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論文

革命の道具としての歌と西洋楽器模範劇の音楽における「洋為中用」を中心に

滕束君

はじめに

模範劇(樣板戲)とは、1967年から1976年にかけて中国のプロレタリア文化大革命(以下「文革」)の際に作られたと中国共産党が公式に認めた、当時の中国共産党の左翼的イデオロギーを反映した舞台芸術作品群のことである。

1967年5月25日、『延安文芸座談会における講話』25周年を祝うとともに、「八つの模範劇」という言葉がはじめて『人民日報』の表紙に現れた[1]。文革期に封建主義や資本主義、修正主義の文芸作品が否定され、模範劇は当時の中国人が鑑賞できるほぼ唯一の舞台芸術になったため、「八億人に八つの芝居があった(八億人民八個戲)」は、文化大革命の文芸を想起する人々の共通の記憶となった。しかし実際には、1968年以降、江青は8作に加え、少なくとも10ほどの模範劇を発表し、翻案された演目や実験段階の作品、未上演の作品を加えると35作品以上に至る。模範劇の時代区分について定説はないが、『人民日報』や文革期の政府の広報部「初瀾」[2]、文革音楽の研究者である戴嘉枋の記録などを参考にすると、表1のように3つの時期に分けられる[3]

表1:革命模範劇の作品名と種類[4](表は筆者による。以下同様)

革命現代京劇

バレエ舞劇

交響音楽

楽器伴奏歌曲

器楽曲

形成期
1967年

《智恵をめぐらして威虎山を奪取する(智取威虎山)》
《海港》《紅灯記》
《沙家浜》
《白虎連隊を奇襲する(奇襲白虎團)》

《白毛女》
《紅色娘子軍》

《沙家浜》

発展期
1968年以降

《龍江頌》(1972)
《紅色娘子軍》(1972)
《平原作戦》(1973)
《杜鵑山》(1973)
《盤石湾》(1975)

《沂蒙頌》(1972)《草原兒女》(1972)

《智恵をめぐらして威虎山を奪取する》(1974)

ピアノ伴唱《紅灯記》(1968)

ピアノ協奏曲《黄河》(1969)

衰退期
1974年以降

《紅雲崗》、《審椅子》、《戰海浪》等

《龍江頌》等

ピアノ弦楽五重奏伴唱《海港》等

交響組曲《白毛女》等

「模範劇」には「劇」という語が付されているが、実際には京劇やバレエ舞劇以外にも、交響楽やピアノ協奏曲などの音楽作品も含まれる。あえてジャンルを限定するならば、「模範劇」とは、現代京劇を中心とする音楽芝居だと言える。だが、資本主義を批判する文革期になぜ資本主義文化の象徴である西洋の交響楽やバレエ、協奏曲を文芸の手本として全国に普及させたのか。それは毛沢東が提唱した「昔のものを今に役立て、外国のものを中国に役立てる(古為今用、洋為中用)」(以下原語で表記する)という文芸思想と関わっている。

1956年8月24日、毛は中国音楽家協会のリーダーたちに下記のように述べ、はじめて「洋為中用」の理念を表明した。

芸術の「完全な西洋化」が受け入れられる可能性は非常に低い。中国の芸術をベースにして、外国のものを吸収して自分の創造に生かすほうがいい。[…]中国人として、中国の民族音楽を提唱しないといけないが、軍楽隊がチャルメラ[嗩吶]や胡琴を使うわけにはいかない[…]楽器は道具だ。もちろん楽器の良し悪しはあるが、楽器をどう使うかが基本だ。外国の楽器を使うことはできても、作曲にも外国のものを真似することはできない[5]

また、1964年9月27日の『中央音楽学院に対する意見』[6]に関する指示において、毛は正式に「古為今用、洋為中用」という言葉を使いはじめた。その後、江青が毛の文芸思想を引き継ぎ、模範劇に関する指示のなかで常に「古為今用、洋為中用」の理念を伝えている。

模範劇の音楽を総合的に扱った代表的な先行研究としては、汪人元と戴嘉枋の著作がある。汪は芝居と曲の関係や声楽と器楽の関係、言葉の音楽性という3つの側面から模範劇の音楽の価値を評価しつつ、旋律の作曲と楽団の構成において、模範劇が西洋の音楽文化を東洋のそれに取り入れる上で大きな試みをしたと言って、その芸術性を部分的に肯定した[7]。しかし、彼は模範劇のなかでも京劇の部分だけを研究対象としている。また戴は、京劇の板式(リズム、テンポなど)の種類の増加や節回しの多様性、人物の性格や同時代的な特徴の付与、「華洋折衷」楽団の導入といった点から、模範劇が京劇音楽の革新に与えた成果を分析した[8]。とはいえ、彼の研究は楽曲分析を通じて模範劇の音楽的な革新性を検討することに重きを置いており、その革新性と政治的イデオロギーの関係については深く論じていない。つまり汪も戴も、模範劇の音楽における西洋音楽の受容を指摘したものの、資本主義を批判していた文革期になぜ、そしてどのように模範劇が西洋音楽を受け入れたのかという問題について、音楽的側面と結びつけた政治的かつ文化的な分析を十分に行っていないのである。

そのため本論文は、以上の先行研究を踏まえ、模範劇の形成期と発展期によく登場する歌と西洋楽器に焦点を当て、模範劇の多数を占める革命現代京劇とその派生作品を通じて、文革期の創作方針である「洋為中用」の内実とその政治的、文化的な意義を再検討する。模範劇における「洋為中用」──「華洋折衷」楽団の伴奏や合唱、オラトリオ、歌劇のような西洋声楽形式などの積極的な導入──は、江青の文芸革命や殷承宗のピアノ革命、于会泳の京劇音楽の革命と切り離せない。それゆえ、3人のそれぞれの音楽理念と音楽実践を取り上げ、文革期に模範劇が西洋音楽を受け入れた理由や経緯の詳細を明らかにする。筆者は単一の作品の楽曲分析を行うよりも、模範劇の音楽における歌と西洋楽器の役割を通して、雑多なジャンルが同居する模範劇の全体像を概観しうるひとつの構造的な解釈を提供しようと思う。バレエ舞劇の音楽も歌と西洋楽器と関わっているが、議論は別稿に譲る。

一 国民文化の創出と「華洋折衷」の楽団の導入

初期の模範劇の中には、革命現代京劇と交響音楽の2分野に、《沙家浜》という名前の作品が存在している。異なるジャンルで同じ題材の作品が制作されたのは決して偶然ではない。そこには、合唱と西洋楽器を京劇音楽に付け加え、国家儀式のような国民文化を創出しようとした江青の意図が関わっている。

1.1 脱地方性の革命現代京劇《沙家浜》

革命現代京劇《沙家浜》は、上海地方劇の一団体である上海人民滬劇団が1960年に公演した滬劇《芦の湖の火種(蘆蕩火種)》に基づいて翻案された作品であり、模範劇になる以前からすでに上海の地方劇として人気を博していた[9]

1964年、江青は上海で滬劇《芦の湖の火種》を見た後、それを京劇に改めることを北京京劇団に提案した。同年7月、北京京劇団は全国現代京劇コンクールで現代京劇《芦の湖の火種》を公演した。それを見た毛沢東は江青を通じて修正案を提出し、「武装闘争を引き立たせ、武装的な革命が武装的な反革命を消滅させることを強調するべきである。最終的には武装闘争を主体としたものに改める必要がある。また兵士と人民の関係を強めるとともに、音楽によって英雄的な人物のイメージをもっと強調すべきである」とした。また題名をより呼びやすい「沙家浜」に変えることも提案した[10]

思想内容やテクスト構造などの変更に伴って、音楽的な部分も変えなければいけなくなった。当時《沙家浜》の音楽創作を担当した陸松齢によって、「前奏や間奏、環境音楽、伴奏音楽、合唱が求められ、節回しや音楽、楽器の編成などに関しては、強い『同時代性』が要求された。楽団の編制については、西洋楽器を加えた『華洋折衷』楽団が要求されたのである」[11]。音楽はしばしば時空間のイメージを変える役割を果たしてきたが、陸松齢の証言から窺えるように、京劇《沙家浜》は「華洋折衷」楽団に新たな時代性を醸し出すことを期待されていたのだ。

また江青は「善玉のイメージを強化するため、ファゴットとコントラバスを用いて郭建光を引き立てることや音楽で悪玉と善玉を区別すること」も詳しく指示した。ファゴットもコントラバスも低音で、男性のイメージをよく表現できる西洋楽器であるため、江青の提案は確かに京劇音響の低音声部の不足を補っている。だが、それは京劇の伴奏音楽の伝統に反していると指摘せざるを得ない。模範劇《沙家浜》の音楽に、より芝居の背景に相応しい江南の楽器、即ち二胡、笛といった「糸竹」[12]ではなく、西洋楽器を使用したのは、西洋の管弦楽器を通して京劇の伴奏音楽を革新しようという江青の意図によるものだと思われる。また劇中歌「泰山頂の松のようになる」を作曲した際、陸は京劇音楽の創作史上ではじめて、西洋の合唱及び行進曲の構造と形式を伴奏音楽に受け入れた[13]

1967年に模範劇に基づいて地方劇を創作する政策が正式に発表されて以来、従来の地方劇の上演は次第に禁じられていった。たとえば1967年以降、上海人民滬劇団は原作の滬劇《芦の湖の火種》を上演できなくなり、代わりに模範劇《沙家浜》に基づき改編された滬劇《沙家浜》の上演を許可された。原作の滬劇《芦の湖の火種》の再上演は文革終焉後の1980年になったとされる。「模範」という語は、変更できない「正典(canon)」を表すほか、ひとつのモデルとして他の地方劇に模倣させ、複製させるという意味も含んでいる。1974年以降にも地方劇は出てきたが[14]、文革期の初期に上演できたのは京劇と模範劇を翻案した地方劇に限られていた[15]。したがってこの新たな地方劇は、「文化同一性」を目指した国民文化を構築するための助力者にすぎない。

文化の普及にとって肝心なのは、視覚的な要素よりも、方言や地方音楽などの音響的な要素であると思われる。地方劇は、視覚面ではたいてい模範劇の厳格な基準に合ったものであるが、聴覚面では基準に達することが難しかった[16]。さらに言えば、「見ること」と「聞くこと」だけでなく、国民に広く歌わせることが模範劇を普及させる最終目的であった。1967年以降、模範劇をより広く普及させるため、模範劇の普及版や主な旋律の楽譜、劇中写真集などが大量に生産された[17]。また模範劇の映画化も大衆化の一環として重要視され、国家計画に追加された。それと並行して、音声の均質化を促すために方言や地方の独特な言葉遣いが削除され、伴奏の楽器編成の固定化や楽譜の五線譜化も速やかに進んだのである。こうした流れのなかで、1970年5月に、決定版《沙家浜》の総譜が出版された。歌の旋律しか記録しない従来の数字譜と異なり、この総譜は各声部の進行などが理解しやすく、合奏全体を見渡す西洋のスコアを模倣して作成されたものとなっている。ただ京劇音楽の特徴として、打楽器がすべての楽器の最下段に記譜されており、歌手の個性を表現できる長く引っ張る節回しも以前より明確化され、固定化されている[18]。当時は模範劇の脚本に沿って演じなければ、「反革命罪」と見なされる可能性すらあった[19]。新国劇としての模範劇になると同時に、《沙家浜》は本来の地方劇としての個性を失い、均質化と規範化への道を歩んでいったのである。1965年に、江青はさらに中央楽団に交響音楽《沙家浜》の創作を提案した。

1.2 国家儀式と交響音楽《沙家浜》

1965年1月に、毛の文芸創作への不満や文化の「革命化、民族化、大衆化」の要求、西洋音楽への批判などが背景となって、中央楽団はすでに沈滞期にあった。その時、江青が中央楽団の創作組のメンバーに自身の音楽観を表明したことがある。「西洋楽器は技術的に発達し、表現力も豊かである。だが、民族楽器は音の高さが十分に正確ではなく、音響が荒く、音域も狭い。《紅灯記》の中で《インターナショナル》が民族楽団によって演奏されたが、その音響は耳障りで、風味も損なわれていた」[20]。次に、彼女は「楽器の発展は、社会の土台である経済的構造によって決定される。西洋管弦楽団も、資本主義が発展した段階を経て徐々に洗練されていった。総じて言えば、楽器とは道具であり、西洋楽器と民族楽器は両方とも道具としては使用できる。だが、民族楽器の改良には時間がかかる。ではなぜ、外国の楽器を用いて伴奏しないのか。今は外国のものを中国のために用いるべきだ」と述べた[21]。『中央楽団史』を書いた周光蓁によれば、江青による民族楽器の批判は、西洋楽隊を用いて自らの文芸革命を実現しようとしていた彼女の方針と一致する[22]。最終的に、彼女は西洋楽器を武器に喩えて「武器はすばらしい。人民と革命のために使用しても全然問題ない」と西洋楽器に正当性を与えた。彼女は民族音楽と西洋音楽のどちらが正しいのかは問題の核心ではなく、重要なのは「革命」であると述べ、京劇の交響楽伴奏への着手を提案した[23]

交響音楽《沙家浜》は実際には後述のオラトリオのような形式で、主に京劇《沙家浜》の大筋を要約したものであるが、序章と終章が追加されるなど、一部構造が変更されている(表2)。歌の部分では、悪玉が歌う部分は江青の指示で削除され、善玉が歌う部分だけが残された。そして序曲、終章と京劇の中での独唱部分に合唱が追加された。このオラトリオは京劇を部分的にピックアップしたものであるため、セリフのようにプロットを説明する機能はすべて器楽が担った。例えば、冒頭で用いられる西洋楽器による強烈な交響音楽は、鮮明な時代背景をよりよく表現し、歴史的な雰囲気を演出すると同時に、序曲である合唱への導入にもなっている。

表2:京劇《沙家浜》と交響音楽《沙家浜》の構造の比較[24]

革命現代京劇《沙家浜》 革命交響音楽《沙家浜》
序曲(合唱)
応援(独唱) 軍民の情宜が深い
(1)(独唱)
(2)(二重唱)
転移(独唱、二重唱)
結託(独唱) 敵の侵入(器楽)
智恵をめぐる闘争(独唱、二重唱と三重唱) 警報(独唱と合唱)
頑張って続ける(独唱と斉唱) 頑張って続ける(独唱と合唱)
計略の教示(独唱) 計略の教示(独唱)
敵の駆逐(独唱) 敵の駆逐(独唱)
奇襲(独唱) 奇襲(独唱、合唱、器楽)
突破(独唱)
全滅(器楽) 勝利(合唱)

交響音楽《沙家浜》は「交響音楽」と名付けられているが、先述したように形式から見れば西洋風のオラトリオになっている。典型的なオラトリオはオペラと類似したジャンルであるが、演技はなく、大道具、小道具、衣装などは用いない。声楽(独唱・合唱)、オーケストラによって演奏され、歌詞に物語性があり、全体は叙事的である。そして単独の楽曲ではなく、複数の曲で構成される大規模な曲である。レチタティーヴォ・アッコンパニャート、ダ・カーポ・アリア、合唱からなる宗教的(キリスト教的)な題材がオラトリオの特徴である。

だが、交響音楽《沙家浜》では、讃美する対象は神ではなく毛沢東あるいは共産党になっており、その合唱の形は延安の「大合唱」を思い起こさせる。文化人類学者であるアラン・P・メリアムが指摘したように、音楽は情緒表現を許し、美的喜びを与え、楽しませ、伝達し、肉体的反応を誘引し、社会規範への適合を強化し、社会制度と宗教儀式を確立させるにあたり大きな役割を果たす[25]。そうであるならば、交響音楽《沙家浜》の中に多く利用されている合唱は、幸福な集団生活を賛美する際に欠かせない要素となっているといえる。序曲と終曲はその中で最も代表的な部分である。

序     

赤旗が翻って、軍用ラッパが鳴って、山河が震えている!(合唱)

日本軍を駆逐し、売国奴を排除し、国土を防衛し、国を救済するため、

中華の男と女が正義感に満ちて高らかに歌いながら、戦場に先進する。

国民党、反動派、(男声合唱)

栄達を求めて祖国を売り、抗日は口先だけで、実際は共産党に反対していて、

屈服して投降し、悪人の手先となり悪事を働く。

毛沢東、共産党、抗日を指導し、方向を示す。(合唱)

全国人民、団結して防御を堅固にし、

軍刀を振るい、銃器を挙げ、全民武装して、(女声合唱)

新四軍、勇敢に沙家浜で闘う。(女声合唱)

敵を殺し、洋々たる海に沈める。

人民の兵士、人民が親しみ合い、軍民の友愛が深い。

祖国、人民のために、敵に抵抗する。(男声合唱)

鋼鉄のような男、英雄の度胸があり

節操をかたく守って頑強に、解放を求めている(合唱)

毛沢東の思想によって完全に武装している、

大胆に闘争し、大胆に勝利を求め、手元の銃をしっかりと握る。

革命の精神が永遠に発揮される[26]

序曲の音楽には京劇のリズムと旋律が多く使われているほか、共産党と人民の親密さや、共産党が売国的な国民党や敵である日本と頑強に戦う決心を描くことで、その政治的な正当性を表している。二管編成の交響楽団と京劇の打楽器が合唱を引き立て、山を飲み込むような堂々とした勢いを生み出す。それに対し、転調と合唱を伴う終楽章では、勝利の喜びや最後まで戦い抜く決意、毛沢東と共産党の賛美が色濃く反映されている。また京劇の中での独唱の一部は交響楽団伴奏での合唱に変更された。例えば、第8楽章《奇襲》では、本来郭建光の独唱である〈飛兵が沙家浜を奇襲する〉に力強い男声合唱が挟み込まれ、彼の迫力ある壮大な雄姿がより明瞭に引き出されている。

一見して明らかなように、追加された合唱の内容は、国民党と共産党の対立を煽り、毛沢東を繰り返し礼讃するものであった。また、軍民の友愛、革命意識の高揚、武装による勝利といった内容も改めて強調されている。歌詞と歌唱の関係について、メリアムは以下のように述べている。「神話や説話や歴史が歌詞のなかに発見され、文化化のための手段としても、歌は頻繁に用いられている。最後に歌は、跡を辿るだけでなく先導もする。そして政治的・社会的運動は、歌の持つ特権ゆえに歌を通してしばしば表現され、公衆の意見の教化や形成を行う」[27]。つまり、理性と論理に基づく視覚的な文字の羅列と比べて、歌唱は、感情に訴える聴覚的な要素を付与することで、文字によって編まれた詞をより豊かに、分かりやすく伝達することができる。また中国文化史の研究者である洪長泰は、政治的な見地から中国の歌曲文化を以下のように分析している。「中国の音楽家は楽曲を通じて、社会主義の様々な象徴符号と新社会のイメージを創造しようとしている。[…]音楽は民衆の思想と感情の形成に役立つだけではなく、歴史の発展を決定づけるひとつの要素でもある」[28]。交響音楽《沙家浜》は、まさに合唱を通して儀式性を演出し、新たな歴史観を強く発信するものなのだ。

京劇《沙家浜》と交響音楽《沙家浜》の楽譜を比較すると、交響音楽《沙家浜》においては、抒情的な場面では民族楽器が用いられ、高揚する場面では通常の2倍の金管楽器と弦楽器が用いられている。合唱の音量も考慮すれば、交響音楽《沙家浜》の壮大な響きは想像に難くない。歌詞の礼讃内容や合唱の音楽形式に加え、西洋の管弦楽団の伴奏が宗教的な儀式性を強化している。それは伝統的な京劇の伴奏楽器をいかに演奏しても作り出せない効果である。そして交響楽の受容の面においても、交響音楽《沙家浜》は大きな役割を果たした。上海交響楽団の李国梁は「文革が始まって以来、上海交響楽団はほかの文芸団体と一緒に交響音楽《沙家浜》をずっと演出し続けた。労農兵の聴衆は30数万に達した。この数は過去17年間の労農兵聴衆の総数の数倍である」と述べた[29]。労農兵たちも「聞き取れた」「勉強になった」「これは我々自身の交響曲」と評価した[30]

1972年には、交響音楽《沙家浜》の映画が完成されている。そこでは合唱団と演奏者たちが全員中山服を着用し、舞台中央の最も目立つ場所には金色に輝く毛沢東の画像が置かれている。こうして舞台装置における毛沢東・共産党礼讃と叙事的な合唱が交響音楽《沙家浜》の中で完全に統一し、宗教的な国家儀式の様相を呈したのである[31]

二 殷承宗のピアノ革命と毛沢東崇拝

2つの《沙家浜》における歌と西洋楽器の使用が江青の指示によるものであるならば、ピアノで京劇を伴奏するのは、江青自身が西洋楽器のなかで特にピアノを推賞したことや殷承宗によるピアノの復権と密接に関わっている。

2.1 ピアノ伴奏歌曲《紅灯記》の誕生と短命な交響楽伴奏《紅灯記》

京劇《沙家浜》と同様に、京劇《紅灯記》も滬劇に基づいて翻案された作品である。この作品は、京劇化や声楽化といったプロセスを踏み、ピアノ伴奏歌曲《紅灯記》という新たな表現形式を生み出した。

大躍進政策以来、極左勢力によってピアノがブルジョア階級のものと見なされたため、「ピアノ撲滅論(亡琴論)」が唱えられていた。文革の勃発前後、北京と上海で多くのピアノが壊され、音大の教員と学生も山地や農村に下放され、上海音楽学院ピアノ学科の教師である李翠貞や主任の範継森が残酷な政治的迫害によって命を落とした[32]。西洋楽器を演奏しつづけるため、多くの音楽家は西洋楽器の新たな可能性を探していた。その中において、1962年にチャイコフスキー国際コンクール・ピアノ部門で第2位を獲得した殷承宗は、ピアノの復権のために四苦八苦していた。1967年5月、記念延安座談会25周年の前に京劇の革命と同じようにピアノの革命を試みた殷は、天安門広場にピアノを運び、革命歌曲などを演奏した。そのとき殷は、集まった人々からピアノで京劇を弾いてほしいと依頼された。翌日、記憶を頼りに《沙家浜》の劇中歌「沙のお祖母さんが敵を駆逐する(沙奶奶斥敵)」をピアノで演奏したところ、これが大評判となった。中国の人民大衆もピアノという西洋楽器を好んでいることを示した殷は、さらに京劇《紅灯記》の3曲の歌のピアノ伴奏版などを創作し、京劇の役者に歌わせながらピアノを演奏しはじめた[33]

1968年6月30日にピアノ伴唱《紅灯記》を見た江青は、この作品が、西洋楽器の中で最も強く資本主義を意識させると問題視された楽器であるピアノを解放し、その新たな可能性を感じさせると賞賛し、ピアノを民族演劇(京劇)に利用することは全く問題ないと認めた。また彼女は「ピアノは古琴より音量が大きく、音域も広い。ホールで演奏すると何千人も聞こえる」と述べ、ピアノ伴唱《紅灯記》は西洋楽器と交響音楽の革命であり、毛沢東の「洋為中用」思想の表れだけでなく、伝統演劇の伴奏音楽に新たな道を切り拓いたプロレタリア革命文芸の新品種でもあると絶賛した[34]。ここから、江青がピアノの使用を認めた理由が窺える。それはまず、ピアノが西洋楽器のなかで独特の位置づけをもち、大きな空間で多くの人に同時に聴取させられるからであり、そしてピアノで京劇を伴奏するというかつてない新品種の創出が「古いものを斥け、新しいものを打ち出す(推陳出新)」というプロレタリア革命的な文芸理念にも一致しているからである。ピアノのような西洋楽器には、京劇の大衆化を促すことへの大きな期待がかけられていたと言ってよい。

ピアノ伴奏歌曲《紅灯記》は、ピアノの多声でカラフルな特徴を活かし、それまで単声であった京劇の世界を多声へと広げた。音楽のテクスチュアに関しては、殷承宗は旋律で感情を表現するのが上手なラフマニノフの創作方法を参考にしつつ、民族楽器のように同じ音を素早く繰り返すような表現についてはリストを模倣するなど、西洋のピアノ作曲家の技法を応用した例がかなり多いと言われている[35]。広州出身で、90年代以降にアメリカで活躍した著名な作曲家である陳怡によると、もともと彼女の家族は主に西洋古典音楽を聴いて学んでいたが、姉がピアノ伴唱《紅灯記》を弾きはじめてから、家族全員が京劇を愛するようになったという。標準語で歌う、ピアノ音楽を活かしたピアノ伴唱《紅灯記》は、彼女のような西洋音楽を学んだ人が京劇のような伝統演劇の形式を受け入れる際にはとても有効である[36]

ピアノ伴唱《紅灯記》が認められると同時に、交響楽で伴奏する《紅灯記》も江青によって委嘱された。実際に、交響楽団で伴奏する京劇について、彼女は1967年5月に中南海の会話のなかですでに言及していた[37]。「西洋楽団に京劇の打楽器や胡琴、月琴の場所を空けておき、京劇音楽の奏者を受け入れ、《紅灯記》の伴奏に交響楽団を採用し、胡琴、ヴァイオリン、ピアノ日替わりで伴奏してもらってもかまわない。そうすると、交響楽団の活躍の場も失われないだろう」と彼女は提案した[38]。3ヶ月後の建国の日に上演するという江青の指示を受け、殷と中央楽団員たちが交響楽伴奏の《紅灯記》を創作しはじめた。

現在、交響楽伴奏《紅灯記》を知る人は僅かである。模範劇の創作に参加した、中国京劇団の作曲家である張建民によれば、かつて(1968年頃)中央楽団が《紅灯記》の伴奏をしたことがあり、人民劇場で演出した際、伴奏員が約60人もいたという[39]。だが、江青が支持した交響音楽伴奏は、なぜその後大衆の視野から消えてしまったのだろうか。その理由は、1968年9月19日付けの「江青の交響音楽伴奏京劇模範劇《紅灯記》に対する指示」から窺える。「今晩の公演では、あれやこれやの楽器が目立ちすぎて、主人公の影が薄くなってしまった。修正主義、帝国主義の初期にも同じようなことがあったので、あなたたちはそうしないでほしい」と江青は批判したのである[40]。つまり、西洋楽器が際立ちすぎて、主役となる英雄的な人物の歌声が覆われてしまったのである。ここから分かるとおり、江青が述べた西洋楽器の利用には、京劇の歌の伴奏に徹し、英雄的な人物の表現を妨げないものであるという前提があり、西洋楽器はあくまで端役にすぎないといえる。またすべての西洋楽器の個性を制約することは、中ソ関係が悪化しはじめた50年代、ソ連の音楽改革が通った道を改めて歩かないように配慮していたこととも関わっている。江青にとって、ソ連は過去の音楽遺産をすべて受け継いだが、革新を実現していなかった。彼女にとって、そのような修正主義の文芸政策より、上部構造の領域で労農兵たちに自ら芸術を改革させることが重要であった[41]。そこで江青は、各西洋楽器が個性を出すことを禁じ、「もうよい、ピアノだけにしよう」と指示したのであった[42]

2.2 ピアノ協奏曲《黄河》の登場──毛沢東を象徴する楽器としてのピアノ

交響曲《紅灯記》の演奏は禁じられたが、その後殷承宗と中央楽団は、交響曲で伴奏する京劇より西洋音楽の要素が色濃い音楽形式の作品に携わった──ピアノ協奏曲《黄河》である。このような完全に西洋式の協奏曲が文革期に現われた経緯は、1964年11月18日に江青が初めて行った音楽関係者との講話から垣間見える。「ピアノの表現力はとても強いが、今はただ人民大衆が好きなピアノ曲がない。劉詩昆[43]のピアノは非常にうまいが、リストの曲は工場労働者たちには分からない。彼は作曲のことを少し学んだほうがいい。もしピアノで京劇や梆子[河南の地方劇]を弾くことができ、また、冼星海のカンタータ《黄河大合唱》をピアノ協奏曲に改編することができれば、大衆も理解することができるだろう。《青年ピアノ協奏曲》は良いが、民間歌謡ばかり用いて作られた作品であった。なぜ冼星海の《黄河大合唱》、《歌唱祖国》などを用いないのか」[44]。《黄河大合唱》は延安時期に、光未然が作詞した『黄河吟』[45]に基づいて冼星海によって編曲された合唱の組曲である。光は黄河という華夏文化の象徴を通し、中華民族や世界で抑圧を受けた人々に革命を呼びかけている。このような、日中戦争をテーマにしつつ中華民族の歴史を巧妙に表現したカンタータは、中国国内で人口に膾炙し、誰もが知っているといっていい曲となった[46]。つまり、西洋の音楽作品は禁止されたが、西洋の楽器を用いて共産党のイデオロギーに合致する中国風の歌曲を演奏することは認められたのだ。

1968年10月、殷承宗は江青に手紙を書き、正式に《黄河》の創作を提案した。「この作品は、ピアノを単なる伴奏者から管弦楽団によって引き立てられる立場に持ち上げます。それによって、ピアノが『真の革命』へと歩みはじめるのです」と彼は述べている。江青はそれに同意して、「よろしい。《黄河大合唱》では曲を残して歌詞は残すな」[47]と指示した。歌詞を残さない理由は、歌詞の中に「黄河の東一帯が広くて平らかな沃土となった(河東千里成平壤)」という一節があり、国民党統治区であった河東を美化する傾向があったからである[48]

1969年2月7日に、中央楽団に属する《黄河》創作組が正式に設立され[49]、西洋楽器と西洋作曲出身の音楽家たちは集団創作という形で中国初のピアノ協奏曲を制作した。1969年12月25日、《黄河》の録音を聞いた翌日に、江青は創作組を集めて次のように語った。「《黄河》の創作は路線錯誤を犯し、共産党と毛沢東の指導者の位置づけを示しておらず、しかも国民党区を美化した」。このように酷評したのち、彼女は修正案として毛沢東のモチーフ──救世主のイメージを強く象徴した民謡《東方紅》──を加えるように指示した[50]。実際には、《黄河》グループが創作した初稿は中華民族の英雄精神をテーマとしており、光未然の朗読詩と冼星海の音楽の両方を参考にしていたので、政治的な面で《黄河大合唱》 と大きな区別はなかったともいえる[51]。だが、それは江青が盛んに言っていた「曲は残して歌詞は残すな」、「冼星海のことを2つに分けて考えたほうがいい」という考えに反していた。つまり、江青は共産党の政治的な正統性を示すため、《黄河大合唱》に暗示された毛沢東の政敵である王明の影響を隠しつつ[52]、冼星海の民族主義を誇張して、その国際主義を縮減しようとしたのである[53]

《黄河》の最終稿の完成直前に、江青はさらに、《インターナショナル》を付け加えるべきだという兵士からの提案を創作組に伝えた。結局、《黄河》創作グループは、毛沢東の思想が世界に広がることの隠喩として、《インターナショナル》を第4楽章の《東方紅》の箇所に付け加え、毛沢東が我々をユートピアへ導くことを想起させようとした。昨今、一般に上演されるのは、この文革期に模範劇と見なされた《黄河》である。

文革期のピアノ協奏曲《黄河》は《黄河大合唱》の重要な部分を残し、延安時期の光景を思い起こさせると同時に、《黄河大合唱》と異なる斬新なイメージを呈示している。それは、歴史の記録としての歌詞と協和しない音響を削除し、現代の政治的意図を付け加えた、抽象化された音響イメージである。意味を伝える歌詞が削除されたが、歌詞のかわりに民衆が親しんだ歌曲、共産主義、毛沢東崇拝という意図がある歌曲の旋律を通して、江青は《黄河大合唱》を超越した新世界のイメージを構築しようとしたと考えられる。

交響楽伴奏《紅燈記》は、西洋楽器が目立ちすぎて劇中の英雄人物の輝きを奪ったために上演中止にされたが、ピアノは全く異なる運命を辿った。個性を示すことを許された楽器はひとつしかない。それはピアノであり、その個性を引き立てるため、他の楽器は共同性を保つ必要があった。当時の映像を見ると、ピアノが舞台の中央に設置され、後ろの毛沢東の肖像と呼応している。ピアノが管弦楽器に囲まれた様子は、まるで毛沢東が人民に囲まれて賛美されているように見える[54]

三 于会泳の京劇音楽の革命と中国の「新歌劇」

 発展期の模範劇においては、京劇を土台に中国の「新歌劇」を作成しようとする意図が前面に押し出された。その方法は従来の京劇音楽の伝統を打破し、西洋楽器を加えて器楽と声楽を調和させることや、西洋オペラのような「特性音調」や韻文、西洋声楽形式を用いて京劇の演劇性と音楽性を融合させることにある。

3.1 器楽と声楽の調和──交響楽団伴奏の《智恵をめぐらして威虎山を奪取する》

京劇における音楽の機能を活かし、打楽器だけでなく器楽全般の豊富性を高め、声楽に匹敵するほどのものにすること、これは京劇音楽の創作者にとって解決しなければいけない難問である。伝統京劇の場合、歌と伴奏音楽は多くの古い曲を踏襲しており、かつて音楽が脚本の二の次となったことさえある[55]。そこで、とりわけ現代の物語を題材とした現代京劇を創作する際、どのように音楽の表現力を高め、内容と形式の統一や視覚と聴覚の調和を果たすのかが、肝心な問題となった。

模範劇において京劇音楽を改革する際に大きな役割を果たしたのが于会泳である。1949年9月に、彼は膠東文工団の文芸の中心人物として、上海音楽院への入学を推薦された。卒業以降、于は同学校の民族音楽研究室で民謡や曲芸説唱の教育と研究を担当した一方で、体系的に作曲法を学びながら、民謡の収集もはじめた。江青は于を高く評価しており、1960年代半ばに彼の「京劇現代劇の音楽に関する若干の意見(關於京劇現代戲音樂的若幹問題)」、「音楽が必ず英雄像の建立に奉仕する(戲曲音樂必須為塑造英雄形象服務)」などの文章を読んだ後、もっと早く知り合いになればよかったと思ったほどだったという。于も江青の期待に背かず、音楽の面で《智恵をめぐらして威虎山を奪取する(智取威虎山)》(以下《智恵》)や《海港》を一新した[56]

周雅文は、于こそが20世紀以来の京劇改革の方向を示し、それを実現した人であり、そして彼が作った新たなジャンルの京劇は一般大衆だけにではなく、政治的エリートにも人気が高かったと指摘している[57]。「糸は竹には及ばない、竹は喉には及ばない(絲不如竹、竹不如肉)」という諺が示すように、そもそも歌にこだわる京劇では、器楽が附属品として位置づけられていた。その上で周は、洋楽の受容による京劇の音楽改革は20世紀初頭からすでに始まっていたとは言え、京劇の伴奏音楽に初めて和声を加え、声と楽器のバランスを統一したのは于であると、彼の才能を高く評価した[58]

近代的な劇場で模範劇を上演するためには、伴奏楽器と歌のバランス、ことに打楽器の音量に難があった。そこで取られた対策が、総人数を抑え、楽器ごとの音量などを調整することだった。通常、西洋のオーケストラは60人ほどで編成されるが、模範京劇の伴奏楽団は、声楽の音量と演奏空間を考慮し、西洋楽器の演奏者に民族楽器を兼任させるといった工夫を通じて、30人ほどに減らされた[59]。また高、中、低声部の楽器のバランスを整えるため、京劇の打楽器の前にガラスの屛風を設置して音量を減らすといった対策も講じられた[60]。そしてその全体を、西洋風の指揮者が統括した。

《智恵》の音楽創作に龔国泰が参加したことも相まって、于は1968年以降同作において京劇「三大件」(京胡、京二胡、月琴)の響きを際立たせつつ、巧妙に西洋楽器を加えはじめた。従来の楽器の編成においては、「洋重怪乱」、すなわち西洋楽器を突出させることや重厚な響き、異常な和音と乱雑な声部を避けるという原則が確立されてきた[61]。それまで西洋楽器の突出が許されなかったのは、なんと言っても京劇が中国の伝統演劇であり、外国の楽器が目立ちすぎると京劇の民族性が失われるからであった。重厚な響きを防ぐのは、金管の過度な利用を制限するためである。模範劇は1949年以降に共産党が統治した新社会を反映する作品であり、西洋楽器を用いて活気にあふれる様相を表すのはよいとしても、民族楽器の響きを圧倒することや前衛音楽の作曲法を採用することは許されなかった。于の方法はまさにその路線に即したものであった。

模範劇の録音について、于は京劇の「三大件」を最優先するという原則を打ち立て、弦楽、金管、打楽器の音量を次第に減らしていった。ただし歌が登場する場合、歌を最も際立たせるという前提のうえで、同時代性を感じさせるために西洋の管弦楽器も利用された。つまり、模範劇の音楽には以下のような序列があった。まず最も重要なのは歌であり、伴奏音楽では「三大件」が主役となる。それに続いて弦楽、木管が用いられ、金管も追加されるというわけである。

交響楽団で伴奏した《智恵》の評判は良好で、民衆にも大歓迎された[62]。《智恵》は全ての模範劇の先がけとして、京劇音楽の改革の中で西洋楽器と民族楽器をどのようにつなぎ合わせ、調和させるのかというこれまでの問題をはじめて解決し、のちに他の劇団も相次いで上海京劇院の「華洋折衷」の交響楽団を模範とするようになった。

3.2 中国の「新歌劇」《杜鵑山》

3.2.1  特性音調と英雄人物の引き立て

伝統的な京劇音楽には、節回しや合いの手(過門)、伴奏音楽などいずれも類型化されたものが多く、古典劇の枠組みをこえて人物の個性を表現することは難しかった。そこで形成期の模範劇では、特定の人物を特別な旋律で象徴する人物主調(題)と呼ばれる手法が用いられはじめた。例えば、《東方紅》は毛沢東、《インターナショナル》は世界の労働者階級の特性音調であり、《智恵》の中での《解放軍進行曲》が楊子栄、軍歌の《三大紀律八項注意》が参謀長の特性音調として使われていたのである。もっとも、それら既存の革命歌曲は、人物の性格を引き立てるより、むしろ特定の人物を連想させるために役立ったため、まだ一種のラベリングのような未熟な操作にとどまっていた[63]

しかし発展期の模範劇から、西洋オペラの人物主題と示導動機にも似た人物主調と特性音調が京劇音楽の創作に取り入れられた。西洋オペラとは異なり、模範劇にはそれが主に英雄人物にのみ使用されるという特徴がある。

戴と汪の研究によれば、人物主調と特性音調によって鮮明なイメージを与えられ、人々に強い印象を残した例として最も成功したのは、《杜鵑山》の主人公柯湘である[64](楽譜1)。柯湘の人物主調は各節の内容によって多少の変奏を伴うが、彼女が歌う11節の導入部分にすべて用いられている。例えば、彼女の独白としての名曲《乱雲飛》の導入部に、人物主調がまず全体的に現れ、その後変化に富んだ変奏が相次いで現れ、厳しい状況下では柯湘の気分の浮き沈みが激しいことや彼女の剛毅で穏健な性格が表現されている(楽譜2)[65]。それに対し、特性音調は人物主調の旋律の一部であり、彼女の剛毅で穏健な性格を象徴し(楽譜3)、彼女が歌うすべての節の前奏、合いの手、間奏だけではなく、節自体をも貫き、人物描写の完全性とプロットの一貫性を形成した[66]

楽譜1 柯湘の人物主調(赤枠内は特性音調、戴と汪の研究を照らし合わせ、筆者が作成した。以下同様)

楽譜2 <乱雲飛>の冒頭(赤枠内は人物主調)

楽譜3 <乱雲飛>のなかで「杜のおばあさんは危険に直面し、毒刑を受け続けた(杜媽媽遇危難毒刑受盡)」を歌う部分(赤枠内は特性音調)

「一般音調」が、旧劇の格式的な節回し(老戲的腔)を用いて人物の感情の幅を上げるものだとするならば、特性音調は主人公や比喩的なものに特定の意味を持たせた主題性のある音調を用いて、現代京劇に独特な音声効果と演劇効果を与えるものである。ここで強調しなければならないのは、模範劇における特性音調の目的は、ただ主人公の性格を引き立てるだけでなく、「糸のように、特性音調の発展や変化、貫通を通し、比較的独立した節の部分と器楽部分を有機的につなげ、それらを一つの音楽演劇にまとめることであったことだ」[67]。つまり、主役の特性音調(序曲、合いの手、間奏曲、セリフの伴奏音楽など)を繰り返し提示することによって、芝居と音楽の調和を実現しようとしたのだ。

3.2.2  歌と語りの調和

また歌とセリフ(音楽が付かないもの)の関係においては、後に述べるように江青の方針に従って模範劇も西洋の歌劇へと変革されていくが、その途上で大きな進歩を遂げた。歌とセリフの関係については、張晴灧は《智恵》と《海港》段階の模範劇はある種の「新劇+歌」のような組み合わせの音楽芝居にすぎないが、《杜鵑山》の誕生は、「韻白(韻文のセリフ)+歌」という新たな「唱念(歌うことと語ること)」関係を確立したと指摘した。《杜鵑山》のセリフは日常会話のようなものではなく、すべての文が韻を踏んでおり、長短文の採用によってセリフの韻律性と音楽性が高められ、セリフの「朗誦化」が実現された[68]。詩的で押韻のある洗練されたセリフは、登場人物の精神性をより深い次元で明らかにし、模範劇の中心思想をより鮮明に表現するため、革命の政治的内容と最も完全な芸術的形式とを一体化させようとした成果であった。それはまさに、第三世界に発信できるプロレタリアートの詩と歌による新歌劇の要素として求められたものである。

3.2.3 西洋歌劇の京劇化

《杜鵑山》は西洋歌劇の歌唱方法を参照したこともよく指摘されている[69]。柯湘の役者である楊春霞によれば、

《杜鵑山》は于が携わってきた模範劇の全作品の総括である。[…]于の作品はリズムや趣き[韻律和韻味]こそ伝統的な京劇とは異なるが、やはり京劇に聞こえる。[…]《乱雲飛》は西洋歌劇のアリアによく似ていると言われてきた。于の音楽は、伝統京劇の音楽とは大きな違いがある。彼の作品の最大の特徴は、すべての歌う部分と音楽全体が完全に一体となっていることである。于はいくつかの特性音調をデザインし、歌唱の中にその多くを組み込んでいる。これは伝統京劇にはなかったことだ。[…]于は、伝統的な演劇における才子佳人の歌唱スタイルのような甘い感じは必要なく、雄大で厚みのある声で歌うようにと《杜鵑山》の役者に指導した[70]

つまり、《杜鵑山》は結局、西洋の歌劇と完全に同化したわけではなく、京劇の味わいが守られている。張晴灧も《杜鵑山》が京劇を基にしつつ、西洋歌劇の中国演劇化を実現した作品であると評価している[71]。要するに《杜鵑山》は、西洋歌劇風の京劇という形式を採り、英雄的な人物の歌を通じてプロレタリアート革命の精神を聴衆に伝えたものだったと言える。

1964年11月18日に江青は音楽従事者たちに自分の音楽演劇の計画について発言した。

歌声も、楽器も、すべて道具である。[…]民族のものも、外国のものも、すべて改造しなければならない。京劇の女声は、裏声で歌われるため、現代人が話す声とは違う。梆子腔[河南地方劇の歌のスタイル]の男声も変革しないと、常に音域が不適切である[…]盲目的な外国嫌いではなく、他人の良いところを吸収し、活かしていくことが大切なのだ。創作ではすでに舞劇《紅色娘子軍》を手がけたが、次は京劇をベースに西洋歌劇の良さを吸収し歌劇を作り、その後器楽作品も作ろう[72]

于会泳はまさに《杜鵑山》において、江青の構想であり、なおかつ彼自身の理想でもある、京劇をベースにした中国的な新歌劇の制作を実現しようとしたのだ。

おわりに

模範劇の変遷にともなって、そこでの歌と西洋楽器の使用にはいくつかの異なる目的が生じていった。それは主に3つに分けられる。共産党の正当性を示す国民文化を創り出すこと、個性を抑えて共同性を提唱し、毛沢東を崇拝させること、そして観客に新しい生を提示することである。

上記の模範劇の中での音楽の創作過程や作曲者の工夫及び楽器の配置などの分析から分かるように、資本主義の文化が否定された文革期には、西洋の音楽作品の上演が禁止されたが、「華洋折衷」楽団の伴奏や合唱、オラトリオ、歌劇のような西洋声楽形式などが積極的に導入され、交響伴奏の京劇やピアノ伴奏京劇、京劇によって翻案された交響曲など、新しい音楽芝居の形式が次々と作成された。模範劇においてこのような「外国のものを中国に役立てる(洋為中用)」アプローチを採用することは、単に大衆的に成功したエンターテインメントを通じて党のイデオロギーを注ぎ込むといった政治的な思惑に還元できないものである。むしろ、そこには音楽家たちの芸術的な追求が深く関与している。その結果、模範劇の拡大は、文化大革命を先導したイデオロギーから離れて、ある程度中国における西洋的な音楽形式の普及を促進したのだった。

参考文献

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交響音楽《沙家浜》の映像

https://www.bilibili.com/video/BV1Rs411a7NJ/

ピアノ協奏曲《黄河》映像

 

Notes

  1. [1]

    〈八個革命樣板戲在京同時上演(八つの革命模範劇が同時に北京で上演)〉《人民日報》1967年5月25日、1頁。

  2. [2]

    「初瀾」は文化部創作組でよく使われるペンネームであり、『荀子』勧学篇の「青は之を藍より取りて、藍よりも青し」から取られている。また、「初」は中国語の「出」と同じ発音であり、「青」は江青、「藍」は江青の芸名である「藍蘋(青いリンゴ)」を示唆することから、そこには「江青から出す」という意味も隠されている。

  3. [3]

    初瀾〈京劇革命十年〉《紅旗》1974年第7期、《人民日報》1974年7月5日、2頁。〈五種全國性藝術刊物創刊〉《人民日報》1976年3月20日、3頁など。戴嘉枋《樣板戲的風風雨雨》知識出版社、1995年、189-190頁。

  4. [4]

    西洋音楽の位置づけの変遷を明示するため、最も関わりの深い作品(表1で下線を引いた作品)を分析する。

  5. [5]

    《毛沢東文集》第7巻、北京:人民出版社、1999年、77頁。

  6. [6]

    これは学校の音楽教育が周恩来の提唱する「革命化、群衆化、民族化」に反しているという状況を受けて、当時の中央音楽学院の学生が提出した意見書である。

  7. [7]

    汪人元《京劇“樣板戲”音楽論綱》人民音樂出版社、1999年、15-41頁。

  8. [8]

    戴嘉枋〈京劇“樣板戲”的音楽改革(上)〉《黃鐘》中國・武漢音樂學院學報2002(03)、48-60頁。戴嘉枋〈京劇“模範劇”的音楽改革(下)〉《黃鐘》中國・武漢音樂學院學報2002(04)、76-85頁。

  9. [9]

    朱恆夫、聶聖哲(主編)《中華藝術論叢第12輯 戲曲新論專輯》復旦大學出版社、2014年、283頁。

  10. [10]

    〈對京劇《沙家浜》的指示(1963-1965)〉《無限風光在險峰──江青同志關於文藝革命的講話》(以下《無限風光在險峰》) 內部發行、1969年3月、142頁。

  11. [11]

    陸松齡口述,白愛蓮整理〈我的往事《沙家浜》的音樂〉《中國戲劇》2010(03)、41-43頁。

  12. [12]

    滬劇を伴奏する楽器では、二胡、揚琴、琵琶など糸で作られた弦楽器と、笛、蕭など竹で作られた管楽器が定番であり、二胡は最も重要である。

  13. [13]

    同注11。

  14. [14]

    1974年の越劇《半籃花生》と河北梆子劇《雲嶺春燕》。

  15. [15]

    文革以前には《沙家浜》や《白毛女》の粤劇版(広東の地方劇)があったが、模範劇移植計画が始まると、粤劇版は禁止された。彭麗君著、李祖喬譯《複製的藝術 文革期間的文化生產及實踐》香港中文大學出版社、2017年、150頁。

  16. [16]

    同上、139頁。

  17. [17]

    莫偉明、何瓊〈“文化大革命”時期的“樣板戲”圖書出版物〉《党史文苑(記録版)》2007(05)、7頁。

  18. [18]

    北京京劇團集體創作革命現代京劇《沙家浜》總譜1970年5月演出本、人民文學出版社、1973年3月。

  19. [19]

    1970年4月25日、上海鋼管工場の労働者であった譚元泉は、滬劇の曲調で模範劇を歌った為、死刑を宣告された。

  20. [20]

    〈對於音樂工作的指示(1965年1月14日)〉《無限風光在險峰》前掲書、284頁。中國文革研究網が製作した電子書73頁も参考できる。https://www.bannedthought.net/China/Individuals/JiangQing/ComradeJiangQing’sEssayArt-2006-Chinese.pdf(2024年1月15日最終アクセス)。

  21. [21]

    同上。

  22. [22]

    周光蓁《中央樂團史》三聯書店(香港)有限公司、2009年、182頁。

  23. [23]

    同上。

  24. [24]

    北京京劇團集體創作 革命現代京劇《沙家浜》總譜前掲書;中央樂團集體創作 革命交響音樂《沙家浜》總譜 人民音樂出版社、1976年1月。

  25. [25]

    Alan P. Merriam, The Anthropology of Music. [Evanston, Ill.] : Northwestern University Press, 1964, pp. 223-227. アラン・P・メリアム著、藤井知昭・鈴木道子訳『音楽人類学』音楽之友社、1980年、266-276頁。

  26. [26]

    中央樂團集體創作 革命交響音樂《沙家浜》總譜 人民音樂出版社、1976年1月。

  27. [27]

    アラン・P・メリアム前掲書、253-254頁。

  28. [28]

    洪長泰《新文化史與中國政治》一方出版有限公司、2003年、187頁。

  29. [29]

    〈奪回了文藝大權〉《文匯報》1967年9月28日、4頁。

  30. [30]

    〈洋爲中用的樣板──讚革命交響樂《沙家浜》〉《文匯報》1967年5月23日、7頁。

  31. [31]

    交響音楽《沙家浜》の映像はYouTubeで確認できる。https://www.bilibili.com/video/BV1Rs411a7NJ/(2024年1月15日視聴)。

  32. [32]

    居其宏《新中國音樂史 1949-2000》湖南美術出版社、2002年、97-98頁。

  33. [33]

    殷承宗〈我經歷的鋼琴“革命”年代〉《北方音楽》2007(11)、22頁。

  34. [34]

    〈對鋼琴伴唱《紅燈記》的指示〉《無限風光在險峰》前掲書、273-274頁。

  35. [35]

    戴嘉枋〈鋼琴伴唱《紅燈記》及其音樂分析〉《音樂研究》2007(01)、36-37頁。

  36. [36]

    周雅文〈有關京劇樣闆戲的對話〉、朱恆夫、聶聖哲前掲書、417-418頁。

  37. [37]

    〈毛主席和江青同志“五一”節在中南海晩會上的談話(1967年5月1日晩)〉《無限風光在險峰》前掲書、89頁。

  38. [38]

    〈對鋼琴伴唱《紅燈記》的指⽰〉同上、274-275頁。

  39. [39]

    張建民口述〈我所經歷的京劇樂隊變化四個階段〉中國京劇藝術基金會《談戲說藝──百位名家口述百年京劇傳承史》、上海文化出版社、2015年、284頁。

  40. [40]

    〈對交響樂伴奏京劇樣板戲《紅燈記》的指示(1968年9月19日)〉《無限風光在險峰》前掲書、265頁。

  41. [41]

    同上、265-272頁。

  42. [42]

    周光蓁前掲書、245頁。

  43. [43]

    劉詩昆(1939年-)中国の作曲家、ピアニスト。作曲作品には共作の《青年ピアノ協奏曲》などがある。

  44. [44]

    〈關於音樂工作的一次講話(1964年11月18日)〉《無限風光在險峰》前掲書、279頁。

  45. [45]

    1938年に、中国の西北部で黄河の両岸によく行軍した光未然が、危険な早瀬を渡す際、箱船を操縦する船頭の逆巻く大波と格闘する姿に感動し、朗誦詩『黄河吟』を創作した。

  46. [46]

    平居高志「《黄河大合唱》の成立」『東北大學中國語學文學論集18』2013年12月、105-122頁。

  47. [47]

    儲望華〈《黃河》鋼琴協奏曲是怎樣誕生的?〉《人民音樂》1995(05)、5頁。

  48. [48]

    同上。

  49. [49]

    《黄河》の創作は概ね殷承宗(1941-)を中心とし、儲望華(1941-)や杜鳴心(1928-)、許斐星(1952-2001)、石叔誠(1946-)、盛礼洪(1926-2022)、劉莊(1932-)が次々と加入した集体創作である。詳細は長内優美子「ピアノ協奏曲「黄河」の集団創作について」『社会システム研究』第31号(立命館大学社会システム研究所、2015年9月)、1-27頁。

  50. [50]

    石叔誠〈鋼琴協奏曲《黃河》的創作及修改〉《音樂愛好者》1998(05)、76-78頁。

  51. [51]

    同上。

  52. [52]

    同上。

  53. [53]

    Richard Curt Kraus, Pianos and Politics in China: Middle-Class Ambitions and the Struggle over Western Music. New York: Oxford University Press, 1989, 68; Hon-Lun Yang, “The Making of a National Musical Icon:Xian Xinghai and his Yellow River Cantata”. Joys H.Y. Cheung, King Chung Wong, Reading Chinese Music and Beyond. Hong Kong: Chinese Civilisation Centre, City University of Hong Kong, 2010, pp. 55–85.

  54. [54]

    ピアノ協奏曲《黄河》映像はYouTubeで確認できる。https://www.youtube.com/watch?v=oKSomeuFqqk&list=RDoKSomeuFqqk&start_radio=1&t=4s(2024年1月15日視聴)。

  55. [55]

    汪仁元前掲書、17-19頁。

  56. [56]

    戴嘉枋〈於會泳 才子─部長─囚徒〉《同舟共進》2009(08)、53-57頁。

  57. [57]

    Yawen Ludden, dissertation “China’s Musical Revolution: From Beijing Opera To Yangbanxi”.(University of Kentucky, 2013), pp. 336–338. https://uknowledge.uky.edu/music_etds/19/(2024年1月15日最終アクセス)。

  58. [58]

    同上、 p. 303。

  59. [59]

    朱婕〈龔國太談樣板戲的音樂創作〉朱恆夫,聶聖哲前掲書、405-406頁。戴嘉枋〈京劇“樣板戲”的音楽改革(下)〉前掲文、77頁。

  60. [60]

    同上戴。

  61. [61]

    朱婕前掲文、406-407頁。

  62. [62]

    同上、406頁。

  63. [63]

    戴嘉枋〈京劇“樣板戲”的音楽改革(上)〉前掲文、55頁。

  64. [64]

    同上、58-59頁;汪仁元前掲書、84-91頁。

  65. [65]

    同上戴、58頁。

  66. [66]

    同上、58-59頁。

  67. [67]

    同上、58頁。

  68. [68]

    張晴灧《樣板戲:文化革命及其最新形式》人間出版社、2021年、225-229頁。

  69. [69]

    周雅文〈有關京劇樣闆戲的對話〉前掲文、412、430頁。

  70. [70]

    同上、430-431頁。

  71. [71]

    張晴灧前掲書、232頁。

  72. [72]

    〈關於音樂工作的一次講話(1964年11月18日)〉《無限風光在險峰》前掲書、279-280頁。

この記事を引用する

滕束君「革命の道具としての歌と西洋楽器──模範劇の音楽における「洋為中用」を中心に」『Phantastopia』第3号、2024年、41-62ページ、URL : https://phantastopia.com/3/singing-and-western-instruments-as-revolution-tools/。(2024年10月30日閲覧)

執筆者

滕束君
TENG Shujun

博士後期課程。研究分野は音楽文化史、音響メディア、日中近代思想文化。主な論文に、「ラジオ体操の伴奏音楽と自発性―1951年の日本と中国のラジオ体操を中心に」東京大学『超域文化科学紀要』28号 2024年3月刊行予定;「蓄音機文化と左翼音楽―一九〇五―一九二九年の中国文学作品および論争における蓄音機表象と一九三〇年代前半までの聶耳の音楽活動を中心に」『中国――社会と文化』第三十七号 2022年7月。

英語要旨

Singing and Western Instruments as Revolution Tools:

The cultural policy of “making foreign things serve China” as seen in the music of
Chinese Model Operas

TENG Shujun

This paper focuses on the performance, such as singing, and the Western instruments present in an officially recognized collection of stage artworks called Chinese Model Operas (Yangbanxi), which were created during the Cultural Revolution from 1967 to 1976 as part of the essential artistic propaganda campaign to promote the ideology of the Chinese Communist Party (CCP). The Cultural Revolution is well known for its dichotomous binary structure of “West (Capitalism) vs. East (Socialism)” in the context of the Cold War and, at the same time, another binary structure of “modern vs. traditional” in the context of the CCP’s modernist mindset. For this reason, the Model Opera was regarded as the very expression of Chinese tradition in the Maoist sense, while Western musical forms such as symphonies, ballets, and concertos—symbols of capitalist culture—were also adopted into the Model Opera, alongside the revolutionary modern Peking opera.

This complicated relation was expressed as Mao’s cultural policy of “making foreign things serve China and making the past serve the present.” With the complicated relationship between “West vs. East” and “modern vs. traditional” in the CCP’s ideology in mind, this paper examines the literary revolution led by Jiang Qing, Mao’s wife, the piano revolution by Yin Chengzong, an officially recognized leading pianist, and the Peking opera music revolution by Yu Huiyong, an officially recognized musician and influential politician. This paper aims to provide the readers with a structural interpretation that offers an overview of why and how the elements of Western music were adopted in the Model Operas.

In the Model Operas, singing and Western instruments were employed as revolution tools, intertwined with political considerations such as creating a party-state-centric national culture, praising Mao Zedong, and presenting a new socialist life. However, this paper argues that adopting the approach of “borrowing foreign techniques to serve China” in the Model Operas cannot be reduced only to a political consideration of instilling the party’s ideology into the heads of the masses through successful entertainment. Instead, in the author’s opinion, it profoundly involves the artistic pursuits of musicians. As a result, contrary to the guiding ideology of the Cultural Revolution, promoting Model Operas also facilitated the popularization of Western musical forms in China to some extent.

Phantastopia 3
掲載号
『Phantastopia』第3号
2024.03.22発行