p.230はじめに
1968年5月3日、ナンテール分校の閉鎖に抗議するためソルボンヌで催された学生集会に警官隊が介入し、カルティエ・ラタンでは両者の間で大規模な衝突が生じる。5月6日にはフランス全学連と全国高等教育職員組合がともに無期限ストライキを宣言し、翌日から9日にかけてはおよそ30,000から60,000人におよぶ学生デモが決行された。その後、いわゆる「バリケードの夜」を経てフランス全土にはゼネストが拡大してゆくこととなる。ところで、ソルボンヌでは学生集会が開かれ、オデオン座がデモ隊に占拠されていたまさにそのとき、ブリュノ・リブ率いる雑誌『エチュード』の編集委員会の面々はムッシュー街15番地に集い、事態に関して連日に亘り議論を交わしていた。このうちの一人、ミシェル・ド・セルトーは[1]、翌月初旬に公刊された『エチュード』6月-7月号に一本の論考を寄せているが、その冒頭に置かれた以下のパッセージは5月を象徴する一文として人口に膾炙することとなる──「先の5月に人々は、1789年にバスティーユ監獄を奪取したように、パロールを奪取した」[2]。
簡にして要を得たこの定式は、〈68年5月〉[3]に関するセルトーの認識を端的に告げるものとみなされているが、その主張をどのように理解すべきだろうか。たしかに、6月初旬に発表されたこの論考のなかには、セルトーが学生や労働者に紛れもないシンパシーを寄せ、事態を肯定的に受けとめていたことが読み取れる叙述が見出される。
わたしたちのもとで何かが生じた。わたしたちのうちで、何かが動きはじめたのである。かつて聞かれたことのない声〔voix jamais entendues〕が、どことも知れぬ場所から湧き上がり、突如として通りや工場を満たし、わたしたちの間をめぐり、わたしたちのものとなったが、それはわたしたちの孤独の息苦しい物音であることをやめた。そうした声が、わたしたちを変えたのである。少なくとも、わたしたちはそうした感覚を抱いていた。前代未聞の事態が生じた──わたしたちは話し始めた〔nous nous sommes mis à parler〕のである。それは初めてのことであるかのように思われた。それまで語られることのなかった経験の、眠っていた、あるいは黙していた宝が続々と現れてきたのだった。[4]
「わたしたちのうちで、何かが動きはじめた」──一人称複数形を繰り返し用いながら、セルトーは、自分自身の位置をデモ参加者や抗議者のそれに重ねつつ、当時感じられた驚きや新鮮さを率直に表明している。この論考のなかでセルトーが注意を促しているのは、民主主義の直p.231接的経験や現代社会への批判的思考、自主管理といった係争点ではなく、「もっと単純で、もっとラディカルな何か〔quelque chose de plus simple et de plus radical〕」である。それは「ひとつのポジティヴな事実〔un fait positif〕」あるいは「創造的な経験〔expérience créatrice〕」とも言われる[5]。それこそ、「パロールの奪取」と呼ばれる経験にほかならない。セルトーにとって5月の出来事は、受動的な立場を各人に強いる現代文化の根底的な問い直しであり、そのような文化を暗々裏に支えている既存の言語活動そのものに対しての異議申し立てであった。そこで、セルトーが5月に生じた事態の核心を言語に、「パロール」に求めているという点にあらためて注目してみよう。引用文において名状されているように、たしかに「話し始めた」のは「わたしたち」なのであるが、「声」の湧出それ自体は「わたしたち」とは独立にとらえられてもいる。「話す」ということ、それはほかならぬ「わたし」が話者の位置を占める主体的行為であるが、声が「どことも知れぬ場所から湧き上がる」事態でもある。以上から理解されるのは、上に挙げた一節においてセルトーは、純粋な主体性の発露というよりも、むしろ主体がそこに巻き込まれてしまう出来事として(「そうした声がわたしたちを変えた」)〈68年5月〉の「パロール」を捉えている、ということである。ただし、パロールという言語行為を出来事として、言い換えれば主体性と受動性とが一体になったものとして理解する視座は、後年の神秘主義論において具体的に展開されるものである[6]。〈68年5月〉の直後のテクストでは、出来事の次元と言語のそれとが一旦切り分けられた上で、両者の関係がキリスト教のもっとも根源的なレベルに位置づけられている。
本稿の目的は、出来事についての思考を起点にする言語論をセルトーのテクストのなかに跡づけ、そこで問われている根本問題を浮き彫りにすることにある。その検討作業は、〈68年5月〉にセルトーが見出した思想的な課題が、霊性史研究や神秘主義論においてどのように引き継がれ、具体的に展開していったのかを解明することにも寄与するだろう。
大まかな見通しを立てておくならば、およそ60年代末から70年代初頭までの時期にセルトーが取り組んでいたのは、キリスト教の実践を原理的なレベルで問い直すことであった[7]。これに対して、とりわけ70年代から晩年に至るまでに展開された霊性(史)論、神秘主義(la mystique)論は、その具体的なケース検討に相当するといえる[8]。〈原理〉からその〈具体化〉へ──もちろん、このようなパースペクティブは図式的なものであり、「具体化」は理論的なレベルでの深化をつねに伴うため、以上の見立てによってセルトーの思考の全体が汲み尽くされるわけではけっしてない[9]。とはいえ少なくとも、セルトーの思考の道筋を究明するために有効な仮説とはなりうるだろう。本稿は、まず〈原理〉に関する思索のほうに焦点を当て、〈68年5月〉以後から70年代初頭までのテクストを中心に取り上げる。以下では、『パロールの奪取』を起点とし、そこで示唆される出来事-言語論がのちのキリスト教論へと流れ込んでゆき、独自の主張として形成されてゆく過程を明らかにする。
p.232I. 見出された不均衡──出来事と言語の間で
本節では、『パロールの奪取』を取り上げながら、〈68年5月〉に対するセルトーのポジションを確認することで、次節以降の検討の準備を企てたい。実のところ、6月初旬の時点において、セルトーは学生や労働者らの一連の行動にたんなる祝福を贈っていたわけではない。一方で、セルトーは運動にフランス社会の根底的な変化を期待しつつも、他方では事態を冷静に分析するための距離を保ちながら、〈68年5月〉に対するトータルな評価に関しては留保をつけている。このような二重のスタンスは、『パロールの奪取』が出版された9月の段階においても基本的には変わっていない。
注目しておきたいのは、「出来事に先立つ諸理論」をとおして当の「出来事を「説明」することにより、その意味を吸収しようとする」、いわば「取り込み的〔récupératrice〕」な解釈に対して批判的なまなざしが向けられているという点である[10]。すなわち、社会文化的な「突然変異〔mutation〕」を認めず、〈68年5月〉には新しいところなど何一つなかったと断じる解釈である。セルトーは、このような反動的立場を「同語反復への傾向」と呼んで牽制している[11]。ただし、こうした諸解釈は出来事の意味を捉え損ねるとしながらも、セルトーはそれらに対して確固とした対案を提示できているわけではない。「文化革命のチャンスあるいはその先触れである──先触れであって、まだ現実となってはいない──、或る経験の新しさは、いかにして明かされ、いかにして認められうるのか」とセルトーは問うているが[12]、それはあくまで問題提起にとどまっており、出来事を理解するための具体的な方法論を詳らかにはしていない。セルトーは、「他者との関係」──教師-学生を典型とする、知゠権力に拘束された「教育的関係〔relation pédagogique〕」──を学知のなかに導入することと出来事を思考する試みとは「一つの同じ問題」であると指摘しつつ[13]、出来事の「新しさ」を認識することはこれからなされるべき「任務」であると述べるにとどめている[14]。
別の角度からみるならば、実のところ、セルトーの慎重さはそもそも出来事の本質を「パロール」において捉えようとする姿勢にすでに現れているといえる。論考「パロールを奪取する」の冒頭においてセルトーは、「パロールの奪取」とは一種の「拒否の形式」であると指摘する。一連の運動において唱えられたのは、それまで暗黙裡に受け入れられていた制度の履行を拒絶することであり、以前とはまったく異なる生を要求することであった。それを踏まえセルトーは、「異議を申し立てることによってしか自己を表現しないこと、否定的な言い方によってしか証言をしないことはパロールの弱さである」と一旦留保を示している[15]。ただし、以降の論述はやや混み入った展開をみせている。まず、翻って、パロールの「弱さ〔fragilité〕」はその「偉大さ〔grandeur〕」でもあると述べられた直後、「パロールの奪取」とは実際のところ肯定的なニュアンスをもたないわけではないことが示唆される。というのも話すことは、「わたしは物ではない〔Je ne suis pas une chose〕」と告げること、「わたしは生きている〔J’existe〕」という実存の表明にほかならないからである[16]。そこからセルトーは、5月において人々が生きた経験の積極性、創造性に話を進める。わたしたちが初めに引用した「ひとつのポジティヴな事実」につp.233いてのパッセージはそこで登場している。さて、以上から引き出されるのは、〈68年5月〉に対する両義的な解釈だ──「ポジティヴに経験されたものは、ネガティヴにしか表現されなかった」[17]。最終的にセルトーは、こうした「経験」と「表現」(すなわち言語)の間の落差こそが問われるべきだと述べるに至る。
今日重要な問題とは、根本的な経験と〔それを表現するための〕言語活動の欠落との間、生きられた事柄の「積極性」と、拒否という形式を取る表現の「否定性」──こうした表現は、自らが指し示す現実そのものを〔言葉によって〕生成するのではなく、むしろその現実の症状となっている──との間の不均衡によって提起される。[18]
こうした「不均衡〔disparité〕」はどうして生まれたのだろうか。セルトーは以下のような理由を提示する。「下部からの大規模な運動は、先立つ構造や枠組みに収まるものではなかったが、まさにそれゆえに、この運動にはあらゆるプログラムも言語活動も欠如していた」[19]。つまり、言葉によって現実を新たにつくり出すのではなく、現実の「症状」にとどまったこと、「創造的な経験」に釣り合うほどの言語活動をみずから組織するには至らなかったこと、それこそセルトーが〈68年5月〉に見た思想的な課題である。とはいえ、以上をもってセルトーは、〈68年5月〉が失敗に終わったとみなしているわけではない。出来事を語るにふさわしい新たな言語の形式を見出すことは以後なされるべき「任務」であるというのがここで取られているスタンスである。だがいずれにせよ、セルトーが〈68年5月〉の帰結に読み取っていたのは、以降の思索を明確にリードしてゆく根本的な問題であったといわねばならない。なぜなら、ここで示唆されているのは、既存のどんな枠組みにも収まらない出来事を、その新しさゆえにうまく語ることができないという必然性であるからだ。実際、広く受け入れられている語彙にうまく馴染まない現象──現在進行中の現象でも、過去に生じた出来事でもよい──は、多くの場合、否定的なしかたで記述されるか、反動的な解釈によってその新しさが切り捨てられるか、どちらかの道を辿るだろう。つまり、「経験」と言語との間の「不均衡」にフォーカスするセルトーの視座は、先にみた「取り込み的」解釈に対する牽制と裏表の関係にある。というのも、両者の間で、〈68年5月〉の新しさをいかにして捉えることができるかという問いは一貫しているからである。既存の枠組みを超え出ること、尺度そのものを超えていることが出来事の本性であるとしたら、そうした出来事の新しさはどのようにしてポジティヴに語ることができるのだろうか。それが可能であるとしたら、たえず自己超出をおこなうような脱我的な言語によってではないだろうか。わたしたちの見立てでは、セルトーはこの問いを別の文脈で、すなわちキリスト教の言語の問い直しのなかで練り上げてゆくことになる[20]。次節では、出来事と言語という問題を軸としつつ、1968年以降に発表されたキリスト教論を俎上に載せ、〈68年5月〉に見出された思想的な課題がどのように捉え返されてゆくのかを明らかにしよう。
p.234II. なしにないpas sans──「霊的経験」の射程
〈68年5月〉以後のセルトーの思索において顕在化するように思われるのは、出来事をめぐる省察であり、衝撃を与え、通念を揺さぶる思いがけない出来事をいかにして語るかという問いの探究である。このようなパースペクティブのもとで、第2節、第3節ではそれぞれ「霊的経験」(1970年)[21]と「創設的断絶」(1971年)[22]という論文を主に取り上げてゆく。この二本の論文は、いずれも厳密な意味でのキリスト教論であり、当時のセルトーの基本的な主張を明示している点できわめて重要であるとともに、いわばマニフェストといえる様相を呈している。
わたしたちは、この二本の論考に共通して顔を覗かせている「なしにない〔pas sans〕」という定式(セルトーによれば「範疇〔catégorie〕」)に注目してみたい。なぜならこの定式こそ、出来事と言語が取り結ぶ関係についてのセルトーの考えを見事に集約した表現にほかならないからである[23]。本節では、「霊的経験」において「なしにない」という概念がどのように導入されているかを概観しておこう[24]。
「霊的経験」という語によってセルトーが喚起させるのは、第一に、「真理」が開示されることによって以前と以後を切断する「出来事〔événement〕」である。したがって、神秘家の「幻視」や「奇蹟」の類が相同物として連想されるかもしれないが、厳密には、「霊的経験」はそれらとは異なる事柄として考察されているようだ。セルトーが「神秘経験〔expérience mystique〕」ではなく敢えて「霊的経験〔expérience spirituelle〕」と述べるのは[25]、超越性の経験はこの出来事の本質ではないからであり、歴史的な奥行きをもつプロセスとしての信仰経験こそが捉えられるべきだからである。言い換えれば、ここでのセルトーの目論見とは、神的存在の現前を感受させる心理的、情動的な経験を客観的に記述することではなく、信仰者によって主体的に生きられたものとして、神と信仰者、真理と主体との間の関係が不断に組み代わってゆく過程──セルトーの言葉によれば、「道程〔itinéraire〕」[26]──として経験を捉えることにある。
「おそらく、霊的経験の出発点とは或るひとつの場所を見出すことなのであるが、しかしその場所に身を据えたままでいることはできない」[27]と述べられるように、あくまで「出来事」はこのプロセスの始まりであるにすぎない。セルトーの省察のなかで「霊的経験」は三つの段階に区切られているが、その最初の段階を画す「出来事」は、次のように叙述される。
何かが生起し、それまでわたしたちが理解していたような経験を一変させる。個人的なレベルから捉えるなら、わたしたちの生においてはこうしたことが絶えず起こっている。しかしながら、人類の歴史全体という観点からすれば、そのような瞬間こそ、わたしたちの時へのイエスの介在というこの特定の瞬間が表していることである。ひとりの個人の歴史においても人類の歴史においても同様に、いくつかの切断がある。そのようなものとして現れる特権的な瞬間がある。ひとを驚愕させるとともにひとつの始まりを定める、そのような何かが到来するのだ。[28]
p.235「特権的な瞬間」には、幻視や回心、他者との思いがけない出会いなど、さまざまな体験が当てはまるだろう[29]。語り口は、〈68年5月〉に関して「わたしたちのうちで何かが動き始めた」と述べていた論考のそれに近い。ここではさしあたり、以下の二点を確認するにとどめておく。第一に、常識や通念を覆す驚異の出来事は、新たな生を創始する開始点となるということ。第二に、そうした出来事のパラダイムとなるのは「わたしたちの時へのイエスの介在〔intervention de Jésus dans notre temps〕」であるということ。第3節でみるように、イエス゠キリストを卓越した出来事として捉える視座は翌年の「創設的断絶」において維持されている。
「霊的経験」の第二の段階は「歴史〔histoire〕」と名づけられている。この段階を特徴づけているのは、出来事とその意味の理解との間に存在する時間的ギャップである。セルトーはここで、福音書ならびに精神分析的見地を踏まえながら、出来事の意味は事後的にしか認識されえない──「意味と理解は出来事のあとにやってくる」[30]──というスタンスを取っている。「歴史」とは、出来事をこのように回顧的な仕方で言葉にし、経験の意味を探究する過程に相当する[31]。だが同時にそれは、「こうした瞬間を〈真理〉と同一視すること、この不意なる侵入を神そのものとみなすこと、この束の間の経験を絶対的な経験として、つまり無限〔そのもの〕として考えてしまうこと」はできないと認識する過程でもある[32]。それゆえ主体は、「言い表すどんな言葉によっても欺かれるということを何度も知り続ける」ことになる[33]。このように、「歴史」とは、「真理」についての証言を引き下げては言い直すことを繰り返す否定的な働きであるといってよい。
以上から理解されるのは、セルトーのいう「霊的経験」が本質的に終わりのないプロセスであるということだ。この経験において或る特定の場所にとどまることは、際限なく「より大いなる〔plus grand〕」[34]存在である神を有限な表象に同定してしまうことを意味する。セルトーによれば、続く第三の段階においては、このように「無限〔infini〕」であることを本性とする神が、第一の段階におけるような現前とは異なる仕方で主体に現れてくる様態が覚知されることになる。「なしにない」という定式が提示されるのは、この段階の叙述においてだ。この第三のフェーズにおいて、「無限」なる神は、「ひとがそれなしには生きられないような何か、それなしには共同体も人間の集団も存在しえないような何か〔ce sans quoi un homme ne peut pas vivre, ce sans quoi une communauté, un groupe d’hommes, ne peut pas exister〕」として認められる[35]。つまりここでは、たとえ目立たない様態においてであるとしても「無限」は日常的な生をたえず支えている、という認識がもたらされる[36]。「なしにない」という表現が初めに登場するのは、このように「無限」が信仰者たちの実存に組み込まれている様態を叙述する文脈においてである。直後の箇所でセルトーは「なしにない」を独立した「範疇」として取り出し、概念化を試みている[37]。セルトーの記述は以下のとおりである。
わたし自身の言葉で言い換えるなら、この〔「なしにない」という〕範疇が指し示しているのは、福音書がわたしたちに教えてくれているもっとも神秘的な事柄であると思う。それは、神はわたしたちなしに生きられないということである。また、これは次のことを意味p.236してもいる。すなわち、歴史上の一個人としてのイエスは、彼に続く者たちやいまだ彼が知らぬ者たちなしには、生きることも語ることもできないということ。さらに、このことが意味するのは次のような事態でもある。つまり、わたしたちが知らないもの、わたしたちにはあずかり知らない、あるいはまだ知らないわたしたち自身の彼方、いかにしても知ることはないそうした彼方なしには、私たちのうちの誰も生きることはできないということ。[38]
ここでのセルトーの主張はより踏み込んだものになっている。というのも、「なしにない」から導かれる帰結は、神-イエス-「わたしたち」からなる三者のそれぞれの観点から述べられており、神にもまたある種の不可能性が認められているからだ。「彼方」なしに「わたしたち」の生存が可能でないだけではなく、神もまた「わたしたち」なしには生きることはできない。ここで神と信仰者との関係は、一方なしに他方はないという意味で循環をなしているのが見て取れる。さらに大胆なことに、セルトーは特に説明をしないまま、この論理をそのまま個々の信仰者あるいは共同体どうしの関係へと適用させつつ、歴史的並びに実存的な基礎づけ関係ではなく、言語あるいは「意味〔signification〕」の問題へと論点を移動させている。
別様に言うなら、この「なしにはない」は際限のない循環を指し示している。一つひとつの瞬間、一人ひとりの証人、個々の構成員や個々の歴史的集団が意味を受け取るのは、自らが語ってはいないこと、自らとは別のもの、未だ証言していないものと切り離すことができないそのかぎりにおいてなのだ。[39]
ここで「なしにない」は、「無限」なる神について、イエス゠キリストについて、信仰者の現在についての個々の「証言」はそれのみで全体的な理解をつくり上げるものではない、ということを告げている。言い換えれば、或る「証言」は、他者の「証言」との間の「際限のない循環〔circulation indéfinie〕」においてしか「意味」を持ちえない。ここに見出されるのは、「意味」は他者と交わされる言葉の往復の間にしか見出されないという点で、本質的に動的なエレメントであるという認識にほかならない。もっとも、「霊的経験」というテクストにおいては、「なしにない」が言語や意味の問題を照射する概念であることが最終的に示唆されてはいるものの、出来事を語る言語の具体的な様相や構造に関しては説明不足にとどまっているといわざるを得ない。次節では、セルトーの言語論が「創設的断絶」においていかなる理論的洗練をみているかを検討していこう。
III. 「創設的断絶」(1971年)における「サンボリックな言語」
III-1. 人文科学におけるキリスト教の処方
まずは「創設的断絶」というテクストの成立事情を整理しておこう。リュス・ジアールが伝p.237えているところによれば[40]、1964年以来、セルトーはパリ・カトリック学院で博士課程の学生たちに神学を教えていたが、自身は神学の博士号を有してはいなかった(宗教学の博士号は、ピエール・ファーヴル『回想録』の翻訳校訂[41]を始めとした一連の研究によって1960年に授与されている)。そこで神学の博士号取得のために、スュランや神秘主義についての論考をまとめたうえで自身の思想を叙述するテクストを付け加えて提出する必要に迫られた。そこで執筆された論文が「創設的断絶」である。しかしそのラディカルな内容ゆえに、別のテクストを用意するか元の原稿を修正するよう指示されるのだが、セルトー自身は修正に気が進まず充分な時間も取れなかったため、そのまま『エスプリ』誌に発表してしまった、という経緯がある(セルトーは結局、神学の博士号を取得せずに教育活動を続けている)。このような成立事情から推察されるように、「創設的断絶」は当時のセルトーのキリスト教理解を集約する、総括の試みとなっている。と同時に、この論文を詳しく検討することで、以後、具体的に展開されてゆくことになる主題を取り出すことができるだろう。
前節では、「なしにない」が言語や意味の問いに接続されることをわたしたちは確認したが、「創設的断絶」の冒頭はまさに意味の問いへの言及から始まっている。
意味のある主張をおこなうことは、今日、学知の場から取り除いておくべき「残りのもの」とみなされている〔Les affirmations de sens font aujourd’hui figure d’un « reste » dont on aurait désinfecté les champs scientifiques〕。[42]
« sens »の語に付されている註では、「意味」とは「個人的あるいは集団的な主体がみずからの実践に、みずからの言説や状況に対して与えることのできる包括的な意味〔signification globale qu’un sujet individuel ou collectif peut donner à sa praxis, son discours ou sa situation〕」と定義されている。「包括的な〔globale〕」という形容詞は、特定の実践や言説が、或る社会や人生、時代の全体を賦活するほどの効力をもっている状態を示すものと捉えてよい。こうした「包括的な意味」が学知の領野から「取り除かれ=殺菌され」ているというのは、科学は自らが何のために何を遂行しているのかをうまく語ることができない状況にあるということであろう[43]。別様にいうなら、西洋において、かつて「包括的な意味」を学知の実践や言説に与えていたのはキリスト教であったのに対し、現在、キリスト教はそうした「意味」を言明する力を失っているとみなされている。つまり、各人の行為の霊的=精神的な動機、生きてゆくなかでの「欲求〔besoins〕」[44]の源泉としてキリスト教は依然として力をもつものの、そのことを合理的な科学の言語によって言い表すことができない、という意味で孤立している──以上が「残りのもの〔reste〕」という表現にセルトーが与えている含意であろう[45]。「創設的断絶」においてセルトーは、現代においてキリスト教が、正確にはキリスト教の言語が「残りのもの」となっている状況を深刻に受け止めつつ、二つのアプローチ、すなわち人文科学における宗教的事象の地位の検討と、人文科学の分析の手続きそのものに対する反省によって問題の所在を浮き彫りにしようとしている。紙幅の都合上、セルトーのアプローチを詳細に検討することは叶わないが、強p.238引ながらも要約することが許されるならば、多様な論点が提示されるこの論文の前半部は、次のような問題をめぐって展開されている。すなわち、現在の──1971年時点での──人文科学の基本的思考においては、キリスト教は思考不可能な次元を抱えているものとして理解される、ということだ。どういうことか。
セルトーによれば、人文科学は、宗教的事象を「自らが語っているもの以外の何かのシニフィアン〔signifiant d’autre chose que de ce qu’il dit〕」として理解する傾向にあるという[46]。このことを説明するために、セルトーはフロイトの「17世紀の或る悪魔神経症」を引き合いに出している。フロイトはこの論文のなかで、バイエルンの画家クリストフ・ハイツマンが悪魔と契約し、やがて修道会に入会して悪魔の支配から抜け出してゆく過程を、画家が彼の父と結んでいたと推測される心的関係から説明することを試みている[47]。ここでのフロイトの方法の要点は、『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期』などと同様に、精神分析固有のものではない素材を、精神分析的な解読格子を透して眺めることによって、父との心的葛藤やエディプス・コンプレクスをめぐる「症例」として再構成するところにある。言い換えれば、神や悪魔をめぐる宗教的な事象は、いわば宗教的要素を脱色されて合理的に説明される[48]。このことをセルトーは以下のように簡潔に言い表している──「精神分析家は〔固有の〕方法によって、宗教的な表現をそれと知らぬまま組織している法則の手掛かりを、当の表現のうちに識別しなければならない」 [49]。
このように、フロイトをパラダイムとして見出される還元的な方法──「症状〔symptôme〕」ないし「生産物〔produit〕」として素材を解読する実践──が、現在の人文科学において優勢であるとセルトーは考えている。さらにセルトーは、このような趨勢の帰結を問うなかで、還元的な科学の実践は「メカニズム」や「法則」を明らかにしはするが、「存在論的な命題」を避ける傾向にあると述べる[50]。言い換えれば、いかにして言説や実践が生み出される/生み出されたのか、その規則を解明する一方で、人文科学は「現実〔le réel〕」や「真理〔vérité〕」といった語を用いなくなってきている、というのである[51]。
セルトーの診断は以下のように言い直すことができるだろう。現代の人文科学において宗教的な事象は、経済学、社会学、心理学、歴史学などのいずれの観点からも整合的に説明可能なものとしてみなされ、「変幻自在さ〔élasticité〕」[52]を獲得する。だが、そうした事態が意味しているのは、いかなる科学も、〈神は実在する〉あるいは〈歴史には人間的意図を超えた何らかの連続性が存在する〉といった主張の現実的妥当性にはいささかもコミットしない、ということである。セルトーの言葉を借りるなら、それは宗教的な命題が偽となることではなく、「意味をなさない〔insignifiantes〕」[53]ものとなることを意味する。人文科学の言語において、キリスト教がそのものとしては思考不可能な次元を抱えることになるというのは、以上の意味においてである。
ここまでが「創設的断絶」のおよそ前半部の主張に相当するが、後半部では打って変わって、セルトーは信仰者としてのみずからの立場を前面に打ち出し、「真理」という語を何度も用いている。だが、科学の側か信仰者の側か、「真理」を述べる側か否か、といった二者択一はセルトp.239ーのアプローチではない。むしろセルトーは、科学のような他なる言語への回路を自らのうちに開いてみせる、脱我的な性質がキリスト教の根源に見出されるということを示し、キリスト教を思考可能なものとするための処方箋を提案しているようにみえる。以下でみるように、このようなある種の「原点回帰」論は、独自の言語論として提示されている。
III-2. あなたなしにはないPas sans toi ──出来事の意味
ところで、ここでもふたたび、セルトーの思考の出発点となっているのは「出来事」である。「いかなる仕方であろうとも、キリスト教は、みずからを創設した出来事との関係を、すなわちイエス・キリストとの関係を前提としている」[54]。「創設的断絶」の後半(第4節)では、一般的なレベルにおける出来事、キリスト教における出来事、次いで出来事によって可能となってゆく言葉の連累あるいは歴史のシークエンスといった──つまり「霊的経験」とパラレルな──順で重層的に議論が進められてゆく。セルトーのいう出来事とは、映画作品や詩が「それなしでは可能とならなかったはずの知覚を開始させる」のと同じように[55]、他なるものを「可能にする〔rendre possible〕」切断面である。それでは、「可能にする」とはどのような意味においてであろうか。まず出来事の例証として言及されるのは、フロイトとマルクスであり、両者はキリスト教におけるイエスと同じ水準にあるものとして捉えられている。フロイトとマルクスを「言説性の創始者〔fondateurs de discursivité〕」とみなす「作者とは何か」(1969年)におけるフーコーをおそらくは念頭に置きながら[56]、セルトーは次のように述べている。
フロイトという出来事〔événement Freud〕は、あらゆる「客観的な」定義を逃れる。その出来事は多数多様な読解のうちに四散し、そのなかに消えてゆく。フロイトという出来事は、対象として捉えることができないままにとどまるのだが、それはまさしくこの出来事があらゆる解釈をゆるしたものであるからにほかならない。[57]
出来事がそう呼ばれる所以は、ここでは二つの方向から説明されているが、両者はひと続きのものとして捉えられねばならない。一方で、出来事は統一的な解釈を撥ねつけ、どこまでも知に抵抗しつづけるがゆえに「客観的な」定義を与えることができない。だが他方でそれが意味するのは、とりもなおさず、「出来事」が、その後に続き、ときには相矛盾さえするさまざまな解釈を「ゆるす=可能にする〔permettre〕」ということである。フーコーの言葉を借りるなら、フロイトやマルクスという出来事は、「彼ら自身とは異なっていても彼らが創始したものに帰属する何ものかのための空間を開いた」[58]のである。セルトーはこうした点でフーコーと解釈を共有しているが、「四散しては消えてゆく〔se dissémine et s’évanouit〕」という表現を用いることで、創設者がそれ自体としては場所を持たざるものとなることによって、それに続く者たちが地平に現れることができるという、不在と現前の弁証法というべき論理を際立たせている。ここでぜひとも確認しておかなければならないのは、セルトーがイエスという出来事に「空っぽの墓〔tombeau vide〕」[59]のイメージを与えているという点である。この事実は、不在と現前p.240の弁証法という観点から捉える必要がある。「空っぽの墓」は、1960年代半ばのセルトーのテクストにおいて僅かに現れ始め[60]、1982年の『神秘のものがたり』においても引き継がれているモチーフだ。ここでは、もっとも具体的な記述を残している『神秘のものがたり』第3章「新たなる学知」からの一節を引いておこう。
実際、キリスト教は、或る身体の喪失の上に創設された──イスラエルという「身体」、「国民」とその血統の喪失の上に重ねられた、イエスの身体の喪失の上に。たしかに、これは創設的な消失である。[……]キリスト教の伝統においては、身体の原初的な剥奪が絶えず制度や言説を生み出しているのであり、それらはこの不在の効果であり代理なのだ──教会という身体、教義という身体、といったように。[61]
ここでセルトーが念頭に置いているのは、「ヨハネによる福音書」に記されている、イエスの遺体が葬られた場に赴いたマグダラのマリアが「墓から石が取りのけられてある」(20,1)ことに気づき、空っぽの墓のそばで悲嘆に打ちひしがれるという場面である。この「身体の原初的な剥奪〔privation initiale de corps〕」こそが、キリスト教の歴史的運動を創始させる根本的な出来事であり、数々の制度や教義は失われた身体の代理にほかならない——セルトーのパースペクティブとはこのようなものだ。1971年の「創設的断絶」の段階においては、「身体〔corps〕」という語はまだ強調されていないが、根源的な喪失に駆動されてキリスト教は独自の仕方で普遍性の探求へと向かう、という主張は共通しているように思われる。ただし「創設的断絶」において特徴的なのは、すでに述べたように、現前と不在の弁証法がキリスト教にとって本質的なエレメントとして読み込まれている点である。実際、セルトーがフーコーの議論を引き受けながらキリスト教の文脈へと思考のフィールドを移し、「真理〔vérité〕」という決定的な語を添えるとき、この弁証法は顕著な仕方で現れている。
始まりの「真理」は、ただその「真理」によって開かれる可能性の空間をとおしてのみ明かされる。この「真理」は、最初の出来事との差異が露わにするものであるとともに、そうした差異が新たな生成物〔……〕によって隠すものでもある。この意味において、「真理」とは、それが許すもののなかで疎外された形をとって現れるものでしかない。だがそれは、この「真理」がそれ自体において他なるものであり続け、知に還元不可能なものであり続けるからなのだ。この「真理」とは、それに由来するはたらきの条件であって、その対象なのではない。それゆえ「真理」は、自らが権威づけるもののなかに失われる=姿を消す。「真理」は、それ自身の歴史的特殊性から絶えず離れてゆくのであるが、それが生み出す創造物自身のなかにあり続ける。[62]
ここで、「真理」を「露わにする〔montrer〕」ことは、逆説的にもそれを「隠す〔cacher〕」ことに等しく、「真理」が告げられるときとは、それが「疎外される」ときを意味する。「真理」p.241──ここにはどうしてもイエス゠キリストそのひとというニュアンスを含意せざるをえない──は、数々の「はたらき〔opérations〕」に場を与えつつ、それ自体としては把捉不可能なものとなる。より正確には、そのようにして「真理」という起源が喪失を余儀なくされることは、キリスト教的経験が成立するための必要条件であるといわねばならない。なぜかといえば、イエス゠キリストという出来事の「歴史的特殊性〔particularité historique〕」をそのままに捉えることは叶わないが、まさにそれゆえに、「真理」についての証言は別の証言をたえず必要とするからである。「真理」はまず失われた不在者としてのみ見いだされるが、たとえ「疎外された」仕方であっても、個々の「創造物〔inventions〕」のなかに姿を現し続ける。「出来事は、それが可能にする差異のうちに姿を消す、という仕方で展開されてゆく(証し立てられてゆく〔se vérifie〕)」[63]。要するに、セルトーがキリスト教の言語活動に見ている特異性とは、複数の言葉がともにただ一つの出来事について証し立てるという構造、いわば「神の唯一性と歴史の複数性」 [64]の間の関係なのだ。
前節において「霊的経験」を参照しながらその意味するところを明らかにした「なしにない」という概念は、「創設的断絶」では、わたしたちが指摘した二点を要約する定式となっている[65]。すなわち、一方においては、イエス゠キリストという出来事なしに「真理」についての証言はありえないということ。また他方で、同じ「真理」をともに証言する他者がいなくては、出来事の意味を明らかにすることはできないということ[66]。このように、「創設的断絶」における「出来事-言語」論は、たしかに「霊的経験」におけるパースペクティブと連続的ではあるものの、両者の間には微妙なニュアンスの差異も読み取れるように思われる。1970年の段階では、神、イエス、信仰者という三者の間、あるいは個々の信仰者の間の「際限のない循環」が取り出されていたのに対し、「創設的断絶」では、「認められた個別性から個別性の超越へ、「そこにいること」から「別の場」への移行〔passage de la particularité reconnue à son dépassement, d’un « être-là » à un « ailleurs »〕」[67]といわれるように、「真理」の証言がもつ歴史的な時間性が前景化し、動的なニュアンスが強調されている。さらにいえば、セルトーは「なしにない」に二人称単数を添えて、「あなたなしにはない〔Pas sans toi〕」と再定式化している[68]。わたしたちは、この一見するに些細な付加から読み取れるセルトーの展望を明らかにすることで、本稿が跡づけてきた彼のキリスト教言語論の要諦を導きたい。
「あなた」という一語の付加には、キリスト教の言語はその本質からして複数的ないし双数的であるというセルトーの認識が込められていると考えられる。証左となるのは、以下の記述である。
ここでは、複数性こそが意味を表明するものである〔Le pluriel est ici la manifestation du sens〕。キリスト教の言語は、共同的な構造しか取らない(共同的な構造しか取ることができない)。[69]
p.242「共同的な構造〔structure communautaire〕」とは、ひとつの出来事に関してさまざまな語りかたがありうること、相互に異質な解釈が両立しうることを意味するだろう[70]。数頁あとでセルトーは、こうした「共同的な構造」を「サンボリックな言語〔langage symbolique〕」[71]と言いなおしているが、ここでは「象徴〔symbole〕」という語を文字通りの意味で理解しなければならないという。すなわち、ギリシア語の「シュンボロン(σύμβολον)」としてであり、欠けた半分が付け加わることで情報を確証できる割符をイメージすべきであるというのだ[72]。プラトンの『饗宴』におけるアリストファネスの演説を想起させずにはおかないこのような示唆は、「創設的断絶」においてセルトーが到達している言語論の輪郭をよりいっそう具体的に浮かび上がらせている。すなわち、互いに問いを差し向け合い、応答し合うなかでのみ「意味」が開示される、双数的な愛の言語である。「複数性こそが意味を表明するものである」とは、ただひとりで「意味」を述べることは不可能であり、問いと応答の間、或る解釈とまた別の解釈の間の隔たりにこそ「意味」は宿るということであろう(セルトーはそのような「意味」に、いみじくも「禁じられたもの=間で語られるもの〔l’inter-dit〕」という地位を与えている[73])。それゆえここには、ふたりの「あなた」がいることになる。すなわち、「わたし」と同じように出来事について証言する「あなた」──認識や歴史の地平を同じくするさまざまな他者──がいて、両者の対話から微かに映じてくる彼方の「あなた」がいる。
まとめよう。いかなる尺度にも収まらない、革命的な出来事の「意味」を語るための言語とはどのようなものでありうるか。〈68年5月〉においてセルトーが直面したのはそうした問いであることを、わたしたちは第1節で確認した。以上において跡づけたように、この問いは直後のキリスト教論をとおして探究され、「創設的断絶」で一定の回答が与えられたと考えることができる。セルトーの回答は以下のように再構成できるだろう。通念や既存の制度には収まらない例外的な瞬間を語りうる言語は、第一に、「なしにない」という「範疇」のもとに組織される。出来事なしに現在の「わたし(たち)」は存在しえないが、「わたし(たち)」なしに出来事はその「意味」を明かされえないという、ある種の循環、相互陥入的な関係が見出される(出来事と証言の主体との関係)。第二に、ここにあるのは、或る証言がもうひとつの証言を「超越」するとともに、別の証言に場を譲り、「真理」の「証し立て〔vérification〕」という歴史の運動に身を委ねてゆくという「移行〔passage〕」を特徴とする言語である(主体A-主体B/Cの関係)。最後に、この言語においては、歴史的な運動へ同様に参与する「あなた」が発する証言と、「わたし」のそれとの間にある質的な隔たりが、出来事の「意味」が像を結ぶ場となる。いいかえれば、認識の齟齬、時間的なギャップ、視点や力点の差異は、この言語においては紛れもないポジティヴな力となる(出来事-主体A-主体B/Cからなる三者の関係)。以上より、「創設的断絶」において呈示されているのは、脱我的な言語についての構想であるということができる。発話は別の発話によって乗り越えられ、出来事はたえず語りなおされるという自己超出の運動がそこに見出されるからである。このような「共同的な構造」を有する言語の思索にこそ、〈68年5月〉が提起した問いに対するセルトーの応答をみることができるだろう。
p.243おわりに
以上より、本稿は、おおよそ1960年代後半から70年代初頭にかけてのセルトーのテクストを射程に入れながら、出来事と言語とを接続して捉える思考が形成され、言語論として洗練されてゆく過程を明らかにした。依然として残されているのは、70年代後半以降、わたしたちが脱我的な言語と呼んできたアイデア──セルトー自身は「神秘的」な言語と呼んでいる[74]──がどのように具体化されてゆくのかを、主に神秘主義、霊性(史)論のコンテクストのなかで検討することであろう。
ここでは、検討対象となりうる三つのテーマを提示しておく。第一に、神秘主義文献にしばしば現れる撞着語法が挙げられよう。撞着語法に向けられる関心は、セルトーの初期のテクストから晩年にいたるまで一貫している[75]。十字架のヨハネの注解者ディエゴ・デ・ヘススのテクストを取り上げながらセルトーが指摘するように、撞着語法は、本来は出会うはずのない二つの語に衝突と共立を強いることで、「言語活動の彼方」を幻視させるものである[76]。第二に、アビラのテレサ『霊魂の城』の解釈などにおいて顕著に現れている、イメージあるいは「想像的なもの」の主題が挙げられる[77]。テクスト空間そのものを立ち上げるほどの力動的なイメージが言語化されるとき、それは言葉ともイメージとも単純に言い切れない潜勢力を備えている。また、イメージと言語の関係は、セルトー自身の死を予感させずにはおかない「白い恍惚」(1983年)にまで引き継がれている重要な問題系であることを言い添えておこう[78]。最後に、十字架のヨハネの実践を範型とする、詩と散文のカップリングについての考察は看過できない[79]。こちらは、二つの異なる語りの形式が互いに求め合い、〈二における一〉と言いうる様式を実現している点で、愛の言葉としてのキリスト教的言語という主題をもっとも鮮やかに浮き彫りにするものにちがいない。本稿が提示したパースペクティブのもとに以上の三点を詳細に検討することは、セルトーの思想を一貫した視座から、だがその多様さを損なうことなく解明することに寄与するだろう。
参考文献
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渡辺優「「パロール」とそのゆくえ ミシェル・ド・セルトーの宗教言語論の輪郭」、『天理大学学報』70巻1号、2018年、1-28頁。
Notes
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[1]
『エチュード』は1856年に創刊されたイエズス会系の雑誌であり、当時編集長を務めていたブリュノ・リブに誘われる形で、セルトーは1967年から同誌の編集委員に加入している。cf. François Dosse, Michel de Certeau. Le marcheur blesse [2002], Paris, La Découverte, « Poche », 2007, p. 132.
-
[2]
Michel de Certeau, La Prise de parole et autres écrits politiques, Paris, Seuil, « Points », 1994, p. 40. なお、68年10月に公刊された版(La Prise de parole, Paris, Desclée de Brouwer, 1968)とスイユ版とでは大きく内容が異なっている。スイユ版では、リュス・ジアールとの共著論文が収録されているほか、68年版の第4章が再録されていない(同章はLa Culture au plurielの 第8章に相当する)。
-
[3]
以下、本稿では、この時期に生じた一連の学生蜂起、労働運動などを包摂する歴史的出来事を意味する言葉として、〈68年5月〉という表現を用いている。
-
[4]
La Prise de parole et autres écrits politiques, op. cit., p. 41.
-
[5]
Ibid., p. 42. 強調は原文による。そのほか、引用に際しての傍点強調は、すべて原文のイタリック強調に基づいている。
-
[6]
Michel de Certeau, La Fable mystique I, XVIe-XVIIe siècle [1982], Paris, Gallimard, « Tel », 2003, p. 216-217, 229,243, 319, etc.
-
[7]
現代カトリックの危機という観点から、イエズス会入会前後から1971年までのセルトーの活動の動向を概観する試みとしては、以下の論文を参照のこと。Denis Pelletier, « Pratique et écriture de la crise catholique chez Michel de Certeau », Revue d’Histoire des Sciences Humaines, 2010/2 (n° 23), p. 19-35.
-
[8]
本稿の仮説の直接的な証左となるわけではないが、以下に挙げる論考は、『神秘のものがたり』が当初は神秘主義の言語論として考案されながら、次第に歴史叙述として具体化してゆく生成過程を明らかにしている。Andrés G. Freijomil, « Pratiques du réemploi et historicité des titres dans La Fable mystique, XVIe-XVIIe siècle I », Luce Giard (dir.), Michel de Certeau. Le voyage de l’œuvre, Paris, Facultés Jésuites de Paris, 2017.
-
[9]
セルトーのさまざまなテクストに思想的な一貫性を読み込む解釈はすでに提示されている。以下の論文を参照のこと。Dominique Salin, « Michel de Certeau et la question du langage », Recherches de science religieuse, 104/1, 2016, p. 33-51 ; 渡辺優「「パロール」とそのゆくえ ミシェル・ド・セルトーの宗教言語論の輪郭」、『天理大学学報』70巻1号、2018年、1-28頁。
-
[10]
La Prise de parole et autres écrits politiques, op. cit., p. 47-48.
-
[11]
Ibid., p. 49.
-
[12]
Ibid., p. 48.
-
[13]
1968年9月の時点で、のちにセルトーみずからが「他者学〔hétérologie〕」と呼ぶ観点が導入されていることは注目に値する。cf. Michel de Certeau, L’invention du quotidien, 1. Arts de faire [1980], éd. Luce Giard, Paris, Gallimard, « Folio Essais », 1990, p. 232-235.
-
[14]
Id., La Prise de parole et autres écrits politiques, op. cit., p. 49.
-
[15]
Ibid., p. 41.
-
[16]
Ibid.
-
[17]
Ibid., p. 44.
-
[18]
Ibid., p. 45.
-
[19]
Ibid., p. 44.
-
[20]
本稿の主題からはやや外れるが、1968年以前のセルトーの思索と活動については以下を参照のこと。Claude Langlois, Michel de Certeau avant “Certeau”. Les apprentissages de l’écriture (1954-1968), Rennes, Presses universitaires de Rennes, 2022.
-
[21]
Michel de Certeau, « L’expérience spirituelle » [1970], L’étranger ou l’union dans la différence [1969], éd. Luce Giard, Paris, Seuil, « Point Essais », 2005, p. 1-12. 1969年の第一版には「霊的経験」は収録されておらず、リュス・ジアールによる編集のもとで1991年に新版を公刊する際、冒頭に収められた。本稿での引用は1991年版の改訂版である2005年のポワン版に依拠する。
-
[22]
Id., « La rupture instauratrice » [1971], La Faiblesse de croire, texte établi et présenté par Luce Giard, Paris, Seuil, 1987, p. 183-226.
-
[23]
セルトーは「なしにない」という「範疇」の典拠としてハイデガーの論考「時間と存在」を指示しているが(ibid., p. 213)、リュス・ジアールはそれ以外に三つのソースの可能性を示唆している。すなわち、ミサをはじめとした日々の典礼、教父文献の読解(アンティオキアのイグナティオスが挙げられている)、イエズス会の伝統(とりわけロヨラの「アニマ・クリスティ」)である。Luce Giard, « Cherchant Dieu », ibid., p. X-XI.
-
[24]
「霊的経験」に関しては、次の論文による解釈も参照のこと。鶴岡賀雄「現前と不在 ミシェル・ド・セルトーの神秘主義研究」、『宗教哲学研究』第19号、2002年、13‐28頁。
-
[25]
ただし、論考「霊的経験」では一度だけ« expérience mystique »という表現が登場する(Michel de Certeau, « L’expérience spirituelle », L’étranger ou l’union dans la différence, op. cit., p. 11)。
-
[26]
Ibid., p 5-6.
-
[27]
Ibid., p. 2.
-
[28]
Ibid., p. 4.
-
[29]
cf. Michel de Certeau, « Mystique » [1971], Le lieu de l’autre. Histoire religieuse et mystique, éd. Luce Giard, Paris, Seuil / Gallimard, 2005, p. 330-332.
-
[30]
Id., « L’expérience spirituelle », L’étranger ou l’union dans la différence, op. cit., p. 4.
-
[31]
1966年の論考「文化と霊性」では、「語りえない〔ineffable〕」経験と言語とをひとつのものとして捉える視座が提示されている。Id., « Cultures et spiritualités » [1966], La Faiblesse de croire, op. cit., p. 39.
-
[32]
Id., « L’expérience spirituelle », L’étranger ou l’union dans la différence, op. cit., p. 5.
-
[33]
Ibid., p. 6.
-
[34]
Ibid., p. 7-8. もちろん、ここでセルトーが念頭に置いているのはアンセルムス『プロスロギオン』における神の定義(「それより偉大なものが何も考えられえない何か〔aliquid quo nihil maius cogitari possit〕」)である。
-
[35]
Ibid., p. 9.
-
[36]
セルトーは第三の段階をルースブルークの「共同の生〔vie commune〕」になぞらえている(Ibid., p. 11 ; Michel de Certeau, « La rupture instauratrice », La Faiblesse de croire, op. cit., p. 218)。「共同の生(ghemeyn leven)」に関しては、以下の論考を参照のこと。菊地智「リュースブルークの神化思想」、『テオーシス 東方・西方教会における人間神化思想の伝統』田島照久・阿部善彦編、教友社、2018年、429-454頁。
-
[37]
1969年の論考「異人」においては、「彼なしでは生がもはや生きることではなくなってしまう、そのような者〔celui sans qui vivre n’est plus vivre〕」といった表現が確認できるものの、「なしにない」の概念化はまだおこなわれていない。Michel de Certeau, « L’Étranger » [1969], L’étranger ou l’union dans la différence, op. cit., p. 16.
-
[38]
Id., « L’expérience spirituelle », Ibid., p. 10.
-
[39]
Ibid.
-
[40]
Luce Giard, « Cherchant Dieu », La Faiblesse de croire, op. cit., p. XVII-XVIII.
-
[41]
Pierre Favre, Mémorial, traduit et commenté par Michel de Certeau, introduction de Michel de Certeau, Paris, Desclées de Brouwer, 1960.
-
[42]
Michel de Certeau, « La rupture instauratrice », La Faiblesse de croire, op. cit., p 183.
-
[43]
歴史学の認識論的問題はこの時期のセルトーの主な関心事の一つであり、『歴史のエクリチュール』では、セルジュ・モスコヴィッシ、ミシェル・フーコー、ポール・ヴェーヌが「認識論的覚醒〔réveil épistémologique〕」の証言者として召喚されている。Id., L’Écriture de l’histoire [1975], Paris, Gallimard, « Folio histoire », 2002, p. 78.
-
[44]
Id., « La rupture instauratrice », La Faiblesse de croire, op. cit., p. 183.
-
[45]
このような展望は、1980年の『日常的なものの創造』における「〔科学は、〕全なるもの〔le tout〕を残りのものとしてつくり上げた」という指摘に通じている(Id., L’invention du quotidien, 1. Arts de faire, op. cit., p. 19)。
-
[46]
Id., « La rupture instauratrice », La Faiblesse de croire, op. cit., p. 193.
-
[47]
ジークムント・フロイト「十七世紀のある悪魔神経症」吉田耕太郎訳、『フロイト全集18』岩波書店、2007年、191-231頁。
-
[48]
Cf. Michel de Certeau, « Ce que Freud fait de l’histoire : à propos de “Une névrose démoniaque au XVIIe siècle” », [1970], L’Écriture de l’histoire, op. cit., p. 339-364.
-
[49]
Id., « La rupture instauratrice », La Faiblesse de croire, op. cit., p. 194.
-
[50]
Ibid., p. 197.
-
[51]
Ibid., p. 198.
-
[52]
Ibid., p. 195.
-
[53]
Ibid., p. 198.
-
[54]
Ibid., p. 209.
-
[55]
Id., « Autorités chrétiennes et structures sociales », La Faiblesse de croire, op. cit., p. 110-111.
-
[56]
Michel Foucault, « Qu’est-ce qu’un auteur ? » [1969], Dits et écrits. 1954-1969, édition établie sous la direction de Daniel Defert et François Ewald, Paris, Gallimard, 1994, p. 789-821.
-
[57]
Michel de Certeau, « La rupture instauratrice », La Faiblesse de croire, op. cit., p. 210.
-
[58]
Michel Foucault, « Qu’est-ce qu’un auteur ? », art. cit., p. 805.
-
[59]
Michel de Certeau, « La rupture instauratrice », La Faiblesse de croire, op. cit., p. 213.
-
[60]
Id., « Cultures et spiritualités », La Faiblesse de croire, op. cit., p. 41.
-
[61]
Id., La Fable mystique I, XVIe-XVIIe siècle, op. cit., p. 109-110.
-
[62]
Id., « La rupture instauratrice », La Faiblesse de croire, op. cit., p. 212-213.
-
[63]
Ibid., p. 214.
-
[64]
Id., « Autorités chrétiennes et structures sociales », ibid., p. 108.
-
[65]
Id., « La rupture instauratrice », La Faiblesse de croire, ibid., p. 213.
-
[66]
Ibid., p. 214.
-
[67]
Ibid., p. 219.
-
[68]
Ibid., p. 213. Cf. Id., « L’Étranger » , L’étranger ou l’union dans la différence, op. cit., p. 16 ; Id., « Autorités chrétiennes et structures sociales », La Faiblesse de croire, op. cit., p. 112.
-
[69]
Ibid., p. 215.
-
[70]
実際にセルトーが提示しているのは、共観福音書と「ヨハネによる福音書」の間の関係であり、エルンスト・ケーゼマンの名を引きながら、それを「対立物の結合〔complexio oppositorum〕」と呼んでいる(Ibid., p. 215)。
-
[71]
Ibid, p. 224.
-
[72]
動詞« symboliser »は、古義において「一致する、調和する」を意味する。
-
[73]
Ibid., p. 213, 225.
-
[74]
Id., La Fable mystique I, XVIe-XVIIe siècle, op. cit., p. 156-157.
-
[75]
Cf. Id., « “mystique” au XVIIe siècle : le problème du langage “mystique” », L’homme devant Dieu. Mélanges offerts au Père Henri de Lubac, t. 2, Paris, Aubier, 1964, p. 288.
-
[76]
Id., La Fable mystique I, XVIe-XVIIe siècle, op. cit., p. 198-199.
-
[77]
Cf. Ibid., p. 257-273.
-
[78]
Id., « Extase blanche » [1983], La Faiblesse de croire, op. cit., p. 315-318.
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[79]
Cf. Id., « Le poème et sa prose » [1986], La Fable mystique II, XVIe-XVIIe siècle, Paris, Gallimard, 2013, p. 123-147.
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福井有人「出来事のあとに──ミシェル・ド・セルトーにおける脱我的な言語の構想とその展開について」『Phantastopia』第2号、2023年、229-248ページ、URL : https://phantastopia.com/2/pas-sans-toi-passant/。(2024年11月21日閲覧)