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研究ノート

小説の論理と政治ドゥルーズの二つの文学論における法の転倒

河本卓穆

p.287前書き

本稿の趣旨は、ジル・ドゥルーズによる二つの文学論、すなわち『ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの』(1967)および「バートルビー、または決まり文句」(1993)を比較検討し、両者に通底する「ユーモア[humor]」を考察することである(以下それぞれ「バートルビー論」「マゾッホ紹介」などと表記)。アイロニーとの対で語られるユーモアは、ドゥルーズの著作において頻繁に登場する主題であり、その原点は初期の『マゾッホ紹介』(1967)にあると言ってよい。そこで本稿では、まず『マゾッホ紹介』におけるユーモアの議論を整理したうえで、次に後年のバートルビー論を見ていき、初期のユーモア論がどのように後年へと引き継がれているかを考察するという方向を辿ることとする。

のちに見るように、ドゥルーズにとってユーモア/アイロニーとは「法」の転倒を目指す思考、すなわち一種の政治哲学のタイプである。法とは文字通り法律や社会制度だけでなく、快原理や言語法則など、われわれの生きる世界を統御する法則や規範を幅広く含んでおり、これらに別様のしかたで抵抗する動きこそが、文学者=倒錯者であるサドとマゾッホ、そしてまたイギリス由来の言語によりアメリカ独自の文学を打ち立てんとしたメルヴィルの仕事に見出されている。つまり本稿の関与する問題系は政治と文学の関係であり、これをドゥルーズ哲学がいかなるかたちで架橋しようとしたかということである。

その第7章を「法、ユーモア、アイロニー」と題した『マゾッホ紹介』に比べ、バートルビー論では必ずしも件の対が前景化しているとは言い難いものの、なおドゥルーズにとってバートルビーがユーモアに親近的であることは、彼がユーモアについて頻繁に述べる「字義通り」がバートルビーにも見出されていること(CC89)、マゾッホと並びユーモアの筆頭とされるカフカとの比較がなされていること、またドゥルーズが基本的に英米文学をユーモアの文学として考えるスタンスをとっていることなどから容易に推察されるし(D82)、バートルビーをユーモアに対応させて論じる先行研究も存在する(大﨑2001)。しかし先行研究においては、バートルビーはユーモアとアイロニーのどちらに該当するのかといった択一的な議論が行われがちであり、本稿とは関心・趣旨をやや異にしている。バートルビーにユーモアのエッセンスを見出しつつ、そこにドゥルーズ初期からの一貫性を指摘することが本稿の主眼である。

p.2881. マゾッホのユーモア

本節では『ザッヘル=マゾッホ紹介』を主題に、法に抗う思考としてのユーモア/アイロニーについて把握する。その第七章でドゥルーズは、二人の作家を「近代」の先端的な思想家として描き出している。哲学・精神分析を含む思想史と、小説はどのようにかかわるのだろうか。

まずは背景となる「近代」について整理しよう。プラトン、キリスト教に代表される「古典的イメージ」において、法は「高次の原理」としての「《善》」により「基礎づけ」られ、人は「帰結」における「《最良》」によりこれを「承認」することができた[1]。しかし近代においては、ドゥルーズが第二批判のカントに寄り添いつつ述べるように、「法はもはや《善》に依存しておらず、逆に《善》こそが法に依存する」といった転回が生ずる[2]。「道徳的」という言葉はそれじたい内容をもたなくなり、「絶対的に未規定なものに対する単なる規定作用」として形式化される[3]。これは法が即座にはなにも命じず、それゆえ判断や行動の正当性をまったく保証しないといった事態であり、有徳な者がますます罪責感を覚えるというフロイト的な逆説も生じる[4]。この状況は当のフロイトによって、エディプス理論として分析されたとドゥルーズは言う。そもそも道徳意識は、母への近親相姦的な欲望が断念されるとき、父親の禁圧が超自我として内面化され、同時に欲望の対象が抑圧されることで成立する。つまり<法>=<欲望の禁止>は対象の抑圧と不可分一体であり、それゆえに<法の内容>=<なにが禁止されているのか>もまた、未規定なままに置かれるのだ[5]。このように近代とは、対象としての母、そしてこれを主体として欲望する父の立場──父のように振る舞うこと──に対する二重の断念により、法が自我における罪責感として、すなわち人の内面において作動する時代なのである[6]

この状況に対し、サドは超自我への「同一化」によって対抗する。超自我は通常、その道徳的要請を呵責として感じ生きる自我の内面性によって補完されるが、サドは自我を追放することでその補完性を放棄し、自身を超自我のみによって満たそうとする。サディストとは「自身の超自我であり、外部にしか自我を見出さない」とドゥルーズが述べるように、サドの自我は、彼自身ではなく、彼が攻撃し破壊する犠牲者のなかに見出される(「投射[projection]」)。また超自我と自我の補完性は母性的要素によって守られるところ、サドは母のイメージをも犠牲者に背負わせることで、これを追放する。こうしてサドの超自我は道徳性から解放され、自我を投射し母を犠牲にする不道徳な「《悪》の《理念》[l’Idée d’un Mal]」となる[7]

法への抵抗としての倒錯=サディズムは、サドの思想や言語活動といった作品の内実へと巧みに結びつけられる。まずこの《理念》は「純粋否定」の観念であり、「論証」の対象でしかあり得ないと言われる。ゆえにサドは小説において「論証」の言語を発展させ、世俗的な法や体制の権威をことごとく否定することで到達を試みる。ドゥルーズは《理念》と法の隔絶を、クロソウスキーの言う二つの自然──「一次的《自然》」と「二次的自然」──によって説明するが、前者が普遍的で非人称的な境域であるのに対し、サド自身は後者の人称性、個人性を免れない。そこでサドは「描写」において対象=「フェティッシュ」を「破壊」し、二次的自然もろとも自我の否定を試みる。こうして二つの小説的手法、すなわち「論証」による否定と「描p.289写」における破壊が政治的運動性を持つが、問題なのは、いずれも二次的自然における不完全な部分過程(「否定的なもの[le négatif]」)でしかなく、純粋理念としての「否定[le négation]」との間に厳然たる差異が存在することである。ゆえにサドは、暴力的で猥雑な描写を増殖させる(「加速」)とともに、二次的自然に属する<快>を顧みず「冷淡に」これを遂行する(「圧縮」)ことで、《理念》の暴力性を感性的な次元において「測定」するしかない[8]。こうして凡百のポルノグラフィ作家と違い、サドは能動的理性による思考の「冷淡さ」を表現するに至るが、これは論証の言語に本質的な要素でありながらも、感性的・物質的な描写による仲介を必要とすることに注意しなければならない[9]

一方マゾッホのユーモアは、自我を超自我の圧力から解放する過程(「否認[dénégation]」)から、この自我が自律性を獲得する(理想化される)過程(「宙吊り[suspens]」)へと向かう[10]。まず「否認」は処罰=苦痛のプロセスであり、女性を支配者に仕立てあげる「教育」の言語によって担われる。それは「ある質的過程[un processus qualitatif]であり、口唇的な母にファルスの諸権限[les droits]と所有を転移する」[11]。つまり彼は、欲望に対する処罰=去勢を、「象徴界[le symbolique]」を統御し欲望の根源ともなるファルスを母に委ねるプロセスに変えてしまう(転移)のであり、それによって彼は、超自我による欲望への禁圧をラディカルに回避するのである。またこのとき、自我は自身を規定するセクシャリティ、およびこれを裏打ちする父のイメージをも放棄するが、これは父に類似する己の本性に対する暴力として働くため、残酷な契約相手=口唇的母は死のイメージとして機能する[12]。しかし自我を危険にさらすこの死こそ新たな自我の産出の契機であり、去勢された自我=ナルシス的自我は死のイメージにおいて「理想自我」を「観想」する[13]。この過程は、マゾッホが得意とする描写における手法、すなわち「宙吊り」によって担われる。すなわち、そこでは毛皮や鞭や靴といった諸々の対象=フェティッシュが美的情景のなかで「凝固」し、東欧の原風景と結びつきながら「女帝ツァリーン」のイメージを表象するのである[14]。こうしてマゾッホは、理性ではなく「想像力」によって「理想を具体化」し、自身の死のイメージにおいて「性愛なき新たな人間」への再生誕を遂げる。この人間は、快原理の通俗性を超克し、芸術の神秘性において女性の身体を観想する[15]。ゆえに受動的であるとはいえ、マゾッホは、サドの二次的自然に当たる所与の世界に安住するわけではない。むしろマゾッホは「いまあるものの妥当性に異議を申し立て」る宙吊りにより、「所与の彼方に、所与として与えられない地平を開く」ことで、「粗雑な自然[la nature grossière]」から「感情的で反省的な、大いなる《自然》[la grande Nature, sentimentale et réfléchie]」へと「移行[passage]」するのである[16]

われわれはサドのアイロニーとマゾッホのユーモアを、能動/受動の対によって捉えることができる。つまり、前者が《理念》を求め法を否定する能動的な運動であったのに対し、後者は法=処罰の適用を受けつつ、この結果を自分に有利なものとする受動性によって機能するのである。ゆえにドゥルーズは後者を「背理法による証明[démonstration d’absurdité]」と表現したうえで、次のように述べる。

p.290法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストは、自身に処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、逆説的なしかたで、一つの理[raison]を発見する。その理が彼に権限を与え[l’autorise]、そして法が禁じているとみなされていた快を味わうよう、命じさえするのだ。マゾッホのユーモアとは、以下のようなものである。首尾一貫した処罰[punition conséquente]の苦しみのもと、私に欲望の実現を禁じたまさにその法が、いまや、まず処罰をおこない、帰結において[en conséquence]欲望を満たすことを私に命ずる法となるのだ。(PSM78/一三五-一三六)

ドゥルーズが注意を促すように、マゾッホの苦痛と快のあいだにあるのは単なる時間的継起であって、論理的な因果関係ではない[17]。にもかかわらずその帰結において快が得られたとき、本来苦痛をしかもたらさなかったはずの法は、快の論理的条件へと変容する。これにより、自我を否定する超自我の過酷さに際し、この否定を能動的に選択するサドとは対照的に、マゾッホは、あくまでその受動性においてこの否定そのものを肯定へと転倒させてしまう。否定が「思考の行為[acte]」である一方、否認とは「想像力の反応[réaction]」なのである[18]

2. バートルビーのユーモア

本節では「バートルビー、または決まり文句」を題材に、アメリカ文学に見出されるユーモア/アイロニーを考察する。前節で見た『マゾッホ紹介』からの理論的・概念的接続性が確認されつつ、担い手が異なるがゆえの<戦略>の違い、そしてメルヴィルという一人の作家に一元化されるがゆえの新たな問題も発見されるだろう。

まずは前節との接続性を確認する。バートルビーは、代訴人による命令をひたすら決まり文句=I would prefer not to[je préférerais ne pas/できればしないほうがいいのですが]によって拒絶するが、ドゥルーズはこの態度を「我慢強く純粋な受動性」と評する。つまり彼の決まり文句は代訴人による命令を拒絶するが、能動的な拒否とは異なり、むしろ能動性がないゆえになにごとにも取り組むことができないという不可能性の提示である(「無の意志ではなく、意志の無の増大だ」)[19]。これに対し、鯨を追い求め秩序を顧みないエイハブは「無を己の意志の対象とする」と表現され、サドにおける二つの《自然》が言及される[20]。またサドの《自然》はバートルビーについても言われ、両者は法の外部に属する稀有な「独創人」として重視される。このように「バートルビー、または決まり文句」には、『マゾッホ紹介』におけるユーモア/アイロニー──受動的/能動的な法の転倒──との理論的・概念的接続性が明らかに見てとれる。

では、二人の人物による法への抵抗は具体的にどのような戦略となるのだろうか。まずドゥルーズによれば、バートルビーの決まり文句は一種の「非文法的表現」であり、あたかも英語のなかに外国語を穿つかのようである[21]。それは一連の正しい表現(「je préférerais ceci[できればこちらのほうがいいですね]」、「je préférerais ne pas faire cela[あれはできればしないほうがいいです]」、「ce n’est pas ce que je préférerais[これは私が好むようなものではないです]」など)p.291を想起させつつ、そのどれにも還元されることがない言語の「限界[limite]」である。ゆえにこの文言は、言語則に対する異常=変則[anomalie]として響き、発せられるや否やバートルビーの周囲に「呆然自失状態[stupeur]」を生じさせ、その後「沈黙」をもたらすとともに代訴人をはじめ他の人物の言葉遣いにも「伝染」し、「言語を攪拌する」[22]。以上は決まり文句の、表現の形式的なレベルにおける壊乱である。しかしドゥルーズにしたがえば、この決まり文句はむしろ言語活動そのものを可能にする諸条件に対してこそ本質的効果をもつ。というのも、作品においてバートルビーは当初取り組んでいた書き写しの仕事を途中からしなくなるが、ドゥルーズはこれを、なにが好ましいか/そうでないかといった判断・識別の「基準[référence]」を決まり文句が消滅させ、二種類の事柄の間に「識別不可能性[indiscernabilité]」ないし「非決定性[indétermination]」の領域をつくりだしたのだと評価する[23]。つまり、決まり文句が示していたはずのある種の区別、秩序が、決まり文句自身の効果によって乱されていくのである。さらにドゥルーズは、作内での代訴人によるバートルビーの異常性に関する考察に言及しつつ、この問題を語用論的な主題へと拡張していく。すなわち、単語どうしの置換・代替・補完可能性により保証される外的事物・状況への指示関係や、言表に内在する言表行為への自己言及性──命令文を言いながら命令する、疑問文を言いながら問いかける──といった二重の「前提」を、決まり文句が破壊するというのである[24]。こうした決まり文句の効果に、われわれはマゾッホとバートルビーの共通性、すなわち受動的な態度によって法ないし既存の秩序を変容させるユーモアを見出すことができる。それだけではない。マゾッホが「性なき新たな人間」として再生誕を遂げるように、バートルビーも新たな特異的人物へと生成するのである。「つまり、決まり文句は、言語活動をあらゆる基準[référence]から切り離し、基準なき人間になるというバートルビーの絶対的使命に従わせるのである。基準なき人間、それは姿を現しては消し、自身や他の事物への基準=参照[référence]がない人間である」[25]。こうして彼は、奇妙な決まり文句によって言葉が依拠するさまざまな「基準」を揺るがすとともに、自らもまた身分や特性や所有物といった「基準」により同一的に規定される存在ではなく、テクストそのものとして自律し、それゆえに神出鬼没で謎めいた、ほとんど瞬間に還元されるようななにかへと生成するのである[26]

選択の放棄を皮切りに受動的な秩序壊乱を引き起こしたバートルビーに対し、エイハブは、捕鯨船の掟を破ってモービィ・ディックを「選り好み」し、他の乗組員を死に追いやるなど、その能動的で選択的な狂気によって秩序を破壊する。その過程で彼はモービィ・ディックともはや区別がつかなくなり、言語には次のような影響が生じるとされる。

あたかも三つの操作がつながっているかのようだ。言語のある種の取り扱い。次がこの取り扱いの結果であるが、それは言語の中にある独創的言語[langue originale]を構成する傾向がある。最後に効果だが、その実質は言語活動全体を巻き込み、逃走させ、それ自身の限界まで押しやることでその〈外部〉を、沈黙あるいは音楽を発見するというものだ。(CC93-94/一五四)

p.292このようにエイハブの戦略は、言語一般への特殊な「取り扱い[traitement]」を起点に、これを言語活動全体の大規模な変容へと連鎖させていくものだとわかる。これに対しバートルビーは、言語を扱う「一般的な《手法》[Procédé]」をもたず、「一見正しい、せいぜいいくつかの機会に現れる局地化された癖」といったところの決まり文句を発するに過ぎないとされる。しかし興味深いことにドゥルーズは、両者の「結果、効果は同じなのだ」[27]と述べる。つまりバートルビー論におけるドゥルーズは、二人の人物が言葉にかんして共有するもの──すなわち英語に異質な言語を混入させ、言語活動を限界に向かわせることでその〈外部〉(=沈黙あるいは音楽)との遭遇を目指すという共通目的──において、ある種の総合を目論んでいると言えるのである。少なくとも外見上、これは本稿で扱う二つのテクストの明瞭な差異だと言える。なぜならマゾッホをサドとの相補性から救い出すことを目的とした『マゾッホ紹介』では、両者の差異や無関係性こそが強調されたからである。ではなぜ、ドゥルーズは二人の異なる人物を「混ぜ合わせ[mêler]」[28]ようとするのだろうか。それはメルヴィルの小説が、西洋の合理主義に抵抗するというプログラムに貫かれているからである。

イギリス小説、そしてそれ以上にフランス小説は、合理化の欲求を抱くのであり、それは小説の終わりにおいてですらそうである。(…)アメリカ小説の創設行為[acte fondateur]は、ロシア小説と同様、小説を理性の道から遠く運び去ること、そして無のなかにとどまり空虚においてしか生き延びられず、自分たちの謎を果てまで守り抜き、そして論理や心理学に立ち向かうあれらの人物を生み出すことにあった。(…)メルヴィル、ドストエフスキー、カフカあるいはムージルといった偉大な小説家たちにとって重要なのは、諸事物が謎めいたままでありながら恣意的でない[non-arbitraires]ということである。要するに新たな論理、一つの十全な論理ということだが、それは私たちを理性へと再び導くことなどなく、生と死の親密さを捉えるのだ。(CC104-105/一七一-一七二、強調引用者)

そもそもサドにおける一次的《自然》/二次的自然というクロソウスキーの図式は、『マゾッホ紹介』において、もっぱらサドの思想にかんして用いられていた。ただし自然主義や二つの自然の区別といった発想自体はどちらにも共通するとされ、両者による法の「転倒」は「二次的自然[la nature seconde]」から「一次的《自然》[la Nature premiè]」へ(サド)、また「粗雑な自然[la nature grossière]」から「感情的で反省的な、大いなる《自然》[la grande Nature, sentimentale et réfléchie]」へ(マゾッホ)という二つの「移行[passage]」として説明された[29]。しかしメルヴィル論においては、サドにおける一次的《自然》/二次的自然こそが法とその外部を表す図式として全面的に採用され、二種類の「独創人」が前者に「属する」とされる。おそらくこの変化は、対象がメルヴィルという一人の作家に一元化されたからという形式的な理由にとどまらない。《自然》すなわち「無[néant]」とは、メルヴィルにとって非合理性の「領域」ないし近代的な合理主義の「限界」であって、自らの小説を「新たな論理」へと飛躍させるフロンテp.293ィアでもあるのだ。

3. 小説の「新たな論理」──イメージから線へ──

では、彼の「新たな論理」はどのように獲得されるのだろうか。ドゥルーズに従えば、まず二人の人物がこの新たな論理に服すべく、理性に楯突く二つのタイプとして分類される。すなわち、エイハブが「理性を利用し、実は少しも合理的でない自分達の至高の目的へと奉仕」させる「理性の《支配者》[Maîtres]」の一人である一方、バートルビーは「理性からの《除名者》[Exclus]」の一人とされ、「理性が与えてくれないもの、識別不可能なもの、名づけえぬものを手に入れ自らこれと混ざり合うことができる」[30]。また二人とともに、代訴人のような一部の通常人も「予言者[prophètes]」ないし「《遭難者》[Naufragés]」──「独創人」のうちに《自然》を見出すことができ、自らもその狂気に巻き込まれながらも、結局は「理性の断片にしがみつき」、「元の状態を再形成し」ようとする──に分類されるが、他の二タイプとの間には本質的な区別があるとされる。というのも、三つ目のタイプは諸々の一風変わった(だけの)人物たちと同じように、イメージによって説明され、相互に影響を及ぼし合い、行動も台詞も一般法則に従うからである[31]。これに対し独創人は、「それぞれが孤独で力強い《フィギュール》[Figure]」であり、「説明可能なあらゆるフォルム[forme]からこぼれ落ち」ながら「燃えるような表現の特徴-線[traits d’expression]を投げつけ」る[32]。つまりここでドゥルーズは、独創人が小説へともたらしその「新たな論理」への契機ともなる変容を、絵画的なタームにより記述しようとしていると言えるだろう。

ドゥルーズによれば、ある種の小説──人格形成を主題にしたものが多いとされ、おそらくはディケンズなどを念頭に置いている──は、なんらかの主体が自身をイメージ・フォルムないし表象によって規定される目標へと適合させる過程=「同一化」によって構成されるが、これは息子による父親の模倣という父権的構造に基づいている[33]。そしてこの構造はより絵画的な言い方に引きつければ、フォルムやイメージによって対象への類似を目指す<ミメーシス>の論理にほかならない。これに対しメルヴィルの作品では、当初はイメージにより二つの項が設定され、同一化のプロセスを準備する。例えばバートルビーは「痩せて青白い顔」といったイメージにおいて捉えられ、父性的人物たる代訴人との同一化が予感される。あるいはエイハブは、モービィ・ディックを情報収集によりイメージとして捉え、同一化を試みる。しかしドゥルーズによれば、こうした予備段階にもかかわらず、メルヴィルの小説ではのちに「特徴-線」がイメージやフォルムに取って代わり、類似を目指す主体は消え、二項は同一化とは異なる秩序によって結ばれる。すなわち、「各々の異化=分化[différenciation]に無媒介的に先行する地点」としての「不分明、識別不可能性、曖昧性の領域zone d’indistinction, d’indiscernabilité, d’ambiguité]」における「極端な接近、絶対的な隣接性」へと転倒させられるのである。言い換えれば問題は、離散的な二項を「類似」によって結びつけることから、それらを一つの連続性へと「横滑り」させることへと変化したのであり、これこそが「模倣」に代わる「生成変化[devenir]」p.294の問題にほかならない[34]。超絶的な暴力を追い求め自身もまた暴力の化身となるエイハブは「もはやモービィ・ディックとの見分けがつかなくなる近傍域を通過していく」のであり、決まり文句により周囲を「呆然自失」にさせ言語活動の「前提」を穿つバートルビーは、自らは動かぬまま代訴人を放浪へと追いやるだけでなく、最後は自分も浮浪者の烙印を押され監獄へと送られるのである。

しかしこれら二項の接近、諸々の区別の廃棄は、理性による意味づけを逃れるものである。であれば小説の新しい論理とは、どこに求められるのだろうか。ドゥルーズは次のように述べている。

これら二つのタイプはあらゆる点において正反対で、一方は生まれついての裏切り者であり、他方は本質的に裏切られる者であるとともに、一方は子供を貪り食う怪物的な父親で他方は見捨てられた父なき息子であるにもかかわらず、一つの同じ世界に出没する。そして彼らが規則的な循環を形成し、まさにメルヴィルのエクリチュールにおいてそうであり、クライストにおいてもまたそうであるように、停滞的で凝固した[figés]過程と、狂気的な速度の手法を交互に行う。こうして文体style]が、緊張病[catatonies]と性急さ[précipitations]の継起によってもたらされるのである……。これこそが、(…)人物の二つのタイプ、すなわちエイハブとバートルビーがあの一次的《自然》に属し、そこに住み着き構成しているということなのである。(CC103/一六八)

つまり小説の新たな論理は、言葉の意味や表象的イメージではなく、「文体スタイル」によって担われる。あたかも20世紀の絵画が抽象的な「線」の自律性を依代としたように[35]、小説は文体そのものの力──緊張病と性急さ──によって自らを規定するのである。

もっともドゥルーズによれば、メルヴィルは「独創人」を一つの小説に複数登場させることができないと考えており、それは二種類の文体が相互に矛盾することが関係している。ゆえにメルヴィルにとっての、そしておそらくは当人も十全には果たしえなかった「最高次の問題」とは、文体そのものである二人の人物を「場面[tableau]のなかで両立させる[faire tenir ensemble]」こととして立ち現れる[36]。そして我々はここにおいてこそ、同テクストのユーモリスト=バートルビーの位置付けを理解できると言わなければならない。なぜならドゥルーズは、二人の人物を「和解=折衷させる[réconcilier]」にあたり、「しかしそのためにはまた、独創人と二次的人間を和解=折衷させる[37]ことが必要だとしつつ、「ところが良き父親など存在しないことは、ヴェア船長や代訴人が証明している」と述べ、さらに「怪物的で貪欲な父親、そして石化した父親なき息子しかいない」としているからである。つまり人物の三類型のなかで、<支配者>が「子供を貪り食う怪物的な父親」であるのみならず、<遭難者>もまた結局は法の側で<除名者>を犠牲にする悪しき父親であるがゆえに、小説を父権的構造から解放するには、息子であるバートルビーが不可欠なのである。「もし人間が救われ、独創人たちが和解=折衷させられるとすれば、それは父権的機能の溶解、崩壊においてでしかありえない」[38]。むろん我々は、p.295ドゥルーズが二者択一的にバートルビーを特権視している訳ではないことに注意すべきである。そうではなく、小説を合理主義の限界へと導くという課題において、能動的に非理性を求めるエイハブが重要になるからこそ、彼とは本質的にそぐわない父権的システムへの抵抗を担うバートルビーの受動性の方が、むしろ強調の必然性にさらされるのである。

総括

本稿では三節にわたり、ドゥルーズによる二つのテクスト──『ザッヘル=マゾッホ紹介』および「バートルビー、または決まり文句」──に見られるユーモア/アイロニーの問題を比較し、文学と政治に関わるある種の一貫性を確認しようと試みた。

第一節では『マゾッホ紹介』を主題に、法をめぐる思想としてのアイロニー/ユーモアを考察し、それらが小説の言語──論証、教育、二種類の描写──と不可分に成立しているものであること、そしてアイロニーが法の彼岸(《理念》、一次的《自然》)を追求する能動的な運動であるのに対し、ユーモアが自身の<死>のイメージとして《自然》を観想する受動性によって特徴づけられることを確認した。

第二節では「バートルビー、または決まり文句」に移り、法とその外部を示す「自然」の図式が引き継がれていること、そして《自然》に属する二人の「独創人」──エイハブとバートルビー──が、それぞれアイロニー/ユーモアの能動的/受動的秩序壊乱に対応することを確認した。バートルビーがその受動的な非選択性により語用論的な秩序・前提を撹乱し、「基準なき新たな人間」としての自律性を獲得する一方、エイハブはモービィ・ディックをなによりも優先するという能動性によって、秩序を破壊する。二つの動きは『マゾッホ紹介』同様、小説の言語と深く結びつけられているが、バートルビー論がメルヴィルという一人の作家に着目したものであることと関連し、二人の人物がメルヴィルの「小説の新たな論理」に向けて協働する道が示唆された。

第三節ではこの「論理」について、小説の端緒となる「同一化」の過程を、父権的な「模倣」から解放的な「生成変化」へと変容させる営みとして論じた。この移行は、言葉をイメージや表象から解放し、「文体」に自律性を見出すことに帰結する。そしてメルヴィルにとって「最高次の問題」とは、二人の人物が体現する一見矛盾した二つの文体──緊張病と性急さ──を「両立」することであった。こうした帰結から、我々はドゥルーズの議論において、ユーモアが決して択一的に選択されているわけではないことに注意を促した。

メルヴィル自身は実現できなかったこの「両立」を、ドゥルーズはある種の共同体としての「アメリカ」の構想へと結びつけていく。それが文体、言い換えればエクリチュールとどのような関係にあるのかを解明することが、今後の課題となるだろう。

参考文献

(ドゥルーズ自身の記述は、ドゥルーズによる引用箇所を含め筆者が独自に訳出し、その他は邦訳にしたがった。また引用著作に引用されたドゥルーズの記述に関しては、引用者の表記にしたがった。)

 

CC : Deleuze, Gilles, Bartleby ou La Formule, in Critique et Clinique, Minuit, 1993(「バートルビー、または決まり文句」『批評と臨床』守中高明・谷昌親訳、河出文庫、2010年、146-189頁)。

PSM : Deleuze,Gelles, Présentation de Saher-Masoch le froid et le cruel, Minuit, 1967(『ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの』堀千晶訳、河出文庫、2018年)。

D : Deleuze, Gilles, Dialogues, Flammarion, 1977.

Melville, Herman, Bartleby ; THE MODERN LIBRARY of the World’s Best Books, Random House, inc, 1853(「書記バートルビー」『書記バートルビー/漂流船』牧野有通訳、光文社、2015年)。

KpV:カント『実践理性批判』熊野純彦訳、作品社、2013年。

ジグムンド・フロイト「文化の中の居心地悪さ」(『フロイト全集20』所収)嶺秀樹/高田珠樹訳、岩波書店、2011年、62-162頁。

大崎晴美「法の閾 ドゥルーズによるバートルビー」『現代思想』、2001(12)、8-28頁。

黒木秀房『ジル・ドゥルーズの哲学と芸術 ノヴァ・フィグラ』水声社、2020年。

Notes

  1. [1]

    「基礎づけ」と「承認」の二つが「古典的イメージ」におけるアイロニー/ユーモアとなる。「アイロニーとは、限りなく高次な《善》によりあえて法を基礎づけようとする思考の戯れである。一方ユーモアは、限りなくより公正な《最良》により、あえて法を承認しようとする思考の戯れである。」(PSM72/一二四)。のちに見るように、近代においては両者が法への抵抗(転倒)の動きへと変貌する。

  2. [2]

    PSM72/一二五。おそらくこの記述は、『実践理性批判』第二版における次の記述を念頭においたものである。「ここでいまや実践理性の批判にあって、その方法をめぐる逆説が説明されるべき地点へと立ちいたったことになる。逆説とはつまり、善と悪の概念が道徳法則に先だって規定されるのではなく(一見したところでは、その概念がこの法則の根底に置かれなければならないようにさえ見えるのであるが)、かえって逆にひとえに(ここでじっさいにもなされているように)、道徳法則のあとで、道徳法則をつうじて規定されなければならない、ということだ。」(KpV:V63/一六二、熊野訳)

  3. [3]

    PSM72/一二六。

  4. [4]

    実際「文化の中の居心地悪さ」においてフロイトは、「(…)有徳の人であればあるほど、良心はいよいよ厳格で疑い深くなり、挙句の果てには聖徳の極みに達した人に限って、自分のことを全く下劣な罪深い人間と責めさいなむことになる。(…)いわく、人一倍厳格で警戒心の強い良心というのは、まさに道徳的な人間の際立った特徴であり、聖人が自らを罪深いと称するのも、彼らが、衝動を満足させたいという誘惑に特に強くさらされていることを考えれば、一概に不当だとも言えない」(全集第二十巻一三八〜一三九頁。嶺、高田訳)としており、ドゥルーズの本文にはこの箇所と思われる引用がある(PSM74/一二九)。

  5. [5]

    「法の対象と欲望の対象は一体であり、同時に姿を隠すのだ。」(PSM74/一三〇)

  6. [6]

    「対象の同一性が母に関係づけられ、欲望と法の同一性そのものが父に関係づけられることをフロイトが示すとき、彼はただ法の規定された内容を復元しようとしているのではない。むしろほとんど逆に、なぜ法が、そのエディプス的な起源のせいで、必然的に自身の内容を隠さざるをえないのかということ、そしてそうすることでなぜ法が、対象と主体(母と父)への二重の断念から生ずる純粋形式として価値を持つのかを示そうとするのである。」(PSM75/一三〇)

  7. [7]

    「サディストは強力な超自我を持っており、彼がそこに同一化してしまうほどである。彼は自身の超自我であり、外部にしか自我を見出さない。ふつう超自我を道徳的なものにするのは、超自我が自身の過酷さを行使する自我の内面性と補完性である。そしてそれは母性的構成要素でもあり、この補完性を守る。しかし超自我が解き放たれ荒れ狂い、自我を追放し、それとともに母のイメージをも追放するとき、超自我の根本的な不道徳性が、サディズムと呼ばれるもののなかに姿を現すのである。」(PSM106/一八六-一八七)

  8. [8]

    PSM25-27/四〇-四二、65/一一三。

  9. [9]

    PSM27/四二-四三。

  10. [10]

    PSM108/一九一。

  11. [11]

    ibid.

  12. [12]

    「(…)マゾヒストは父との類似を、あるいはその遺産たるセクシャリティを放棄するのだが、同時に彼は父のイメージをも拒絶する。それはこのセクシャリティを統御し、超自我の原理としてはたらく抑圧的権威である。」(PSM111/一九七)。

  13. [13]

    ibid.

  14. [14]

    PSM31/五〇、49/八三-八五、81/一四一。

  15. [15]

    PSM21/三一-三二、109/一九二-一九三。

  16. [16]

    PSM28/四六、67-68/一一七-一一八。

  17. [17]

    「マゾヒストは快を感じる前に、処罰を受けなければならない。困ったことに、こうした時間的な継起が、論理的な因果関係と混同されてしまう。苦痛は快の原因ではなく、快の到来に不可欠な先行条件なのである。」(PSM78/一三六)

  18. [18]

    PSM108-109/一九二。

  19. [19]

    CC92/一五二。

  20. [20]

    CC102/一六七。

  21. [21]

    CC93/一五三。

  22. [22]

    CC89-90/一四七-一四八、CC91/一五〇。

  23. [23]

    CC92/一五二。

  24. [24]

    「話すとき、私はたんに事物や行動を示すだけでなく、私たちそれぞれの状況にしたがって、話し相手との関係を確かなものにする行為をすでに行っている。つまり私は命令し、問いかけ、約束し、頼むというように、「言語行為(speech-act)」を発しているのである。言語行為[les actes de parole]が自己言及的[auto-référentiels]である(私は実際に「あなたに…を命じます」と言いながら命令する)一方で、事実確認的な[constatives]命題は他の諸事物や他の諸々の言葉に関わっている[se réfèrent]。そしてまさに、バートルビーが荒らすのは、こうした言及-関係[références]の二重のシステムなのである。」(CC94-95/一五五-一五六)明らかにオースティンの事実確認的/行為遂行的という構図が意識されていることは言うまでもないだろう。同様の議論は『千のプラトー』にも登場し、こちらではオースティンの名が(バンヴェニスト、デュクロなどとともに)明示的に言及されている。(MP98/(上)一六八-一六九)

  25. [25]

    CC95/一五六-一五七。

  26. [26]

    CC96/一五七。ここでドゥルーズは、バートルビーをカフカの言う「《独身者》[Célibataire]」―すなわち「彼にとって地面は両足に必要な部分だけだし、支点は両手で覆える範囲で足りている」とされる人物に対応させ、彼は「瞬間を生きる」のだと述べている。また黒木はバートルビーの不定形な存在性(「形象的(フィギュラル)な存在」)に着目し、彼は「彼が放つ言葉によってのみ認識され、既存の人物像に照らしあわせようとするならば、ただちにこの言葉でもって跳ね返されるような存在」であり、「言語行為のみによって支えられる人物、さらに、言語行為によってしか支えられない人物である」としている。(黒木2020、一三九)

  27. [27]

    CC93-94/一五四-一五五。

  28. [28]

    CC101/一六六。

  29. [29]

    PSM67-68/一一七-一一八。

  30. [30]

    CC105/一七二。

  31. [31]

    CC106/一七三。

  32. [32]

    Ibid.

  33. [33]

    CC99/一六二。

  34. [34]

    CC100/一六四-一六五。

  35. [35]

    『千のプラトー』において、ドゥルーズはガタリとともに「生成変化」の文脈で「線のシステム」を論じ、そこでは「線が起源としての点から解放される」ばかりか、「斜線は座標軸としての垂直線と水平線から解放され」、「横断線もまた、点と点をつなぐ位置決定可能な結合としての斜線から解放される」と述べる(MP364/(中)二八七)。また同じ文脈で絵画を論じる際、クレーやカンディンスキー、モネに触れている。(MP365/(中)二八八)

  36. [36]

    CC107/一七五。

  37. [37]

    ibid、強調はドゥルーズ。

  38. [38]

    CC108/一七六。

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河本卓穆「小説の論理と政治──ドゥルーズの二つの文学論における法の転倒」『Phantastopia』第2号、2023年、286-298ページ、URL : https://phantastopia.com/2/the-logic-of-novels/。(2024年10月30日閲覧)

執筆者

河本卓穆
KAWAMOTO Takuyoshi

修士課程。ジル・ドゥルーズ(1925-1995)の哲学、および関連する文学作品を中心に、言語と生の問題(批評=臨床)について研究を進めている。

Phantastopia 2
掲載号
『Phantastopia』第2号
2023.03.27発行