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研究ノート

消極的な抵抗の意味1990年代のロウ・イエ映画に見られる切断について

王宏斌

はじめに

ロウ・イエは中国第六世代映画を代表する監督であると同時に、中国インディーズ映画を代表する映画人でもある。中国当局の検閲と対峙し続け、紆余曲折の監督人生を歩んできたロウ・イエは政治的かつ社会的問題に過激に触れる監督として知られている。とは言え、これまでのフィルモグラフィを参照すると、彼が明確に政治に言及するのは『天安門、恋人たち』(2006年)からである。先行研究によれば、「悲劇をもたらす決定的な社会要素を全面的に提供せず、若者の情動に酔いしれる[1]」とされる1990年代のロウ・イエ映画は、政治的かつ社会的問題を撮る際に、内向的で消極的な態度を表したと考えられる。

一方、複雑な編集手法を特徴づけるパズル・フィルム(puzzle film)と呼ばれる概念を中心とした研究書において、映画研究者ヤインデイ・エディー・フェングは『ふたりの人魚』(2000年)や『パープル・バタフライ』(2003年)などの初期のロウ・イエ映画が時系列と物語を正確に読み取る能力を不安定にさせる切断によって、観客の期待を強化する映画を批判すると論じている[2]。商業映画的なショットの滑らかなコンティニュイティに抗う非論理的、非合理的な切断という編集手法は、観客の能動的な思考を誘導するために計算し尽くされた手段として、ポストモダン時代の映画解読の多義性と遊戯性を強調している。欧米圏において同時代性のある映画監督として評価されるものの、デビューしてから映画制作の細部から全般におけるあらゆるクリシェを覆そうとする初期の第六世代には、モダンな思想とアヴァンギャルド芸術の精神も内在している[3]。言い換えれば、「古い文化の継承者ではなく、自分が世界の一員であると思っていた[4]」1990年代のロウ・イエが切断を多用する理由の一つは、文化大革命が終焉した後、芸術を自己の表現に始まって、自己の表現に終わるものとして捉え、因襲と伝統を断ち切ろうとし、新たな方向を目指していたためである。本研究ノートは、これまでのロウ・イエ映画における政治に対する態度を全面的に理解すべく、1990年代に制作された『デッド・エンド 最後の恋人』(1995年)、『危情少女 嵐嵐』(1996年)と『ふたりの人魚』を取り上げ、切断という編集手法がもたらす効果を分析することで、これまで批判的に捉えられてきた1990年代のロウ・イエ映画に潜在する抵抗の可能性を読み取る。

 

1、『デッド・エンド 最後の恋人』:無意味の切断

 

『デッド・エンド 最後の恋人』は改革開放後の上海でロックバンドとしての活動を目指す未成年者たちの無軌道な青春を描くメロドラマである。デジタル合成、荒々しい手持ち映像、ミュージックビデオのような映像編集、極端な色使いなど、多様な表現手法によって多様な被写体が無差別に視覚化された方法は、日常生活に複雑な連帯や矛盾が織り込まれ、ヒトとモノが混沌とした1980、90年代の上海の都市風景[5]を描いている。既に老朽化した旧式マンション[6]に活動している若者の姿を映し出す際に、クロスカッティングなどの古典ハリウッド映画の古典的手法が多く使われる一方で、ホワイトフラッシュトランジション[7]によって表現された切断が至る所に散りばめられている。

この切断が初めて現れるのは、九年の刑期を終えて出所したアシーという青年が一人暮らしの部屋に住み着き、ランニングシャツを脱ぐシーンである。暗闇の中、微かな黄色い光と感傷的な音楽に合わせてアシーは服を脱ぎながらバスルームへ入って行く。彼が鏡の前に立ち止まった途端に、雷鳴の音は突如として大きくなり、転調した音楽の曲調は低く沈んでいる。アシーが無言で自分を凝視するなか、カメラは緩やかにアシーの身体に接近する。そして、彼が洗面台の下でお金を見つけ、ランニングシャツを脱ぐと同時に、音楽は徐々に消えていく。脱ぎ捨てたランニングシャツが激しく地面に投げつけられる瞬間、ホワイトフラッシュトランジションが素早く挿入される。投げられたランニングシャツによる大きな風切り音が生じ、アシーはバスルームを出ていく。ここでの切断は、メインプロットから逸脱することで情緒的な音楽と光の表現で詩的な雰囲気を生み出し、過ちを犯した過去から脱出し、新たな生き方を決めるアシーの欲望を意味するのである。

その後、アシーは知り合いの説得を無視し、煉瓦を手に持ち、彼女リーを奪ったララのもとへ向かう。赤い光に包まれた狭い地下室で、アシーとララがお互いに引っ張り合いながら喧嘩している間、喧嘩の声は人混みの騒音と重なる。アシーは突然煉瓦で不服を唱えるララの頭を叩く瞬間、ホワイトフラッシュトランジションが突然に挿入される。この切断は見知らぬ人に殴られた身体の刺激を提示し、その激しさを観客に体感させている。その後、物語に偶然の出来事が連鎖的に起こり始める。傷を負って逃げたララは電話ボックスで電話を掛けるキャリアウーマンのチェンに助けを呼ぶ。見知らぬ人の出現に驚きながらも、慌てて受話器を元の場所に戻すチェンは、ララをタクシーに乗せて送り出す。拾った財布を返そうとするチェンは、暗闇の部屋にアシーとリーの喧嘩を覗き見し、彼女を助けるかどうか迷っている。しかし、チェンは一度離れていこうとしながら打撃音に注意を引かれ、咄嗟にリーを連れて逃げ出した。チェンはリーの紹介によってララのことを詳しく知り、ビートルズの『ジョンとヨーコのバラード』が流れる中で、三人は深夜のパーティーをする。お手洗いで蛇口から出た水を顔に掛けながら引っ張りあうリーとチェンの間には、レズビアンの雰囲気が漂っている。締まりのない身なりと濡れた髪などの外見、親しげな彼女たちの笑い声と『ジョンとヨーコのバラード』の音楽を一体化する編集方法は、レズビアンの雰囲気をより一層浮き彫りにしている。ここで、身体の刺激を強調する切断は偶然の出来事を引き起こし、連鎖的に異なる思想を抱えた他者とのつながりをもたらしながら、年齢、階級、血縁とジェンダーの境界を超えた親密圏を構築している。

そして、深夜のパーティーが終わってから、満足して部屋を出たチェンは一人でしゃがみ込んでいる。電話の着信音に呼び覚まされ、会社の倒産のメッセージを知った彼女が茫然としている間に、三度目のホワイトフラッシュトランジションが起こる。この切断はショットとショットの繋ぎに起こり、人間の行動と映像の意味の間に綿密で合理的な結びつきをもたらしながら、ナレーションの因果関係を重視する物語の枠組みへの回帰を喚起させ、一時的に形成された親密圏の分裂を表し、現実的に生きるチェンの決心も現れになる。[8]総じて、『デッド・エンド 最後の恋人』における切断は、詩的なもの、身体の刺激、日常生活への復帰を表現し、それぞれの人間の遭遇、接触と決断を暗示している。自らの感情を自制することができないアシーは、過去を脱出して変化を望むものの、リーとララに対して乱暴な振る舞いをした後、憂鬱になっている。一方、チェンが離れてから暗闇の中でセックスし始めるリーとララは過去の幽霊であるアシーに対する恐怖が解消できない。それだけでなく、増幅されたこの恐怖は結末でのララとアシーの対立の原因の一つとなっている。さらに、これらの事情に精通した観察者としてのチェンは、ララとリーがセックスし始めるところを見つめ、ドアを閉めて静かに去ることにする。生計維持の問題の解決に悩み続ける彼女は、性的な充足を感じたい欲求に駆られて彼氏とセックスすることを求めている。こうして、一時的に構築された親密圏がアシーに脅かされ、それを離れようとしたことで瓦解する一方で、そこに巻き込まれる人物は他者との接触で不安を解消する可能性を見逃すのである。開放的ではない偽りの親密圏は、見知らぬ他者の内面的な多様性を喚起させ、さらに社会で主流となっている価値観を問題化する積極的な効果を失い、幻想的に癒しと慰めを求める空間へと変容してしまう。人間の行動に応じて複数の動機を使い分けることでユートピア的な親密圏の形成から分裂までの過程を多元的に描写しているが、これらの切断は結果として無意味のように見え、身体の刺激を強調するものとして機能する。

2、『危情少女 嵐嵐』と『ふたりの人魚』:柔軟さを問いかける切断

未成年者の繊細な思惑をひたすら描く『太陽の少年』(チアン・ウェン、1994年)や『青春の約束』(クワン・フー、1994年)など同時期の第六世代映画のなかで、「父殺し」を主題にしたホラー映画である『危情少女 嵐嵐』は真正面にエディプス・コンプレックスを提示する類い稀な作品である[9]。夢と現実の狭間に生きながら、過去にまつわる恐ろしい記憶と経験に苦しめられている少女嵐嵐が暗いシャワー室で洗髪するシーンで、水の滴る音と雷鳴に触発され、母親の幽霊がホワイトフラッシュトランジションの挿入とともに彼女の記憶に断続的に現れる。その後、未知の毒物兵器を開発して全人類を統治しようとする父親の再来とともに、彼女は恐怖と怒りを抑えられず、自分を襲撃する父親を撲殺した。『デッド・エンド 最後の恋人』での詩的な使い方と違い、殺人の欲望に自覚するこの切断は、個人の内面を侵食した過去への抵抗を触感的に可視化するのである。しかしながら、殺人を犯してから虚無感に陥っている嵐嵐の無表情の顔は、文化大革命や天安門事件を連想できる過去の恐ろしさから解放されない様子と、これらの事件に巻き込まれたトラウマを完全に拭い去ることの有効性への問いとして読み取れる。映画の結末のシーンにおいて、まるで母体へと回帰するように、幼い頃に馴染んでいる童謡など過去の甘美さを思い出しながら笑顔になる嵐嵐は、記憶の深層に耽溺しているのに違いないだろう。要するに、切断に導かれ、包み隠さない両義的な態度を示す嵐嵐の父親殺しの行為は、現実と遮断されたファンタジーの世界で行われていた抵抗であると考えられる。

切断するかしないか、この二者択一の問題に対する両義的な態度についての思考は、元恋人と瓜二つの若い女性と出会い、失いかけた愛を探してさまよう「ボク」の物語を描いた『ふたりの人魚』において繰り返される。映画の冒頭では、黒い画面に付随するナレーションとともにスクリーンが明転しつつ、一人称のカメラマンは、撤去される廃墟が乱立している蘇州河界隈に棲みつく庶民の姿を見つめ、石炭船のエンジンの音とともに過去の記憶を語り続けるなかで、多数のホワイトフラッシュトランジションは持続的に遅延され、回復される。さらに、手持ちカメラの映像がジャンプカットによって断片的に繋がれ、黒と白の切断が交差することで表現された、情報量が詰め込まれ、消化されない状態で主人公は漂流し続けている。より細かく整理される『デッド・エンド 最後の恋人』の切断とは違い、これらの切断は乱れたテンポ、ざらついた映像と幻想的な音と音楽とともに乱暴に使われる。黒か白の画面で示された切断の意味について、ドゥルーズは『シネマ2*時間イメージ』の最後の部分で重要な指摘を残している。

 

もし切断が、それによって決定されるイメージの二つの系列のいずれにも属さないとしたら、両方で再結合が起きるだけである。そして切断が拡大され、それがあらゆるイメージを吸引してしまうなら、そのとき、距離とは無関係な接触として、黒と白、否定と肯定、表と裏の、充溢と空虚の、過去と未来の、頭脳と宇宙の、内部と外部の共存あるいは接着として、切断そのものが画面となる。[10]

 

ドゥルーズによれば、映画の切断は世の中のすべての感覚を脳装置=スクリーンという平面的な空間へ誘う。ここで、黒い画面と白い画面は、非合理的切断によって死と記憶の兆しを表し、様々な絶対的対立を打破するようにする。しかし、主体性への否定は決して絶対的なものではなく、流動的なネットワークの構成によって一時的に局所化された隙間と空白にとどまる。これらの空白と隙間の下で、主体が周囲の環境に臨機応変に適応するために絶えず変化を生成する能力が求められている。こうして、切断そのものは本質的な変化を意味せず、外部から強烈な衝撃を受けても柔軟的に生き延びるものの表現であると考えられる。この論述から『ふたりの人魚』の切断を考えると、乱暴に表現され、表象を伴わずにスクリーンと脳の間に起こる内的作用を示す瞬きの切断は、点滅したり脈動したりするテレビとアニメの閃光性を想起させる。ここで、現実から虚構へ、虚構から現実へと言った運動に焦点を当てる直線的なモデルの批判を提示した瞬きは、見知らぬ庶民との間に相互的なアイ・コンタクトが頻繁に行われることを避けようとする一人称としてのカメラマンが、細分化されたそれそれの人物の世界に侵入し、柔軟に外観を変えながら実質的変化を装うことを暗示するのである。

小船に乗って漂流する冒頭のシーンが終わってから、名前のないカメラマンは虚構の世界でもう一人の自分──マー・ダーの視点を借りて物語を語り続ける。かつての恋人と似通っている風俗嬢のムーダンとマー・ダーに嫌がられた後、カメラマンは反応せずに呆然としている。そして、最後のシーンの真っ黒な画面のナレーションの中で、彼は「今はただ 目を閉じて 次の物語を待つ[11]」と呟いている。目を閉じてしまった彼は再び目を開けて元の物語を続ける気があるかもしれない。映画の舞台である蘇州河の文字「蘇」が蘇生や復活の意味を示す通り、意識を回復した彼は虚構の空間で新しい物語を始める可能性もある。河流に落ちそうなカメラの動きが示唆しているように、彼がすでに気絶していることも否めない。ここで、「次の物語」の多様な可能性が開かれているが、切り替わった真っ黒な画面は、スクリーンを恣意的で無限の解読や参照として捉えることを拒絶し、主人公の柔軟な臨機応変の態度を宙づりにしながら、見る側の映画体験を思考停止させようとする。「カメラでキャラクターの生活に干渉し、彼らが干渉された後に何が起こるかを記録すること。これは映画の基本的な定義である。[12]」と言うロウ・イエの言葉からすれば、瞬きの切断など編集手法自体が他者に対する暴力と干渉である以上、切断の現実的意味の有無やそれに伴う抵抗と妥協の問題を問いかけることは個人の執着に陥りやすいだろう。したがって、第六世代映画の批判的リアリズムとは一線を画し、『ふたりの人魚』は現実や真相を究明するのではなく、現実を現働化する可能性を揺れるカメラや現実と虚構の間に跳躍する編集手法で示したであろうと予感させる。

 

終わりに

 

政治と時代に触れる際に、娯楽的要素やスター・システムを利用し、思想よりもテクニックを重んじることでしばしば批判されたロウ・イエ映画は技術的誇示、表層的沈溺とナルシシズムではなく、政治的かつ社会的問題への応答を切断に導かれた編集手法の物質性(形式的な要素ではない)に託している。『デッド・エンド 最後の恋人』において、身体の刺激を鮮やかに提示する切断は、瞬時的で破壊的なダイナミズムへの憧れとそれに伴う自己否定の無力さを意味する。父親殺しをテーマにした『危情少女 嵐嵐』の切断が導いた悲惨な過去への態度には、反逆精神の提示と反省、切っても切り離せない個人と社会の関係性が透けて見える。その後、学生運動に明確に言及する『天安門、恋人たち』において、常識と倫理を超えた過激な内容は反逆の急進性、破壊性と盲目性が増幅するが、その続きを描いた『シャドウプレイ』(2019年)において、群衆の蜂起と超富裕層の不倫によって表現されたダイナミックな反逆は逆に疑問視される。イデオロギー本位の娯楽映画との間には根本的な食い違いがあるとはいえ、政治と社会の闘争に対する両義的な態度とそれに伴う監督の作用的な葛藤は、アメリカの歴史学者ポール・G・ピコウィチが指摘した、第六世代映画が政府に公認されたり、抑圧されたりする状態で揺れ動く姿[13]と重なっている。

そして、時代の変化のメタファーである環境音と甘美な個人の記憶を意味する流行歌を並置し、個人と集団、現代と伝統、田舎と都市の断裂を描くことで、ポスト社会主義の下で直線的かつ進歩的現代開発プロセスをリアルに風刺する[14]初期の第六世代の代表作『一瞬の夢』(ジャ・ジャンクー、1997年)と別の方向で、前作の反逆精神との断絶を表す『ふたりの人魚』が示唆しているのは、時代に回収されなくてもそれと複雑に絡む合う状態で局地化された空白と隙間において、柔軟さを疑問視する切断によって宙づりにされたヴァーチャルの主体性の生成と、権力中心との対話の可能性である。この可能性は、仏教や道教などの伝統文化との関係を断ち切らず、抵抗しないが従順もしないと言う消極的な態度をとりながら映像のテクニックに偏重するビー・ガンなどの2010年代の中国南方出身の映画監督[15]に探求され続けている。これについては、また別稿で論じたい。

参考文献

Paul G. Pickowicz, From Underground to Independent: Alternative Film Culture in Contemporary China, Rowman and Littlefield Publishers, 2006.

Chris Berry, Xiao Wu: Watching Time Go By, Chinese Films in Focus II, edited by Chris Berry, British Film Institute, 2008, 250–257.

Yunda Eddie Feng, Revitalizing the Thriller Genre: Lou Ye’s Suzhou River and Purple Butterfly, Puzzle Films: Complex Storytelling in Contemporary Cinema, edited by Warren Buckland, Wiley-Blackwell, 2009, 187-202.

Xiaoping Wang, Ideology and Utopia in China’s New Wave Cinema, Palgrave Macmillan, 2018.

Wang Muyan, BACK TO SUZHOU RIVER:A conversation with Lou Ye, April 2022. https://strandreleasing.com/wp-content/uploads/2022/07/suzhouriver_booklet_digi-en-hr.pdf (最終閲覧日:2024年2月5日)

斉藤純一『親密圏のポリティクス』ナカニシヤ出版、2003年。

G・ドゥルーズ(宇野邦一・石原陽一郎・江澤健一郎・大原理志・岡村民夫訳)『シネマ2*時間イメージ』法政大学出版局、2006年。

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娄烨「我们的周末 关于《周末情人》」『北京电影学院报』1995年第1期、183-187頁。

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韩帅『新感觉电影: 娄烨电影的美学风格与形式特征』江苏凤凰教育出版社、2020年。

余雅琴「南方电影新浪潮:创造一种全新语言的野心」『澎湃新闻』、2020年9月6日。

https://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_9031458(最終閲覧日:2024年2月5日)

郝建「离散的“第六代”:混沌的命名式、艺术营养和死亡情结」『华语独立影像观察第二期:中国独立电影前史』、2021年、102-120頁。

张小迪「作为中国当代艺术的“第六代”电影」『北京电影学院学报』2022年第3期、43-56頁。

Notes

  1. [1]

    Xiaoping Wang, Ideology and Utopia in China’s New Wave Cinema, Palgrave Macmillan, 2018, 46.

  2. [2]

    Yunda Eddie Feng, Revitalizing the Thriller Genre: Lou Ye’s Suzhou River and Purple Butterfly, Puzzle Films: Complex Storytelling in Contemporary Cinema, edited by Warren Buckland, Wiley-Blackwell, 2009, 187-202.

  3. [3]

    张小迪「作为中国当代艺术的“第六代”电影」『北京电影学院学报』2022年第3期、43頁。

  4. [4]

    娄烨「我们的周末 关于《周末情人》」『北京电影学院报』1995年第1期、185頁。

  5. [5]

    この言葉は「風景=国家・権力への抵抗」という1960年代の松田政男の風景論の議論からインスパイアされ、政治との関係を強調するために使用する。(松田政男『風景の死滅 増補新版』、2013年、7–35頁。)インタビューで「私にとって都市の風景はイデオロギーの一つなのだ」と述べ、これまで現代都市を舞台にした映画制作で「風景=権力」の意識を持ち、さらに高度経済成長期の日本の映画や写真集も参考したロウ・イエは風景的な監督とも言える。(胡涛「娄烨访谈:用风景抵抗空间记忆的消失」『今天』124期、2019年、10頁。)

  6. [6]

    中華人民共和国の建国後、上海市政府は所有者から1930、40年代に建設されたこれらの旧式マンションの所有権を没収した。旧式マンションの多くは、政府機関のオフィスや公共施設として利用されたり、居住用や商業用に貸し出されたりしてきた。(周霏・柴田祐・澤木昌典「中国・上海市における「老洋房」と商業開発に関する研究」『日本都市計画学会関西支部研究発表会講演概要集』2011年9巻、57-60頁。)

  7. [7]

    ホワイトフラッシュトランジション(White Flash Transition)は画面全体が素早く白くなり、また白い状態から切り替わっていくという映像の編集手法を指す。元々テレビ撮影の専門用語であるが、最近のスマホの動画編集と加工にも多用されている。ロウ・イエによると、1990年代に上海映画撮影所で映画を作る際に、フィルムをスクラッチしたり、フィルムを実験的に繋ぎ合わせたりすることで、ホワイトフラッシュトランジションがもたらす様々なエフェクトを追求している。具体的な内容は以下を参照。韩帅『新感觉电影: 娄烨电影的美学风格与形式特征』江苏凤凰教育出版社、2020年、256頁。

  8. [8]

    ここでの親密圏の概念は、政治研究者斉藤純一が論じたものに依拠している。斉藤は親密圏を「具体的な他者の生/生命―とくにその不安や困難―に対する関心/配慮を媒体とする、ある程度持続的な関係性を指すもの」であると定義する。また、斉藤によれば、親密圏の政治性は「社会の秩序や自己の秩序を現在編成している価値のあり方に対する疑問や問題化へと−少なくとも潜在的には−つながるものである」と見做されている。(斉藤純一『親密圏のポリティクス』ナカニシヤ出版、2003年、213頁、232頁。)血のつながりのないチャンがアシーからリーを救出し、さらにリーの苦悩を聞きながら彼女と戯れている場面を提示することで、『デッド・エンド 最後の恋人』は親密圏の構築を見せている。

  9. [9]

    世代論によって分類され、定義された監督グループとして、第六世代は常に上の世代をあからさまに描写することを避け、下の世代に関心を持ち、さらに死の欲動を抱いていると考えられる。両方の描写を取り入れる『危情少女 嵐嵐』は典型的に初期の第六世代の精神を内包している作品と言える。具体的には以下を参照。郝建「离散的“第六代”:混沌的命名式、艺术营养和死亡情结」『华语独立影像观察第二期:中国独立电影前史』、2021年、119頁。

  10. [10]

    G・ドゥルーズ(宇野邦一、石原陽一郎、江澤健一郎、大原理志、岡村民夫訳)『シネマ2*時間イメージ』法政大学出版局、2006年、298頁。

  11. [11]

    このセリフは2001年に発売された日本語版の『ふたりの人魚』のDVDを参照したものである。

  12. [12]

    Wang Muyan, BACK TO SUZHOU RIVER:A conversation with Lou Ye, APRIL 2022.https://strandreleasing.com/wp-content/uploads/2022/07/suzhouriver_booklet_digi-en-hr.pdf (最終閲覧日:2024年2月5日)

  13. [13]

    Paul G. Pickowicz, From Underground to Independent: Alternative Film Culture in Contemporary China. New York: Rowman and Littlefield Publishers, 2006, 1-22.

  14. [14]

    Berry, Chris, Xiao Wu: Watching Time Go By, Chinese Films in Focus II, edited by Chris, Berry, Palgrave Macmillan, Basingstoke, 2008, 250–257.

  15. [15]

    中国南方ニュー・ウェーブ(China South New Wave)と呼ばれるこれらの新人監督の映画は中国亜熱帯地域を舞台にしている。中国の映画批評家余雅琴によれば、『ふたりの人魚』、『シャドウプレイ』などロウ・イエの作品も、これらの監督の作品と同じく南方映画の系譜と文脈に属している。具体的には以下を参照。余雅琴「南方电影新浪潮:创造一种全新语言的野心」『澎湃新闻』、2020年9月6日。https://www.thepaper.cn/newsDetail_forward_9031458(最終閲覧日:2024年2月5日)

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王宏斌「消極的な抵抗の意味──1990年代のロウ・イエ映画に見られる切断について」『Phantastopia』第3号、2024年、63-71ページ、URL : https://phantastopia.com/3/the-meaning-of-passive-resistance/。(2024年04月23日閲覧)

執筆者

王宏斌
WANG Hongbin

博士一年。専門は中国映画における南方の表象。

Phantastopia 3
掲載号
『Phantastopia』第3号
2024.03.22発行