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論文

アテナイス・ミアラレとジュール・ミシュレにおける “人形”のテーマと不在者の幻視『ある子どもの回想(Mémoires d’une enfant)』(1866)の成立をめぐって

谷口奈々恵

はじめに

歴史家ジュール・ミシュレ(Jules Michelet, 1798-1874)は著作『女(La Femme)』(1860)において、「5歳の愛 人形(L’amour à cinq ans : la poupée)」と題した章を設け、棒と布きれで作った小さな人形を抱きながら優しく揺すりあやす少女の姿について、次のように述べている。

あなたは単純に、これは母親の模倣なのだと思われるだろう。もう十分に大きく、自分の母親と同じくらい大きくなったから、この子は、小さな娘を自分でも持ちたくなったのだ、その娘を思いのままに動かし支配し、抱きしめたりしたくなったのだと思われるだろう。そういうこともあるが、しかしそれがすべてではない。この模倣の本能にもう一つ別の本能をつけ加えねばならない。早熟な体があらゆる女の子に、つまり手本となる母親が欠けていたような娘たちにさえ与える本能である。

ものごとはあるがままに言おう。これは最初の愛なのである。その愛が理想とするのは男の兄弟ではなく(彼は乱暴で騒がしすぎる)、やさしくて愛らしい自分そっくりの妹なのだ。自分をやさしく愛撫しなぐさめてくれる妹なのだ。[1]

ミシュレはここで女児が人形をあやす姿に、女性における「最初の愛(le premier amour)」の目覚めを認めている。本書『女』やその前に出版された『愛(L’Amour)』(1859)に代表されるミシュレの女性論は、社会における女性の役割や然るべき夫婦の在り方を唱えた書物であるが、これらにおいて「愛」とは、家庭、とりわけ夫婦の間で育まれるべきものであり、女性がその一生を捧げるべきものであると見做されている。ミシュレは、家庭で生まれた「愛」が人々に政治的な諸対立をも乗り越えさえ、全人類を調和へと導くという壮大なヴィジョンを描き出すのだが、そこにおいて人形は、その「愛」を幼い少女のうちに初めに目覚めさせる媒体であると捉えられているのである[2]

その一方で、人形をめぐるミシュレの見解は『女』のほかにも見受けられる。たとえば『女』の刊行より9年後、1869年3月の彼の「日記」には次のような記述がある。

人形に向かう子供を思い見たまえ…〔人形とは〕人であって=人でないもの、あの娘は〔そp.160れを〕知っていて知らないのだ……[3]

この部分においてミシュレは、人形に向かい合ったときの子どもが「人形」という存在の様態、すなわちひとのかたちをしているが命を持たないモノであるという性質を、理解していると同時に理解していないのだという、相反する二重の心理状態に言及している[4]。ロラン・バルトは『ミシュレ』において、ミシュレの著作のなかでときに人形のモティーフが登場することを指摘し、それを一見したところでは取るに足りないが確固として変わることなく存在している「信じ込んでいると同時に信じていない(croire et ne pas croire)」というテーマ(thème)であると述べている[5]。バルトの述べるように、ミシュレは人形について、先述のような女性の愛を目覚めさせるものであるというほかに、人間にある特定の精神状態をもたらすものだという見解を有していたようである。

同時に、ミシュレにとっての人形のテーマを考えるうえで決して見逃すことができないのが、彼の二番目の妻アテナイス・ミアラレ(Athénaïs Mialaret, 1826-1899)の存在である[6]。『女』の先の引用部の後、ミシュレはフランスの北部で彼が出逢ったというある少女と三体の人形のエピソードを紹介しているが[7]、彼の「日記」には、妻アテナイスから彼女の幼少期における人形三体の話を聞いたという事実が記されている[8]。そして、アテナイス自身が執筆した幼少期の自伝『ある子どもの回想(Mémoires dune enfant)』(1866)には、ミシュレが『女』で紹介したエピソードと近似した、人形の思い出が語られているのである[9]

こうした事情を踏まえるとき、ミシュレとアテナイスにおける「人形」を、いかに捉えることができるだろうか。本稿では、二人の著作と生において人形というテーマがどのようにあらわれ、いかに作用しているかを考えてみたい。議論をやや先回りするならば、人形と向き合うことを通じてもたらされる「信じ込んでいながら信じていない」という精神の状態は、アテナイスとミシュレの夫婦関係において特異な役割を果たしており、さらには彼らが文章を執筆し、書物を構築していく際の根本的な態度を成しているのであった。

本論文の構成は次の通りである。第1章では、アテナイスの経歴とミシュレとの関係を概観したのち、アテナイスの自伝『ある子どもの回想』について紹介を行なう。次に第2章において、本書における人形のエピソードに着目し、アテナイスが幼少期に人形といかなる関わりを有し、その経験を彼女自身がどのように分析しているかを確認したうえで、第3章では人形をめぐって喚起される心理状態がその後のアテナイスの人生、特に夫となるミシュレとの関係と自伝『ある子どもの回想』の成立にいかに関与したのかを検討する。最後に第4章において、今度はアテナイスという存在が夫であるミシュレの著作や執筆活動に与えた影響を考察していきたい。

1.    アテナイス・ミアラレとジュール・ミシュレ、『ある子どもの回想』(1866)

アテナイス・ミアラレは1826年10月19日、フランス南部のモントーバンに、フランス人のp.161父イヴ・ミアラレ(Yves Mialaret, 1774-1841)とアメリカ出身の母マルグリート・エンマ・ベックネル(Marguerite Emma Becknell, 1804-1864)との間に、6人のうち3番目の子どもとして生まれた。修道院の寄宿学校を出、19歳で教育能力免許を取得後にウィーンでルーマニア貴族の住み込み家庭教師を務めていた頃、ミシュレの著作『司祭、女、家庭(Du Prêtre, de la femme et de la famille)』(1845)を読んだことをきっかけとして1847年10月にミシュレに手紙を送る。複数回に及ぶ文通ののち、1848年11月、雇い主の転居を機に職を辞した彼女は、パリでの教師の口を求めてミシュレの家を訪ねる。すでに書簡で親密なやりとりを交わしていた二人は実際に互いを前にしてさらに惹かれ合うこととなり、出逢って1ヶ月経たぬうちにミシュレよりアテナイスに婚約を申し込み、一部の親族や友人の反対を押し切るかたちで翌年1849年3月、結婚に至った。当時、ミシュレは50歳、アテナイスは22歳であった。

アテナイスとの出逢いはミシュレにとって決定的な、第二の人生の始まりを画するものだったといえる。ミシュレはアテナイスと知り合って以降、彼女に情熱的な手紙を書き送り続け、結婚後のミシュレの「日記」はアテナイスに関する記述に溢れるようになり、彼女に深く傾倒していくさまが認められる。アテナイスの存在はまた、彼の公的な文筆活動にも小さからぬ影響を与えることとなった。二人の関係が語られる際にまず指摘されるのが、若い頃からフランスの歴史の構築に取り組んできたミシュレが人生の後半に着手し始めたもうひとつの「歴史」、すなわち『鳥(l’Oiseau)』(1856)『虫(l’Insecte)』(1857)『海(la Mer)』(1861)『山(la Montagne)』(1868)に代表される一連の自然史の著作に対してアテナイスが与えた影響である。幼少期より植物や動物に囲まれて育ち自然への造詣の深いアテナイスとの交わりが、ミシュレの関心を人間の歴史から自然へと向けさせ、上記の著作の誕生を決定づけたのだとされるのである。実際、ミシュレは彼の自然史の著作の第一作目にあたる『鳥』の序文の冒頭において、本書の着想と執筆における妻アテナイスの役割の大きさを強調しており[10]、アテナイス自身もミシュレの死後、著作の権利をめぐる親族との諍いを契機に出版した『『鳥』『虫』『海』『山』への貢献 その制作物の半分に対する私の権利(Ma collaboration à “l’Oiseau”, “l’Insecte”, “la Mer”, “la Montagne” ; mes droits à la moitié de leur produit)』(1876)において、史料の下読みや美術館資料室での調査といった自身の協力を主張している[11]

続いてミシュレとアテナイスとの関係を語る上で欠かすことのできない事実が、アテナイスによるミシュレの死後の原稿の整理と出版である。アテナイスは夫の残した膨大な原稿に対する権利を得て、その編集に尽力し、『わが日記(Mon Journal)』(1888)や『ローマ(Rome)』(1891)などの著作を刊行した。しかしながら、アテナイスがこの過程でミシュレの原稿の一部を処分し改変を加えたといった事実が、のちの歴史学者たちによって甚大な改竄であるとして糾弾され、彼女が「悪しき未亡人(veuve abusive)[12]」として厳しい評価を受ける所以となった[13]

上記のように、学術界におけるアテナイスをめぐる議論は、主に夫ミシュレの後半生や著作への関与を中心になされてきた。しかしその一方で、アテナイス自身もまたみずからの関心にもとづき少なからぬ量の原稿を執筆していたという事実は、既存の研究においてほとんど見過ごされてきたといってよい[14]。そのうちアテナイスの生前に出版された作品のひとつであり、p.162彼女自身の初めての著作でもあったのが、幼少期から14歳までの生を綴った自伝『ある子どもの回想』である[15]。1866年、アテナイスが40歳の頃に刊行された本書には、彼女が生後間も無く預けられて育った乳母の家から始まり、モントーバンの実家に引き取られてからの日々の生活、家族との交流、日課の家事や針仕事についての記録が、動物や植物との触れ合いの描写、自身の心情を交えながら綴られている。

本書は全3部で構成されるが、第1部第4章「わたしの最初の人形(Ma première poupée)」以降、第2部にかけて多くのページが割かれているのが、アテナイスが人形と取り結んでいた関係についての記述であり、彼女の幼少期の記憶において人形が小さからぬ位置を占めていたことがうかがえる。次章では人形が登場する場面に着目し、アテナイスが人形との関係をどのように描いているかを辿っていきたい。

2.    『ある子どもの回想』における不在者の代理物としての人形

アテナイスが初めて手にすることとなった人形は、彼女が6歳の時に手近な材料を用いてみずから制作した人形である。彼女がこの人形を作った最大の目的は、孤独であった自分の心を慰めてくれる存在を生み出すためであった。

生後すぐに預けられていた乳母の家での4年間ののち実家に引き取られたアテナイスは、精神的に孤立した日々を送っていた。特に母親との関係には困難が大きく、愛情を十分に受けることができず、遊ぶ時間がほとんどないまま常に仕事が与えられ、たびたび折檻を受けた経験を振り返っている。アテナイスとは反対に母親と仲が良く、やや歳の離れた姉に対しては大きな距離を感じており、兄や弟の男の子の遊びの仲間に入ることもできず、同年代の子どもとの交流もほとんどなかった。

こうした孤独に耐えかねたアテナイスはあるとき、自分の妹、友達の必要性を感じ、その代わりとなる存在を欲するようになる。そこで思いついたのが人形を手に入れることであった。姉が薔薇色の頬をした美しい人形とその数多くの衣裳を独り占めしていたのに対し[16]、アテナイスは自分の人形を持っていなかった。どうすれば人形を手にすることができるのか、思い悩んだすえに、彼女はそれを自作することを決意し、白い布きれにおがくずを詰めた小さな人形を完成させる。出来上がった人形を彼女は肌身離さず傍に置き、夜はベッドでともに眠り、少しでも姿を見失うと必死でその姿を探し求めるのだった。

アテナイスは本書において、この人形を作り、完成した人形と向き合い、触れ合っていたときの自身の心理状態についてやや詳細に分析を行なっている。そのなかで特筆すべきは、彼女がこの人形に生命が宿るのではないかという強い期待を抱いていたことだろう。アテナイスははじめ人形の制作を人間による子どもの出産に擬えて考え、母親たちが一体どのようにして子どもを作るのだろうかと具合が悪くなるほどに思い詰める。やがて勇気を奮い立たせて手作りすることを決意したアテナイスは、完成した人形に、みずから生命を吹き込もうとするのである。p.163

そのときわたしは、愛と崇拝の対象となる小さな神を欲する未開の人々のようであった。かれらは、考え、話を聞くことのできる頭、ものを感じる心のような胸をそれに与えるのだ。〔…中略…〕腕(わたで覆った2本の小枝)はおそらく、優美ではなかっただろう。しかしそれは動かすことができて、ひとりでに動くかのようだった。わたしはすっかり感嘆していた。この小さな子のからだが動かないなんてことがどうしてあるだろうか? わたしは神が、最初の日にアダムとイヴに息を吹きかけたことをすでに知っていた。胸をいっぱいにして、6歳の生をかけて、彼女にわたし自身を与えようと息を吹きかけた。そして見た。彼女は動かなかった。──なんてことはない、わたしは彼女の母親で、彼女はわたしを愛していた。それで十分だった。[17]

ミシュレは「日記」において、アテナイスの作ったこの最初の人形を「小さな愛のフェティッシュ(le petit fétiche d’amour)」と称しているが[18]、引用部においてアテナイスは、あたかも偶像を前にした人々のように、目の前の人形が言葉を聞き、考え、ものを感じるようにと願い、さらに、人形がひとりで動くのではないかという期待を抱く。これを叶えるべく、『創世記』のアダムとイヴの話に倣って人形に魂を与えようと息を吹きかけるが、人形が動き出すことはなかった。彼女はここで、人形が本当に生きているわけではない、本物の人間にはなり得ない物体にすぎないのだという事実を諒解するのである。

上記の一連の描写には、先のミシュレの日記の引用に見られた、またバルトが『ミシュレ』において指摘した、人形をめぐる子どもの「信じ込んでいながら信じていない」という心理状態が見出されるといえないだろうか。アテナイスは、本当は人形には魂が宿っていると信じかけながらも、その期待が裏切られては失望するという両義的な心の動きを経験している。

この「信じ込んでいながら信じていない」という状態は、幼少期のアテナイスが人形と取り結ぶ関係において繰り返しあらわれるものであった。人形はアテナイスにとって、不在の母親や友達といった役目を果たす。アテナイスは人形と絶えず会話をし、時に優しく叱り、物語を語って聞かせ、幾度も命が宿ることを期待する。しかし彼女は実際には、それがただの物体であり、あくまで人間の代理に過ぎないこともまた識っているのである。

そして本書執筆時のアテナイスが振り返るところによれば、この心理状態は自身の孤独がもたらしたものであった。幼少期において人形に生命が宿ると望んでいたことは滑稽だと思われるかもしれないが、もしも自分に友人がいたならば人形は彼女にとってそれほど重要ではなく、それが本当は何であるかも納得できていたはずであり、自分の孤独こそが人形に魂を与えたのだったと、彼女は記している[19]

やがてこの手作りの人形は、のちに兄弟たちにその存在が知られたのち、彼らのいたずらの標的となってしまう。二人だけの親密な時間は終わりを告げる。アテナイスがどれほど警戒し、必死に隠そうとしても、人形はその居所を暴かれては執拗に乱暴を受ける。幾度も繕って直す努力も虚しく、やがて人形は修復の不可能なほどにぼろぼろになり、最終的には庭の木の上p.164へ放り投げられ、失われてしまう。初めての人形を喪失したショックにより、アテナイスは死への強い誘惑に駆られるに至る。

こうして最初の人形との辛い別れを経験したアテナイスは、しかしそのしばらく後に、再び念願の人形を手に入れることとなった。第2部の第7章「マルガリード(Margarido)」では、新たな人形との交流、その深い結びつきが描かれる[20]。ある日、母と姉に付き添って訪れた洋品店で、アテナイスは陳列された美しい既製の人形たちに目を惹かれ、あたかも生きて話し始めそうな様子に心打たれる。人形を欲しいという強い願望を抱いた彼女は勇気を出して母親に希望を伝え、棚に並んでいたうちのひとつであった木製の人形を買い与えられた。

アテナイスは、この人形に、自身の名前の一部「マルグリート」の南部風の表記である「マルガリード」という名を与え、たちまち夢中になっていった。彼女はマルガリードが、最初の手作りの人形がそうであったように大切な打ち明け話の相手であると同時に、それが自分自身でもあり、ときに娘のように甘やかされ、ときに母親のようにアテナイスに微笑んでくれる存在でもあったと語っている[21]

とりわけ彼女が好んでいたのは、お気に入りの居場所であった家の倉庫にマルガリードを連れ込み、共に時間を過ごすことであった。外界から隔てられた薄暗い空間は、彼女が人形とともに自分たちだけの世界に没頭するのに最適な場所であり、そこでアテナイスは人形との関係に深くのめり込んでいく。

わたしを最も燃え上がらせたのは、この動く、関節のある子どもが、わたしの動きや態度を真似ることだった。望んでも意図してもいなかったが、わたしは自分が母親のそばで彼女の怒りを鎮め、彼女からの罰を和らげるためにとっていた行動や態度を、マルガリードに対して行なっていたのだ。しかし哀願するように腕を上げている様子はあまりにも憐れな光景だったので、二度とやらないように努めた。それでもなお、わたしたちはたえず母娘ごっこをしていた。わたしはマルガリードに、わたし自身の心を動かすあらゆる感情を与えていたのだ。

あらゆるものから遠く隔てられ、いつも大きな桶のつくる深い影に隠れていたわたしたちは、世界で二人きりだった。わたしの心は逃避し、溢れ出ていった。胸いっぱいになりながら、マルガリードは母となり、わたしは娘として彼女に話しかけ、感情に満ち溢れていた。彼女はいつもわたしに微笑みかけていた。[22]

アテナイスはこの箇所で、自身が人形といかなる関係にあったかを振り返っている。ここに見られる特異な点のひとつは、当時の教育書や児童書が想定してきたように、少女が人形を自身の子どもの代理物のようにして可愛がるのではなく、両者の立場が逆転し、人形が少女にとっての母のような役割を果たしていたということにあるだろう。夢のような世界のなかでアテナイスは、実の母親には望むことのできない情愛に満ちた親密な関係を、人形と深く取り結んでいた。p.165

こうしてアテナイスにとってかけがえのない存在であった人形マルガリードは、しかしながら第2部の終わりにおいて、唐突にその役割を終えることになる。最大のきっかけは、アテナイスに初めての同じ年頃の女の子の友達があらわれたことであった。父の教え子の姉妹にあたるジャンヌ(Jeanne)という名の少女は、高慢で軽蔑的な姉の友人たちとは異なり、裕福で大人びていながらも、明るく優しい心でアテナイスに接した。彼女はまた、アテナイスの人形マルガリードに対して特に興味を示すこともなく、アテナイスはこのことを、両親に愛され満ち足りていたためだろうと記している[23]

魅力的なジャンヌに対し、アテナイスは周囲が懸念するほどに強い情熱を抱き接するようになり、その結果として人形マルガリードに対するアテナイスの感情は大きく変容を被ることになった。

決して他の影が入り込むことのなかったこの友情は、わたしの子ども時代の大きな出来事だった。わたしのうちに漂っていた漠とした感傷、対象のない衝動は、この愛らしい天使のような人に向けられることとなった。

それはつまり、この日まで本当に必要としていた、わたしの身内への、小さなマルガリードへのわたしの心が変わってしまったということなのだろうか? わたしを責めないで欲しい。おそらくわたしは満ち足りた心で、マルガリードにたいして誠実で、よりいっそう優しくあり続けていたと思う。しかし望まずして、知らずして、わたしはマルガリードのことを過去において、夢のなかでそうするかのように愛するようになっていったのである。わたしのジャンヌは本当に魅力的だった! 彼女は喋り、返事をし、わずかな言葉でもわたしを理解してくれた。彼女によって、わたしは自分の生が倍にふくらみ、孤独が終わったと感じたのだった。[24]

アテナイスは自分が人形をもはや必要とはしなくなった理由について、本物の、生身の人間の友人ができたために孤独でなくなったことによると解釈している。人形を前にしてアテナイスが感じていた現実と夢との間の揺れ動きは、本書において最終的に、生きた人間である少女との関係を通じて現実の側へと振り切られた。心の欠乏を埋めてくれていた代理物の役割は、こうして終わりを迎えることとなるのである。

これまでの流れを振り返るならば、少女の頃のアテナイスにとって人形とは、現実において自分に欠如している何かを幻視させてくれる存在であり、現実と非現実という二つの世界を行き来させる作用をもたらす、ある種の装置のような媒体であったと捉えることができるだろう。

さらにこのエピソードに関して触れておかねばならないのは、これらの人形をめぐる彼女の記憶は、大人になったアテナイスが『ある子どもの回想』を執筆することの最大の契機となっていた、という事実である。すでに見てきたように、アテナイスはそれまでも自然史の著作を中心として夫の執筆に協力していたが、彼女がみずからの著作を書き始めることになったのは、1865年9月にこの人形の話を書き留め、ミシュレに読ませたことがきっかけであった[25]。本格p.166的に執筆に着手するやアテナイスはたちまちこれに熱中するようになり、夫からの助言を仰ぎながらもときに彼からの修正の提案を拒み、彼女自身の筆によって完成まで至らせることとなる。人形のエピソードが執筆の動機になった理由は必ずしも明確ではないものの、彼女にとっての人形との関わりの記憶が『ある子どもの回想』の成立にとっての決定的な要因となっていたのは確かであったといえるだろう。

そして、人形を通じて彼女が経験する「信じ込んでいながら信じていない」という精神状態、現実と非現実の間の揺れ動きは、本書を特徴づけ、全体を通して繰り返しあらわれるテーマのひとつでもあった。たとえばアテナイスは幼い頃、物語に登場する妖精の存在を信じていた。ある日、周りの人々が魔女と呼んでいた老女に、魔法で人形を美しくしてもらうよう頼むべく逢いに行ったところ、彼女から自分が物乞いであり、魔女という呼称が現実には貧しい人々に対する蔑称であることを教えられたエピソードを語っている。しかしその後もアテナイスは妖精や魔女、未知の魔法の世界を信じることをやめることができなかったという[26]。また、アテナイスが病に臥せっていたとき、熱に浮かされながら格子の嵌った窓の外に顔を見出し、青白い目や熱のこもった目に見つめられるという幻像を見ていたことを思い返している[27]。アテナイスにとっての幼年期とは、非現実への没入を経験しながら徐々に現実へと移行する期間であり、本書はすでに大人になったアテナイスが、幼い頃に現実と夢想の両世界を揺れ動いていた感性とその経験を振り返りながら展開していった作品であった。

3.    夫ミシュレを通じた亡き父の幻視

生身の友達との出逢いを通して人形との夢の世界から脱したアテナイスであるが、人形という物体に感応しそこに不在の者を見て取る性質、あるいは「信じ込んでいながら信じていない」という幼少期に特有の精神状態を、彼女はその後も保持し続けることになる。そしてこの性質は、今度は彼女の父親との関係において新たなかたちで発揮されることとなり、『ある子どもの回想』成立の最大の要因となるのだった。

人形の章に続く第3部以降、彼女は家庭に生じる現実的な問題に敏感になっていく。アメリカでの銀行不況の煽りを受けて家庭の財政事情に暗雲が立ち込め、特に父親が暗い面持ちで物思いに耽ることが多くなり、頻繁に体調を崩すようになった。自身で解決を図るべくついに父がやむを得ずアメリカに渡ることを知らされたアテナイスは深いショックに沈み、最終章「死(La mort)」においてアメリカでチフスに罹患した父の死の報がもたらされたところで、この作品は唐突に幕引きを迎える。

アテナイスにとって父親は、孤独であった幼少期における唯一の心の支えであり、その死は彼女の子ども時代の終わりを意味していた。本書の末尾には、未だ父の影を留めていたモントーバンの家が彼の死後、その精神を解さない買い手によって改築され、この家が纏っていた神秘が失われたと記されている[28]。父の亡くなる前にすでに最初の聖体拝受を終えていたアテナイスは、もはや社会的にも子どもではなくなり、「若い娘(jeune fille)」としての生を歩んでいp.167くこととなる[29]

しかしながら父と過ごした幸福な記憶は、その後もアテナイスのなかに強烈なオブセッションのように残存し続けることとなった。『ある子どもの回想』は全編にわたって、執筆時のアテナイスが振り返る、失われた父に対する愛に濃く彩られている。母と姉が家を空ける日曜に父と二人だけで過ごす親密な時間を何よりも心待ちにしていたこと、父の履いた靴下に好きなだけキスをしたいという願望を抱いていたこと、また自身の名前を与えた人形マルガリードの最初の夜を父親のベッドで過ごさせたことなど、些かの依存傾向をも伺わせる強い執着、そして彼女がずっと予感していた、いつか父を失うのではないかという漠然とした不安と恐怖とが、本書の全体を通じて繰り返し吐露されている。

孤独に苦しんでいたアテナイスを「私のお姫様(ma princesse)」と呼んで慈しんだ父親はまた、幼い頃の彼女にとっての唯一の教育者でもあった。姉と異なり容姿に自信のないアテナイスの知性を父は高く評価し、彼女に勉強を教え、哲学や思想をはじめとする書物の世界を垣間見せた。父に近づきたいという一心で勉強に没頭した日々を通じてアテナイスが得た読書経験や知識は、彼女のその後の人生にとっての大きな糧となり、またのちに夫ミシュレを強く惹きつけ、魅了する要素ともなる。

幼少期において絶対的な愛情を向ける対象であり、精神的な導き手でもあった父を突然に喪失したことのショックは甚だしく、このことは子ども時代を終えた彼女の後の人生、とりわけ夫となるミシュレとの関係に直接的なかたちで影響を及ぼすことになる。端的に述べるならば、アテナイスは喪失した父親を、夫ミシュレのうちに認めることとなったのである。

先述したように、アテナイスがミシュレに対して初めて手紙を送ったのは彼の『司祭、女、家庭』を読んだことがきっかけであった。この著作においてミシュレはカトリックの司祭が告解を通して女性の精神に与える悪影響を論じている。14歳で精神面での指導者であった父を亡くしたアテナイスにとって、修道院寄宿学校での生活を経て、キリスト教の信仰はひとつの心の拠り所となっていた。それが本書において否定されていることに戸惑いを覚えたアテナイスは、新たな導きを求めるようにして著者に手紙を書き送った。アテナイスは1847年の最初の手紙においてミシュレに対し、亡くなった父の代わりとなって自分の子どもに向き合うように助言を与えるよう求めており[30]、その後に交わされた手紙においてもたびたび彼女は自分の署名の欄に「あなたの子ども(votre enfant)」と記している。

パリでミシュレと対面してからもその印象は変わることなく、夫婦として結ばれ結婚生活を始めて以降もなお、彼女は常に夫に対して亡き父の姿を投影し続けていたようである。ミシュレの「日記」には、アテナイスが普段の生活や夢の中で彼女の父親と夫である自分とを混同していたという記述が複数箇所に認められる[31]

自分がこの世で最も愛していたもの、自分の父を完璧にわたしと混ぜ合わせていた。わたしに快楽を与えながら、父がそのことで彼女に感謝しているように思えていたのだ(とわたしは思う)。自分がわたしに抱かれているのを知って、父は喜んでいるのよと彼女は言っp.168た。そこから心惹かれる優しさが、甘美な従順さが、ほかのことでは誇り高い娘のなかで生じた。そして最高に心打つ形で身を委ねてくれた。[32]

このように、失った父を目の前に実在する夫のなかに認めるアテナイスのうちには、かつて彼女が人形と向き合っていたときと共通する精神の動きが見出されるといえないだろうか。すなわち、手に入れることの叶わない不在の者を、ある媒体を通じて幻視するというプロセスである。幼少期のアテナイスは、人形という物体が現実には命を持たないと理解していながらもそれをあたかも生きているかのように捉え、自分に欠如していた友人や妹、母といった存在の代理と見做していた。今度は夫であるミシュレという人間が、人形としての役割を果たし、彼女に失われた父を見出させることとなる。

これらの点を踏まえるならば、亡き父の記憶に満ちた『ある子どもの回想』の成立に、ほかでもない夫ミシュレとの関係が大きく寄与していたことは間違いないといえるだろう。それは本書の執筆の契機を与え、出版にまで至らしめたのがミシュレであったという実際的な側面に加え、ここに描かれたアテナイスの過去の記憶そのものが、父の姿と重なる彼との交わりを通じて想起され、書き留められていったのだということを意味する。烈しく希求しても決して到達し得ない存在への欲望は、生身の身体を有する夫との交流を通じて掻き立てられ、愛する父親を幻視させることになったのだった[33]

アテナイスは夫に宛てた本書の献辞に、次のように綴っている。

夫へ

このお話はあなたがよくわたしに頼んでいたものです、あなたのためにこれを書くのはとても甘美なことでした。

すでにはるか遠いわたしの子ども時代から、『鳥』に込めたのは微笑みだけですが、あなたはそのすべてを求めますね──憧れ、夢、悲しみを。

ところどころ涙に濡れた、この過去を受け取ってください。最も素晴らしいもの、あなたに相応しいものを取り出してください。わたしの子どもの頃の心とともに、わたしがこの小さな本のなかに込めた父の心を取り出してください。

わたしがそれほどまでに愛したそのなかには、すでにわたしの愛したあなたがいます。[34]

『ある子どもの回想』は、夫によって要請され、夫に捧げられた書であるとされながらも、彼女がそこに込めていたのは最愛の父の心であった。アテナイスの死後の原稿の整理にも携わった歴史家のガブリエル・モノによれば、アテナイスは父親に対する情愛が夫への愛を損ねることにならないよう、この献辞を幾度も書き換えたという[35]

ここまで、アテナイスの自伝が幼少期における彼女の父親との関係と、結婚後の夫との関係の重ね合わせを通じて生まれた作品であったことを確認してきた。夫ミシュレの存在は、人形、すなわち不在者の代理としてアテナイスに亡き父を幻視させ、『ある子どもの回想』の成立にとp.169っての最大の条件のひとつとなったのである。そしてみずから過去を顧みながら書物を認めるなかでアテナイスは、彼女の記憶のなかの死者を蘇らせると同時に、その媒体としていたミシュレという生身の人間を亡き父親と結びつけることで、彼を死者へと接近させていったようにもみえる。この意味においてもミシュレは、アテナイスにとっての人形となったのだといえるかもしれない。

最後の章ではこうして本書成立の背景となった二人の夫婦関係にあらためて目を向けながら、この関係が今度は夫であるミシュレの執筆活動に、とりわけ彼の自然史や女性論の成立にいかなる影響を及ぼすこととなったのかを考察する。

4.    不可能な結合とミシュレにおける理想の女の構築

夫ミシュレに亡き父の姿を見出し、呼び起こされた過去の記憶を書物として紡いでいったアテナイスであるが、翻って彼女自身の存在は、ミシュレの執筆活動においていかに作用していたのだろうか。この章では、アテナイスにとってミシュレが『ある子どもの回想』の成立に不可欠な不在者の代理物となっていたのと同様に、ミシュレにとってはアテナイスという存在が、彼の人形としての役割を果たし、著作を生み出す媒体として機能していたことを明らかにしていきたい。

先述のように、アテナイスと出逢って以降のミシュレの「日記」は、この新たな愛の対象をめぐる夥しい記述に埋め尽くされるようになる。そのなかでも繰り返し表明されるのは、彼女を所有し、結合したいとする思いであった。こうした欲望は、ミシュレ自身がしばしば著作において言及していた彼の結婚観を反映するものでもある。ミシュレは「日記」や『愛』をはじめとする文章においてたびたび、夫が妻へ肉体的・精神的に漸進的に浸透(imprégner)し、二人が完全な結合を果たすことが、理想的な夫婦の在り方であると記している[36]

しかしながら、現実におけるミシュレ自身のアテナイスとの関係においては、必ずしも「浸透」が容易に実現したわけではなかったようである。ミシュレとアテナイスとの関係について語られるとき、しばしばアテナイスが「冷感症」であったと強調されることがあるが、こうした評価は、二人の性行為、とりわけアテナイスに対する性器の挿入が困難であったことに由来する。ミシュレは「日記」において、アテナイスの身体の奥底にまで及ぶ強烈なこわばり(contraction)を、母親からの遺伝や過度の拒食にあると分析しており[37]、知人の複数の医師に相談しあらゆる治療法を試みながら二人の「結合(union)」を果たそうとする。この願望は日々の具体的な行動に移されており、結婚後、アテナイスの身体はミシュレによる観察の対象となり、夫は毎朝の妻の健康状態や彼女の生理周期を自身の「日記」に記録していく。ミシュレは妻の身体のこわばりを和らげ、彼女を生かし、食べるようにさせ、「愛することのできる力」を与え[38]、その身体を、自身と完全に調和させようと執拗に心を砕くのだった。

こうした偏執的ともいえる尽力にもかかわらず、肉体の交わりという側面においてみるならば、ミシュレの願望が完全に理想的なかたちで叶ったとは言い難いように思われる。結婚からp.170しばらくして性的結合は一応の実現をみることとなるが、その後も問題が完全に解決したわけではなかった[39]。アテナイスは妊娠し1850年7月に男児を出産するも、その子どもは生後2ヶ月経たぬうちに亡くなってしまう。以降、健康を脅かす危険があることからアテナイスは医師によって妊娠を避けるよう命じられ、ミシュレはアテナイスの身体に過大な負担をかけることを恐れるようになる。

このようなアテナイスの体質が、ミシュレが歴史書をはじめとする彼の著作において理想としてきた女性像から著しく乖離していることに留意したい。ミシュレが称揚していたのは、子どもを宿し母の役目を果たす成熟した女性である。これに対し、アテナイスはミシュレ自身も述べているように「色青ざめ白く血の気の少ない[40]」虚弱な少女であった。にもかかわらず彼女がミシュレの心を捉え続けていた要因のひとつは、彼女の精神面での卓越性にあった。最初の妻を亡くした後、自身の交際する女性に高い知性を求めていたミシュレは、アテナイスと手紙を交わすなかで当時22歳であった彼女の知識や読書経験の豊かさ、彼女が直面していたウィーンの動乱に対する鋭い洞察力に惹かれていく。しかし同時に、そうした優れた精神に物質的な器があるという事実がより一層、彼のうちにアテナイスの身体への特別な関心を掻き立てることとなる。ミシュレ自身が馴れ初めの頃にアテナイスに対して手紙で告白しているように、「体に対しこの燃えるようなあくなき好奇心を与えるのは、それがこの高貴な精神、寛大で雄々しい心と一体化しているのを見るから」なのだった[41]

ミシュレはアテナイスとの関係において精神面での交感を重んじ、それを身体的な交わり、官能の開花と重ね合わせるようになっていった。そして特筆すべきことに、彼らの子どもが亡くなったのちにアテナイスが打ち込んでいった自然史の著作の創作を、彼女の肉体の開花と結びつけるのである。

わたしたちの子供は生きなかった。そこで彼女がひどく虚弱なのを見て、わたしは同じ過ちを繰り返さないようにした。だが『鳥』や『虫』や『海』等のなかで、彼女を受胎させた。そこにあって彼女はわたしの娘であり妻だった。わたしのもとで、わたしとともに、新たなものを生み出したのだ。そのことが肉体的にも彼女の緊張をほぐした。彼女は完全に妻となったし、それ以上の意味をも持った。[42]

ここで『鳥』や『虫』などの著作は、夫婦の肉体の交接を通じて生まれる子どもの出産に擬えられている。書物の創作は夫婦の精神的な受胎の結実であり、さらにはその営みを通じて妻の肉体的なこわばりをも和らげたのだと、ミシュレは考える。

たしかに、『鳥』をはじめとする自然史の著作が二人の協働によって生まれたことは疑い得ない。ミシュレが自然にこれほど深く感化されたのはアテナイスの存在があってこそであり、彼女自身の観察眼や執筆の才もまた伴侶の助言を得ながら高められ、複数の書物が編まれることとなった。

ただし、見落とすことができないのは、これらの著作を生み出す要因となったアテナイスのp.171自然に対する愛は、彼女の幼少期における父親との思い出を通じて形成されてきたという事実である。すでに述べたように、自然に溢れた故郷の家はアテナイスの父親がこだわりをもって築いた空間であり、彼女の植物や動物に関する知識は父親との触れ合いの時間を通じて形成されていった[43]。最初に刊行された自然史の著作である『鳥』の序文において『ある子どもの回想』の原型となるアテナイスの幼少期の思い出が複数ページにわたって引用されているように、ミシュレが夫婦の愛の結晶と捉えている書物たちは、妻の父の幻影を色濃く留めている。すなわち、アテナイスが自身を解放し夫と心を通わせることのできる自然の世界は、彼女自身の原点において父との思い出に彩られていた。ミシュレがいうようにアテナイスが自然と一体化していたのだとすれば、彼女がそのとき交わっていたのはおそらく、亡き父でもあっただろう。

ミシュレは、アテナイスが自分と父を重ね合わせていることを理解しており、そのことがアテナイスを自分へと惹きつける要素ともなっているのだとして好意的に捉えていたようでもある[44]。また、アテナイスが『ある子どもの回想』に先立つ『鳥』を執筆するにあたっては、みずからが「きわめて個性的なやり方で彼女の父親になっていた」のだとも語っている[45]。しかしアテナイスにとってミシュレはあくまでも父とは異なる人間であるのだという事実に変わりはない。アテナイスにとってミシュレが擬似的な父親の役割を担い得たのだとしても、彼はあくまでも不在の者の代理であるに過ぎない。妻は夫のうちに、常に亡き父を見ていた。

かくしてアテナイスはミシュレにとって、目の前に実在していながら、肉体的にも精神的にも決して結合することのできない対象となる。ミシュレはアテナイスを獲得することを望み、自分の理想の通りに育み、成熟させ、彼女に浸透しようとする。夫による偏執的な観察の、欲望の、崇拝の対象となりながらも、しかしアテナイスはあたかも人形のように、その身体が彼と交わり受胎することを拒絶し、その心もまた同様に、父の在った過去に囚われたままであった。憑かれたように目の前の女性を自身の望み通りの女へと仕立て上げようとするミシュレは、みずから創造した女性型の彫像ガラテアに命が宿ることを願う、ギリシア神話のピュグマリオンにも擬えられるかもしれない。

手に入れることの叶わない妻への想いは、先述のように「日記」において夥しい文章として吐露されていくことになるが、私的な文章のみならず公刊された彼の著作の成立にも少なからぬ影響があったと思われる。ミシュレはパリでアテナイスと出逢った翌年の1849年からコレージュ・ド・フランスで「愛」をテーマとした講義を始め、1859年と1860年にはそれをもとにした『愛』『女』という二冊の女性論が刊行されることとなった。いずれの著作においてもアテナイスとの交流が色濃く反映されている部分が多々あり、彼女の存在が書物の完成の決定的な一要因となり、テクストのなかに深く浸透していることがうかがえる。

しかしながら両著作で描き出されている女性像が、アテナイス本人とは一部、対極的な性質を有していることは特筆すべきである。『愛』と『女』に登場するのは、夫との完全な結合を通じて「愛」を育むことのできる女であり、決して夫によって浸透され得なかったアテナイスとは大きく性格を異にしている。このことを踏まえるとき、ミシュレが描いた理想的な女は、現実における妻アテナイスを、求めていながらも決して手に入れることが叶わないという状態をp.172通じて彼が生み出していった幻像であったと捉えることができるのではないか。アテナイスの身体はミシュレにとっての人形となり、彼女を理想的な女へと育てようとするミシュレの欲望が、書物において幻の女と夫婦像を構築させたのである[46]

ミシュレの自然史と女性論の著作、そしてアテナイスの『ある子どもの回想』はしばしば、夫婦の交流を通じて生まれたものであるとされてきた[47]。ただし本稿の議論を振り返るならば、これらの著作の誕生を決定づけたのはミシュレが精神的な受胎として喩えていたような二人の調和的な結合であるというよりもむしろ、望んでも決して完全に浸透し合うことが果たされないという事実であっただろう。ある人間が、他者と深く交わり合うという理想のもとにありながら、しかしそれでもなお現実において埋めることの叶わない決定的なずれに直面し、己の欲望が決して満たされないことを知る──この揺れ動きを経験することが、その根底において二人の執筆を駆動する原動力となっていたのであり、その揺れ動きをもたらすものが、人形というテーマであった。本稿の冒頭で述べたように、人形はミシュレの『女』において、夫婦の間で育まれ世界を平和へと導く「愛」を幼い少女のうちに目覚めさせるものとみなされていた。しかしながら皮肉にも、人形こそがそうした「愛」をめぐるヴィジョンそれ自体を、彼のうちに構築させる機制となっていたのだった。

結びにかえて

アテナイスとミシュレが、現実における生身の人間──互いの伴侶──を媒介しながら在らざる者を幻視し書物を生み出していたことを考察してきたが、ここで今一度振り返るならば、自分に欠如した対象を、ある媒体を通して想起するというプロセスは、アテナイスが『ある子どもの回想』に綴っていた幼少期における人形との関わりの在り方にその原点があった。人形はそれを前にした人間のうちに現実と非現実の間を行き来する「信じ込んでいながら信じていない」という心理状態を喚起するものであり、そうした精神の在り方がテクストというかたちで幻像を構築する。

そして二人は、人形をめぐる幼年期の態度を、年齢を重ねてもなお特異なかたちで備える者同士であった。ミシュレは「日記」のなかで、アテナイスのうちに透徹した眼差しで現実を見据える40歳の成熟した男性と、ふとした瞬間に夢のなかへと引き戻されるような14歳の少女の姿を認めているが[48]、それは同時にミシュレ自身にも当て嵌まるものであっただろう。ミシュレがアテナイスと出逢う以前から手がけていた『フランス史』中世編の1869年に書かれた序文には、自身の歴史叙述の方法論について論じるなかで死者に対する歴史家の態度を、人形を前にした時の少女の姿に擬える記述があり、そこで死者たちを「優しく迎え入れながらも、彼らがあの世の存在であることをはっきりと見ている強靭な二元性」こそが、歴史家として死者と向き合ううえで不可欠なことであると主張している[49]

こうして人形に感応する精神を共有していた二人であるが、ただし両者の互いに対する欲望が対立的なベクトルを有していたことにも留意する必要がある。アテナイスは『ある子どものp.173回想』において生身の存在である夫を亡き父へと結びつけて死者を甦らせたのに対し、ミシュレは彼の女性論において、妻の人形としての身体を通じ、母として生をもたらす女を夢想する。二人の関係における死と生、過去と未来、男女をめぐるヴィジョンについては、アテナイスと出逢って以降のミシュレの歴史書、二人の『鳥』『海』といった自然史、ならびにアテナイスによる『猫』をはじめとするエッセイやミシュレの死後出版の著作を含めた、総合的な検討を行ないたい。p.174

参考文献

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Notes

  1. [1]

    Jules Michelet, La Femme, Paris, Librairie nouvelle, 1879 (1860), p. 107.(ジュール・ミシュレ『女』大野一道訳、藤原書店、1991年、87頁。)以降、邦訳のある作品については既訳を参照し、それ以外の文章は拙訳による。ミシュレの「日記(Journal)」の邦訳に関しては、原著(Jules Michelet, Journal, tome 1 (1828-1848), tome 2 (1849-1860), tome 3 (1861-1867), tome 4 (1868-1874), Paris, Gallimard, 1959-1976.)の抄訳である次の文献から引用している。ジュール・ミシュレ『民衆と情熱 大歴史家が遺した日記 1830-74』第2巻 1849-1874年、大野一道・翠川博之訳、2020年。

  2. [2]

    19世紀のフランスにおいて人形は女児の代表的な玩具として大きく流行し、教育者や知識人によって、少女に将来の母や主婦の役割を模倣させ、母性を育てるものであるとする見解が数多くあらわれていた(谷口奈々恵「19世紀フランスの「人形(poupée)」と少女 ジェンダー・ステレオタイプの観点から」『REPRÉ』第36号、2019年 。https://www.repre.org/repre/vol36/note/taniguchi/[2022年12月27日 最終閲覧])。次の論文では、ミシュレのこの記述における人形のモティーフが、女性性の観点から考察されている。Laurence Mall, « Jouer à la poupée chez Rousseau, Michelet et Beauvoir », Tessera, vol. 35, Fall /automne 2003, p. 63-78.

  3. [3]

    Michelet, Journal, tome 4, le lundi 29 mars 1869, 107. (大野・翠川訳、1309頁。)

  4. [4]

    1837年に刊行されたミシュレの次の著作にも、同様の記述がある。Michelet, Origines du droit français, cherchées dans les symboles et formules du droit universel, Paris, L. Hachette, 1837, p. LXXXII.

  5. [5]

    Roland Barthes, Michelet, Paris, Seuil, 1995 (1954), p. 156, p. 161.(ロラン・バルト『ミシュレ』新装版、藤本治訳、みすず書房、2002年、254頁。)なお、「信じ込んでいながら信じていない」という心理状態は、精神分析におけるフェティシズム概念の特徴である、去勢否認の形式とも対応している。

  6. [6]

    アテナイス・ミシュレについては2012年に、次の伝記が刊行されている。Isabelle Delamotte, Le Roman d’Athénaïs, une vie avec Michelet, Paris, Belfond, 2012. また、日本語で読めるものとして次の論文がある。簗美幸「ミシュレとその妻アテナイス 自然をめぐる初期の作品より」『Lilia candida フランス語フランス文学論集』白百合女子大学、第17号、1987年3月、60-70頁。

  7. [7]

    Michelet, La Femme, p. 108-111.(大野訳、88-90頁。)

  8. [8]

    Michelet, Journal, tome 2, le lundi 13 juin 1859, p. 473, tome 3, le vendredi 18 août 1865, p. 322.(大野・翠川訳、1033頁、1216頁。)

  9. [9]

    Athénaïs Michelet, Mémoires d’une enfant, Paris, Marpon et E. Flammarion, 1888 (1866). ミシュレが紹介したエピソードに登場する少女は、『ある子どもの回想』において語られているアテナイス自身とその大半が重なるものの、いくつかの点で事実の相違がある。

  10. [10]

    アテナイスの筆によるものとしてミシュレによって引用されているこの部分は『ある子どもの回想』とその多くが重複しており、『鳥』の執筆時点で本書の原型が構想されていたことがわかる。

  11. [11]

    Athénaïs Michelet, Ma collaboration à “l’Oiseau”, “l’Insecte”, “la Mer”, “la Montagne” ; mes droits à la moitié de leur produit, Paris, de Chamerot, 1876.

  12. [12]

    Anatole de Monzie, Les Veuves abusives, Paris, Bernard Grasset, 1936, p. 101-126.

  13. [13]

    たとえばリュシアン・フェーヴル『ミシュレとルネサンス』の編者はしがきにおいてポール・ブローデル(フェルナン・ブローデルの妻)は、アテナイスについて、ミシュレの原稿を「ずたずたに削除」し、「信じがたいひどい修正」を加えて「捏造」し、「悦に入って滔々と粉飾」を加えたと非難しているほか(リュシアン・フェーヴル『ミシュレとルネサンス 「歴史」の創始者についての講義録』石川美子訳、藤原書店、1996年、10-11頁)、ロラン・バルトもまた『ミシュレ』において、アテナイスによるミシュレの原稿の修正を強く批判している(Barthes, op. cit., p. 11, p. 157-158.)。なお、アテナイスに対するこれらの非難に対しては、歴史家のBonnie Smithより、歴史学における客観性(objectivity)や真正性(authenticity)をめぐる問題、書物の制作過程におけるジェンダー非対称といった観点からの反論がなされているほか(Bonnie Smith, “Historiography, Objectivity, and the Case of the Abusive Widow,” History and Theory, vol. 31, no. 4, 1992, p. 15-32.)、C. M. H. G. Creyghtonは、アテナイスによるミシュレの原稿の編集と出版が、フランスのナショナル・アイデンティティを体現する古典的な歴史家としての地位を確立するのに大きく寄与したことを検証している(C. M. H. G. Creyghton, La Survivance de Michelet: Historiographie et politique en France depuis 1870, PhD thesis, University of Amsterdam, 2016.)。

  14. [14]

    アテナイスは生前、複数の著作を構想しており、そのうちのいくつかが出版に至っている。たとえば英国の出版社より執筆の要請を受け、1872年に以下の著作が刊行された。Athénaïs Michelet, Nature : Or The Poetry of Earth and Sea, London, T. Nelson and Sons, Paternoster Row, 1872. また、彼女は猫に関する長大な著作を構想していた。生前に刊行されることはなかったが、死後、歴史家ガブリエル・モノが彼女の遺した膨大な原稿や覚書を整理・編纂したうえで出版したのが次の作品である。Madame Jules Michelet, Les Chats, Paris, E. Flammarion, 1902. また、本書の抄訳が、2023年1月現在において日本語で読むことのできるアテナイスの唯一の著作である。アテナイス・ミシュレ『猫 猫と歴史家と二番目の妻』中丸由紀子・伊藤桂子訳、論創社、2004年。

  15. [15]

    なお、当時の人形をテーマとする少女雑誌La Gazette de la poupée の1866年12月号において、本書の人形を扱う箇所が抜粋され、紹介されている。La Gazette de la poupée, petit journal illustré, décembre, 1866, p. 176-182.

  16. [16]

    Athénaïs Michelet, Mémoires d’une enfant, p. 16-18.

  17. [17]

    Ibid., p. 30.

  18. [18]

    Michelet, Journal, tome 3, le dimanche 17 septembre 1865, p. 345.

  19. [19]

    Athénaïs Michelet, op. cit., p. 31.

  20. [20]

    Ibid., p. 97-101.

  21. [21]

    Ibid., p. 37, p. 109-110.

  22. [22]

    Ibid., p. 110.

  23. [23]

    Ibid., p. 133-138.

  24. [24]

    Ibid., p. 138.

  25. [25]

    Gabriel Monod, « Comment furent composés “Les Mémoires d’une enfant”», La Revue, 15 février 1908, p. 389. Michelet, Journal, tome 3, le dimanche 17 septembre 1865, p. 345.

  26. [26]

    Athénaïs Michelet, op. cit., p. 42-49.

  27. [27]

    Ibid., p. 127-129.

  28. [28]

    Ibid., p. 250-251.

  29. [29]

    アテナイスは『ある子どもの回想』に続くその後の自身の人生の記録を書き溜めていたが、書物としての完成には至らなかった。なお、夫のミシュレによってアテナイスをモデルとした「ある誠実な若い娘の回想(Mémoires d’une jeune fille honnête)」という文章が執筆されており、これはミシュレの「日記」第2巻に収録されている。Michelet, Journal, tome 2, p. 565-596.

  30. [30]

    Jules Michelet, Athénaïs Michelet, Lettres inédites adressés à Mlle Mialaret (Mme Michelet), Paris, E. Flammarion, 1894, p. 15.(大野・翠川訳、631頁、注1。)

  31. [31]

    Michelet, Journal, tome 2, le dimanche 23 août 1857, p. 346-347.(大野・翠川訳、991頁。)

  32. [32]

    Michelet, Journal, tome 3, le dimanche 19 août 1866, p. 412.(大野・翠川訳、1239頁。)

  33. [33]

    なお、アテナイスは『ある子どもの回想』において、幼い頃の自身と父との関わりを振り返るにとどまらず、父の残した書簡を手掛かりとして、父親の過去を物語のかたちで甦らせている。第3部の第6章「父の物語 サン・ドマング(Histoire de mon père : Saint-Domingue)」、第7章「エルバ島(L’île d’Elbe)」は若き日にアメリカに渡った父親の半生の物語であり、ハイチの独立運動指導者トゥサン・ルーヴェルチュール(Toussaint Louverture)の子どもの家庭教師を務めたのち投獄された経験をはじめ、幾度も降りかかる死の危険をくぐり抜け、44歳の時、ルイジアナ州において当時14歳であったアテナイスの母親と結婚するまでに至る経緯が、冒険譚のような体裁で綴られている。Athénaïs Michelet, op. cit., p. 182-217.

  34. [34]

    Ibid.

  35. [35]

    Monod, op. cit., p. 393.

  36. [36]

    Michelet, Journal, tome 2, le mardi 16 juin, 1857, p. 333. (大野・翠川訳、975頁。)ミシュレが用いている「浸透(imprégnation)」の用語については次の文献に詳しい。Hilde Olrik, « La théorie de l’imprégnation », Nineteenth-Century French Studies, vol. 15, no. 1/2, 1986, p. 128-140.

  37. [37]

    Michelet, Journal, tome 2, le lundi 24 août 1857, p.347-348.(大野・翠川訳、992-993頁。)

  38. [38]

    Id., tome 3, le vendredi 18 août 1865, p. 322.(大野・翠川訳、1214頁。)

  39. [39]

    Id., tome 2, le vendredi 21 août 1857, p. 346.(大野・翠川訳、990-991頁。)

  40. [40]

    Id., tome 3, le vendredi 18 août 1865, p. 321.(大野・翠川訳、1214頁。)

  41. [41]

    Jules Michelet, Athénaïs Michelet. Lettres inédites adressés à Mlle Mialaret (Mme Michelet), Paris, E. Flammarion, 1894, p. 154-155. 邦訳は次の著作を参照。大野一道『ミシュレ伝1798-1874 自然と歴史への愛』藤原書店、1998年、320頁。

  42. [42]

    Michelet, Journal, tome3, le vendredi 18 août 1865, p. 322. (大野・翠川訳、1215頁。)

  43. [43]

    Athénaïs Michelet, op. cit., p. 7-8.

  44. [44]

    Jules Michelet, Athénaïs Michelet, Lettres inédites adressés à Mlle Mialaret (Mme Michelet), p. 73.

  45. [45]

    Michelet, Journal, tome 3, le vendredi 18 août, 1865, p. 322. (大野・翠川訳、1215頁。)

  46. [46]

    ミシュレの女性論は出版当初より大きな反響を呼び、当時においては進歩的な女性観であるとしてスキャンダラスに捉えられる側面もあった一方、女の存在意義を特定の役割に閉じ込めるものであると現代に至るまで強い非難を浴びてきた。その女性観についてはすでに一定の研究の蓄積もあり、本稿において詳細に立ち入ることはできないが、こうした理想の「女」が構築されていった背景には、アテナイスという女性との交感があり、そしてそのアテナイスとは思考を有し、彼女自身がものを書くひとりの人間であったという事実もまた今一度、顧みられるべきであろう。なお、ミシュレの生涯における女性との関係と著作における女性のモティーフ、女性像の形成を論じたものとして、たとえば次の著作がある。Jeanne Calo, La Création de la femme chez Michelet, Paris, Nizet, 1975.

  47. [47]

    ガブリエル・モノは、それぞれの著作に互いの精神やスタイル、言葉が見出され、両者のテクストは縫い跡(points de suture)が存在しないほどに貫入し(pénétrés)合っているのだと述べている。Monod, op. cit., p. 394.

  48. [48]

    ミシュレは「日記」のなかで、アテナイスを次のように形容している。「父親が死んだとき彼女は14歳だった。15歳になっていなかった。ある日ラマルティーヌがそれを言うと、彼女自身それを認めた。さらに16歳時に抱いた悲しみと絶望が彼女を打ちひしぐ。そして永遠にその年齢に固定してしまった。しばしば40歳の男のような現実性をもち、しばしばきわめて偉大な博物学者のような詩情をもっている……が、しかしそれは時折のこと。彼女はつねに少女時代を取り戻す。1匹の子猫が現れる……それが14歳の彼女だ。」Michelet, Journal, tome 3, le dimanche 19 août, 1866, p. 413.(大野・翠川訳、1240頁。)

  49. [49]

    Jules Michelet, « Préface de 1869 », Œuvres complètes de J. Michelet, tome 1, Paris, E. Flammarion, 1893, p. XXI-XXII.(ミシュレ「1869年の序文」『フランス史「中世」』桐村泰次訳、論創社、2016年、19頁。)真野倫平はこの部分について、19世紀フランスにおける歴史学の主たる二つのアプローチ(物語派、哲学派)を同時に引き受けようとしたミシュレにとって、「過去の対象に同一化しながらも批判的な距離を置くという、二重の距離感」を有する歴史家の態度が、「命なき玩具と知りながら人形をわが子のように慈しむ、無邪気で聡明な幼子の姿」に集約されるのだと述べている。(真野倫平『死の歴史学 ミシュレ『フランス史』を読む』藤原書店、2018年、91頁。)

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谷口奈々恵「アテナイス・ミアラレとジュール・ミシュレにおける “人形”のテーマと不在者の幻視──『ある子どもの回想(Mémoires d’une enfant)』(1866)の成立をめぐって」『Phantastopia』第2号、2023年、159-181ページ、URL : https://phantastopia.com/2/the-theme-of-dolls-in-athenais-miaralet-and-jules-michelet/。(2024年10月30日閲覧)

執筆者

谷口奈々恵
TANIGUCHI Nanae

博士課程。19世紀フランスのジェンダー史、文化史。

主な論文に、「19世紀フランス児童出版物における「ものを書く人形(poupée de lettres)」の展開──人/モノの〈母〉-〈娘〉関係をめぐって 」『超域文化科学紀要』第26号、2021年、47-68頁。

https://researchmap.jp/nanaetaniguchi

英語要旨

The Theme of “Dolls” and the Vision of the Absent in Athénaïs Miaralet and Jules Michelet

The Writing of Mémoires d’une enfant (1866)

TANIGUCHI Nanae

The purpose of this paper is to examine the writing process of Mémoires d’une enfant (1866) by Athénaïs Mialaret, the second wife of Jules Michelet, and Michelet’s writings on natural history and women (La Femme and L’Amour), through an analysis of the theme of dolls in their works.

Chapter 1 provides an overview of Athénaïs’s career, followed by an introduction to her autobiography, Mémoires d’une enfant. Athénaïs is known for her influence on Michelet’s works of natural history, as well as for editing Michelet’s manuscripts and publishing them posthumously. However, there has been little research on Athénaïs’ own work. One of her works, Mémoires d’une enfant, is an autobiography in which Athénaïs reflects on her memories of childhood.

In Chapter 2, we focus on the doll episode in Mémoires d’une enfant to see how Athénaïs interacted with dolls in her childhood and explore the role these experiences play in her work. As a lonely child, Athénaïs regarded the doll as a surrogate for the friends, sister, and mother she lacked. In Mémoires d’une enfant, the doll brings about a psychological state of “believing and not believing,” as Roland Barthes said of the works of Michelet. The doll episode provided a significant impetus for Athénaïs’s memoir of her childhood.

Mémoires d’une enfant ends with the death of her beloved father, and the shock of losing him is devastating. Aténaïs later met her future husband Michelet, whom she continued to confuse with her father even after their marriage. Chapter 3 traces the relationship between Athénaïs and Michelet, and examines the context in which Athénaïs wrote Mémoires d’une enfant. The driving motivation behind the work was a vision Athénaïs had of her late father through the presence of her husband.

Finally, Chapter 4 examines the influence of Athénaïs on her husband’s writings. Although Michelet idealized the couple’s complete union in marriage, he was never able to penetrate his wife Athénaïs, either physically or spiritually, in their real-life. Michelet’s writings on natural history and women, in La Femme and L’Amour, seem to have been the result of this particular situation – of love without union – rather than being the product of the couple’s spiritual union, as Michelet stated.

As described above, the psychological state which characterizes encounters with dolls, “believing and not believing,” formed the fundamental attitude of Aténaïs and Michelet toward their literary art.

Phantastopia 2
掲載号
『Phantastopia』第2号
2023.03.27発行