はじめに
1982年4月から1983年6月まで雑誌『アサヒカメラ』に掲載された連載「犬の記憶」の冒頭で写真家森山大道(1938-)は、2歳で夭折した双子の兄との関係性を複製になぞらえて語った。曰く「むろん僕が憶えているわけはない。僕と兄とは双子である。兄を森山家のコピイだとするならば、僕は兄のリコピイである[1]」。1968年に刊行された初の写真集『にっぽん劇場写真帖』にはこの言葉と対応する写真が収められていた。カメラ雑誌に既出の写真を再構成し1960年代の都市の喧噪を描き出した本編とは一線を画する、巻末部分のホルマリン漬けの胎児の写真群である。
1982年といえば、森山が写真集『光と影』を刊行すると同時に先の連載「犬の記憶」が開始した年であった。『にっぽん劇場写真帖』に始まり、「アレ・ブレ・ボケ」が代名詞となった写真同人誌『プロヴォーク』への参加、傷ついたコンタクトシートや現像済ポジフィルムの複写からなる1972年の写真集『写真よさようなら』の刊行へ。これらの活動を通して「写真とは何か」という問いを突き詰め60年代の日本の写真界を牽引した森山が、70年代に「スランプ」を迎え、『光と影』で再起する。『光と影』の刊行に至るまでを語る通説[2]となったこのような作家の個人史の中で、1968年の写真集に収められた胎児の写真と1982年の連載における自伝的記述との対応は60年代のデビューと80年代の再起を象徴する。
この二度の出発点には共通する要素として、ホルマリン漬けの胎児や複製される双子の兄弟といったモチーフに代表されるような「自然」から逸脱した過度に人工的なプロセスを偏愛する感性が指摘できる。『にっぽん劇場写真帖』が顕著な例だが、60年代の作例は「肉体」や「情動」という言葉で形容された[3]。しかし、ホルマリン漬けの胎児という被写体の選択を見てもわかるようにその「肉体」性には極めて人工的な介入がなされている。それは写真というメディアの複製性に由来すると同時に、複製という行為において先述のモチーフに象徴されるような独自の解釈とその敷衍がなされていることを伺わせる。
また、14年の遠隔について述べておくならば、通説に指摘される70年代の「スランプ」という表現は、厳密には正確ではない。森山は『写真よさようなら』以降も、カメラ雑誌での近作発表や写真集の刊行、ワークショップ写真学校での教育活動や自主ギャラリーの設立にも従事していたからだ。むしろ、この間にも森山は60年代の初期作品から続く印刷メディアとしての写真への追求を進めていた。そこでは先に指摘したような複製に対する独自の感性や解釈が敷衍されているのだ。カメラ雑誌や写真集といった従来の発表媒体に加え、この時期に取り組まれ始めたギャラリーでの展示でもそれは深化されてゆく。60、70年代の制作を対象として、先のモチーフに象徴されるような広義[4]の複製という行為に着目し、その内実を「擬態」[5]というキーワードから再考することが、本論の主たる目的である。そこで注目したいのが、それまでの制作の諸要素が参照された自主ギャラリーでの活動だ。
1976年、森山は新宿区新宿二丁目の白菊ビル3階に前身となるワークショップ写真学校の教え子たちと共同で、イメージショップCAMPというギャラリーを設立した。キャンプという名前から連想されるのは、一般的にこの語が示すところのキャンプ、すなわちテントを張った野営[6]や、1964年にスーザン・ソンタグが「《キャンプ》についてのノート」でその本質を「不自然なものを愛好するところ—人工と誇張を好むところ」にあると定義した美的感性[7]、キャンプ趣味であろう。特に後者はホルマリン漬けの胎児や複製される双子の兄弟といったモチーフの選択とも親和性が高い。とはいえ、性急に関連づけるのは躊躇われる。イメージショップCAMPの命名の由来はソンタグによって紹介された当の概念を素朴に受容したものではなかったからだ。CAMP設立を報じる『カメラ毎日』1976年7月号の記事では「新宿にキャンプを張る 森山大道たち」と題され[8]、ギャラリーの設立は記事上ではむしろ野営になぞらえられてもいる。このように比喩的に形容された空間の内実がいかなるものであったかや共同体としての側面、また森山による独自の含意を踏まえながら、ソンタグが定義するキャンプ趣味との交錯も考察されるべきであろう。
本論では初めにイメージショップCAMPについて、前身となったワークショップ写真学校の制作方針との差異や先行するカメラ雑誌掲載作との関連性を踏まえ、その命名を振り返りながら、制作における複製と擬態のあり方を考察する。次に制作と伝達の拠点となる空間・共同体であったCAMPにおける閉鎖性について、展示作や展評、過去の制作との連続性を確認しながら、パフォーマンスという観点から紐解き、そのキャンプ性を再考する。最後にそれまでの議論で指摘された森山における複製と擬態が第一写真集においていかなる形で展開されていたかを確認し、その不気味さについて考えてみたい。
拠点としてのCAMPとその探求—印刷メディアとしての写真をめぐって
1976年6月、森山はイメージショップCAMPを設立する。イメージショップと冠されたところからは通常のギャラリーとは一線を画する施設であることが伺える。まずはこの点について前身のワークショップ写真学校との対比および当時同時多発的に設立された他の自主ギャラリーとの関連に遡って確認しておきたい。
ワークショップ写真学校は写真家東松照明を発起人として、1974年4月、東松、森山、深瀬昌久、横須賀功光、荒木経惟、細江英公の6名の講師によって設立された寺子屋式の写真ワークショップである。カメラ雑誌や美術館等第一線で活躍する写真家による教育啓蒙活動だが、制度化されたカリキュラムはなく、学生は週に一度開講される所属講師のゼミに参加するという形式だった。講師陣は季刊WORKSHOP(全8号)の発行や資生堂ザ・ギンザで1976年2月12日から24日まで開催された「写真売ります12人の写真家による自選作品」展などの展示企画にも携わった。教育、出版、展示の三つを軸とする活動がワークショップ写真学校の実態である。
出版物である『季刊WORKSHOP』は4号まで各講師の責任編集頁からなるタブロイド版で発行されたが、5号以降はA5版変型に判型が変更され、頁数が増え印刷の質も向上をみせた。5号の後記には「従来のタブロイド版からくる“機関紙”のイメージを払拭し、新しい形態の“写真集”として再出発[9]」したとあり、写真発表の一形態としてのその開拓を試みていたことが確認できる。また、『アサヒカメラ』1976年1月号掲載の「トピック・「写真売ります」展覧会開く」と題されたコラムには「印画メディアと印刷メディアは並列のものだ。だが、最近、どうも印画メディアがおろそかにされている。印刷になる前の写真、いわば原点を大切にし、そのよさを再認識しよう[10]」というワークショップ関係者のコメントがある。写真が既存の出版メディアに印刷されることよりも、写真家自らが印画紙に焼き付けた写真の価値を問うことに重点が置かれており、先に紹介した写真集版への『季刊WORKSHOP』の判型変更とも共通する問題意識である。
このようにワークショップ写真学校の活動には、写真家自らが写真発表の形態を模索し、写真というメディアへの再考を促す側面があった。一方で、『季刊WORKSHOP』の判型変更に伴い、刊行物に掲載された広告数が倍増した点に象徴される[11]ように、カメラ雑誌や美術館、メーカーギャラリー等で活躍する写真家たちの活動であるだけに、その探求をインディペンデントな形で実現するものではなかった。同活動は実験的な試みを行ったが、東松が後年のインタビューでコメントしているように経営的な効率を重視する組織という側面も色濃い[12]。
むしろ、実験的な運動体として小規模だが精力的な活動をみせたのは後続する世代の自主的な出資によって相次いで設立された自主ギャラリーである。新宿西口の東洋実業ビル3階にワークショップ写真学校東松ゼミの卒業生を中心に設立されたPUT、ワークショップ写真学校の活動や東松からのアジテーションに感化されて沖縄県那覇市に設立したあ〜まん、東京総合写真専門学校の重森弘淹、土田ヒロミ、石黒健治らのゼミの卒業生を中心に運営され、PUTとも共同企画展を開催し連携を図ったプリズム等の自主ギャラリーはいずれも1976年に設立している。自主ギャラリーの成立を調査した金子隆一、島尾伸三、永井宏は、72年のオイルショックを背景に花形職業としての写真家への道を断たれた若手の写真家たちを担い手とするこの同時多発的な現象について、短命であった点やその閉鎖性など問題点も指摘する一方で、独自のメディアを持つことによる社会への反撃であり、マスコミを利用する権威主義的な時代への反発であったと評している[13]。イメージショップCAMPもまた1976年に森山を筆頭として倉田精二や北島敬三らワークショップ写真学校のゼミ卒業生を中心に設立され84年まで活動を続けた。
CAMP設立を報じる『カメラ毎日』1976年7月号の記事はその活動を「①主催する展覧会(レンタルも相談に乗る、一日8時間で五五〇〇円・エアコン付)②グラフ誌の発行③写真ゼミナール(ワークショップのある要素を引き継ぐ)④ジュークBOX、コーヒー店等」と具体的に紹介している[14]。他の自主ギャラリーとは異なり、イメージショップCAMPは制作作業場、展示空間、販売会場の三つの機能を備えており、展示会場=ギャラリーというよりは制作と伝達の両輪を受け持つ空間として構想されたのである。
このようなCAMPの在り方は、発起人である森山の当時の制作姿勢に負っていた。モデルとなったのは、1974年3月にシミズ画廊で開催された「森山大道プリンティングショー」展である[15]。同展で森山は1971年にニューヨークへ渡った際に撮影した写真で構成した最新の写真集『《もう一つの国》ニューヨーク』を展示会場内でモノクロの複写機によって制作、販売した。この展示は、写真評論家渡辺勉によって、目の高さに均斉をとり、一枚一枚に注意が向くよう写真を展示する所謂「サロン」形式の定式化した展示方法から脱却し、写真展自体を発表媒体と捉え、その方法を開拓したユニークな展示例の一つとして紹介されている[16]。同展は展示方法の開拓という点において新奇性を評価されていた。
この展示に顕著であった複写という手法への関心は60年代のカメラ雑誌掲載作から引き続くものである。1969年に一年間にわたって『アサヒカメラ』に掲載された連載「アクシデント」はその代表例だ。1月号掲載の「連載アクシデント・1 ある七日間の映像」では1968年11月1日からの一週間に新聞記事に掲載された写真やニュース映像を複写し発表。また、6月号の「連載アクシデント・6事故」では警視庁発行の交通安全ポスターを、8月号の「連載アクシデント・8スタア」ではインドネシア大統領夫人デヴィ・スカルノのゴシップ記事に掲載されたスクープ写真をそれぞれ拡大・トリミングし複写した。いずれも既存のメディアに掲載され、日常的に目にするイメージから受けた衝撃を大胆なトリミングによって、イメージの猥雑さを印刷物ならではの細部であるハーフトーンの網目や印刷インクの黒々とした質感の強調によって、誌面上に表現したものであった。
印画メディアと印刷メディアの並列性を唱え、印画メディアとしての写真の価値を問うたワークショップ写真学校の活動とは対照的に森山の問題意識は、むしろ印刷メディアとしての写真の側にあったのである。それは広告写真のように自らの写真が既存のメディアに印刷されるのではなく、自らの手で印刷というプロセスのイニシアティブを取り、究極的には販売という流通プロセスにまで拡張されるような制作、CAMPに結実した。そこで重視されたのは印刷メディアとしての写真がもつグラフィカルなインパクトである。
1976年当時の西井一夫によるインタビュー記事で、森山はポスター等コマーシャルの写真から受けた衝撃を語っている。加えてコマーシャルではなくフリーのカメラマンとして撮影した個人的な発想や心情、センチメンタリズムに由来するような一枚の写真にそのような衝撃的な効果を与えられないかという発想がイメージショップCAMPという「店」を持つという構想の元にはあったという[17]。つまり、ここで森山は広告写真における露骨で、どぎつい印刷物のグラフィカルなインパクトと個人の写真家が撮影した写真のセンチメンタリズムに連続性を見ており、通常の写真の証言性とは一線を画する印刷メディアとしての写真の生々しさに注目しているのである。このような森山の語りは、カメラ雑誌がグラフ誌たり得ていない点に対する苛立ちへと脱線をみせ、CAMPに特有のグラフジャーナリズムへの志向を開陳する方へと進む。
カメラ雑誌はグラフ雑誌であればいいと僕は思うんですよね。毎日グラフとかアサヒグラフの方が僕にはまだシンパサイズできるものがあるんだよね。(…)ついぞグラフ雑誌という考え方をカメラ雑誌は持たなかった。今も持っていないんではないかというところに僕は疑問を感じる。(…)カメラ雑誌にちっともアクチュアリティーがない[18]。
CAMPの具体的な活動としてグラフ誌の発行が挙げられていた点を思い出されたい。アメリカの『LIFE』を嚆矢とするグラフ誌は、写真を主体とすることによるインパクトや組写真等の技術によって非言語的なコミュニケーションを可能とし、ジャーナリズムの一翼を担った。これまで確認してきたようにこの時期の森山は印刷メディアとしての写真の探求者であり、この問題意識と森山がグラフ誌を理想的なモデルとする点は対応する。
これらを踏まえ、立ち返りたいのがイメージショップCAMPの命名である。先述の通り、その名前からはソンタグによって紹介された同名の概念が連想される。だがこの概念は日本の写真界に広く膾炙していたものとは考えにくい[19]。無論、「《キャンプ》についてのノート」が収録された『反解釈』の邦訳刊行が1971年ということを踏まえれば、この概念が森山の念頭にあった可能性は否めないが、素朴な概念の受容がなされたのではなかった。
CAMPメンバーの一人であった倉田精二による回顧録「フィードバックCAMP物語[20]」によれば、倉田は映像作家・映像評論家の金坂健二からCAMPはCAMPYを意味するものかと問われた際、森山にその由来を確認し、「CAMPとはベースキャンプの意で、制作、発表、販売の場である」と答えたという[21]。この倉田の証言からわかるのは、森山による命名が、金坂が想定したソンタグが紹介したところのキャンプ概念の素朴な受容に基づくものではなかったということである。一般的にキャンプの語が意味する「テントを張り、野営すること」に続く、二つ目の意味「兵営」[22]が念頭に置かれ、ギャラリーをミリタリーな比喩で例えている。この命名で、森山は基地・駐屯地のイメージを制作と伝達の拠点たる自主ギャラリーに重ね合わせていたのだ。回顧録の続く箇所で倉田が述べている通り、それは厳密には60年代の日本各地に点在していた「在日米軍の基地=キャンプ[23]」を念頭においたものである。
だが、そのような在日米軍の基地への関心は森山にとって、60年及び70年安保闘争において中核をなした基地撤退を推進する政治的な意図とは離れていた。実質的デビュー作とされる『カメラ毎日』1965年8月号掲載の「ヨコスカ」、その直前に同一の対象を取材して発表した『フォトアート』1965年4月号掲載の「アフタヌーン〈ヨコスカ〉」は、在日米軍の基地のあるヨコスカの街並みに散見される星条旗や海軍の軍服、横文字表記の看板、土産物屋に並んだ各国旗のワッペンといったイメージを執拗に追いかけている。また、森山の代表作の一つである野犬のポートレイトにしてもその初出は『アサヒカメラ』1971年3月号掲載の「連載・何かへの旅3 犬の街 青森県三沢市にて」であった。これは三沢基地周辺に滞在した際に遭遇した基地周辺の野犬を撮影したものであったが、Y字路、子供二人を連れた母親の写真、窓辺からレース状のカーテン越しに見た街並み、野犬、女性を連れ立って歩く在日米軍将校の姿を隠し撮りのアングルで収めた最後の一枚へと至る極めて断片的で、自らの記憶を探るかのようなシークエンスに埋め込まれた。これらの実作において確かに基地はモチーフとして頻出するが、いずれも基地反対という政治的メッセージの伝達を意図するものではない。むしろ、表面的なモチーフにおけるグラフィックの露骨さやどぎつさへのフェティッシュを臆すことなく開示することは、大文字の政治的なメッセージの読み取りを中断させる効果をあげている[24]。
デビュー作「ヨコスカ」掲載時のカメラ毎日編集者山岸章二による作品紹介は、森山を報道的な作品を志望する写真家と位置付け、60年代末に都市やレジャー文化を中心として開花したアメリカニゼーションという「表」の状況に対して、「ヨコスカ」の写真群は基地の街の薄暗い「裏」の様相のイメージをもってそれを告発するものだと評した[25]。
一方で山岸による作品紹介に引用された森山自身のコメントには氾濫するアメリカニゼーションのイメージを手放しに受け入れるという基地の街を中心とした現状、またその根元となる政治の不在に関して、共犯者としての意識を持っていることが吐露されている[26]。森山の写真は、山岸が示したような単純化された二項対立によって測られるものではなく、むしろ、そのような単純な図式化を可能にする批判的な姿勢から離れて、メッセージが無効化されている点こそが本作を特徴づけていたといえよう。
これらを踏まえると、制作と伝達の拠点たる自主ギャラリーが、ベースキャンプ=基地のイメージと重ね合わされた背景が見えてくる。印刷メディアとしての写真への問題意識と、写真におけるメッセージそのものの無効化=非言語的なコミュニケーションへの指向性を橋渡すのが、先に触れた政治不在の共犯意識の内実たるコロニアルなモチーフへの愛着なのだ。森山は後年に受けたインタビューの中でヨコスカ、ミサワといった自身の写真に登場するコロニアルな街のモチーフについて次のように述べている。
コロニアルというのは進駐軍、ベースキャンプという幼児体験ではあるんだけど、その先にテクノロジーというか機械で構築されている世界に対するあこがれというか、恐れかもしれないけれど、それが強いんですよ。冷たく固く、一体人間はどこにいるんだろうという、僕のコトバでいえば叙事の世界ですよね。それと逆にもう一方では肉がとろけるような叙情の世界、場所でいえば例えば遠野であるようなところに対する執着と両極端ですね[27]。
森山がフェティッシュの対象とするアメリカ的なイメージの先には「機械で構築されている世界に対するあこがれ」や「叙事」が連想されているのだ。また「両極端」という言葉が示すようにそれは森山の写真における二分法の参照点を仄めかしてもいる。ひとまずアメリカ(ニューヨーク)、機械、叙事/日本(遠野)、肉体、叙情と図式的に纏められるような観念連合の存在だ。一見すれば、CAMP設立当時の森山の関心はこの二分法の前者に比重が置かれているようにも思われる。
確かに、先に確認したように、イメージショップの関心は印刷メディアとしての写真への問題意識にある。それはモデルとなった「森山大道プリンティングショー」展に顕著なように、複製という機械的なプロセスの前景化へと進んだ。そこで基地の街の表層的なアメリカのイメージ群のフェティッシュ化と「機械的に構築された世界」の産物であるところの印刷メディアとしての写真、そのグラフィカルなインパクトを追求する感性とは重ね合わされているのだ。それは印刷という過程のみならずモチーフとして機械が選ばれている点にも指摘できるだろう。「森山大道プリンティングショー」展で制作された写真集『《もう一つの国》ニューヨーク』ではB 52航空機、1974年5月にJUNアート・ギャラリーでのシルクスクリーン展ではハーレー・ダヴィッドソン、イメージ・ショップCAMPではジュークボックスが重要なモチーフとなっている。
だが、アメリカ(ニューヨーク)、機械、叙事/日本(遠野)、肉体、叙情と纏められるところのこの観念連合には、それを静的に二分されたものとして捉えることを躊躇わせる側面がある。もう一度先のコメントに立ち返ろう。その前半部で森山はベースキャンプと幼児体験とが結びついていることを率直に語っているが、それは単なる想起というよりも、「あこがれ」や「恐れ」という言葉が示唆するように、どこか不自然に子供っぽい退行的な様相を呈している。ヨコスカやミサワといったカタカナの表記もまた、コロニアルな含意以前にヨ・コ・ス・カと、地名が意味以前の音として、子供に聞き取られた音のように受け止められる様子を表す。その過程は、二分法の前者の世界に退行的な主体が浸透し、周辺の環境に溶け込んでゆく=擬態していく様を連想させる。
さらに、重要なのはこのような退行的な擬態の態度が「もう一つの国」という写真集のタイトルに端的なように、即席で印刷した写真からなる写真集の作成=複製と分かちがたく結びついている点である。森山はこの写真集の序文に、「世界の中にあるニューヨークというのではなくて、ニューヨークこそが世界なのだ」「ニューヨークは僕にとって遠くて近い彼岸、すなわち《もう一つの国》だといつも考えている」という言葉を残している[28]。即ち、《もう一つの国》たるニューヨークとは地理的な場所とは切り離された産物であり、それは森山による印刷=複製のプロセスを経ることで創造されるのだ。
そしてそれは幼少期の体験の想起に基づく退行ではなく、むしろそのような想起と断絶した形でなされる子供のような存在への擬態的な感覚に支えられている。証言性と呼びうるような過去との連続性を欠落し、ゆえに叙事と対立する叙情の範疇に図式的に整理しなければ納まりのつかないところの「偽」の創造たる印刷=複製に侵食されたものとして、子供のような存在の肉体は浮かび上がってくるのだ。つまり、先にあげた二分法的な観念連合はこの擬態の前提を成すものではあるものの、対立項として拮抗するのではなく、むしろ肉体や叙情という要素は機械的な複製というプロセスを経て完遂される擬態の中に残滓として残る要素としてある。
本章で検討してきたようなグラフ誌の制作に端的な印刷物の表面へのフェティッシュや複写という機械的プロセスに重きをおく、イメージショップCAMPの命名を改めて振り返ろう。念頭におかれた「ベースキャンプ」という語が示すのは、このような複製=擬態というプロセスが稼働する拠点=「基地」であり、さらに踏み込むならそこには人為的な退行性が伺える。思えば、制作の作業場を「基地」に見立てるという荒唐無稽とさえ感じられるようなこの命名とギャラリーの設立自体、ごっこ遊びを連想させるような遊戯性を含みこむものではなかったろうか。この点はCAMPが自主ギャラリーという複数人の制作者による共同体であったことを鑑み、その閉鎖性を考える時、ソンタグによるキャンプ概念の定義と奇妙な交錯を見せる。次章で考えたいのはこの閉鎖性であり、森山の制作姿勢と呼応するギャラリー内部の空間を統べる規則についてである。
CAMPの閉鎖性を紐解く—パフォーマンスの観点から
1976年、相次いで設立された自主ギャラリーには、その閉鎖性が問題点として指摘されていた。しかし、CAMPにおいては外的要因によって引き起こされたもの[29]というよりは、はなから意図されていたものといえる。若手写真家たちによる自主ギャラリーへ寄せられた当時の批判は、自己主張や自己表現の欲求が見られる一方で、表現として映像のボキャブラリーや技術面での不足によって片手落ちになっているというもの[30]だが、CAMPには当てはまり難い。そのボギャブラリーは個々人で開拓されるというよりは、ハイコントラストで粒子の荒れが強調された映像的な特徴をメンバーが共有することで強化されていたからだ。参加する写真家たちの作風が強い類似性を持ち、それは一作ごとの類似を超えて、極端な表現では「生きざま」[31]とまで称されるような強い制作姿勢を共有していた。このような意図された閉鎖性について考えるとき、CAMPにおいては、参加メンバーの作風の類似に加え、作風以前に共有された作業場であるギャラリーの立地やその展示空間といった「閉じられた場」を織りなす諸要素が重要性を帯びる。本章ではこの点について、前章で指摘した論点を踏まえた上で、パフォーマンスを新たなキーワードとして考えてみたい。
新宿二丁目を選んだ理由を森山は「抽象的な接点というか、ヒフ的にわかりあえる人間達」と協働の場を持つことを念頭に、「展覧会の案内状をもらっても地理的に行きにくい」場所を選んだと述べている[32]。ギャラリーの雰囲気を伝える資料も確認したい。当時を回顧する倉田によれば、夕暮れ時から夜にかけてメンバーが集まりだすとジュークボックスやカセットから演歌やロックが流れ、酒やコーヒーを手に話し込み、人いきれとタバコの煙でギャラリーの壁面が見えなくなるほどであった。また、このような毎夜パーティーが繰り広げられるギャラリーには「すこしホモっぽいとの噂」も聞こえたという[33]。
機関誌『IMAGE SHOP CAMP vol.1 OR LAST』にもこの雰囲気は色濃く現れている。煩雑に散らかったギャラリー内部で上半身裸の男性とTシャツ姿の男性が横たわる姿を収めた表紙を飾る一枚に始まり、赤字で「新宿二丁目柳通り」と表記されたモノクロームのストリートフォト、ギャラリーの地図、メンバーの顔写真、壁一面を写真が埋め尽くした展示風景、ハーレーダヴィッドソンやジュークボックスの写真、野次馬的に現場に群がるパパラッチを彷彿とさせるシンボルマークの蝿のイラストレーションが見開きA3のサイズで並ぶ[34]。
共同体の構成員を繋ぐのがギャラリー空間の猥雑な雰囲気であったことを確認する時、ソンタグが再考を試みたところのキャンプという感性が思い出される。ソンタグはエッセイ「《キャンプ》についてのノート」の冒頭で、活字の世界にほとんど登場してこなかったこの感性を語ること自体、その趣味を裏切ることにつながるという危惧を示している。ゆえに通常の説明的な叙述を避け、58の断章からなるこのテクストで現代におけるキャンプという感性の輪郭を描き出すことを試みた。キャンプが論じられなかった理由の一つとしてソンタグは「都市の少数者グループの間の私的な掟のようなものであり、自らを他と区別するバッジのようなものにさえなっている」という点を挙げる[35]。森山のCAMPもまた新宿二丁目に立地しており、「自らを他と区別する」この街の秘匿的な雰囲気を制作者共同体の閉鎖性へと流用している。
キャンプ概念を広義に再定義したソンタグがこの感性が元来持ち合わせた同性愛者共同体における抵抗性を弱毒化したという指摘[36]は、森山におけるこの流用にもある程度当てはまる。だが森山の場合、CAMPという命名自体がこの概念の素朴な受容を逸脱しており、アンダーグラウンドカルチャーやビートジェネレーションからの影響も色濃い。先の資料からも伺えるように、それらは一方向的な文化受容というよりも狂乱的な雰囲気の中で断片的かつ遊戯的に模倣されることで換骨奪胎されており、模倣というパフォーマンス的な要素こそが先に指摘したこの共同体の閉鎖性を形作っているように思われる。そして、このような側面は森山による60年代末のカメラ雑誌掲載作から引き続くものであり、以下に列挙されるような二つの制作の交錯点にそのルーツが指摘できる。
一つは『カメラ毎日』誌面上で発表された1968年8月号掲載の「北陸街道」、1968年12月号掲載の「暁の1号線」、1969年3月号掲載の「みちのく元旦」、1969年10月号掲載の「オン・ザ・ロード」といった国道シリーズで、森山はアメリカ大陸を横断するジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』の主人公サル・パラダイスに自身を見立て、全国の高速道路を旅しながら制作を進めた。この手法は、国道シリーズ以前、浪花節の公演や歌謡曲ショー、大衆演劇や温泉街など土着的な興業のモチーフやレジャーを撮り続けていた森山が「点と点を線で繋ぐ[37]」ように、その着眼を変化させたところに起因している。
もう一つは『朝日ジャーナル』の「TPO‘69」と題されたリレー連載で取材した1969年1月5日号の「電子ヒッピー」、1969年3月23日号の「クライムヒッピー」であり、同企画での取材はその後、1969年6月1日号の「東名—人間を駆使する道」、1969年10月5日号の「歪む都市空間」、1969年11月30日号の「クルマはモノだ」へと続いた。
『カメラ毎日』誌面上の制作と『朝日ジャーナル』誌面上の取材は表裏を成している。自身をサル・パラダイスに見立てるパフォーマンス的な要素の介入する前者の制作の裏で、森山は日本のアンダーグラウンドカルチャーや都市空間、高速道路、自動車流通を取材しており、パフォーマンスとジャーナリズムは拮抗している。そして、それは後年のCAMPにおける制作者共同体に共有された遊戯的な模倣や前章で指摘したところのグラフジャーナリズムへの志向と引き継がれていった。本章では、このような連続面の中でも複製とパフォーマンスの問題についてさらに掘り下げ、森山の制作と呼応するCAMPの閉鎖的な空間を統べる規則に迫りたい。そこで参照したいのが、歌謡曲や文学テクストの分析で用いられる[38]クロス=ジェンダード・パフォーマンスという観点である。
CAMPの前進であるワークショップ写真学校の講師時代、東松によって撮影された興味深い写真がある。1975年10月『季刊WORKSHOP』5号に掲載された「森山大道の華麗なる変身」だ。全7枚のポートレートからなる本作は、ストライプのTシャツにジーンズ、サングラスというウォーホルを彷彿とさせる出で立ちの森山が、顔を白塗りにし角隠しの白無垢姿になるまでをつなぐ変身=仮装の様子を収めたシークエンスからなる。森山はアメリカ人男性ポップアーティストのミミックから前近代的な日本人女性の晴れ姿へと至る滑稽で誇張的な急変を体現するモデルにされているのだ。シークエンスの冒頭と末尾には向かい合った矢印がつけられており、この変身の可逆性を端的に示す。森山の制作からは逸脱する例だが、このポートレイトはこれまでCAMPに指摘してきたような複製=擬態というプロセスとその可逆性、模倣的でユーモラスなパフォーマンス的要素を象徴している。
さて、イメージショップCAMPで開催された森山の展示を振り返っておこう。1976年の「用があったら口笛を」展、1978年の「津軽海峡」展、「新潟市」展の三つである。このうち、1978年の「新潟市」展には、鈴木志郎康による展評「森山大道「新潟市」展 歌手が歌っているような」が残っている。新潟市へ赴き24時間で撮影された写真からなる本展について、鈴木は「新潟という市街の姿よりも森山大道という写真家の歌を聞くような気持ちで見ることになった」とし、「壁に一列に写真を並べるのではなく、何枚か縦横にまとめて掛けて、いくつかのブロックを作るという仕方が、何曲かの歌を聞かせることになっているように感じた」また「非常に叙情的な短編小説集」のようにも思えたと述べている[39]。
鈴木の展評はこのような「歌う」や「物語る」といった本展から受けた印象に対して総じて否定的である。曰く「一枚一枚の写真によって、物を指し示すことで衝撃を与えるということを行ってきた態度と、いくらかずれが生じてきたのではないか」と推測している。この鈴木の評は、森山の写真における叙事性への期待が、眼前の対象に依らず、自らの主観的な心象を歌い上げる、あるいは語るような叙情的な本展の作品群によって裏切られたと主張する。
ここで興味深いのはCAMPにおける森山の展示に「歌う」や「物語る」というパフォーマンスを指摘し、それが過剰な叙情性に結びつけられて解釈された上で否定的に評価されている点である。展評のタイトル「歌手が歌っているような」はその実「森山大道という写真家の歌を聞くような気持ち」を指し示すようであるが、歌手=森山と素朴な等号で繋ぐ整理が、展示作をあたかも森山の個人的な心情を吐露した過剰に叙情的なものとして受け取る契機になっていると思われる。だが、複数枚の写真からなるブロックが何曲かの歌と形容されるような展示空間を直ちに私小説的に受け取る解釈はやや性急に思われる。むしろ、この展示の妙は演劇的な仕掛けを含み込んだ「歌う」や「物語る」というパフォーマンス性にあるのではないか。それは、先に指摘したようなCAMPという場における閉鎖性の磁場たる模倣という要素とも不可分である。
ここで立ち返りたいのが森山と歌謡曲の関係性だ。CAMPに先立ち『カメラ毎日』1966年4月号掲載の「あたみ」で五月みどりの〈熱海であってね〉(1963)やフランク永井〈熱海ブルース〉(1965)の歌詞を引用、1967年12月号掲載の「信濃路のさぶちゃん」では演歌歌手北島三郎の歌謡ショーを取材し、五七調のリズムでキャプションを添えている。また、旅行雑誌『旅』に1979年1月号から5月号まで連載されたニコンFEの広告「ニコンFEで詩う」シリーズでは、石川さゆりの〈津軽海峡・冬景色〉(1977)や北島三郎〈函館の女〉(1965)などの歌詞を添え、同機で撮影した写真を発表した。初期作から70年代末に至るまで森山は自身の写真と歌謡曲を中心とした歌とを結びつけていたのである。
舌津智之は、人称や文末の助詞によって話者の性別が特定される日本語で歌われるゆえに、日本の歌謡曲においては歌い手の性別と歌われる歌詞の言葉づかいにズレが生じるという点を指摘し、このクロス=ジェンダード・パフォーマンスにおける性差の撹乱性を検討する補助線として「キャンプ」という概念に注目している。「誇張」「人工」「極端」を好むスタイルであるキャンプを参照し、舌津が主張するのは「〈自然〉としての「らしさ」に対し、〈偽り〉としての「っぽさ」がキャンプの感覚を生み出す」という点である[40]。
「あたみ」や「信濃路のさぶちゃん」における歌謡曲の参照が観者に与える効果として第一に目的としているのは、舌津が指摘するところの「〈偽り〉としての「っぽさ」」が助長する現実と表象のズレであり、そのおかしみである。森山は歌謡曲についてその感傷的であるさまが「女々しく退嬰的で」あり、心の傷をあからさまに歌い上げる側面がある[41]という一方で、写真も演歌も「メジャー」なものであり、カムフラージュとしての効用があると話している[42]。
即ち、感傷的な演歌の世界を参照することは、その登場人物の心情に浸ることでも、森山個人の感傷を吐露することでもない。むしろ、それを誇張的に見せることで、「〈偽り〉としての「っぽさ」」を前景化し、模倣という行為における「らしさ」への追求を脱臼させ、複製におけるオリジナルを志向するところの本質主義を無効化する効果をあげているのだ。この点において森山はキャンプ的である。CAMPでもアンダーグラウンドカルチャーやビートジェネレーション、ゲイカルチャー、ポップアートは曖昧な参照項とされるが、それらは「っぽさ」を追求することを旨とした遊戯的な換骨奪胎を通して、複製されてしまう。このような複製、模倣のあり方こそが、森山の雑誌掲載作、作品が展示される空間、CAMPという共同体の遊戯を統べる規則であり、CAMPのパフォーマンスの根幹たる感性を決定づけているのである。
同時期に東松によって撮影された「森山大道の華麗なる変身」もまた、そのキャラクターは変身という過程の中で、人種や性別といったアイデンティティを構成する諸要素が常に〈偽り〉であることを示し続けている好例といえよう。だが、ここで留意しておくべき重要な点がある。森山による擬態的な複製に指摘される「〈偽り〉としての「っぽさ」」の根底には、「〈自然〉としての「らしさ」」への抵抗や模倣を基調とするパフォーマンスが共同体に与える閉鎖性といった本論が指摘してきた要素だけでは説明し尽くし難い不気味さが存在する。次章ではこの点について、本論のはじめに紹介した1982年の連載「犬の記憶」冒頭部の自伝的記述と、ホルマリン漬けの胎児の写真群が収録された写真集『にっぽん劇場写真帖』の分析を通して考えたい。
複製と擬態における不気味なユーモア—兄を「憶えているわけはない」
1968年の第一写真集『にっぽん劇場写真帖』は詩人であり劇作家の寺山修司と共同制作された。本作はカメラ雑誌に掲載された初出時の文脈を解体し再構成を試みたものであるが、タイトルが示すとおり、演劇性はその重要なファクターである。「芝居小屋の外で観た地獄の四幕」および「新宿お七浪花節」と題された寺山のテクストと森山のストリートスナップのシークエンスから構成された一冊だ。「芝居小屋の外で観た地獄の四幕」は、大映映画の「母三人」に主題した「第一の歌母恋春歌調」、映画女優への恋情を描く「第二の歌ああ若尾文子」、見出す目と見捨てる目との危うい均衡を歌った「第三の歌眼球修理人まぼろしの犯罪」、任侠映画をパロディ化した「第四の歌ひらかな仁義新宿篇」の4つのテクストから成る。いずれも感傷的な通俗性を帯びたドラマをスクリーン上の虚像であることを示しながら描くのが特徴的である。
「新宿お七 浪花節」は、思い憎んだ恋人が機動隊と衝突し死んでゆく様をブラウン管越しに目撃したのをきっかけに、ヒロインが同じ焔に包まれて心中しようと安い酒場のガソリン缶に火をつけるという筋の浪曲調のテクストである。読み人知らずの歌である〈練鑑ブルース〉(制作年不明)や東海林太郎の〈旅笠道中〉(1935)といった歌謡曲が引用された。過剰に感傷的かつ叙情的なテクストは時代を異にする女学生のヒロインが、モデルである八百屋お七に重ねられるときの不自然さ、本論に即せば、「〈偽り〉としての「っぽさ」」が可笑しみを誘うものである。しかし、ここで留意しておきたいのは、このテクストが、直前に配された若い男女の姿(ヒロインとその恋人を彷彿とさせる)を収めた森山の写真からテクスト、そして一面が黒く塗りつぶされた空白の頁へと連続するシークエンスにおいて、読後に不気味で息の詰まるような感覚をもたらす点だ。
テクスト中にはヒロインが焼身自殺を図る契機として、死んでゆく恋人の姿をブラウン管越しに目撃するという場面がある。寺山によるテクストがスクリーン上の虚像、とりわけその虚像に惹かれる人物の姿をメタ的な視点から描くものであったことは先に指摘したが、「新宿お七浪花節」においてもヒロインの恋人はテレビの映像に映る人として描かれおり、ブラウン管=映像の中へ飛び込むようにして、ヒロインは自身の肉体を消失させようとするのである。
先の鑑賞経験に立ち返ろう。「〈偽り〉としての「っぽさ」」にその人物像を塗り固められたヒロインが、自らの姿を映像化し、肉体を焼失するに至るという結末を知らされた時、連続するシークエンスに埋め込まれた写真に写る彼女の存在は虚構性を帯びると同時に現実に撮影されたはずのオリジナルの彼女さえもが端から存在していなかったかのような感覚にとらわれる。観者はテクストを読む直前、路上のスナップショットの中で確かに認めたはずの彼女を、読後には憶えていないという感覚のうちに黒々とインクで塗りつぶされた頁の前へ投げ出されてしまうのだ。この点は、指摘したシークエンスに限らず寺山のテクストと森山の写真からなる写真集全体の鑑賞体験を貫くものであろう。
本作は、通常、「かつてそこにあった」人物や事物を証言するはずの写真の前提を揺らがすものであり、「かつてそこにあった」のかを「憶えていない」もの、言い換えればオリジナルの存在自体が不安定なものとして感じられる対象を写真を通してみるという経験に開かれている。この点は、制作過程自体における複写の要素を前景化させた写真集『《もう一つの国》ニューヨーク』に森山が寄せた「遠くて近い彼岸」という言葉にも対応するものに思われる。
ここまで『にっぽん劇場写真帖』について、「〈偽り〉としての「っぽさ」」と付随する不気味さを確認してきた。最後に本作巻末のホルマリン漬けの胎児の写真群と対応する連載「犬の記憶」冒頭部の自伝的記述における本論の議論を総括する点について指摘したい。
『アサヒカメラ』1982年4月号掲載のテクスト「犬の記憶 ひとりみち」は2歳で夭折した双子の兄との関係性を複製になぞらえる自伝的記述だ。「むろん僕が憶えているわけはない。僕と兄とは双子である。兄を森山家のコピイだとするならば、僕は兄のリコピイである[43]」とある[44]。冒頭でもその関連性を指摘したが、このような記述と本作巻末のホルマリン漬けの胎児は、時が止まった=夭折した兄を間接ないし直接的に参照している。
無論、このような自伝的側面にこれまで検討してきた森山の制作が還元されるものではない。その上で特筆すべきは夭折した兄の存在自体ではなく、むしろ、森山が兄を「憶えているわけはない」と突き放す一方で、「僕は兄のリコピイである」という記述を試みている点であろう。そこには「憶えていない」ものをコピーするという特異な創造のあり方とそれを実現するプロセスとしての印刷=複製という制作の要点が著されているのだ。
おわりに
本論では自主ギャラリーイメージショップCAMPの制作を参照点として、1960年代から70年代にかけての森山の制作を振り返ってきた。制作と伝達の両輪を受け持つ空間として構想されたCAMPでは印刷メディアとしての写真がもつグラフィカルなインパクトが重視された。またギャラリー命名の背景となるそれまでのカメラ雑誌掲載作と連続する森山の関心を遡る中で、コロニアルなモチーフの表面を愛でるようなフェティッシュとも結びついた機械的な複製という行程が擬態のプロセスへと敷衍されている点が確認された。
そのような複製=擬態はアンダーグラウンドカルチャーやビートジェネレーションからの影響の色濃いCAMPという制作者共同体が模倣というパフォーマンスを通して、受容する文化を換骨奪胎させている点においても要諦となっていた。また、カメラ雑誌掲載作から継続しCAMPでの展示にも指摘された森山の作品における「歌う」や「物語る」というパフォーマンスは「〈偽り〉としての「っぽさ」」を特徴とするものであった。ソンタグによる同名の概念に依らないCAMPや森山の制作は、しかし、この点においてキャンプ趣味と交錯を見せている。それは本論が分析対象とした諸作の通奏低音となるものだが、そこにはホルマリン漬けの胎児の写真群や夭折した双子の兄のコピーであると自身を位置付ける自伝的記述にもその片鱗が確認されるところの、「憶えていない」もの=オリジナルの存在自体が不安定なものをコピーするという創造的な複製における不気味さが含まれている。
参考文献
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東松照明「森山大道の華麗なる変身」『季刊WORKSHOP』第5号、写真ワークショップ編集室、1975年10月、48-54頁。
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ホミ・バーバ「第六章 まじないになった記号 アンヴィヴァレンスと権威について—一八一七年五月、デリー郊外の木陰にて」『文化の場所 ポストコロニアリズムの位相』本橋哲也ほか訳、法政大学出版局、2005年、175-210頁。
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矢田卓「修羅の渚のギャング達—CAMPよ時代を熱く睨み返せ」北島敬三編『IMAGE SHOP CAMP vol.1 OR LAST』CAMP、1980年、19-20頁。
山岸章二「基地の町にその心理構造を見る ヨコスカ」『カメラ毎日』1965年8月号、朝日新聞社、13-14頁。
渡辺勉「媒体としての写真展」『写真とは何か』朝日新聞社、1975年、95-106頁。
『季刊WORKSHOP』第4号、写真ワークショップ編集室、1975年。
『季刊WORKSHOP』第5号、写真ワークショップ編集室、1975年。
「トピック・「写真売ります」展覧会開く」『アサヒカメラ』1976年1月号、朝日新聞社、70頁。
「新宿にキャンプを張る 森山大道たち」『カメラ毎日』1976年7月号、毎日新聞社、40頁。
Cleto,Fabio : ”The Spectacle of Camp”. In: Camp: Note on Fashion. New York :Metropolitan Museum 2019, 9-59.
Notes
-
[1]
森山大道「犬の記憶 ひとりみち」『アサヒカメラ』1982年4月号、朝日新聞社、66頁。
-
[2]
例えば、このような通説を辿る形で構成されたレトロスペティヴとして、2003年に島根県立美術館他で開催された展覧会「光の狩人—森山大道1965-2003」が挙げられる。
-
[3]
例えば、草森紳一「青蝿のような情動—森山大道『にっぽん劇場写真帖』」『カメラ毎日』1968年8月号、毎日新聞社、34-35頁。
-
[4]
写真の技術的側面に限定されないことを意味する。
-
[5]
『大辞林』によれば「①別のものの様子に似せること。②動物が周囲にある物や、他の動植物に似せ形や色彩または姿勢をもつこと。」とある。松村明編『大辞林』三省堂、1988年、593頁。また、②と同様の定義で別の辞書には、「隠蔽的擬態(模倣)すなわち目立たなくするもの(シャクトリムシが枝に似るなど)と、標識的擬態すなわち目立たせるようにするもの(アブがハチに似るなど)とがある。ミミクリ。ミメシス。」と補足がある。新村出編『広辞苑 第七版』岩波書店、2018年、714頁。以上の定義を念頭におきながら、本論では、一般的な技術としての複製を逸脱し模倣的であるところの森山による「複製」を解釈する際の鍵概念として用いている。また、その用法はホミ・バーバがポストコロニアル批評で提唱するところの被植民地側による戦略的な模倣、価値転覆的な「異種混淆性」の展示を示す狭義の概念「擬態」に限定されるものではない。
-
[6]
『大辞林』によれば、 ①山・高原・海岸などにテントを張り、野営すること。②兵営。③スポーツ練習のための合宿。④収容所。抑留所。とあり、①の用例には「——を張る」が挙げられている。松村明編『大辞林』三省堂、1988年、615頁。
-
[7]
スーザン・ソンタグ「《キャンプ》についてのノート」『反解釈』高橋康也ほか訳、竹内書店新社、1971年、303頁。
-
[8]
「新宿にキャンプを張る 森山大道たち」『カメラ毎日』1976年7月号、毎日新聞社、40頁。
-
[9]
「後記」『季刊WORKSHOP』第5号、写真ワークショップ編集室、1975年、72頁。
-
[10]
「トピック・「写真売ります」展覧会開く」『アサヒカメラ』1976年1月号、朝日新聞社、70頁。
-
[11]
判型変更以前の第4号では、掲載広告は7件であったのに対し、変更後の第5号では15件となっている。
-
[12]
「特集WORKSHOP写真学校のインパクト・1東松照明インタビューWORKSHOP写真学校のころ」『photographers’ gallery press no.5』photographers’ gallery、2006年、126-138頁。
-
[13]
金子隆一、島尾伸三、永井宏『インディペンデント・フォトグラファーズ・イン・ジャパン 1976-83』東京書籍、1989年、1-3頁。
-
[14]
「新宿にキャンプを張る 森山大道たち」『カメラ毎日』1976年7月号、毎日新聞社、40頁。
-
[15]
同上。
-
[16]
渡辺勉「媒体としての写真展」『写真とは何か』朝日新聞社、1975年、95-106頁。
-
[17]
森山大道、西井一夫「Q&A森山大道の世界」『カメラ毎日』1976年11月号、毎日新聞社、52-53頁。
-
[18]
同上。
-
[19]
当時カメラ雑誌でニューヨークの写真動向に関するコラムを執筆していた小久保彰がこの概念を紹介したのは、森山によるイメージショップCAMP設立を報じた『カメラ毎日』1976年7月号に同時掲載の「写真とキッチュ—最近の傾向に見る」と題された記事においてである。
-
[20]
倉田精二「フィードバックCAMP物語」金子隆一、島尾伸三、永井宏『インディペンデント・フォトグラファーズ・イン・ジャパン 1976-83』東京書籍、1989年、135-145頁。
-
[21]
前掲書、135頁。
-
[22]
註6を参照。
-
[23]
倉田精二、前掲書、135頁。
-
[24]
写真のリテラシーをめぐっては、写真の読み方を啓蒙する名取洋之助とそのようなドキュメンタリーのあり方に否定的であった東松照明による1960年の9月から11月にかけての『アサヒカメラ』誌面上の論争「名取東松論争」が先行する。
-
[25]
山岸章二「基地の町にその心理構造を見る ヨコスカ」『カメラ毎日』1965年8月号、朝日新聞社、13-14頁。
-
[26]
同上。
-
[27]
森山大道、西井一夫、前掲書、53頁。
-
[28]
森山大道『《もう一つの国》ニューヨーク』シミズ画廊、1974年。
-
[29]
島尾伸三「自主ギャラリーの誕生の外的要因と純粋写真/試論」『映像試論100』Port Gallery T、2013年、24-27頁。
-
[30]
「若い写真家たちの運営するフォトギャラリー」『アサヒカメラ』1976年10月号、朝日新聞社、74-75頁。
-
[31]
金子隆一、島尾伸三、永井宏、前掲書、135-145頁。矢田卓「修羅の渚のギャング達—CAMPよ時代を熱く睨み返せ」北島敬三編『IMAGE SHOP CAMP vol.1 OR LAST』CAMP、1980年、19-20頁。
-
[32]
「新宿にキャンプを張る 森山大道たち」『カメラ毎日』1976年7月号、毎日新聞社、40頁。
-
[33]
倉田精二、前掲書、136頁。
-
[34]
北島敬三編『IMAGE SHOP CAMP vol.1 OR LAST』CAMP、1980年。
-
[35]
スーザン・ソンタグ「《キャンプ》についてのノート」『反解釈』、高橋康也ほか訳、竹内書店新社、1971年、303頁。
-
[36]
Cleto,Fabio : ”The Spectacle of Camp”. In: Camp: Note on Fashion. New York : Metropolitan Museum 2019, 33-35.
-
[37]
森山大道「さすらいの狩人」『カメラ毎日』1968年8月号、毎日新聞社、21頁。
-
[38]
中河伸俊「転身歌唱の近代—流行歌のクロス=ジェンダード・パフォーマンスを考える」北川純子編『鳴り響く〈性〉日本のポピュラー音楽とジェンダー』勁草書房、237-270頁。内海紀子「テクストにおけるクロス=ジェンダード・パフォーマンス–太宰治『女生徒』から篠原一『ゴージャス』まで」『日本近代文学』71号、日本近代文学会、2004年、157-172頁。
-
[39]
鈴木志郎康「森山大道「新潟市」展 歌手が歌っているような」『アサヒカメラ』1979 年 1 月号、朝日新聞社、206 頁。
-
[40]
舌津智之「うぶな聴き手がいけないの—撹乱するキャンプ」『どうにもとまらない歌謡曲—七〇年代のジェンダー』筑摩書房、2022年、108-140頁。
-
[41]
森山大道『犬の記憶』朝日新聞社、1984年、67頁。
-
[42]
森山大道、西井一夫、前掲書、56頁。
-
[43]
森山大道「犬の記憶 ひとりみち」、前掲書、66頁。
-
[44]
尚、1984年刊行の単行本時には「日の当たる場所」と改題、冒頭の記述も「兄と僕は双子である。むろん兄を憶えてはいない。兄を森山家のコピイだとするならば、僕は兄のリコピイである。」と改変。「僕が」憶えていないから「兄を」憶えていないに変更。主語が取り払われ、複製の対象であるところの兄が前景化された。リコピイとして兄に擬態する過程において主語である「僕」は消失している。
この記事を引用する
西川ゆきえ「森山大道における複製と擬態──イメージショップCAMPの制作を起点として」『Phantastopia』第3号、2024年、1-19ページ、URL : https://phantastopia.com/3/reproduction-and-mimicry-in-daidomoriyama/。(2024年10月06日閲覧)