナリア」のように声を発することのできない存在となって画面に現れるのである。

(図14)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

(図15)映画『情炎』、吉田喜重監督、1967年

『女のみづうみ』におけるセリフのない抱擁シーンや、『さらば夏の光』における自分の過去を話したがらない女の役からもわかるように、吉田の撮る岡田は物静かに沈黙していることが多い。あるいは、何かしゃべっていたとしても、編集で声が消されて、その上から全く異なるオフの声が挿入されていることも見られる。たとえ文学的に修飾されたセリフを饒舌に吐いていたとしても、重要なのは岡田の身体そのものなのであって、言葉による説明ではない。彼女は自分の欲望を言葉によって説明することができず、ただ身体で表すのみである。

そもそも映画俳優ははじめ、声を奪われた存在であった。岡田茉莉子の父である岡田時彦はサイレント映画にしか出演しなかったので、長い間父の肉声を彼女は聞いたことがなかったという。岡田時彦は生前、自分は「声があまり良くないから、トーキーになったら僕は監督になるかな」[27]と語っていたとされ、彼は声を出すことを自ら禁じていたのであった。

では、失語症の映画スターが、いかにして自らを「告白」することができるのか。『告白的女優論』において展開されるこの問いは、これまでの吉田における一連の岡田茉莉子主演作品から続いている問題にほかならない。

5. 声なき「告白」──『告白的女優論』における「ずれ」

『告白的女優論』は、しばしば批評家に「失敗作」だと貶められてきた。筒井武文は、吉田との対談で次のように語っている。「実は僕はこの作品が吉田監督作品のなかでの唯一の失敗作ではないかと思っているんです。先ほども話題に出ましたが「ずれ」がなく、対象との距離感が揺れている感じがします。あまりにも吉田的な内容ゆえなのでしょうか」。それに対し、吉田は次のように答える。「これは私の作品のなかでも、ダイアローグが多いのです。映画スターは話をする。ダイアローグで語ることが仕事ですから、ダイアローグが多くなるのは当然だと、私が私自身に許してしまったからでしょう。編集をしているときに、それに気づき、修正しよp.58うとしましたが、無理でした。確かに映画スター3人を主役にしたばかりに、ダイアローグが過剰になってしまいました」[28]。吉田の言う通り、この映画にはセリフが多いが、我々は岡田茉莉子の身体について記述している以上、この過剰なセリフに幻惑されてはいけない。筒井はこの映画には「ずれ」がないと語るが、その実この作品には「ずれ」が至る所に現れ、その差異によって新たなフィクションが仮構されていくダイナミズムが存在していると言える。そしてその「ずれ」から、女優としての岡田の声なき「告白」を視覚的に聴き取ることができるのである。

この映画には3人のスター女優が登場するが、その女優たちには、さらに3重の人物像が重ねられている。1つは、この映画に登場する女優本人(岡田茉莉子、浅丘ルリ子、有馬稲子)、もう1つはこの映画で演じられる役の人物(一森笙子、海堂あき、伊作万紀子)、そしてその人物たちが映画内映画で演じる役の3種類である。女優が自分とは異なる別の誰かを演じることで、オリジナルはコピーとなり、そのコピーがまた別の誰かのコピーとなる。幾重にも折り重なったコピーからは、もはやオリジナルなど消失し、虚構の存在だけが残る。だが、そのコピーとコピーの間には「ずれ」が必然的に介在する。他人の人生を反復することによって生じる差異そのものが、新たな意味形成の場になるとも言えるだろう。

この映画の中盤で、岡田茉莉子は夢で見たという自分の夫の不倫の光景を、精神分析医と共に自宅で再現するシーンがある。このシーンは、シナリオの内容を舞台上で再現すると同時に、夢の光景を映画内の現実で再現するという2重の反復が見られる。この2重の反復から生じる「ずれ」を詳細に見ていこう。

岡田(ここでの役名は一森笙子)は、夫の不倫という夢が暗示するものを診断してもらうため、菅貫太郎扮する医師の波多と三國連太郎扮するマネージャーの南川、そして女優志望の若い付き人・リエ(太地喜和子)の4人で夢の中の状況を再現する。シナリオのト書きには「この会話のあいだに、四人の人物はそれぞれの位置に自由に動いていく」[29]とある。ト書きにはわずかながら4人の動作の指示が書かれてあるものの、実際の映像とは乖離が見られる。おそらく現場の中で刻々と生成変化してゆく流れの中から、俳優の動作、位置、セリフ、カメラポジションなどがその場で決定されていったのだと考えられる。吉田はこうした自身の演出方法について、筒井との対談の中で次のように語っている。

直感というより、映画は現場でしかないという発想です。木下さん〔木下恵介〕演出を間近かに見ていて、コンテを作らない方が映画が活き活きするということがわかったからでしょう。コンテを作ることは、あらかじめ想定された映像を再現しているにすぎない。それは映画表現がもつ偶然性、そのかぎりない魅力を捨て去ることです。俳優が訓練して演技すれば、それは舞台と同じです。むしろ訓練によっては身につけることのできない演技、それは現場で、俳優の動きのなかに発見するしかないのです。ましてや現場には、予測のできない光がある。生きた空間がある。それと向き合うことが、映画の歓びなのです[30]

p.59吉田の言葉通り、この映画でもシナリオ通りに映像を再現するのではなく、俳優の動きやその偶然性を重視することで、予測のできない「生きた空間」を演出していると考えられる。ト書きでは、「笙子は階段をおり、客間の椅子に坐り、波多医師はその正面のソファに招待され、南川はやや離れたフロァスタンドの下の、スツールに腰かけ、リエは客間がみとおせる台所にいた」[31]とあるが、実際には岡田は客間の椅子には座らず立ち止まり、波多はソファには招待されず上着を椅子に掛ける。南川はスツールには腰かけず立っており、岡田がセリフを発している間、なぜか突然ポケットから手を取り出して何か言いかけようとするが、すぐにやめてその手で顔を掻く(図16)。このセットに「客間がみとおせる台所」は映らず、リエは隣室から扉を開けてこの客間へ入ってくる。このようにシナリオに書かれた内容と、画面に映る実際の演技には、微細ながら「ずれ」がある。

(図16)映画『告白的女優論』、吉田喜重監督、1971年

さらに、こうしたシナリオと映像の「ずれ」とは異なるレベルで、岡田が夢で見た内容と、映画内における実際の光景にも「ずれ」が生じる。岡田は夢の中で階段の上から夫とリエが抱き合っているところを目撃するのだが、実際にその場に立ってみると、彼女の眼の位置からではその2人が本当に夫とリエであるか否か確かめられないことが明らかになる(図17、18)。

(図17)映画『告白的女優論』、吉田喜重監督、1971年

(図18)映画『告白的女優論』、吉田喜重監督、1971年

p.60それが本当に夫であるか見えていないのにも関わらず、夫だと思ってしまった岡田は、吉田の「見ることのアナーキズム」の言葉を使えば、見ることをやめて読もうとしてしまったのだと言えるだろう。彼女はここで「見ることの不信」に陥り、見る以前に勝手に想像を膨らませてそれが夫であったと信じ込んでしまうのであった。波多はこの「ずれ」について、「このような軽率さは夢の中にはありがちなことです。それがこの場合、重要な意味を持っているのかもしれない」と述べて、岡田の意識下に眠る欲望を分析し、彼女はこのような光景を自ら進んで望んでいるのだと解釈する。この論文の目的は岡田の精神分析ではないので、波多の解釈が妥当であるかどうかはここでは問わない。ただ、「ずれ」によって生じる変化を分析することで、「肉体の動くまま」に動いているとされる岡田の、撮影現場における変貌の力学を見てとることが可能になると言えるのではないだろうか。

夢の再現という劇中劇に対して行われたこの方法を、この映画それ自体に対して再帰的に適用しよう。マネージャーの南川は、岡田が夢で見た男女の抱擁は、実は岡田が過去に抱いてきた男たちだったと解釈して次のように述べるセリフがある。

南川「さあ、次の男は誰だ。え? ああ、あの男か。北海道で出会ったスキーの青年。それともパリで知り合った飛行機のパイロットか? さあ、言うんだ。君は今まで関係のあった男の名を全部挙げるんだ。最初は確か、真黒に陽焼けした、獣の匂いのする俳優だった」

このセリフの直後、岡田は南川の頬を激しく平手打ちする(図19)。南川は続けてセリフを述べる。

南川「次はサッカーの選手、売り出しの小説家、スキーの選手にパイロット! まだまだある! 君は男たちの名前を全部覚えていないだろう。へへへ、だが、正確にその男たちの名前を僕は言えるんだ」

(図19)映画『告白的女優論』、吉田喜重監督、1971年

p.61このシーンのシナリオを見ると、南川のセリフ、そして岡田の身振りには乖離が見られるのがわかる。このシーンの箇所を引用しよう。

南川「その次は誰だ、あの男か?君が北海道で知り合った飛行機のパイロットか。さあ、言うんだ。君が今まで関係した男たちの名前を、全部あげるんだ。最初の男はたしかに真黒に陽焼けした、獣のような匂いのする俳優だった。次がサッカーの選手、売り出しの小説家、スキーの選手、パイロット──、まだまだいる。君は全部の男の名前を覚えてはいないだろう。だが、正確に男たちの名前を、僕はいうことができるんだ」[32]

岡田の自伝によると、三國連太郎は「台詞の覚えが悪い、あるいは覚えようとしない、まれに見る珍しい俳優」[33]だと言われていることから、ここでの南川のセリフが三國の言いやすいように自由にアレンジされていることに驚きはない。ただ、岡田が南川の頬を思い切り叩くという身振りがシナリオのどこにも書かれていないことは注目に値する。なぜ、岡田は(あるいは演出家の吉田は)ここで南川の頬を勢い良く叩くという身振りを追加したのだろうか。脚本家の吉田と山田正弘がシナリオを書いている段階では想像していなかった岡田の平手打ちの身振りが加わることで、シナリオと映像には「ずれ」が生まれている。現場における俳優たちの動きや流れ、その偶然性を重視して演出を進める吉田は、おそらくここでの岡田に南川の頬を打つ気配、あるいは徴候のようなものを感じ取ったと言えるのではないだろうか。この「ずれ」から見えてくるのは、あらかじめ用意されたシナリオを裏切って変貌してゆく岡田の徴候、すなわち声なき「告白」であると言えるだろう。

では、なぜ岡田はここで南川の頬を打ったのか。『告白的女優論』の前作である『煉獄エロイカ』(1970年)のラストで、岡田扮する夏那子と淨子(木村菜穂)は、次のようなセリフを述べている──

淨子「もうすっかり終ったのね……なにもかも……。」
夏那子、ゆっくりと首をふる。
夏那子「……まだすることがあるわ。」
淨子「……遠くへいって……?」
夏那子「私は私の神さまであったものを撲ちに、よ。」[34]

岡田は自伝の中で、「『煉獄エロイカ』の最後のシーンで私が語る台詞は、これまで数多く出演した映画のなかでも、もっとも好きなダイアローグだった」と述べ、「ここでいう神さまがなにを意味するのか、それこそ観客の想像にゆだねるしかなかったが、これほどスリリングなダイアローグを語れる私は、幸せな女優だと思う」と語っている[35]。かつて小津組の一番バッターと呼ばれた岡田は、このとき何を「撲ちに」行ったのだろうか。『告白的女優論』を見る限り、p.62それは南川の頬であったと言えるだろう。しかし、それは南川が「神さま」であったということを意味しない。おそらく「神さま」とは、南川自身が岡田のイメージに理想として夢見ていたもの、つまり廃れゆくスターの幻影だったのではないか[36]。岡田が南川との契約を取り消したその日、彼はトラックに轢かれて死ぬ。岡田はこうして、自己に纏わりつく幻影のイメージから身を振りほどくのである。

『告白的女優論』のラスト、岡田と浅丘、有馬の3人は、映画内映画のクランクインのために豪華な衣装を身に纏い、画面奥から手前にゆっくり歩いてくる(図20)。凋落していくスター女優の最後のアウラを画面に輝かせるかのように、3人は誇り高くそれぞれの役を演じる。しかし、岡田が吉田の映画にスターとして登場するのはこれで最後になる。この映画から約30年後、岡田は吉田の『鏡の女たち』(2003年)で再びスクリーンに登場するが、それは映画「スター」としてではない、映画「女優」としての岡田茉莉子であったのは言うまでもない。スターとしての岡田は、ここで「神さま」を「撲」つことによって、スクリーンから華やかに退場するのであった。

(図20)映画『告白的女優論』、吉田喜重監督、1971年

6. 結

岡田茉莉子は、1951年に東宝のニューフェースとしてデビューして以来、スターとしての「岡田茉莉子」と「私自身」としての「岡田茉莉子」のアイデンティティのギャップに苦悩し続けてきた。映画会社から与えられるアプレゲール役や温泉芸者役、水商売役を華麗にこなしつつも、一方的に決められたイメージに抵抗しながら女優人生を歩んできた。その大きな転換点となったのが吉田喜重との出会いである。吉田は、既存の岡田のイメージを優先させるのではなく、「あらかじめ決められていない演技」を彼女に求め、それに対し岡田は、「自分の肉体の動くまま、表情の動くまま」に演技をするという「舞踊」的な演技で応えた。既存の複数の岡田のイメージから、ただひとつの岡田の身体イメージへの転換こそ、岡田の発言から読み取れる彼女の演技方法であった。

p.63しかし、女優のイメージとはあくまで虚構である以上、彼女の発言をそのまま信用するわけにはいかない。映像テクストを見るのではなく、読もうとする姿勢は、吉田の「見ることのアナーキズム」で痛烈に批判されていた通りである。『情炎』における彼女の演技を詳細に分析してみると、たしかにそこには曖昧に揺れる欲望を「肉体の動くまま」に演じている様子が感覚的に見て取れる。しかし、それはあくまでも「感覚的」でしかなく、映像テクストを内在的に見るだけでは言葉によって論理的に説明できない。この失語の症状は、分析する側だけの問題ではなく、映画俳優そのものの問題でもあった。岡田は吉田作品のなかでは声を奪われた存在として画面に現れており、たとえ饒舌にセリフを喋っていたとしても、彼女の欲望はあくまで身体的に表現されるだけで、言葉で表されるわけではない。

この困難な失語の地点から、彼女の声なき「告白」を聴き取ることは、『告白的女優論』において展開される問題でもあった。この映画には複数の次元において反復と「ずれ」が存在しており、映画内ではこの「ずれ」から彼女の内面の心理を分析するシーンが描写されていた。我々はこの方法をこの映画自体に対して再帰的に適用し、彼女がいかにあらかじめ用意されたシナリオを裏切って、自身の演技を変貌させているのか分析した。彼女は映画内でマネージャーの南川の頬を激しく平手打ちするが、シナリオにはその動きは指示されていない。それはおそらく撮影現場における彼女の動きや徴候から偶然的に生まれた演出であろうと判断し、そこに彼女の声なき「告白」を視覚的に聴き取った。その身振りは『煉獄エロイカ』の最後のセリフと通底し、ここで彼女は自身のスターイメージとしての「神さま」を「撲」ったのだと解釈した。こうして映画「スター」としての岡田は吉田映画から退場し、「女優」として今日まで生き延びてゆく。これが女優、岡田茉莉子の方法だったのである。

参考文献

岡田温司『映画とキリスト』、みすず書房、2017年。
岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』、文藝春秋、2009年。
斎藤綾子「女性と幻想──吉田喜重と岡田茉莉子」、『吉田喜重の全体像』、作品社、2004年。
ダイアー、リチャード『映画スターの〈リアリティ〉──拡散する「自己」』、浅見克彦訳、青弓社、2006年。
モラン、エドガール『スター』、法政大学出版局、渡辺淳/山崎正巳訳、1976年。
矢島翠「勤勉な巫女たち」、『出会いの遠近法 私の映画論』、潮出版、1979年。
吉田喜重「見ることのアナーキズム」、『見ることのアナーキズム』、仮面社、1971年。
吉田喜重・山田正弘「告白的女優論」、『見ることのアナーキズム』、仮面社、1971年。
吉田喜重『メヒコ 歓ばしき隠喩』、岩波書店、1984年。
「シナリオ 煉獄エロイカ」、『アートシアター 80』、1970年。
「パッションとしての映画」、吉田喜重と筒井武文の対談、『ユリイカ』、2003年4月臨時増刊号。
「谷崎先生には親子二代で名付け親になっていただきました」、岡田茉莉子へのインタビュー、『ユリイカ』、2003年5月号。
「スクリーンと女たち 『鏡の女たち』をめぐって」、吉田喜重、岡田茉莉子、小林康夫との対談、『水声通信 no.11』、水声社、2006年。
「女優という謎」、岡田茉莉子、蓮實重彦との対談、『女優・岡田茉莉子』、文春文庫、2012年。

Notes

  1. [1]

    岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』、文藝春秋、2009年、231頁。

  2. [2]

    同書、94頁。

  3. [3]

    エドガール・モラン『スター』渡辺淳/山崎正巳訳、法政大学出版局、1976年、146頁。

  4. [4]

    岡田『女優 岡田茉莉子』、前掲書、54-67頁。

  5. [5]

    同書、71頁。

  6. [6]

    同書、75頁。

  7. [7]

    同書、115頁。

  8. [8]

    同書、134頁。

  9. [9]

    リチャード・ダイアー『映画スターの〈リアリティ〉──拡散する「自己」』浅見克彦訳、青弓社、2006年、112-117頁。ダイアーは、先行研究における素朴なスター俳優論を次々と批判し、スター現象に見られるイデオロギー性を批判していく。彼は「女優 actress」という言葉を使わず、「俳優 actor」を使うようにして、「「女優」という言葉は、女性俳優を見下すとともに、取るに足らないものと見なす強い含意をもっているように思われる」(25-26頁)と述べる。しかし、自伝のタイトルに堂々と「女優」の文字を掲げ、「女優という字は、優れた女と書きます」(「スクリーンと女たち 『鏡の女たち』をめぐって」、吉田喜重、岡田茉莉子、小林康夫との対談、『水声通信 no.11』、水声社、2006年、53頁。)と語る岡田茉莉子を前にして、「女性俳優」と表記する配慮は余計なお世話というべきかもしれない。そのことから、本論文では敬意を込めて「女優」の字を用いている。

  10. [10]

    同書、44-46頁。

  11. [11]

    岡田『女優 岡田茉莉子』、前掲書、143頁。

  12. [12]

    同書、147頁。

  13. [13]

    同書、235頁。

  14. [14]

    同書、250頁。

  15. [15]

    この映画で岡田が演じる女性の役には水木宮子という名前があるものの、映画スターとしての岡田のイメージを見る際、役の名前よりも岡田茉莉子という名前で彼女を捉えた方が相応しいように思える。そのことから、本論文では役の名前を使わず、岡田茉莉子という名前で表記することにする。

  16. [16]

    同書、297頁。

  17. [17]

    同前。

  18. [18]

    同書、304頁。

  19. [19]

    同書、306頁。

  20. [20]

    同書、328頁。強調は引用者による。

  21. [21]

    斎藤綾子「女性と幻想──吉田喜重と岡田茉莉子」、『吉田喜重の全体像』、作品社、2004年、82-83頁。強調は原文ママ。

  22. [22]

    矢島翠「勤勉な巫女たち」、『出会いの遠近法 私の映画論』、潮出版、1979年、74頁。初出は、「シナリオ」1968年8号。

  23. [23]

    吉田喜重「見ることのアナーキズム」、『見ることのアナーキズム』、仮面社、1971年、13頁。

  24. [24]

    同書、15-16頁。

  25. [25]

    「女優という謎」、岡田茉莉子、蓮實重彦との対談、『女優・岡田茉莉子』、文春文庫、2012年、595-596頁。

  26. [26]

    吉田もまた、『メヒコ 歓ばしき隠喩』の中の「失語症としての荒野」という章で、メキシコの果てしない荒野を目の前にした際に「あたかも失語症患者が感じる文脈欠落の苦痛がメキシコの荒野にある」と述べている。吉田作品におけるテマティスムとして「失語症」という問題が認められるだろう。(吉田喜重『メヒコ 歓ばしき隠喩』、岩波書店、1984年、56-84頁。)

  27. [27]

    「谷崎先生には親子二代で名付け親になっていただきました」、岡田茉莉子へのインタビュー、『ユリイカ』、2003年5月号、127-128頁。岡田茉莉子はこのインタビューの時点では父の声を聞いたことがないと語っているが、自伝によると、2003年12月にNHK放送技術研究所の協力のもとレコードに録音されていた岡田時彦の声を聞くことができたという。その声は「透きとおって張りがあり、東京生まれの横浜育ちらしい、綺麗な標準語だった」と、彼女は書いている。(岡田『女優 岡田茉莉子』、前掲書、526頁。)

  28. [28]

    「パッションとしての映画」、吉田喜重と筒井武文の対談、『ユリイカ』、2003年4月臨時増刊号、33頁。

  29. [29]

    吉田喜重・山田正弘「告白的女優論」、『見ることのアナーキズム』、前掲書、307頁。

  30. [30]

    「パッションとしての映画」、前掲書、18頁。

  31. [31]

    吉田喜重・山田正弘「告白的女優論」、前掲書、307頁。

  32. [32]

    吉田喜重・山田正弘「告白的女優論」、前掲書、315-316頁。

  33. [33]

    岡田『女優 岡田茉莉子』、前掲書、110頁。

  34. [34]

    「シナリオ 煉獄エロイカ」、『アートシアター 80』、1970年、71頁。

  35. [35]

    岡田『女優 岡田茉莉子』、前掲書、364頁。

  36. [36]

    モランは映画スターとは現代の神であるとし、「スター・システムは、昔ながらの不死の宗教と、愛という、人間的尺度の、全能の新しい宗教の血をひいている」と述べる。(モラン『スター』、前掲書、119頁。)スターを礼拝する熱狂的なファンを、神を信仰する信者のアナロジーで読み取るモランからは、岡田温司の次の言葉が響いてこよう──「ニーチェによって「死」を宣告された「神」は、実のところ、それとほぼ同じ時期に産声を上げた映画という新たなメディウム──この語はまた「霊媒」という意味もある──のなかで、さまざまな姿をまとって生きつづけてきたのである」。(岡田温司『映画とキリスト』、みすず書房、2017年、6頁。)

この記事を引用する

高部遼「神を撲つ──『告白的女優論』に至る岡田茉莉子=吉田喜重の方法」『Phantastopia』第1号、2022年、45-67ページ、URL : https://phantastopia.com/1/striking-the-god/。(2024年04月20日閲覧)

執筆者

高部遼
TAKABE Ryo

博士課程。映画研究。特に吉田喜重を中心とした60~70年代日本映画。

英語要旨

Striking the God

Mariko Okada & Kiju Yoshida’s method to “Confessions Among Actresses”

TAKABE Ryo

The purpose of this paper is to examine how Mariko Okada performed in the works up to  Yoshishige Yoshida’s “Confessions Among Actresses”. Yoshida asked her to give an  “undetermined performance” rather than the existing image of Okada given unilaterally by  the film company, to which Okada responded with a “dance” performance in which she acted  “as her body moves and her facial expressions move”. However, it is impossible for us to  confirm whether the performance is really “as her body moves” or not, and it cannot be  logically explained by words. In the first place, a film actor is a being deprived of words, and  Okada in Yoshida’s work shows signs of aphasia. Listening to her voiceless “confession” from  this difficult point of aphasia is also a problem that is developed in “Confessions Among  Actresses”. In this film, there are repetitions and “gaps” in multiple dimensions, and the scenes  in the film depict the analysis of her inner psychology from these “gaps”. We applied this  method recursively to the film itself to analyze how she betrayed the prepared scenario and  transformed her own performance. In the film, she slapped her manager Minamikawa hard  on his cheek, but the scenario did not specify this move. We judged that it was probably an  accidental staging based on her movements and signs on the set, and visually heard her  voiceless “confession” there. We interpreted this gesture as a reference to the last line of  “Heroic Purgatory,” in which she “strikes” the “god” of her own star image. In this way, Okada as a film “star” left Yoshida’s films and survived as an “actress” to this day.

Phantastopia 1
掲載号
『Phantastopia』第1号
2022.03.08発行