「錯乱した恋愛詩の味わい深い語り」
おまけにそれは、「スコープ」や「グラフ」からなるおぞましい感染症で、街中に広がっていた。ウィムトスコープ〔Ouimetoscope〕、ナシオノスコープ〔Nationoscope〕、ヴィトスコープ〔Vitoscope〕、リードスコープ〔Readoscope〕、ロショノスコープ〔Rochonoscope〕、モントリオールスコープ〔Mont-royaloscope〕、ボデトスコープ〔Bodet-o-scope〕、そして、パリの映画館の先駆者、パリグラフ〔Parigraphe〕…。映画の解説者〔commentateur〕、アレックス・シルヴィオは、錯乱した恋愛詩の味わい深い語りと、私たちにもなじみのあるばかげた恋愛相談欄〔Courrier du coeur〕を予感させるような、教訓や戒めに満ちた着想で観客〔spectateur〕を喜ばせた[1]。
この短い一節は、ケベック演劇の歴史家、ジャン・ベローの本に見られる他の三か所と並んで、1980年代以前のケベックの歴史書に見られるうち、活動写真〔vues animées〕における弁士〔bonimenteur〕[2]の仕事についての唯一の言及である。これは弁士たちが忘却の淵に沈み込んでいたことを示す印である。ところが今日では、何十人もの弁士の名が発見されている。かれらはしばしば、大衆的な俳優でもあったようだ。このような忘却あるいは無視は、ひとたびそれが同定されれば、ケベックの弁士の主要な役割を説明してくれる。つまり〔ケベックに〕持ち込まれ制度化された映画に対して、抵抗の実践を担うという役割である。こうした実践は、口頭で行われる周縁的なものだったので、無視され、さもなくば貶められた。こうした実践は、ミシェル・ド・セルトーが「隠蔽された生産」と呼んだものと見なされうる。
オブジェやイマージュの合理化された中央集権的な生産に対して〔…〕消費のうちに隠蔽されたもう一つの生産が対応している。狡猾で、分散しており、沈黙し隠された生産だが、いたるところに忍び込む。こうした隠された生産は、自分自身の製品によって印づけられることはないが、支配的な経済秩序によって頒布され押し付けられる製品を利用するやり口によって特徴づけられる[3]。
歴史の三つの時期
ケベックの弁士の歴史は、他の国にもみられる三つの段階を経て展開された。検疫〔arraisonnement〕[4]、正当化〔légitimation〕、抵抗〔résistance〕である。最初の段階は、1906年以前に見られた巡回映画〔cinéma ambulant〕の時代に対応する。講師〔conférencier〕はしばしば、博識な人だという特権を持っていたか、あるいはそうであるかのように振る舞っていた。その語りは、映画を上演の伝統的な形式――とりわけヴォードビルや、幻灯を用いたショー〔spectacle〕――に統合した。第二の時期では講師は解説者となり、物語の装置〔dispositif narratif〕としての映画の存在を正当化した。第三の時代には、自前で物語の機構を持つに至った映画によって講師が退けられるようになった。だがかれらの実践を支持し、制度化された実践に抵抗した社会集団が、講師を支えてもいた。
長い年月を経るにつれて、弁士業〔boniment〕の伝統は、とりわけ劇場において、ローカルな実践へと統合され、初期には外国人を中心としていた当事者が、現地の人々に置き換わっていったことが分かっている。初期の弁士たちは、とりわけ数多くのフランスの俳優の間から集められていた(オーギュスト・アラミニ〔Auguste Aramini〕、アンドレ・ドゥ・ルース〔André de Reusse〕、エティエンヌ・ムソ〔Etienne Meussot〕、アンリ・カルタル〔Henri Cartal〕、ルイ・スリエ〔Louis Soulier〕など)。かれらはモントリオールで働いていた。同地では、フランス語圏カナダの劇場はまだ途上にあり、プロフェッショナルは少なかった。これらのフランス人は、1914年に戦争のためにフランスへ戻り、「純粋の」ケベック人に場所を譲った。ケベック人は講演に、より地域に即した、親しみのある調子を与えることになった(アレクサンドル・シルヴィオ〔Alexandre Silvio〕、ピエール・デロジエ〔Pierre Desrosiers〕、オメール・サン゠ジョルジュ〔Omer St-Georges〕、レオポール・ゴスラン〔Léopold Gosselin〕、エクトール・ペルラン〔Hector Pellerin〕、アンリ・ポワトラ〔Henri Poitras〕、ラウル・シャルルボワ〔Raoul Charlebois〕など)。これらの弁士や、その他の名の知られていない弁士たちは、サウンド付きの映画〔cinéma sonore〕が登場するまで仕事をしていたようだ。かれらのキャリアの展開を仔細に知るには、情報がまだ不足している。ただ、かれらの活動の手がかりは1920年代を通して観察できる。
ケベックでは、映画を制作している国にもみられるような、このような〔弁士という〕職業の発展モデルが見出される。だがその発展モデルは、より長い期間にわたって展開している。フランスやアメリカのように、弁士はまず、シネマトグラフを紹介する「博識な人」〔savant〕であり、次いでイマージュからなる物語〔récit〕を説明する俳優であり、最後には地域の劇場の解説者だった。だが、フランスやアメリカの弁士がごく早い時期(1910年まで)にブルジョワ向けの大きな劇場から姿を消すのに対して──そこでは映画と「映画言語」〔langage cinématographique〕の方が好まれ、押し付けられていた──、ケベックでは、オランダやポーランドのように、もう少し長く講師が存続した。そして、1915年から1920年ごろには、講師は大衆劇場に落ち着いた。大衆劇場は、1930年ごろまで弁士たちの砦になっていった。慣習や教養人層の言説のうちで、「映画」の実践が支配的になっていくのに反して、活動写真の実践は、大衆階級のうちで──そしておそらくは同じ劇場に通っていたブルジョワの一部でも──大きな成功をおさめ続けた。
もっとも人気を博した弁士、アレクサンドル・シルヴィオは、富裕な商人の息子だったが、教養人の観客だけを相手に成功したわけではなかった。彼は「大衆劇場」〔Théâtre du Peuple〕を設立し、彼の主要な聴衆だと思われた大衆階級におもねろうとしたのだ。他の「スコープ[5]」の弁士や楽士の出自は、概してつつましいものだった。アンリ・ポワトラは、モントリオールの聖マリア大学で勉強したが、プロの俳優になるまでの数年間、労働者として働かなければならなかった[6]。ピエール・デロジエも似たような道程を辿った。造船業者の息子であった彼は、進歩的な教育を受けた後、20年ほど弁士をし、バーレスクの一座の一員となった。彼はその一座で、いくつかの異なる役目──俳優、歌手、独演劇の演者〔monologuiste〕──を担った。芸能から引退した後は、数年にわたり困窮することとなった。
かれらの同僚、エクトール・ペルランもまた、高名な音楽教師から教育を受けた。だが、名の売れた芸術家になるまで、地方の小劇場で数年の間ピアニスト兼弁士だった。そしてモントリオールでは、大衆劇場を中心に働いた[7]。もっとも、名の売れた芸術家という地位にあるからといって、多くの場合は安楽な暮らしができるわけではなかった。給料はごくささやかで、仕事は極めて難しいものだった。ケベックの俳優のうち、栄誉のあるキャリアを準備するのに財産に頼ることができた者はごくわずかだった。このことは、彼らが大衆的な性向を持っていたことと決して無関係ではない。しかしケベックの弁士の歴史は、全く異なる領域で始まったのだ──最初の弁士は、パリ出身の正真正銘の貴族だったのだから。
伝統によって検疫される映画
その歴史の最初の段階において、ケベックの弁士は、ある決定的な役割を演じた。新しい技術と、伝統を色濃く残した社会との媒介者、そして同時に、未知の発明を持ち込む仲介人という役割だ。この点からすると、「修史」号〔l’Historiographe〕の事例は興味深い。「修史」号という伝説めいた名は、アンリ・ドゥ・グランセーニュ・ドゥートリーヴ〔Henry de Grandsaignes d’Heuterives〕がシネマトグラフに与えたものだ。彼は子爵ではあるがブルターニュの没落貴族で、アメリカ大陸で巡回映画を経営しもう一度富を得ようとした[8]。彼は、1987年から1906年までの間、ケベックで最も活発な巡回映画の経営者であり、数百ものショーを上演したが、それらはほとんどいつでも弁士による口上を伴った。ケベック社会の性質をよく理解していた彼は、ショーを「イラスト付きの講演」〔conférence illustrée〕として上演した。この名前は、特に幻灯によるショーに与えられるものだった。彼のふるまいはイギリスで最初の映画作家になった幻灯師〔lanterniste〕のようだった。幻灯師は、映画を作ることで、かれらの講演におけるイラストになっていた写真を置き替えようとしたのだ。「キネマトグラフ〔kinematograph〕の映写機は、本質的には、普通の光学機器的なランタン、ないしは幻灯にすぎない。前の部分に、スライド・キャリアの代わりに機械の一種がついているというだけだ[9]」。
多くの経営者は〔シネマトグラフという〕機械の新しさを強調したが、ドゥートリーヴ子爵の広告文は、もっぱらシネマトグラフという装置の「修史的な」〔historiographique〕能力に費やされていた。つまり、過去のイマージュを現れさせるという、ほとんど魔術的な性能に費やされていたのである。彼は当然その装置の機能については説明したわけだが、そうした機能はいつでも、物語〔=歴史〕を説明するという機能に従属させられていた。そして彼は、かの機械の貴族的な権威を明らかにして、その目的が道徳に適うことを保証していたのだ。
ドゥートリーヴ子爵は高名なミラボーの甥の息子で、パリ控訴院の弁護士、法学士、文学のバカロレア取得者である(…)。極めてフランス的で説得的な語りが、聖なる祝日の間、キリスト教学校の修士会が布教のために構成した美しい場面の数々を説明するだろう[10]。
子爵は、教区または市ごとにある学校や劇場で、たくさんのショーを上演した。そのため彼は、その時代のケベックで流通する言説の全てを実質的に管理していた聖職者たちから特別な待遇を受けることになった。彼が活動していた十年間は、映画の受容にあたって、重大な影響力を有した。ケベックの人々の大部分は「修史」号の映像を見ることを通じて、映画と初めて接触したのである。アンリ・ドゥートリーヴの仕事は、ある意味で、検疫の仕事であった。その講演は、栄えある「気高い」〔noble〕言説へと結びつけることで〔映画という〕装置に価値を持たせ、過去と、よそ者〔である映画〕と、そして伝統との、尊敬を伴った関係を作り出した。動くイマージュ〔images animées〕とは何よりも、「講演」〔conférence〕に挿入されるイラストであった。
弁士業による正当化
弁士の役割は、その歴史の第二の段階において、根本的に変容した。その段階には、映画館が数年の間に増加し、経営者たちは講師を見つけようとした。市場には〔ドゥートリーヴのような〕パリの子爵はそこまで多くなかった。それゆえ講師は、その時モントリオールで働いていた数多くのフランス人俳優の中から採用され、かれらはやがてケベック人たちにも模倣されることになった。この段階は、第一次世界大戦まで継続したと思われるが、その間弁士は呼び物になる存在で、広告にも登場し、当時批評家の役割を担っていた人たちに称賛されてもいた。
素晴らしい「スピーカー」〔speacher〕のアンドレ・ドゥ・ルースについていえば、彼に課された過酷な仕事のせいで束の間しわがれる声に妨げられることなく、映像を機知に富んだ興味深い仕方で説明しようと大いに献身する。彼が舞台上に出てくれば、真似しようがないレパートリーですさまじい笑いが巻き起こり、最も神経がまいっている観客でも身をよじる[11]。
活動写真の劇場についての広告では、弁士の名前が言及され、それぞれの特徴が強調されるのが常だった。フォルジェ〔Forget〕は「極めて詳し」く、ビソネット〔Bissonnette〕は「よくひびく大声」を持っており、アラミニは「極めて正確に説明」する。宣伝文は、決まって映画のタイトルをいくつか紹介するが、「1万フィート分の一級映像」と伝えるにとどめた。その一方、弁士や、オーケストラの指揮者の名前は、しばしばはっきり示された。彼らが勝ち得ていた敬意から、弁士たちが益々大胆になっていく様を説明できるだろう。弁士たちは、徐々に映画に取って代わり、あるいは映画を自らのパフォーマンスに取り込んでいったようなのだ。弁士の口上〔boniment〕は、映画の説明だけにとどまるどころか、急速に我有化の戦略となって、ローカルな要素が価値を持つショーへと、映画を取り込んでいった。こうして、1908年の8月からおよそ6か月間にわたり、ナシオノスコープでパテ社〔Pathé〕の映画シリーズが上映された。映画は、経営者によって「ダヴロル〔Dhavrol〕氏の語りつき映像」〔Vues parlées de M. Dhavrol〕と改題され、告知は概して次のようなものだった。「活動写真では、最も感動的な者たちによる愛のドラマに立ち会うことになるだろう。そのタイトルは『家庭の天使』〔Ange de foyer〕で、有名な芸術家、ダヴロル氏の筆による。この語りつきの映像は大きな成功を収めるだろう[12]」。
フェルナン・ダヴロル〔Fernand Dhavrol〕はモントリオールの劇場の支配人で、フランス出身だった。歴史の真相は知るべくもないが、彼はフランス語でセリフを書き、彼自身や他の俳優が、映画の上演中に演じたらしい。モントリオールにあった他の映画館のいくつかは、同種のアメリカの見世物を上演していたが(フマノヴォ社〔Humanovo〕や、アクトフォン社〔Actophone〕)、そこでも同じことがなされていた。ダヴロルはたいてい、こうした「語りつき映像」の作者として紹介され、彼のもとにいた俳優たちは、ダヴロルの作品の演者だと紹介される。だが、いくつかの映画のタイトルは、アンリ・ブスケ〔Henri Bousquet〕の収集によるパテ兄弟のカタログのなかに見出されるのだ。『心の掟』〔La loi du coeur〕や『労働者の誇り』〔L’honneur de l’ouvrier〕、『しもべの愛』〔L’amour de l’esclave〕などである[13]。他のタイトルも、パテ兄弟のカタログにある映画とよく似ている。『家庭の天使』(『村の天使』〔Ange du village〕、1908年のカタログ)、『英雄の復讐』〔Vengence du héros〕(『労働者の復讐』〔Vengence de l’ouvrier〕、1908年のカタログ)、『小さな盗人』〔La petite voleuse〕(『小さな意地悪』〔Petite Rosse〕、1909年のカタログ)などである。戦略はあくまで明白で、地域の作家によるテクストと地元の俳優によるセリフで、他の場所で作られた映画を自国の制度に取り込もうとしているのだ。
映画は一層大胆な方法でも流用されることになった。1907年の5月、モントリオールで、劇作家のジュリアン・ダウスト〔Julien Daoust〕が考案した映画的かつ劇場的な〔filmo-théâtral〕ショーが上演された。このショーは『世界の終わり』〔La fin du monde〕と題され、次のように描写された。「活動写真と、生き生きした人物たちの結合〔…〕、魔術師のタクトが指揮しているかのように、空を舞う天使たちが次々に現れる[14]」。こうした描写は不思議なことに、数週間前に上演された映画『ホテルいわくつき』〔L’hôtellerie hantée〕のそれに合致する。この映画は新聞で次のように紹介されている。「素晴らしい幻想のショーが、月夜の夢想のような風景〔un paysage lunaire〕のうちに見出される。月は分厚い雪に隠れ、青白く光るたましいが空中で揺れる[15]」。ここでもやはり、劇作家の名前がはっきりと示されている。映画は劇場でのショーに取り込まれ、ショーの装飾物でしかない。これは、この類の試みのうちでは最も大胆だが、これで終わりということではない。1940年代にいたるまで、映画は──フランスの映画だろうと、それ以外であろうと──劇場でのショーの一部として紹介されることになるのだ。こうした混合的なショーは、トーキー以前には弁士を、サウンド付き映画が登場してからはフランス映画を伴い、およそ30年間にわたって、ケベックの大衆映画館の多くでお決まりのパターンになった。
映画はまた、俳優や歌手、楽士がものした数多くの独演劇や対話劇、歌謡の演目としても用いられた。かれらは劇場や映画館で働き、他のプログラムの合間に自分の出し物を演じた。弁士業の歴史の大部分は劇場の歴史に書き込まれているのだから、その時代の歌謡や大衆音楽の歴史も、この歴史に別様の重要な貢献をなしうる。歌謡や音楽の歴史については、手がかりが残っているだけに再構成しやすい。スコープで働いていた歌手や独演劇の演者の多くは、歌謡についていくつかのテクストを残しており、それらは音楽についての定期刊行誌に掲載された(『うたうカナダ』〔Le Canada qui chante〕、『気晴らし』〔Le Passe-temps〕、『うたうモントリオール』〔Montréal qui chante〕、『ル・リル』〔Le Lyre〕など)。かれらはまた、録音を数多く残しており、それらの大部分は、今では私的・公的なコレクションに保存されている。そうしたレコードに見られる名前は、スコープで歌っていた人々のものである(エクトール・ペルラン、アレックス・デマルトー〔Alex Desmarteaux〕、アルフレッド・ノコール(ロション)〔Alfred Nohcor(Rochon)〕、ジュリエット・ベリヴォー〔Juliette Béliveau〕、ローズ・ウエレット〔Rose Ouellette〕、オロール・アリス〔Aurore Alys〕、ブランシュ・デュブュイソン〔Blanche Dubuisson〕[16])。
弁士の存在は時に異議を申し立てられた。だがこの時期の批評は、むしろ弁士の無能力にこそ差し向けられていた。評者たちの意見は、その一人の次のような記述に要約される。「私たちにそれを与えようと躍起になっているのであれば、お願いだから、フランス語が分かって、良識をもって語ることができる人をよこしてくれという話だ…[17]」。弁士の大部分を育てていた演劇界はしかし、最初に弁士の領分に批判的な言説を投げかける人々の一部にもなった。
だが支配人たちは、生きたイマージュだけではもはや不十分だと判断して、講師を招き入れた。講師の大部分は、自動で上演されるショーを奇妙な言葉で説明した。こうした講師は、大道芸人や俳優に似ており、全くわけのわからないことを語り、歴史的な主題を記憶に任せて語り、すべてをかれらの性分の赴くままに取り扱った。過剰な表現やこっけいなふるまい、涙を引きずり出すチェロのような震え声、シンバルの音を交えたフルートの速い演奏──目立つのは道化のよくできたでたらめ[18]。
こうした批評はとても珍しい。演劇についての真の批評は、実際にはごく少なくなっていたのだから。だが1910年以来、弁士はもはや映画館の広告でもあまり言及されることはなくなり、コラムニストの論評ではもっと扱われなくなる。上に見たテクストのような手がかりから、弁士がまだ存在していることがわかるが、その存在が批判され、仕事が誹りをうけるようになってきたということも見えてくる。観客の多くはおそらく、弁士が映画に対して行使していた極めて大きな自由を歓迎したが、批評家たちは今や弁士を嫌悪し、あるいは無視するようになった。批評家は、弁士を消し去ることはできなかったが、しかし弁士を新聞で見かけることはとても少なくなった。新聞の広告欄や編集欄は、特に大劇場によって独占されていたが、こうした大劇場がしばしば最初に弁士を解雇していった。今日では、弁士が存在していたころから3世代もたっていないが、弁士の残した手がかりはほとんど見られず、人々の記憶のうちでも、その当時の著作においてと同じくらいに、ほとんど散り散りになっている。実質的には演劇界の人々だけが、弁士の活動についてなにがしかの記憶を喚起してきたが、それは当然のことだ。いくつかの大衆映画館で、弁士付きの映画は、ある種のヴォードビル・ショーの一部だった。そのショーはケベックで「バーレスク」と呼ばれ、とりわけ短い茶番劇からなるものだが、その前にはダンサー〔の踊り〕や語りつきの映画という一連の流れがあった。
抵抗の実践としての弁士業
三つ目の段階、つまり抵抗の段階では、弁士業はバーレスクのショーに取り込まれ、劇場でのパフォーマンスの一部になった。しかし弁士業は新聞の批評からは無視され、批評は弁士というジャンルを取り上げるにしてももっぱら誹謗した。弁士は広告でほとんど言及されなかった。ポスターや告知にしばしば乗っていた弁士の名前は、劇場のプログラムでは言及されていたものの、新聞からはほとんど完全に消えた。映画が「優秀な講師による解説つき[19]」だと、気まぐれに述べられるだけになった。バーレスクを上演する多くの劇場は、新聞に公告を出すことさえせず、弁士を雇っている映画館にしても同じことだった。奮発して広告を出すことがあっても、批評界はそれについてはほとんど何も言わなかった。批評界は数十年そのままで、1950年代に至り〔弁士という〕落日の芸術家たちが過ごしたかつての生活を思い起こさせる論文で「錯乱した恋愛詩の味わい深い語り」を喚起するまで変わりなかった。映画館の楽士についても事情は同じであった。楽士もまた、映画の受容に決定的な影響を与えていたのだが。告知では、大劇場のオーケストラ指揮者の名前は言及されたが、1930年までにスコープで即興演奏していた数十人のピアニストたちについてはほとんど何も分かっていない。
この時期にどれだけ弁士業がなされていたのか、正確には推定し難い。だが最近見つかった手がかりから、これまで考えられていたことよりもはるかに重要な現象が確認できる[20]。最近、極めて多くの講師が、とりわけフランス語圏の街や地区の小さな映画館にいたことが発見された。だが講師は、想定よりも数多く存在したようだ。彼らが活動したのは、1915年以来ケベックで10倍増したバーレスクのショーだったようだ。シャンタル・エベール〔Chantal Hébert〕によるケベックのバーレスク史を扱った書籍によると、ショーはいつも一つないし複数の映画の上映を含んでいた。
〔…〕ちょっとした無音の映像にピアニストが伴奏し、映像の音楽を作り出していた。ピアニストはオーケストラ・ボックスにいて、即興で演奏した。それから語り手がいて、無音の映像を描写した。それがちょっとした映画〔petits films〕だったのだ[21]。
この著作やそこで引用されている文献、そして他のテクストを仔細に検討すると、こうした映画は、ごく頻繁に講師の解説を伴い、またそうした講師は、バーレスクの最高の俳優でもあったということが分かる。アレックス・サン゠シャルル〔Alex St-Charles〕は、「風船」という名で、人気の俳優(オリベール・ギモン〔Oliver Guimond〕、別名ツィ゠ズーン〔Ti-Zoune〕)のパートナーをしていた。彼は、トーキーが登場した後まで、映画の弁士だった[22]。その上ギモンもまた、場合によっては講師をしていたらしい。彼のキャリアの大部分を成したショーのうち、3分の1が弁士による口上付きの映画で作られていたのだ。その時代に最も人気を博していた俳優たちの多くについても同じことであった。例えば、アンリ・ポワトラ、ピエール・デロジエ、アルチュール・ペトリ〔Arthur Pétrie〕や他の多くの俳優である。シャンタル・エベールはさらに次のように述べている。
バーレスクのショーは映画の上映から始まった。1920年より前には、第一章で述べたように、ピアニストと語り手を──あるいは、「ごく単純なものであっても映画の筋立てを次々に説明する」プレゼンターを──伴う無声映画が重要だった[23]。
シャンタル・エベールはここで、俳優のジュリエット・ペトリ〔Juliette Pétrié〕の回想を引用している。彼女はその自伝において、上記のことを全て裏付けてくれる。その夫アルチュール・ペトリは、弁士としてキャリアを開始し、その後も機会があれば〔弁士を〕実践し続けなければならなかった。他方では、この時代の複数の証言──ジャン・グリマルディ〔Jean Grimaldi〕、レオ・ショケット〔Léo Choquette〕、ローズ・ウエレットによるもの──は、トーキーが登場する以前、講師が長いあいだ存在していたことを想起させてくれる[24]。サウンド付き映画が登場したあと、バーレスクのショーでは、弁士による口上付きの「無声」映画がフランス語のトーキー映画に取って代わられた。だが実際には、1920年ごろに弁士の講演が中断したと考えることはもはやできない。1925年ごろに活動していた講師──アレックス・シルヴィオ、レオポール・ゴスラン、オメール・サン゠ジョルジュ、アレックス・サン゠シャルル──の残した手がかりが数多く発見されているのだからなおさらのことだ。
最もよく知られているアレックス・シルヴィオ[25]は、1919年にカナディアン゠フランセ劇場[26]を賃借りし、1923年には、広告において、それを「大衆劇場」と名付けることを決めた[27]。彼の講演もプログラムの一部になった。フランス語の字幕が告知された場合でも、彼が映画を解説していたということが確認されている。「反逆者、特別な迫力映像、フランス語の字幕〔des titres français〕、アレックス・シルヴィオによる説明[28]」。
広告からわかるのは、映画のタイトル〔titre〕は、解説がそうであったように、ローカルな特色に強く影響されていたということだ。「人気シリーズ『いざ行こう、ハッチ[29]』〔Envoye fort, Hutch〕第15話、 アレックス・シルヴィオ氏による説明[30]」。もっとも、シルヴィオだけではなかった。彼のスタッフには、エクトール・ペルラン、アレックス・デマルトーや、他の何人かの俳優や独演劇の演者がいた。弁士業がかれらのもう一つの仕事になることもあったのだと思われる[31]。数年の間、シルヴィオはいくつもの映画館の所有者ないしは支配人であったので、ある批評家は彼が「劇場の独占を望んでいる[32]」と非難したほどだった。だが、同じ批評家が、シルヴィオは傾きかけた劇場を復活させる良い方法を見つけたらしいと強調しているのだ。この批評家は、その方法をなす要素の一つが解説付きの映画だと言及し損なったのだ。加えてシルヴィオは、彼が経営する劇場すべてに、講師を押し付けていたようだ。俳優のローズ・ウエレット(「ラ・プウンヌ」〔La Poune〕)は次のように語り、この情報を裏付けている。「それから彼は、部下を雇い入れ、彼の代わりに弁士業をさせた[33]」。
ケベックでは、トーキーの登場までに、このほかにも似通ったショーが数多く制作されることになった。最も数が多かったと思われるのは風刺劇〔revues〕だった。風刺劇では、プログラムを埋める弁士付きの映画の数々につけ加わる題目として、映画がしばしば用いられた。1912年には新劇場〔Théâtre des Nouveauté〕で『折々のモントリオール』〔Montréal en Saisons〕という題の風刺劇が上演された。この風刺劇は「活動写真」と題された部分を含んでいた[34]。ピエール・クリスト〔Pierre Christe〕は1915年『星に向かって』〔Vers les étoiles〕を書き、カナダ劇場で上演された。9幕のうち3幕が映画にかかわっていた。その3幕は「ちょっとした映像」〔p’tites vues〕、「チャーリー・チャップリン」〔Charley Chaplin〕、「貧しさの貨幣」〔Le sou du pauvre〕(映画の上映に対する課税はこのように呼ばれた)であった[35]。1919年にカナダ劇場でアレクサンドル・シルヴィオ監督のもとで制作された別の風刺劇『植えつけろ、ゾエ』〔Plante-toé Zoé〕は「ゾエの映像[36]」〔Zoé aux vues〕という一幕を含んでいる。シルヴィオ自身も風刺劇のテクストをいくつか書いたが、とりわけそのうちのいくつかは、弁士付きの映画の前か後についていた。シルヴィオは時事を中心にしたショーをいくつか上演したが、それらほとんどすべてが映画を扱う部分を含んでいた。
シルヴィオ氏は『力いっぱい』〔A toute volée〕を公開した。アルマン・ルクレール〔Armand Leclaire〕による4幕の風刺劇で、カナディアン劇場で公演される。〔…〕「サント゠ジュリエンヌ〔Ste-Julienne〕での結婚の日、田舎風の催し、そしてセリフなしの〔sans une phrase〕短い劇『偉大なギニョル』〔Grand Guignol〕、それから私たちは、首都の街角で、ある映画の最初〔の公開〕に立ち会い、その後には黄金の棺に眠るツタンカーメン王の登場を目撃する〔…〕[37]。
シルヴィオの競争相手も、同じような見世物を上演した。アルカド〔Arcade〕劇場では、オメール・サン゠ジョルジュという講師が映画を解説し、ショーに歌を付け加えもした[38]。映画館リュヌ・ルース〔Lune Rousse〕ではレオポール・ゴスランが映画を上演し[39]、1925年に映画館がル・カメオ〔le Caméo〕に改名されるとアレックス・サン゠シャルルが引き継いだ[40]。1920年代のモントリオールのバーレスク向け(だとすれば解説付きの映画も上映していたとおぼしい)劇場については、シャンタル・エベールがそれらの名を挙げている(アマースト〔Amherst〕、アルカド、カナディアン、ウィムトスコープ、カルティエ〔Cartier〕、カジノ〔Casino〕、クリスタル・パレス〔Crystal Palace〕、ドミニオン〔Dominion〕、ゲイエティ〔Gayety〕、ハー・マジェスティ〔Her Majesty〕、キング・エドワード〔King Edward〕、ミッドウェー〔Midway〕、ナシオナル〔National〕、プランセス〔Princess〕、スターランド〔Starland〕)[41]。ル・カナディアン〔le Canadien〕、ル・ナシオナル〔le National〕、ル・プランセス〔le Princess〕などいくつかの劇場はよく新聞で告知されていた。他の劇場の広告はごく散発的で、そのうえ新聞の批評は、それら劇場をほぼ完全に無視した。だが、成功した方法によって他の制作者が刺激され、弁士業が比較的重要な実践であり続けることになったのはまず間違いない。トーキーの登場は、この種の人々を黙らせるには至らなかった。というのもかれらは、音響設備の無い劇場で実践を続け、またラジオやキャバレーの司会者、俳優、あるいは楽士になり、ディスクに録音を残すことになるのだ。俳優のアンリ・ポワトラはしばらくのあいだ「講演をした」が、数年ののち回想録を著した。そこには、ケベックの弁士による、唯一の良く知られた自伝的テクストが見出される。希少で情報に富んだテクストなので、省略せずに引用するに値する。
1924年の5月ごろ、アンペリアル劇場のオーナー、アルチュール・ドラポ〔Arthur Drapeau〕が、プランセス劇場で夏の間中「講演をする」よう私に申し出た。講師と混同しないよう願いたい。「講演をする」という表現にはいくばくか注釈が必要だ。プランセス劇場で上映されていたのはアメリカ映画だった。観客の大部分はフランス系のカナダ人で、長ったらしい英語には不慣れだったので、経営者は役者を雇って画面に書かれていることを翻訳させていた。無声映画も重要だったことを付け加えるべきだろう。時折、講師はアクションに興奮するばかりで、叫び声で言葉を付けていたのだ!チャーチル〔Churchill〕の言語についての造詣がさえないものだったことは認めるべきだろう。それでも私は契約を受け入れ「講師」になった。数日前に映画の梗概が手渡され、私はとんでもない失敗をしでかさないようにそれを検討した。口達者だったので、そこまでひどい有様にならず切り抜けた。最初の上演のときには、事実から逸れていったり、ばかげたことを口にしたりすることもあったが、長く続きはしなかった[42]。
ドゥートリーヴ子爵から風船へ
平均的な弁士の肖像は、アメリカのステファン・ボッシュ〔Stephen Bush〕、あるいはフランスのシャルル・ル・フラッペ〔Charles Le Fraper〕がその著作で評しているような「講師」というよりは、俳優のそれに近い[43]。普通の出自の人物が重要なのであり、賢しく受け身で受容するようなしきたりを押し付けるよりも、遊戯のような文脈に身を置いて、映画について観客とやりとりすることが役割であった。ドゥートリーヴ子爵から風船に至るまでの間に、講演は教養深く洗練された称賛の的になるような語りから、自発的で相互的な当意即妙(『いざ行こう、ハッチ』)へと変わった。後者は、批評には無視されたが、しかし多くの観客に20年間にわたって支持され、そのたった20年後には、好奇を持って次のように言及されている。
風船という名だが本名をサン゠シャルルという役者がいた。サイレント映画の時代、映画館「カメオ」の講師をしており、味のある口調で観客に説明していた。ダオストと共にコメディも演じた[44]。
ケベック映画のはじまりから歴史を再検討してきた。ここからわかるのは、映画が地域で制作され始めるよりも前に、〔映画を〕わがものにするという戦略が出現しかつ発展し、輸入された活動写真が地域の語彙によって解釈されていったということだ。この実践は、まずは弁士が存在し、観客をひきつけ、まだ新奇なものだったショーを「説明した」ために正当化されえた。だが1925年には、活動写真は日常の習慣となり、映画が二言語字幕で上映されるようになると、弁士の説明はもはや長持ちしようがなかった。〔映画を〕わがものにしようという実践は確かに定着したし、恒常的で持続的なものとなった。この実践から映画産業のヘゲモニーに対する抵抗運動が長く続いたこともわかる。弁士は「普遍言語」を翻訳しない。弁士は、映画を取り込んだローカルなショーの花形なのだ。このショーは伝統的なパフォーマンスの発展形ではある。しかし擬古趣味というわけではなく、むしろある媒体を用いた実験の新たな形式なのだ。
要旨
ケベックでは映画の弁士という職業が1895年から1930年まで存在し、三つの段階で発展した。第一に、弁士は〔映画という〕発明をわがものにして伝統的な実践に組み込んだ。それから弁士は、映画における語りの実践を導入し、また正当化するような解説をするようになった。その後、1910年から1915年に発達した映画をめぐる言説が、この実践を拒絶するようになった。すると弁士はパフォーマーとなり、大衆的な聴衆が見るような劇場での混合的なショーへと映画を統合した。
訳者注*
本稿は、Germain Lacasse, “Du bonimenteur québécois comme pratique résistante”, Iris, Iowa City, Institutefor cinema and culture / Paris, Iris, Édition Analeph, vol. 22, 1996の全訳である。訳出にあたり、弁士研究を専門とする原口直希さんの多大なご協力を賜った。記して感謝申し上げる。
Notes
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[1]
Jean Béraud, 350 ans de théâtre au Canada Français, Montréal, Cercle du livre de France, 1958, p. 129.
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[2]
ケベックでは、弁士はふつう講師〔conférencier〕と呼ばれていた。他のフランス語圏の国々では、対照的に、講師とは教養ある解説者〔commentateur〕のことであって、口頭で行われる大衆的な伝統を背景とする弁士や口上屋〔bonisseur〕とは対極にある。だが私たちは解説者のことを弁士〔bonimenteur〕と呼ぶことにする。今日では、弁士という語は一般的な役割を担っている。またケベックでは、大衆劇場より長く用いられたし、弁士は教養を備えた観客からは見放されていたのだ。【訳註】本稿では、bonimenteurを弁士、bonimenteurが行うところの実践であるbonimentを弁士業ないし口上と訳出する。弁士には日本独自の文脈がありはするが、ラカス自身が各国の実践をbonimenteurという語で総括的に呼んでいると思われる。日本の弁士との比較を明確化するという意図でも、ここでは弁士という訳語を採用する。同様に以下で頻出するvues animéesについても、日本独自の文脈はあるものの「活動写真」と訳出する。またconféroncier、commtateurについては、弁士と同様の役割を負ってはいるが、ラカスの区別に従いそれぞれ「講師」「解説者」とする。
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[3]
Michel de Certeau, « Pratique quotidienne », in G, Poujol et R. Labourie (sous la direction de), Les cultures populaires, Toulouse, Privat, 1979, p. 25.
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[4]
検疫という語の元々の意味は「海上で船を止め、その身分〔état〕を改める」というものだ(Dictionaire Larousse 1996)。しばしば監視下に置くという観念を強調するのに用いられる。私がここで検疫という語に付加しようとしているのはまさにこのような含意である。現行の制度(劇場、市〔foire〕、イラスト付きの講演〔conférence illustrée〕)は、シネマトグラフが発明された瞬間からそれを獲得したうえで、統合しようと試みたのだ。
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[5]
スコープとは、ジャーナリストやケベックの観客が活動写真の小劇場に付けた名である。小劇場が名付けられる場合、所有者の名前にスコープという語が付け加えられることがごく頻繁にあった(ウィムトスコープ、ロショノスコープ、ブルジェトスコープ〔Bourgetoscope〕など)。
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[6]
Henri Poitras, « Faubourg Québec », in Radio 49, Montréal, 4 juin 1949, p. 9.
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[7]
Anonyme, « Hector Pellerin. Interview exclusif à Radio-Monde », in Radiomonde, Montréal, 1er avril 1944; et Gilles Potvin, « Hector Pellerin », in Helmut Kallmann et al.(sous la direction de.), Encyclopédie de la musique au Canada, Montréal, Fides, 1983, p. 800.
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[8]
セルジュ・ドュイグ〔Serge Duigou〕との拙共著を参照。L’Historiographe. Les débuts du spectacle cinématographique au Québec, Montréal, Cinémathèque québécoise, 1985 ; et Marie de Kerstrat, l’aristocrate du cinématographe, Quimper, Editions Ressac, 1987.
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[9]
Cecil M. Hepworth, Came the Dawn. Memories of a Flim Pioneer, Londres, Phoenix House Limited, 1951, p. 30.
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[10]
Anonyme, « L’historiographe », in L’Evénement, Québec, 6 avril 1898.
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[11]
Anonyme, « Nos lieux d’amusement, National-Biographe », in La Presse, Montréal, 31 août 1907. 歌手でもあったドゥ・ルースは別の記事で「歌、ユーモア、おかしなほど詳細な説明」を称賛されている。(Anonyme, « Nos lieux d’amusement. Au National-Biographe », in La Presse, Montréal, 27 août 1908. アンドレ・ドゥ・ルース当人は、のちにフランスでよく知られた批評家になったようだ。ジョルジュ・サドゥールも『エブド゠フィルム』に見られるドゥ・ルースのコメントを、時折引用している。
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[12]
Anonyme, « Nationoscope », in La Presse, Montréal, 5 décembre 1908.
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[13]
これら三本の映画は、それぞれ1908年8月5日、1909年1月5日、1909年2月2日付『ラ・プレス』紙で、ショーのコラムのうち「ナシオノスコープ」のセクションにおいて言及されている。
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[14]
Anonyme, «Salle Duvernay », in La Presse, Montréal, 27 avril 1907 ; et «Salle Duvernay », in La Presse, Montréal, 28 mai 1907. ショーについては、下記で筆者がより仔細に説明している。Histoires de scopes. Le cinéma muet au Québec, Montréal, Cinémathèque québécoise, 1988, p. 18.
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[15]
Anonyme, « Au Ouimetoscope », in La Presse, Montréal, 2 mars 1907.
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[16]
Edward B. Moogk, En remontant les animées. L’histoire et l’héritage de l’enregistrement sonore au Canada (des débuts à 1930), Ottawa, Bibliothèque Nationale du Canada, 1975.
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[17]
Anonyme, « Aux cinématographes », in Le petit Québécois, 12 février 1910.
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[18]
Ernest Tremblay, « Feuillet théâtral », in Le Pays, Montréal, 15 janvier 1910.
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[19]
Anonyme, « Titres commentés au Théâtre Arcade », in La Patrie, 10 février 1925.
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[20]
ケベックの講師に関して以前行った研究は〔筆者の〕修士論文の対象であった(Le bonimenteur de vues animées(Départment d’histoire de l’art, Université de Montréal, 1993.))。アンドレ・ゴドロー〔André Gaudreault〕との共著のうちいくつかの論文でも、この発見について説明した。« l’écran ventriloque », in 24 images, n° 65, février-mars 1993; « Des “films parlant français” en 1913, au Canada français », in 1895, octobre 1993. トーキーが登場するまでの講師の存在について情報を発見してはいたものの、私たちはその存在が〔実態より〕限られたものだと推測していた。
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[21]
俳優のマルク・フォレ〔Marc Forrez〕との対談の一節で、シャンタル・エベールが引用している。Le burlesque au Québec. Un divertissement populaire, Montréal, Hurtubise HMH, 1981, p. 26. ピアニストと講師は時に同じ人物だったので、声と一緒に即興演奏し、鍵盤と一緒に即興で話した。エクトール・ペルランの場合がそうだった。別の講師、ピエール・デロジエは配偶者にピアノで伴奏してもらっていた(息子のジャックの回想による)。
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[22]
ジャン・グリマルディ、筆者によるインタビュー、モントリオール、1993年3月29日、筆者所収。インタビューに先立って電話で話したとき、グリマルディ氏はサン゠シャルルが字幕ではなく「映像を説明した」のだと強調していた。
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[23]
Jean Pétrie, Quand on revoit tout ça! Le burlesque au Québec, Montréal, Éditions Juliette Pétrie, 1977, p. 34; シャンタル・エベールによる引用、前掲書、 148. 211頁(注58)でシャンタル・エベールは次のように付け足している。「アルチュール・ペトリは、アメリカでヴォードビルをしていたが、ここでは無声映画に解説を付けることからキャリアを始めた。無声映画は、時にはイラスト付きの歌謡でもあった」。
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[24]
ショーの俳優やプロデューサーへの筆者によるインタビュー。〔詳細は〕次の取り。ジャン・グリマルディ、モントリオール、1993年3月29日。ローズ・ウエレット、モントリオール、1993年11月6日。レオ・ショケット、モントリオール、1994年4月26日。
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[25]
本名はアレクサンドル゠シルヴィオ・ジョバン〔Alexandre-Sylvio Jobin〕だが、彼は自身のキャリアすべてを芸名のアレクサンドル・シルヴィオ〔Alexandre Silvio〕で通した。1920年ごろ、熟慮の末に名前のつづりを変えたようである。以前は新聞で「Sylvio」とつづられていた。本稿では芸術家としての名前を使うことにしたが、テクストを引用する場合に限って、引用文中にあるつづりをそのまま用いる。
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[26]
Minute no 109892 du notaire Faribault, 12 mars 1919, Greffe des notaires, Palais de justice de Montréal. この書類はジャン゠ピエール・シロワ・トラアン〔Jean-Pierre Sirois Trahan〕によって筆者に届けられた。
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[27]
Publicité « Théâttre Canadien-Français », in La Patrie, Montréal, 3 mars 1923.
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[28]
Anonyme, « L’insoumise na Canadien », in La Patrie, Montréal, 11 âout 1923.
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[29]
【訳註】ここで用いられているenvoyeは、ケベックの間投詞表現で、「さあ行こう」といった語義を持つ。筆者はここで、映画のタイトルにもケベックの地域性が見出されることを確認している。La Société du parler français au Canada, Glossaire du parler français au Canada, Québec, Les Presses de l’Université Laval, 1968, p. 323.
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[30]
Publicité, « Théâtre Canadien-Français », in La Patrie, Montréal, 3 mars 1923.
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[31]
Publicité, « Théâtre Canadien-Français », in La Patrie, Montréal, 10 mars 1923.
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[32]
Anonyme, « Nos théâtre », in Le Canard, Montréal, 31 mai 1925. シルヴィオは健康上の理由から1926年にカナディアン゠フランセ劇場とナシオナル劇場をジョゼフ・カルディナル〔Joseph Cardinal〕に譲っていたらしい(La Presse, 1926年11月6日)。
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[33]
筆者によるRose Ouellletteへのインタビュー、筆者所収。
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[34]
Programme, Théâtre des Nouveautés, Montréal, 9 décembre 1912, p. 3.
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[35]
Publicité, « Théâtre Canadien », in La Presse, Montréal, 24 décembre 1915.
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[36]
Anonyme, « Théâtres. Théâtre Canadien Français », in La Patrie, Montréal, 22 novembre 1919.
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[37]
Anonyme, « Théâtres. Théâtre Canadien », in La Patrie, Montréal, 9 février 1923.
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[38]
Anonyme, Publicité « Théâtre Arcade », in La Patrie, Montréal, 24 février 1923. 〔1923年の〕4月21日には、広告文はなおも「説明付きの映像」と繰り返し、劇場についてのコラムは「いつも通り、映像にフランス語の説明がつく」とはっきり述べている。
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[39]
Anonyme, « Théâtres et cinémas. Lune Rousse », in La Presse, Montréal, 17 février 1923.
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[40]
Anonyme, « Echos de Cour et Jardin », in Radio-Monde, Montréal, 8 avril 1944.
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[41]
Chantal Hébert, cit., Appendice L, p. 283.
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[42]
Henri Poitras, « Dramaturge », in Radio 50, Montréal, 4 juin 1950, p. 24. この資料は、歴史家のジャック・クラリウ〔Jacques Clarioux〕から筆者に提供された。クラリウは次の論文でこの資料を引用している。« Le vaudeville au Québec 1900-1930 », in Les Cahiers de la Société d’histoire du théâtre au Québec, n° 8, juin 1992.
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[43]
講師たち自身が業界紙に書いたテクストも、口頭の技芸を究めた教養ある講師を雇うことを支持している。
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[44]
Anonyme, « Echos de cour et jardin », in Radio-Monde, Montréal, 8 avril 1944.
この記事を引用する
ジェルマン・ラカス「ケベックにおける弁士業について──抵抗の実践として」山根佑斗訳、『Phantastopia』第5号、2026年、137-151ページ、URL : https://phantastopia.com/5/translation/。(2026年03月21日閲覧)
