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論文

ディトランスVSトランスジェンダーを再考する未来を不均衡に脆弱にする「正常な発達」に抗して

葛原千景

p.2691.はじめに

ディトランジショナー、性別のトランジション(移行)を止めた人たちは、いまや英語圏において、トランスジェンダー[1]への医療的身体介入の禁止や高い制限を設ける必要性を主張する際に使われる象徴となっている。例えば、医療的トランジションを後悔している原告の主張に従って、2020年12月イギリスでの通称ベル対タヴィストックの司法審査(R and A v Tavistock and Portman NHS Trust, and others [2020] EWHC 3274)は、トランスの若者たちの医療アクセスを著しく制限する判決を下した。トランスへの医療を肯定する立場とその危険性を象徴するディトランジショナーという対立構造が、顕著に打ち出されたのである。

では、ディトランジショナーとはだれなのか、どんな理由でトランジションを中止し、どんなディトランジションの道筋を辿るのだろうか。ディトランジショナーに関する研究は乏しいが、少なくともディトランジショナーは多様であり、一つの図式に収められる存在ではない。性別の中断や再移行を意味するディトランジションという行為は、医療的には、ホルモン補充の中止や外科手術による身体の再建を指し、社会的には、以前の代名詞や名前、ジェンダーの提示の仕方に戻ることを一般に指す。そして、個人がディトランジションを行う目的も様々である。以前のジェンダーに戻るための人もいれば、(声を低くする、体毛を得るなど)不可逆的な身体変化を得るために短期間ホルモンを服用した人、妊娠するために一時的にホルモンを中止した人や、何らかの事情で医療アクセスが得られなくなった人も含まれる(Hildebrand-Chupp 2020)。ディトランジショナーという言葉はアイデンティティとしての側面が強く、その内部には様々な人々が存在する。そのため、一概にディトランジショナーの女性といっても、シスジェンダー女性の一時的な気の迷いという像にのみ還元することは暴力的である。例えば、出生時に女性として割り当てられた人が性別を移行する途中で、男女という二つの排他的性別の様式に合致しないノンバイナリーや、二元的性別の構造に異を唱えるジェンダークィアという概念に出会い、自己を再定位した人もその中に含まれ、どちらかといえば男性的なスペクトラムに自己を位置づけ、日常生活で男性的なジェンダーを提示する人もいる。その一部には、自己をシスジェンダーとして位置づけなおすためではなく、そもそも社会的に性別が二つに規定され、それ以外の行き先がしばしば不可能にされているために、性別の越境という観念から距離をとり、トランスジェンダーというアイデンティティを持たない人もいる。あるいは、社会の中で受容されている規範的な女性(ウーマン)であることから距離を取りつつも、生物学的にp.270は女性であることを受け入れていることを指すためにフィーメールを使う人もいる(Stella 2016)。なお、トランス女性が諸事情でホルモンを一時的に停止するなどしても、ディトランジショナーの女性と名指すことは稀である(Kanner 2018)。つまり、ディトランジショナーという名は、行為以上に自己認識の変化に力点を持つ。こうした複雑さを避けるため、本稿は本人のアイデンティティに関わらず、医学的な性別移行の中断や再移行といったディトランジションの経験を持つ人々を名指すアンブレラタームとして、ディトランスを採用する。紙面の都合上と後述の理由から、本稿におけるディトランスやトランスという用語は、専ら過去に身体改変を行った一部の人たちを意味するが、全てのトランスやディトランスが身体への医療的介入を行うわけではないし、行うべきであるという主張をするためではない。

特に問題が指摘されているのは、ディトランスとトランスを対立構造に還元し、ディトランスの予防を求める動向である。こうした関心の下で行われる研究は、ディトランスを病理として科学的な原因を特定し、防止することを主張する。これらは、ディトランジションを医療的な失敗や本質的に危険なものとしてのみ扱い、既にディトランジションした人たちの救済[2]には繋がらないことが指摘されている(Hildebrand-Chupp 2020)。そもそも、病理として扱われてきた性別違和(Gender Dysphoria)の歴史を鑑みれば、ディトランスを病理として扱う研究はトランスジェンダーをも再び病理化する危険性がある。そして、問題を特定の化学物質や器官にのみ還元する研究は、ディトランジションを予防することを目的に謳っているが、実際にはしばしば医師のジェンダー観に基づく主観的な判断によって行われてきた「真のトランス」の選別を助長したり、トランスの人々の存在を否定したりするための根拠とされる危険があると批判されている(Hildebrand-Chupp 2020: 812)。実際に、科学的に不確かな研究を引用することで、「ディトランジショナーは出生時女性に割り当てられた人が多く、本当はジェンダー規範による抑圧がジェンダー・アイデンティティの誤認を引き起こしているだけだ」という主張や、「トランスの活動家たちのカルト的陰謀によって子供たちが性別移行にそそのかされている」といった主張(Brunskell-Evans and Moore 2018, 2019; Shrier 2020)が、説得力をもって流通している[3]。そこでは、多様な個人が自身のジェンダーや身体に折り合いをつけるために取り組んできた複雑なプロセスは、捨象されてしまうのである[4]

他方で、ディトランスの話題をタブー化することも危険である。トランスへの医療を擁護する際に、身体改変を後悔する人々は稀であるという反論だけでは、ディトランスの人たちが安全に性別移行を中止したり性別の再移行をするために必要な支援など、その人たちが負った不利益を今後どのように解消すべきかという議論が背後に追いやられてしまう。とりわけ、トランスのコミュニティでは、自身の性別違和とジェンダー規範に対する葛藤や身体改変に対する価値観の揺らぎを共有しづらいことが指摘されている一方で、反トランスコミュニティにおいては、トランスへの懐疑を扇動するという目的に合致するという限りにおいて、ディトランスは歓迎されやすく、ディトランスが反トランス活動への帰属を高める傾向が指摘されている(Urquhart 2021)。

このように、ディトランスは非常に多様であるにもかかわらず、トランスとの対立構造にのp.271み還元され、その人たちが直面する困難や解決については十分に関心が向けられていないといえる。こうした文脈を踏まえて、本稿はベル対タヴィストックの司法審査を再検討し、ディトランスとトランスという対立構造において見過ごされている問題、医療社会制度における根源的な構造に取り組む。分析の焦点は、ディトランスの後悔をめぐる議論が実際のところいかなるポリティクスによって下支えされているか、そこにはいかなる構造が存在するかを再検討することである[5]

本論文は、トランスとディトランスを対立的に還元するのではなく、クィア理論における時間論を援用することで、規範とは異なる性徴を得た両者の身体がいかに時間のポリティクスと関りを持つかに焦点をあてる。クィア理論における時間論は、人間の時間というものが異性愛再生産による未来性によって規定されることを論じてきた(Edelman 2004)。ジャック・ハルバースタム(Jack Halberstam)が指摘するように、そこでの問題は性的欲望それ自体というよりも、「規範的な時間」が制度やその基礎となる知や情動を含め、「殆ど全ての理解の様相において、人間というもののほぼ全ての定義を形作る」点にある(Halberstam 2005: 152)。そこでのクィアネスとは、人間を規定する「自然」からの逸脱であり、「間違ったことを間違った時間にやりすぎてしまう」(Kafer 2013: 35)ことといえる。つまり、「自然」な時間との「誤った」関係性という点において、一度非規範的な性徴を得たトランスとディトランスの諸身体は、類縁的な不利益を共にしうる。しかし、現在主流の議論では、性別移行を後悔しているディトランス=偽物のトランスジェンダーVS、性別移行によって困難を解消できた真のトランスジェンダーという安易な存在論的対立構造に問題が還元されてしまう。そうではなく、時間の「自然性」との関係性から問題を読み解くことで、両者にむしろ共通する医療社会制度による物質的且つ経済的な抑圧がいかなる構造によって生み出されているかを明らかにし、両者に降りかかる根源的な抑圧構造の再考を促すことが本論文の目的である。それは、未来の不確定性に対して、いかなる後悔が危険を象徴し、いかなる後悔が不問にされているか、いかなる未来が望ましく、いかなる未来が欲望に値しないものとされているのか、いかなる未来の実現に資源が割かれることで特定の未来がより脆弱にされているか、一時的であれ「自然」化された時間から逸脱した人々はどのような困難を被るのか、こうした問いを通して、未来は不確実であるという一見中立的に思える主張に潜む矛盾を探求することである。

なお、本論文は不可逆的な身体変化によって生じる時間性との関係に焦点を当てるため、議論の対象は出生時に割り当てられた性別に期待されるホルモンとは異なるホルモン(所謂クロスセックスホルモン)の補充や、胸や内外性器や骨格や声帯や体毛などの、ジェンダー化された身体的特徴や器官に対する医療的介入を行った経験を中心とし、社会的な性別移行のみを行い再び割り当てられた性別に社会的に移行し直した人や、ジェンダー・クリニックを受診するも身体的な介入を選ばなかった人に関する議論を除外する。それは、ディトランスとトランスをめぐる現在の議論が、医療アクセスの制限とその撤廃という対立図式に切り詰められているという喫緊の状況に対処するためである。また、本論文は、ディトランスをめぐる論争がより顕著な英米圏の議論にのみ依拠する。

p.272以降は、ディトランス対トランスとその医療という対立構造を再検討するために、ベル対タヴィストックの司法審査に焦点を当てる。2節では、議論の理解を深めるために司法審査の概略を説明し、3節では、ディトランスの人々の後悔が、生殖補助医療の不提供やエビデンス不足といったシスジェンダー中心の医療社会制度によって、構造的に増長されていることを論じる。4節では、ディトランスの後悔をめぐる議論が医学的根拠や同意能力に関する「中立的」懸念として展開されつつも、その根底には望ましい未来をめぐるポリティクスが存在することを指摘する。そして、そうした観念がまさに「正常」とされる身体を再生産し、持続的であれ一時的であれそこから逸脱する人々をより脆弱にしてきたことを問題提起する。ゆえに、本論文は、ディトランスとトランスの未来を不均衡に脆弱にする「正常」な発達という概念に抗し、非規範的な性徴を獲得した人々が、いかなる時点においても、新しく別の道へと進むための可能性が奪われない未来の必要性を主張する。

2.ベル対タヴィストックの司法審査

ベル対タヴィストックの司法審査の原告は、キーラ・ベル(Keira Bell)と自閉症スペクトラムで当時15歳の子供の母とされるA氏で、被告はイギリスの保険制度NHS下の未成年に対するジェンダー・クリニックであるタヴィストックと、その運営を行うポートマン・NHS・ファンデーション・トラストである。ベルは16歳の時に通称ブロッカーと呼ばれる第二次性徴遮断薬(Gonadotropin-releasing hormone agonist)を利用し、17歳でホルモン補充療法、20歳で乳房切除を受けた。ベルはそうした医療的介入を後に悔いてディトランジションの途中にあり、医師が一連の手続きの際に十分反証をしなかったと、司法審査を申し立てた。この申し立てに対する高等法院判決は、16歳以下の子どもはブロッカーの処方に裁判所に申立てをしなければならないという、ただでさえ長大な待ち時間を課すことで悪名高いイギリスのトランス医療にさらに大きな遅延を与えるものだった。しかし、2021年3月、AB対CDの判決(AB v CD & Ors [2021] EWHC 741)によって、保護者が代わって同意を行うことが認められた。そして、2021年9月、控訴院は高等法院の判決を覆し、同意能力の有無を確かめるのは法廷ではなく医療従事者であると、ベルたちの上告を却下した。

この申し立てには、ディトランスによる個人的告発を超えて、ある政治的背景の存在が指摘されている。第一に、ミシェル・スノーが指摘するように、この司法審査は反トランス活動家のスーザン・エヴァンス(Susan Evans)らによって周到に主導されたものであるほか、弁護士のポール・コンラス(Paul Conrathe)は、中絶の権利を侵害する訴訟にも関与した過去をもち、LGBT教育に反対する親たちの訴訟の代理人を務めていた(Snow 2021)。さらに、司法審査には、トランスジェンダー・トレンドや4thウェーブ・ナウといった反トランス団体が関わっていた[6]。こうした反トランス運動は、国際的に連携をしながら[7]互いの主張を引用し合うことで、根拠の正当性を装うネットワークを作り上げている。ディトランジションという象徴は、明確に特定の政治下で用いられ、トランスの人々が勝ち取ってきた医療へのアクセスの正当性を棄損するp.273ために利用されている[8]

次に、高等法院の判決の決定的な齟齬を確認する。判決を導いた根拠は以下の通りである。1.ブロッカーを利用した未成年は同意年齢に達した後に高い比率でクロスホルモンを利用している。2.それゆえに、不可逆的で生殖能力や性的機能を喪失する可能性があるクロスホルモンはブロッカーと地続きの治療である。3.ゆえに、ブロッカー処方の段階で、患者は生殖能力喪失の影響を理解する必要がある。4.しかし、16歳以下の子供が生殖能力や性的機能の変化について十分に理解することは不可能である(Bell -v- Tavistock Judgment 2020 para136-139)。一連の解釈は、ブロッカーとホルモン療法をリニアに捉えることで、論理的飛躍を導いたと言えるが、実際にはブロッカーの性質はホルモンと異なる。ブロッカーは前立腺の疾患や早発思春期症に対する治療として使用されてきた歴史があるが、性別違和のある未成年への処方は通称ダッチ・アプローチと呼ばれ、経過観察のために利用される一時的処置である。ブロッカーは第二次性徴の発現を遅らせることでストレスを抑制したり、将来の不利益を防止したりすることが目的とされ、中止すれば内因性の第二次性徴が発現する可逆的な治療である(de Vries and Cohen-Kettenis 2012)。いわば、ブロッカーは第二次性徴の発現前や、発現後にホルモンを抑制する目的で使う一時的な「時間稼ぎ」であり、乳腺の発達、変声期、体毛、骨格等の発達を一時的に留保することで将来社会に溶け込みやすくしたり、将来のトランジションにかかる負担を軽減したりする役割を果たす(Travers 2018)。また、ブロッカーは文化的にクロスホルモンへの同意が可能とされる年齢にいたるまで、望まない第二次性徴を「遅らせる」という、文化的に規定された年齢制限に対処するための側面も大きい。他方で、NHS下でのホルモン療法は、成人と同様の同意能力を持つとされる年齢になって初めて認められ、部分的に不可逆的な治療である。すなわち、ブロッカーとは性質の異なる処置である。それだけではなく、そもそもイギリスの現状では、この司法審査以前から、厳しい制限のため16歳以下の子どもたちが、ブロッカーを利用することは非常に困難にあった[9]

また、特筆すべき点は、判決が未成年の同意能力に対して異例ともいえる制限を課した点である。イギリスでは1985年のギリック判決以降、「十分な知性と能力がある」とみなされた16歳未満の子供は、親権者の同意なしで治療行為に同意する権利を持つ。しかし、判決はブロッカーやホルモンは長期的に心身に与える影響が不明瞭な実験的処置であるとし、すべての子供に対して一律の制限を設けたのである。いわば、トランスないし性別違和のある子供たちを、すべて脆弱で判断能力のない存在とみなしたのだ(Moscati 2022)。

そもそも、ベルがブロッカーを利用し、身体への不可逆的な介入を行ったのは17歳以後のことであり、ベルが成人後にディトランジションしたことと、16歳以下へのブロッカーを制限することに、本質的な関係はない。ブロッカーを制限したところで、ホルモンをはじめとする部分的に不可逆な医療行為はNHS下において、同意年齢になってから行われるため、ベルをはじめとするディトランスたちの後悔を防ぐことには直接的に関わりがない。また、上述した治療の正当性をめぐる議論はすべて、国際的な潮流や、複数の研究結果によって否定されている(de Vries et al. 2021)。それにもかかわらず、ディトランスの後悔がトランス医療を危険なものとしp.274て位置づける象徴として有効に機能したのである。では、高等法院判決において、こうした後悔の訴えはいかに働いたのだろうか。

3.未来を不均衡に脆弱にする構造

本節では、司法審査で象徴的に機能したディトランスの後悔を再検討し、より構造的な問題に取り組む。とりわけ、ベルによって示された生殖能力に関する後悔を再考する。ディトランスの後悔は、性別移行のリスクを強調するものとして機能した。ベルの語りは、一見したところ将来において生殖能力といかなる関係性を結ぶかという、誰にとっても不確実な問題をめぐる葛藤のように読み取れる。

テストステロンを始める前、子供が欲しいかどうか、トランジションによって不妊になる可能性があるので卵子を凍結したいか尋ねられた。10代だったため、私には子供をもつことが想像出来なかったし、卵子凍結はNHSの保険適用とされていなかった。私は子供が出来なくても大丈夫、卵子を凍結する必要はないと言った。けれど、大人になった今は、あの時不妊が含意するものを本当に理解していなかったとわかる。子供を持つことは基本的な権利だ。そして、それが私から奪われたのかどうかはわからない(Bell 2021)。

生殖能力の有無が曖昧であるのは、ベルが性腺摘出等を行っておらず、テストステロンの補充を中止したディトランスが、妊娠能力をどの程度機能させるかは医学的に十分検討されていないからである[10]。しかし、WPATH(世界トランスジェンダー・ヘルス専門協会)によるSOC(トランスセクシュアル、トランスジェンダー、ジェンダーに非同調な人々のためのケア基準)でも記述されているように(Coleman et al. 2012)、ホルモン療法のような妊娠能力に影響を及ぼしうる処置を受ける際、自身の生殖能力の喪失の可能性に対する同意が求められる。つまり、ベルはそれに同意したうえで、自身の決断が誤りであったと当時17歳だった自身の判断能力を疑問に付しているのである。それと同時に、その判断が当時ベルの生存のために切実であったことも語られている(Bell 2021)。にもかかわらず、こうした語りはいかにトランス医療が実験的で悲劇をもたらすかという議論にのみ上滑りしてしまったのである。

しかし、こうした生殖能力をめぐる問題は、トランス医療による本質的な帰結というより、クロスホルモン療法を利用する人たちが生殖補助医療制度を利用できないことによって増長されている。16歳の時にベルが配偶子の凍結を選択できていたとすれば、この後悔は幾分異なっていただろう。そして、この医療の不提供は、ディトランスのみならず、まさにトランスの人々をも苦しめ続けてきた問題である。医療的な身体介入のプロセスで生殖能力を失うことのあるトランスにとって、生殖補助技術の利用は将来妊娠を望むかもしれないという不安の軽減に重要であるものの、多くの場合保険福祉制度では保証されず、経済的にアクセシブルではない。p.275科学療法などの影響で不妊化の可能性がある患者に対して、治療費がNHSによってカバーされることがある一方、性別移行に関わる不妊は補助の対象とされていない(Faye 2021: 113)。こうした選民的な生殖補助技術の不提供こそが、ディトランスの後悔をより増長する要因の一つになっている。にもかかわらず、司法審査では「生殖能力を喪失することの意味を子供が十分に理解できるか」のみが問われ、問題の本質であるはずの「なぜ生殖補助技術が保険適用で利用できなかったのか」という問いには至らなかった。「子供を持つことが基本な権利」とみなされているにもかかわらず、トランスやディトランスをはじめ生殖に関わる器官への介入を非規範的な形で求める人々は、その選択と引き換えに将来生殖の可能性を断念することがあたかも当然のこととして扱われているのである。

性別移行という非規範的な時間を帯びた人々が直面する問題は、生殖補助医療の不提供のみならず、より広範にトランスやディトランスに関する長期的な医療研究の不足に及ぶ。ホルモンや外科的介入などトランスが生存のために必要としうる処置は、医療者のジェンダーバイアスによって長年制限されてきた。それゆえに、身体的介入を必要とする諸個人のオートノミーを第一に尊重することが、トランスの権利を求めるうえで、非常に重要であると再考されている(Pearce 2018)。その倫理に基づいて、利用できる選択肢と長期的なリスク等の専門的な知識が適切に提供され、合意と選択がなされなくてはならない。こうした医療のあり方は、インフォームド・コンセント・モデルと呼ばれる。このように、ジェンダー化された器官に対して非規範的な介入を行う諸個人が、父権的な医療従事者ではなく、自己の文脈を加味し自らにとっての最善の決断をするための体制づくりが急務となっている。

しかし、こうした倫理さえもトランスやディトランスの人々にとっては平等に機能しないという不平等な現状が存在する。ステフ・シャスター(Stef Shuster)が指摘するように、インフォームド・コンセントを取り交そうにも、そもそもトランスやクロスホルモンをしている人々に対する長期的な研究が乏しいという致命的な問題がある(Shuster 2019)。インフォームド・コンセントをしようにも、そもそもインフォームする情報が不足するなかで医療従事者は判断を求められているのだ。例えば、ディトランジショナーとして活動するキャリー・マリア・カット・カラハン(Carey Maria Catt Callahan)は、トランスフェミニンの乳がんリスクや、トランスマスキュリンの子宮体がんや卵巣がんのリスクについて、長期的に取り組まれた研究が不足していることを批判している(Callahan 2018: 173)。特定の未来を選択するための資源は不均衡に分配され、同意に必要な情報を得たり、将来のリスクを軽減することがより困難となっているのだ。また、情報に関する権威を持つ医療従事者と利用者という構造自体に、権力の不均衡が存在する。それゆえに、単にインフォームド・コンセントを遵守するだけでは、ジェンダー化された器官に対して周縁化された形で介入を行う諸個人の権利を平等に保証できるとは言えない。

それだけではなく、シャスターは、エビデンスに基づいた医療というモデル自体が、周縁化された人々に対する医療の制限を強化する権威として機能する危険性を指摘する。80年代以降、「根拠に基づく医療」の高まりに従って、医療は科学的根拠をより重視するようになったものの、トランスのように周縁化された人々にとって、「根拠」は必ずしも平等に依拠できるものとは限p.276らないからである。とりわけ、臨床研究よりもエビデンスが高く価値づけられるランダム化比較試験の実施が人口的に少ないトランスにとって非常に困難であることや、性別移行を望む個人に対してプラセボ群を設けること等の倫理的な問題から、実際の意思決定に利用できる「根拠」が乏しいことをシャスターは問題にする。それゆえに、医療従事者の多くは、シスジェンダーの身体を基にしたデータをトランスへのリスクとして読み替えざるを得ないことが多い。科学的な「根拠」とされるものは常にシスジェンダーを中心としているのだ(Shuster 2021)。このようにして展開される「エビデンス」とは決して「中立的」なものではなく、「だれが根拠の定義をコントロールする権力を持つのか、だれが根拠とみなされる資料を定義するのか、どの手法が最も素晴らしく根拠があるとだれが決めるのか、だれのクライテリアやスタンダードが証拠の質を評価するときに使われるのか」(Denzin 2009: 42)という再考が必要である。

上述してきたように、ベルの後悔によって象徴化されたトランス医療の危険性は、むしろ、医療の構造によって増長されていると言える。問題は資源の乏しさだけではなく、こうした未来の不確実性や科学的根拠それ自体が、時間をめぐる大きなポリティクスの下で展開されていることである。すなわち、だれかのリスクが無視される一方で、なにがリスクとして聞き取られのか、どんな将来の危険性が強調され、どんな将来がそもそも前提から除外されているのか、これらは全て「正しい」身体観に支えられた構造によって助長されるものである。トランジションに伴う不確実なリスクや、変化した身体性への後悔は、トランス医療の内側で自然に発生した本質的問題というより、不均衡に配分される医療資源によって人工的に高められた脆弱性であることを認識しなければならない。

4.「正しい」発達をめぐるポリティクス

身体介入に伴う将来の不確実性と後悔をめぐる論争は、それ自体「正しい発達」という時間のポリティクスのもとで展開されている。本節では、判決において重視された議論が、諸個人の将来の危険性を防ぐことよりもむしろ、いかに「正しい発達」を守ることに力点を置いていたか論じる。

高等法院での判決を導いた重要な議論の一つは、ブロッカーが仮に可逆的であったとしても、子供たちは「いかなる長さであれ、思春期における正常な生物学的、心理学的、社会的経験をする時期を損なうこととなり、そうした失われた思春期の発達や経験を完全に「巻き戻し」、取り戻すことは決して出来ない」ということである(Bell -v- Tavistock Judgment 2020: para65)。ここでは、ブロッカーへの同意能力の争点であった医学的根拠を留保し、規範的時間が失われることを危険性として提示している。そして、「身体的であれ精神的であれ、ブロッカーの使用は、子供の時間を静止させる中立的なプロセスではない。ブロッカーは子供が生物学的に正常なプロセスで二次性徴を経験することを妨げる。(…)そのことは、個人のアイデンティティの理解に影響を与えうるものである。」と結論付けられている(Bell -v- Tavistock Judgment 2020: para137)。すなわち、ブロッカーを利用することによって、子供が「正常な」発達を経験しないこと自体p.277への懸念が示されていたのである。

しかし、ここで依拠される「正常」や「中立的」という概念は、いかなる知に支えられているのだろうか。知の形成とは科学者の価値観が滲出するある種の認識論であると論じたダナ・ハラウェイ(Donna Haraway)の指摘を基に(Haraway 1988)、フローレンス・アシュリー(Florence Ashley)は、科学的中立性に依拠したイデオロギー論争がもたらす認識論的暴力を批判する(Ashley 2019)。つまり、判決で論じられる「中立性」や「正常な発達」という概念自体、科学という権威をまとった認識論によるものである。こうした「中立性」の暴力性は、判決において完全に無視されたトランスの子どもたちの語りから伺うことができる。司法審査で証人喚問されたトランスの若者たちは、「生物学的に正常な」二次性徴を経験することによる害を強く主張した。にもかかわらず、トランスの若者たちの主体性は棄却されてしまったのだ。例えば、17歳の時にブロッカーを処方されたあるトランス女性は、自身の状況について考えるための猶予が必要であり、第二次性徴の恐怖に怯えずに自身のジェンダー・アイデンティティについて集中する時間を得られたと語った(Bell-v-Tavistock Judgment 2020: para88)。別のトランス男性は、子供を持つかどうかという将来のことはわからなかったものの、そもそも治療なくして未来などないのだという切迫した状況の中で決断を下したと主張した。そればかりか、胸部の再建による経済的・身体的負荷を軽減するために、二次性徴以前にブロッカーを始めることが出来たらよかったと想起している(Bell-v-Tavistock Judgment 2020: para86)。これらの語りからは、トランスの子供たちは逆境の中で自己にとって望ましくない未来に若年から対処せねばないこと、こうした切迫性と将来性別移行を後悔する可能性と天秤にかけることが暴力的であること、が伺える。あらゆる子供たちにとって、「正常な」第二次性徴は、医療的介入によって得られる外因性のホルモンによるものかもしれず、内因性のホルモンによって引き起こされる二次性徴は「誤り」となりうる。しかし、判決は医療的介入を経験しない二次性徴のみを「正常」とし、そこからの逸脱が、ある人々にとっては正当でありうることを無視してしまうのである[11]。そればかりか、クロスホルモンに対する同意年齢の制限によって、英国のトランスの子どもたちは、思春期を「一時停止」させることしか許されない。切望しようとも、トランスの子供たちは、周囲が思春期を迎える「正常な」年齢や速度で思春期を経験することを許されず、「遅れ」をとることを余儀なくされている。しかし、周囲と同じ速度で思春期を迎えることが出来ず、長期間将来の不安にさらされ続ける苦悩[12]や、それによる不利益の経験は決して聞かれないのだ。

さらに、「正常性」に潜む文化的偶発性は、高等法院の判決における同意能力という設定自体への再考を促す。私たちは何に同意を求め、何に対する同意を不問にするのだろうか。すなわち、ブロッカーへの同意能力という問題設定自体、「内因性の第二次性徴が若者にとって非同意のものであり、十全に理解することが同じく困難であるということを考慮していない」(Ashley 2020b)という決定的な事実をどのように考えるべきだろう。子供がトランスとして将来生きるかどうか、より正しくは外因性のホルモンに基づく第二次性徴に満足するかどうかは、決してわからない。それと同様に、子供が将来もシスジェンダーとして生きるかどうか、内因性のホルモンに基づく二次性徴に満足するかどうかはわからない。そして、これらの決断が人生の内p.278でいかに変わるかは誰も予測できない。にもかかわらず、「正常な発達」とみなされた性徴には同意が課されることはない。仮にブロッカーを利用するために生殖能力の喪失に関する理解が求められるとすれば、内因性のホルモンによる第二次性徴発現前に、将来そうした性質の一部が、ある種疾患と同程度の重篤さで、個人の生活を阻害する要因へと転じる危険性があることへの同意が、なぜ求められないのだろうか。ブロッカーを利用することが「中立的」でないとするならば、ブロッカーを利用しないこともまた、決して「中立的」とはいえない。しかし、同じ価値と不確実性を持つはずの未来は、「中立」を装った規範的観念によって否定されてしまう[13]。こうした観念は、一つの文化的価値判断であることに留まらず、「中立的で正常な」身体それ自体を人為的に再生産することを促しているともいえる[14]。このように、ディトランスを予防するという名目の背後には、規範的な発達をめぐる時間のポリティクスが潜んでいるのだ。

ここでさらに、後悔が未来において起きることに着目し、個人の性を首尾一貫したものとしてのみ捉える時間理解の問題に取り組む。身体改変を求める人の未来に疑いがかけられるとき、その人が現在経験し訴えている切迫性は、しばしば否定されてしまう。ディトランスの物語は、本来であれば「正しく」発達できた未来が、トランスジェンダーの陰謀によって奪われたという文脈に置かれやすい。このとき、ディトランスの人が過去に経験した性別や身体への違和感は、なかったことにされる。上述したベルの語りからも分かるように、ディトランスの人々は、過去に何らかの形で規範的な性別やジェンダー化された身体からの疎外を感じ、それぞれの切迫性から身体への介入を決断した人々である。にもかかわらず、トランスとディトランスを対立的に捉える構造は、紆余曲折した両者の人生を総体化した時間の中でしか捉えず、出生時から首尾一貫して割り当てとは異なる性別1に帰属するトランスジェンダーと、誤って性別1に移行したものの実は首尾一貫して性別2に帰属するディトランスという永続的な時間理解に還元してしまう。しかし、アイデンティティの永続性という不確実な未来によって、現在の切迫性を否定するのではなく、性別1やそれに規範的な身体性を求めて移行した人が、人生の途中で(必ずしも二つではない)別の性別や身体性を求め生きることがあるという時間理解や、それを可能にする制度を保証するべきであると、主張することは可能である。それは特定の未来を脆弱にする現在の構造を改善すること、すなわち、構造的に周縁化されたトランスに対する医療制度を改善すること、トランスの人々の経験に基づいた研究を実施しリスクを適切に共有すること、アイデンティティの揺らぎを否定されることなく非強制的なカウンセリングを受けられるようにすること、と何ら乖離するものではない。この立場において、ディトランスとトランスは対立する存在というより、重層的な時間の中で「正しい」とされる発達との折り合いを探す、ある種の片割れである。両者のジェンダー・アイデンティティは、時にその身体性によって他者から否定され、医療社会制度から周縁化される。だからこそ、帰属する性別や求める身体性が永続的であれ、変わりゆくものであれ、その変化が人生のいかなるタイミングであれ、規範的時間からの逸脱、あるいは逸脱の痕跡を示す身体と共に生きる人々の未来の可能性を切り詰める「正常な発達」に、私たちは共に抗わなければならない。

ここまで説明してきたように、発達をめぐるポリティクスは、どのような身体や未来が欲望p.279に値し、根絶されるべきかという文化的理解に基づいている。クィア理論家イヴ・コゾフスキー・セジウィックは、「あなたの子供を同性愛者に育てる方法」という有名な論考の中で、未来に同性愛者が存在しないことを支持する文化的観念が支配的である一方で、同性愛者の存在を望ましく促進すべきものとする制度がいかに乏しいかを問題にした(Sedgwick 1991)。トランス研究者ジュールズ・ジル=ピータソン(Jules Gill-Peterson)は、こうした問いかけが、トランスジェンダーへの医療やアイデンティティに懐疑が高まる現在、再び重要であると論じる。そして、「私たちがまず学ぶべきことは、(…)トランスの子供たちがそのままでいてほしいと望むこと、トランスとして育つこと、トランスの子供時代を生きることは、単に可能であるだけでなく、幸福で望ましいものであるということである。そして、私たちはこの欲望を今生み出さなければならない。未来ではなく」と呼びかける(Gill-Peterson 2018: 207)。こうした批判的議論の中に、「正常」な性徴という規範的時間から逸脱したディトランスの人々の困難と回復が包摂されるべきであると、私は主張する。トランスとディトランスは、不均衡に分配される医学的知のあり方や、社会制度における不利益を被る。そして、両者の未来は「正常な発達」の外部に置かれることで、より不確実でリスクの多いものにされている。しかし、いかに「誤った」道を過去に行こうとも、ディトランスが新しく別の道へと進むための可能性が奪われない未来こそが今こそ必要なのだ。

おわりに

ディトランスは、英語圏における反トランスジェンダーの象徴の一つとなってしまった。しかし、ディトランスたちは、シスジェンダー中心の医療制度における生殖補助医療の不提供やエビデンス不足といった、構造的抑圧をトランスたちと共に経験しうる。ベル対タヴィストックの司法審査の判決に見られたように、こうした不利益は、「正しい」発達とは異なるあり方を本質的に否定的なものと位置付ける観念によって下支えされている。それに対して私たちが問うべきは、いかなる「自然」や「中立性」が不問にされ、物理的に作り出されているか、「正常」からの逸脱によって、いかなる未来がどのように脆弱にされているかである。また、トランスとディトランスの対立構造は、それぞれの過去や現在の切迫性の中で紆余曲折しながら選び取られる人生の時間を総体化してしまう。そうではなく、トランスとディトランスという対立を超えて、あらゆる人が自己の性と身体を十全に生きるための手立て、過去にいかなる選択をして身体に不可逆な歴史性を帯びようとも、それによって被る不利益を軽減し、望ましい生き方を再建するための手立てを可能にするための議論が必要である。そのためには、医療的な性別移行を経験した人々の経験に基づいて、リスクを軽減するための研究が更に必要である。なお、日本ではディトランスや子どもの性別移行に対する扇動的な言説は大きく顕在化していないが、トランスに対する差別の手法が国際的に循環している状況を鑑みると、今後より深い注視が必要である。最後に、本文の校正に協力してくれたさいとう・まの氏に謝辞を述べる。

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Notes

  1. [1]

    本論文では、トランスジェンダーという用語を、20世紀以後の近代西洋社会やその影響を受けた文化圏において、出生時に割り当てられた性別への帰属を拒否する人や、別の帰属先を持つ人、当人の帰属意識に関わらず出生時に割り当てられた性別から別の性別へと持続的かどうかに関わらず越境する人を表すアンブレラタームとして使う。当人の帰属意識や持続性を問わない理由は、パートタイムでの異性装者など出生時に割り当てられた性別への帰属をしばしば維持することがある人を含めるためである。その中でも、バイナリーのジェンダー・アイデンティティを表明している人々をトランス女性やトランス男性と表記する。バイナリーのトランス、ノンバイナリーで女性性や男性性のスペクトラムに帰属する人々、ジェンダー・プレゼンテーションの位相で女性性や男性性を提示する人々、を包括する用語としてトランスフェミニン、トランスマスキュリンを使う。なお、ノンバイナリーは男女という二つの排他的性別の様式に合致しないひとたちを表すが、この人たちも、割り当てられた性別を生きないという点で、広義のトランスジェンダーに含まれる。しかし、社会では性別が排他的二つに規定され、それ以外の行き先がしばしば不可能にされているために、性別の越境という観念から距離をとり、トランスジェンダーというアイデンティティを持たない人もいることに留意が必要である。また、シスジェンダーやシスという言葉は、コヤマエミの定義に従い、その語がしばしば意味する割り当てられた性別に合致して生きることのできる人々のみならず、実生活や社会制度上トランスフォビアを継続的に受けないひとたちを指す用語として扱う(Koyama 2013)。

  2. [2]

    例えば、ネット上で必要性が訴えられたのは、ディトランスの予防よりも、むしろ安全にテストステロンを中止する方法、フィットする服装、代名詞を疑われないこと、ピアサポート、トランスコミュニティが安全であること、普遍的なヘルスケアやセラピーや手術が無料で受けられアクセシブルであること、学生ローンの免除といった経済的困窮への手立て等であった(Freack 2019)。

  3. [3]

    その顕著な例として、ラピッド・オンセット・ジェンダー・ディスフォリア(ROGD)という偽科学概念が存在する。フローレンス・アシュリー(Florence Ashley)によれば、このROGDとは、トランスの活動家やインターネット等による社会的な汚染、幼少期のトラウマによって脳細胞が傷つけられたこと等を病因として、女子に割り当てられた子供たちが、前触れなく自分をトランスジェンダーだと思い込んでしまうといった概念である。これは、トランスジェンダーを再病理化するとともに、トランスの子供たちの語りを単なる誤解として否定し、コンヴァージョン・セラピーに導くための悪名高い概念である。なお、アシュリーが指摘するように、トランスに対する社会的偏見等によって受診できなかった潜在的人口を加味すると、実質的な受診人口は変わっていないばかりか、この概念を提唱しているリサ・リットマン(Lisa Littman)の研究は、トランスの子供ではなく保護者を主たる対象として実施し、トランスジェンダーに敵対的なウェブサイトから集めたサンプルを用いている。また、トランスの人々が性暴力にあいやすいことや、社会的な抑圧や性別違和によってメンタルヘルスが損なわれやすいことを、ROGDをもたらした原因として混同している点、調査結果のパーセンテージを操作している点など、多くの点で科学的な信憑性が否定されている(Ashley 2020a)。にもかかわらず、こうした研究は保守的な団体によって、「科学的」根拠として利用されている。

  4. [4]

    例えば、ディトランス当事者の語りには、テストステロンの服用によって過去に獲得した低い声や髭に例示されるような特徴が、女性と結びつけられる身体性と乖離することで、自己のジェンダー・アイデンティティが他者に否定されることに葛藤しつつ、自己の身体と折り合いをつけようとする様子が克明に記述されている(Detrans Voices 2021; Detransitioned dyke 2021; Callahan 2018)。

  5. [5]

    ディトランスの人々への個別具体的なニーズに関する研究については、Vandenbussche(2021)を参照のこと。

  6. [6]

    トランスジェンダー・トレンドは、ステファニー・デイヴィス=アライ(Stephanie Davis-Arai)によって2015年に創設され、トランスの子供たちは過激なトランス活動家による洗脳の結果だと発信する団体である。4thウェーブ・ナウは、科学的な響きを持つ用語を使いながらも不正確な研究手法によって子供たちの性別違和を否定するリサ・リットマン(Lisa Littman)の論文などをイギリスに紹介した(Ashley 2020a: 779-780)。

  7. [7]

    こうした動向は、トランスジェンダーの陰謀論に曝される「子ども」というイメージを、政治的道具として先鋭化する国際的なバックラッシュにも位置づけられる。アメリカでは、「ヴァルナブル・チャイルド・プロテクション・アクト」として知られるサウスダコタ州のHB1057に見られるように、伝統的に反同性愛の標語として使われてきた「子どもを守れ」という標語は、今やトランスに攻撃対象を変えている。このクリシェはヨーロッパやラテン・アメリカにも展開しており、そこでも「ジェンダー・イデオロギー」から「子どもたちを守れ」といった思想が共有されている(Sadjadi 2020)。

  8. [8]

    例えば、この司法審査を受けて、2022年2月にスウェーデンの保健福祉庁は、トランスの子供へのブロッカーとホルモンの処方を例外的にのみ認めるというガイドラインを発表した。このガイドラインは医師個人の臨床上の判断を法的に制限するものではないが、大きな影響力を持つ(Milton 2022)。また、トランスの子供たちにとって医療的身体介入がメンタルヘルスや希死念慮の緩和といった命に関わる措置となりうること示した研究(e.g., Mahfouda et  al. 2019)を無視し、科学的根拠の乏しい研究を引用している、といった問題がある。また、2022年2月にテキサス州では未成年へのクロスホルモンやブロッカーといった処置を「児童虐待」として取り締まる法案が提出され、その根拠にベル対タヴィストックの議論が引用されている。こうしたトランス医療への攻撃は、全米で激化している(Walch et al. 2021)。

  9. [9]

    タヴィストックは足早に子供たちへの医療的介入をしているという原告の主張とは裏腹に、長すぎる待ち時間と現行の旧態依然とした診断モデルは、むしろ子供たちを苦しめる要因である。ブロッカー処方のために、子供たちはかかりつけ医(GP)からジェンダー・クリニックへ紹介してもらい、その約1年後にようやく初診の順番がやってくる。そこから更に2回の診察が必要であるため、合計3年程度の待ち時間を要する(Faye 2021)。たらい回しにされる診療プロセスの中で、繰り返し全く見知らぬ他者に自己の開示を求められることによる心理的な負担も見過ごしてはいけない。

  10. [10]

    多くはないが、テストステロン服用経験のある人の妊娠・出産に関する研究は実施されている。そこでは、トランス男性、トランスマスキュリン、ノンバイナリーの妊娠・出産や、トランスマスキュリン、ノンバイナリー、シスジェンダーのレズビアンらとトランスフェミニンの人とカップルの妊娠は存在してきたものの、バイナリ・シスジェンダー中心の医療において不可視化・周縁化されてきたことが指摘されている(Riggs, Pfeffer, Pearce, Hines, White 2020)。

  11. [11]

    なお、生殖能力が十分に発達する以前にブロッカーを利用し、クロスホルモンをした場合、その後のディトランジションによって生殖能力を獲得できるかは科学的根拠に乏しく、ここにもトランスジェンダー医療に対する研究の不均衡が存在する。また、(思春期前後ホルモン療法の影響であれ、内因性のホルモンによっても生じる個人差であれ)外性器が性器の再建に必要なサイズに満たないトランスフェミニンの人は、術式の選択肢が制限される可能性がある。しかし、現在既に多くのトランスジェンダーがホルモン補充や外科手術によって得られる側面と失われる側面を多角的に考慮し、それぞれがより重要だと判断した選択を行っていることを忘れてはならない。そのため、ある人には性器以外の特徴が最も重要となりうるという事実を捨象し、生殖能力や性的機能だけを万人に最も重大な要素であると仮定することも危険である。

  12. [12]

    例えば、(Moscatello 2022)を参照。

  13. [13]

    また、ブロッカー治療の性質は、一般的に長期的で複雑な治療を行う場合に、患者が不確実な未来を想像しながら選択を行うことと変わらないという反論があったものの、直接身体的な兆候が見られない性別違和に対して、身体的な影響を与える治療を行うことは、通常の医療措置とは完全に異なるという論理的に疑わしい判断がなされた(Bell-v-Tavistock Judgment 2020: para86)。

  14. [14]

    構成上の脱線を避けるため、本文では深く記述しないが、多くのトランスジェンダー研究者や性分化疾患の研究者が指摘するように、特定の身体的発達を「自然」として維持するために、人々の身体は文字通りの人工的介入を受けてきた。例えば、性的「倒錯」とされた人々を「正常」に導くための虐待的な医療措置や、優生思想に基づき生殖能力を持つべきではないとされた人々の生殖能力への介入が、歴史的に正当化された(Honkasalo 2016, 2020)。性分化疾患の人々に対する身体介入は、時に本人の意思を無視して、「自然」化された身体性を維持するために行われてきた(Germon  2009)。また、トランスの人々が求める胸部の再建が保健福祉制度の中で周縁化される一方、例えば所謂女性化乳房として知られるシス男性の乳腺発達への介入は正当な処置とされる偏りが存在する(Hall 2009)。なお、ここでの批判は、諸個人にとって望ましい身体を求めることではなく、非規範的な身体に対する不均衡な抑圧に向けられたものである。このように、「自然な身体」は、人工的に介入することによって積極的に維持され、相応しいとみなされた人にだけ与えられてきた。

この記事を引用する

葛原千景「ディトランスVSトランスジェンダーを再考する──未来を不均衡に脆弱にする「正常な発達」に抗して」『Phantastopia』第2号、2023年、268-285ページ、URL : https://phantastopia.com/2/rethinking-detrans/。(2024年04月25日閲覧)

執筆者

葛原千景
KUZUHARA Chikage

博士課程。健常性や生殖/再生産を中心とするシスジェンダー規範に基づく時間と、他方から他方への一回限りのジェンダー移行という規範的時間、どちらにも与しないトランスジェンダーの時間について研究しています。

https://researchmap.jp/c-kuzuhara

英語要旨

Rethinking detrans VS transgender

Mitigating precarious futures under “normal” development.

KUZUHARA Chikage

Individuals who have detransitioned have become central figures in questioning the legitimacy of gender-affirming medical care for transgender people and in discussing the limiting of medical interventions for transgender youth in the UK. However, these discussions only scratch the surface of the complexities involved in detransitioning. While there is little academic research on detransitioning, the case of Bell and another v The Tavistock and Portman NHS Foundation Trust in the UK illustrates some of the complexities involved in it. In this case, Keira Bell, a person who destransitioned, claimed that children and adolescents under the age of 18 were not capable of providing informed consent to be prescribed puberty blockers (PBs). Her beliefs were based on her regret at having transitioned.

This paper examines the debate over medical consent for transgender youth from the perspective of queer temporalities and argues that Bell v Tavistock did not seem concerned about the risks of detransitioning itself, but instead focused on cisnormative development. According to the trial, PBs deprive children of “normal biological, psychological and social experience” (Bell v Tavistock Judgment 2020, par 65). The judgment subordinated transgender puberty to cisgender puberty. This paper suggests that rather than viewing detransitioning and transgender as two opposite extremes, we should conceptualize them as equally but differently marginalized by the idea of a single “normal” development. Both detrans and transgender people have precarious futures and are often excluded from medical and social structures. In order to resist this structural oppression, alternative futures beyond cisnormativity need to be envisioned. Creating new venues to support gender-variant people and reducing systemic marginalization (e.g., through greater accessibility of assisted reproductive technologies and reducing reporting bias in evidence-based medicine) could be ways to mitigate the often-highlighted risks of transition and detransition.

Phantastopia 2
掲載号
『Phantastopia』第2号
2023.03.27発行