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研究ノート

マンガにおける原子力のビジュアルイメージ

陰山涼

p.113はじめに

放射能は目に見えない。放射能というやや曖昧な表現を避け、放射線や放射性物質といった対象を問題にするとしても、通常肉眼では捉えられないことに変わりはない。放射能の発見以来、常にこの不可視性が、その危険性と活用可能性をめぐる議論にさらなる困難を与えてきたように思われる。危険性があるにもかかわらず目に見えないという事実は、人々に拭い去ることのできない不安を与える。一方で、目に見えない大きなエネルギーを生み出しうるという原子力のイメージは、ときにその平和的な利用の可能性をめぐって、過剰な期待を生み出してもきた[1]。原子力や放射能をどのようにイメージすればよいのかという課題は、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震に伴って発生した福島第一原子力発電所の事故以来、とりわけアクチュアルなものとなっている。そのなかで、原子力の仕組みや放射能に関わる事象を目に見える形で伝えようとする試みも、さまざまに行われてきた。

2021年4月に話題となった、放射性物質をキャラクター化した広報の問題は、その1つの失敗例だと言える。この出来事は、福島第一原発の廃炉作業に伴って生じる「ALPS処理水」を海洋放出によって処分するという政府の決定[2]を受け、復興庁がその安全性をPRするために公開した広報物の表現をめぐるものだ。そのなかで、処理水に含まれる放射性物質のトリチウムをキャラクター化し、丸顔で緑色の生き物のような姿で描いたことが「問題を矮小化している」といった批判を呼び、これらの広報物はすぐに公開停止となった[3]。たしかに、トリチウム自体の危険性[4]はともあれ、地元の漁業者などへの風評被害を含めた影響が懸念されるなか、安全性をアピールする文脈でこのような一見してかわいらしいイメージを使うことは、印象面に訴えかけようとしていると受け止められかねない。一方で、まさに風評被害が大きな懸念となっている以上、広く一般の人々に状況の理解を促すべく、難解な科学的説明やデータの提示以上の工夫が必要だと考えること自体には、一定の妥当性があるだろう。そのなかで、放射性物質のビジュアルイメージが争点となったわけだ。

このような課題は、決して科学者や行政の専門家だけのものではない。例えば、福島の事故以前から原子力のイメージはさまざまな大衆文化のなかにも繰り返し登場してきた。放射能を恐れてブラジル移住を計画する主人公を描いた黒澤明監督『生きものの記録』(1955)や自ら原爆を作って政府を脅迫する教師が主人公の長谷川和彦監督『太陽を盗んだ男』(1979)といった映画や、放射能が生んだ怪獣の物語である『ゴジラ』(1954)をはじめとする様々な特撮作品、そして広島の原爆体験を主題化した「はだしのゲン」(1973-87)のように、マンガもまた例外ではない[5]。本稿では、福島第一原発事故以前と以降に原子力や放射能を描いたいくつかのマp.114ンガ作品をとりあげ、それらがどのようにして、この目に見えないモチーフのビジュアル化を試みていたかを検討する。この議論を通して、福島の事故が原子力表象にもたらした変化とともに、不可視のものを描くマンガ的な方法の一端が明らかになるはずだ[6]

1 「はだしのゲン」における被爆/被曝

中沢啓治「はだしのゲン」は、原爆投下によって甚大な被害を受けた広島とそこから再び歩み始める人々の姿を、主人公の少年・中岡元(ゲン)の視点から描いたマンガ作品である。1973年から74年にかけて『週刊少年ジャンプ』に、その後87年まで『市民』『文化評論』『教育評論』といった左派系の論壇誌に連載されたこの作品は、1975年から出版された汐文社版の単行本が学校図書館を中心に教育現場で受容されたこともあり、幅広い世代に知られることとなった[7]。一貫して反戦を訴えた物語と、原爆被害を中心とした恐ろしい戦争の描写から、本作はしばしば「平和教材」としても扱われてきた。では、本作において、原爆やそれによってもたらされる放射能はどのようなイメージによって描かれていたのだろうか。

原爆被害を中心とした残酷な描写で知られる「はだしのゲン」[8]だが、原爆が投下される瞬間の描写は意外にもあっさりとしたものだ[9]。飛行機から落とされる瞬間の原爆のイメージで始まるこのページでは、ページの8分の1程度の小さなコマに上空での爆発の瞬間が放射状の光線として示されたのち、続くコマでは「ピカーッ」という描き文字と共に強い光に照らされるゲンのシルエットが描かれている。「なん万個の写真のフラッシュを爆発させたような高熱の白い光」と説明されるものの、その破壊力は視覚的には示されていない。原爆の破壊力は、続くページで爆風によってなぎ倒される電柱や家屋が描かれ、煙に包まれる広島を上空から捉えたイメージが登場することで、はじめてはっきりと表現される。続くページでは「悪魔がほえたけるように三分間で」「三万二千フィートまで上昇し」たと語られる「原子雲」が、ページの高さを最大限に使った縦長のコマで描かれ、象徴的なイメージとなっている。この3ページが原爆投下の瞬間を描いているのだが、ここでは熱線を受ける人々や爆風で崩壊する街並みといったショッキングな被害のイメージはほとんど登場せず、放射能の問題も明示的には現れていない。残酷ともされる描写が登場するのは、むしろその後である。

瓦礫の隙間から抜け出したゲンは、周囲の瓦礫のなかに顔面がひどくただれた死体を次々に発見してしまう。これに驚き、あわてて走り出したゲンは、ここでようやく「家がみんなペッシャンコ」になっていることに気付き、マンガもまた見開きの横幅を最大限に利用してこの崩壊した街の風景を描き出す[10]。これ以降読者は、ひどい火傷によって皮膚がはがれたまま歩く者や、爆風で割れたガラスが全身に突き刺さった者など、凄惨な被害の様子をゲンと共に目撃していくことになる。

以上のように、「はだしのゲン」における原爆は、その投下によってどのような規模でいかなる被害をもたらしたかといった結果から出発するのではなく、ゲンの歩みとともに徐々にその実態が明らかになっていくような形で描かれている。このような表現は、この作品の語り口のp.115全体的な特徴とも関わるように思われる。加治屋健司は、本作がしばしば「主人公の行動よりも感情に焦点を当て、元が目撃した情景をもっぱら主観コマで描いている」[11]ことを指摘し、このような表現が「読者に深い情動を引き起こして、忘れがたい印象を与え」[12]たと考察している。たしかに「はだしのゲン」では、ゲンの視点を通して状況を描くことで、この主人公が受けたショックや悲しみ、怒りといった情動を読者にも体感させるような表現が基調となっていた。原爆投下のシーンも、ゲンが知りえない被害の全容を描き出すのではなく、彼が目撃しえた光景を通してその衝撃を伝えようとしたものと理解できる。

このような方法は、被害者の視点から強い情動とともに原爆の被害を伝えることに成功した一方で、放射能という、ゲンがその仕組みを知りえなかった不可視の脅威について直接的に描くことを困難にしてもいた。本作において放射能の恐怖は、基本的に「原爆症」の症状を通して描かれる。作中ではじめて明示的にこの症状が登場するのは、焼け跡をさまようゲンが出会った一人の兵士のケースである。「体のじょうぶなことだけはじまんできたのに死体の整理に広島へきてから体がだるくてしかたない」と訴えるこの兵士は、髪が抜け落ち、寒気に襲われ、ゲンの目の前で血を吐いて倒れ、やがて死んでしまう[13]。この直後にゲン自身も髪が抜けはじめると、自分も兵士と同じように死ぬのではないかと恐怖にかられるゲンの姿に、ナレーションは以下のように語る。

原爆は広島市の町を破壊しただけではなかった 爆発といっしょに広島市のいたるところに放射能をまきちらしていたのだ

なにもしらない健康な人びとの体内にくいこんで細胞の破壊をつづける原爆の第二の恐怖 原爆症がもうはじまっていた……[14]

ここでは、原爆症の症状がゲンの体験を通して強烈に描かれる一方で、放射能自体については簡単な文章によって説明がなされるのみである。その後も放射能の問題は、被曝による症状や被曝者に対する世間からの差別といった形で描かれていくことになる。そこでは、原子力というテクノロジーの仕組みや放射能といった現象の科学的背景への関心は、ほとんど現れてこない。むろんそれは、放射能の科学的な理解や被爆/被曝といった区別よりも、原爆によって受けた苦しみそのものが切実な問題であるという、被ばく者のリアリティに根ざしたものであっただろう。基本的にゲンの視点を通して衝撃的な光景を描くことを選んだこの作品では、放射能それ自体をビジュアル化するのではなく、それによって引き起こされる症状や、被曝者に対する社会の反応といった形で、放射能の脅威が描かれることとなった。

2 竜田一人、萩尾望都、しりあがり寿

爆発によって市街を破壊するとともに多数の死傷者を出し、後年まで残る重篤な健康被害をもたらした原爆に比べると、福島第一原発での事故はその影響をはっきりとイメージすることp.116が難しい[15]。一方で、だからこそ、とくに事故からしばらくの間は、原発から離れた地域でも放射性物質の拡散による被曝の危険性が恐れられ、漠然とした不安が人々の間で広く共有されたのではなかっただろうか。このような事態を視覚的に表現することには、原爆の場合とは異なる難しさがあるように思われる。では、マンガはいかにしてこの課題と向き合ったのだろう。

2013年から『モーニング』で発表された「いちえふ」[16]は、福島第一原発事故の収束作業を通して、放射能がより身近なものとなった事故後の社会の一面を描き出している。作者自らの体験をもとに語られる通称「いちえふ」での収束作業の現場は、厳重な防護服姿に線量計を携帯し、常に被曝線量を管理することが求められる過酷なものだ。そこには当然、放射線量が高い場所での作業のシビアな側面が現れている。一方で本作は、この現場をごく普通の人々が働く場所としても描こうとしている。休憩時には冗談が飛び交い、防護マスクのせいで痒くてもかけない鼻が作業中のストレスになるような、人間の生きる現場としての「いちえふ」のイメージを伝えることが、本作の狙いだったように思われる。ジャーナリスティックでありながらエッセイ的でもあるそのスタイルは、過酷さとある種の「普通さ」が入り混じった現場の空気にふさわしいものだ。日々線量を管理しつつ、身近な脅威としての放射能と向き合いながら働く作業員たちの姿は、事故によって生まれた新たな光景でありながら、福島から遠く暮らす私たちの「日常」にも地続きのものとして感じられるだろう。

このようなルポルタージュ的な手法とは全く異なるやり方で放射能を表現しようとした作品として、萩尾望都による「プルート夫人」[17]「雨の夜―ウラノス伯爵―」[18]「サロメ20××」[19]の連作短編シリーズが挙げられる。『月刊flowers』の2011年10月号から2012年3月号にかけて発表されたこれらの作品は、いずれも放射性物質を擬人化したものである。プルトニウムの擬人化であるプルート夫人は男たちを惑わす絶世の美女、ウランの擬人化であるウラノス伯爵は人々に富をもたらす見目麗しい青年、そしてウランから生まれたプルトニウムの擬人化であるサロメは魅惑的な踊り子として描かれている。これらはいずれも、危険でありながら人々を惹きつける人物として放射性物質を描くことで、原子力の可能性に期待を抱き続けてきた人類の歴史と原子力なしには生きていくことができないその現状をアイロニカルに表現している。中尾麻伊香は、戦前の日本において放射能や原子力が「その神秘的な捉えどころのなさゆえに、さまざまな可能性を秘めた魅惑的な対象」[20]としてイメージされてきた過程を明らかにし、それが戦後日本における原子力の受容につながっていったことを指摘していた。萩尾の作品は、このような長い歴史を持つ人々の放射能に対する心性を捉えたものだと言えるだろう。

一方で、これらの作品が放射性物質に与えている性格は、結果的にむしろ放射能を再び神秘化しかねないようにも思われる。例えばプルート夫人は、その危険性ゆえに魔女裁判の如き法廷で断罪されようとするのだが、半減期2万4千年という人間にとっては永遠ともいえる寿命のために、最終的にはあらゆる人類がいなくなった後まで生き延び、「愛しているのにみんな消えてしまったわ」とつぶやくのである[21]。中尾が指摘していたように、放射能の魅力がしばしば「科学と魔術の混同」によってもたらされていたこと[22]を思えば、プルトニウムを魔女に見立てたうえ、まさしく一種の魔女のようにその永遠的な生を描くという「プルート夫人」の結p.117末は、放射能を再魔術化しているようにも見える。この点において本作は、作品がアイロニカルに示したはずの事態に、自らも引き寄せられていたのかもしれない。

しりあがり寿による一連の作品は、このような神秘化をさけながら、放射能をマンガ的イメージによって描こうとする試みだったと言えるだろう。しりあがりは、2002年から朝日新聞の夕刊で連載を続けている「地球防衛家のヒトビト」をはじめとする様々な作品を通して、いち早く震災や原発事故をマンガで扱うことに挑戦した作家である。これらの作品は、2011年8月に出版された『あの日からのマンガ』[23]、2015年3月に出版された『あの日からの憂鬱』[24]の2冊の作品集にまとめられている。なかでも、「希望」という文字に大きな×印が重ねられたタイトルを持つ16ページの短編作品[25]は、本稿の関心から特に重要なものだ。

『月刊コミックビーム』2011年6月号に発表されたこの作品では、放射性物質のキャラクター化が試みられている。ヨウ素が小さな子供、セシウムが若い姉、ストロンチウムがたくましい兄、そしてプルトニウムが仙人のような長老という疑似家族的な設定は、それぞれの核種の半減期を年齢に見立てたものだ。擬人化という点では萩尾と同様の手法がとられた一方で、しりあがりのスタイルは、流麗なタッチで美男美女を描いた萩尾のものとは大きく異なっている。シュールでユーモラスな作風で知られるこの作家は、きわめてラフな、いわば「落書き」的なゆるさによってこれらのキャラクターを描き出した。このゆるさは、彼/彼女たちに一見して親しみやすい印象を与えている。実際、メアリー・ナイトンも指摘するように、本作には、「目に見えない放射性物質を可視化し、読みやすいものにする」ことで「奇妙な安らぎ」を与え、「「原子力神経症」を軽減する」[26]ような側面があったように思われる。ナンセンスなジョークを交わし、「外の世界」を見てみたいと話す無邪気なキャラクターたちの姿は、いたって卑近なものだ。

しかし当然、本作はそこでは終わらない。「ワシらは外でキラワれている」という長老の言葉に、それでも「話せばわかってもらえる」と、外の世界への「希望を捨てない」キャラクターたちの姿は、次第にどこか不穏なものとなっていく。ラストでは彼/彼女たちの世界に亀裂が生じ、放射性物質はそこから外の世界へと飛び出していく。明らかに原発事故を描いた寓話的な物語をしめくくるのは、これまでとは一転してリアリスティックなタッチで描かれた、水素爆発後の原発建屋の俯瞰的なイメージである。この結末をめぐるナイトンの指摘は示唆に富む。

政治や原子力といった複雑な問題について不安を抱く人々を教育し、その恐怖を鎮めるために、政府や企業、報道機関がマンガを広く利用していることを考えれば、この「リアリスティックな」結末は、マンガというメディアやその監督的な役割を自己反省的に批判しているのかもしれない[27]

この作品は放射性物質を卑近なキャラクターとして描きながら、最後には、彼/彼女たちにとっての「希望」であると同時に人類にとっての脅威であるような「外の世界」への旅立ちを、厳然たる「現実」として示していた。だからといって、放射性物質は悪魔化されるわけでも神p.118秘化されるわけでもない。彼/彼女たちはただ無邪気で素直なままであり、それを恐れているのは私たち人間に他ならない。そう理解していてもなお、結末を踏まえてもう一度この作品を読むときには、はじめて見たときと変わらないはずのキャラクターの姿が、その無邪気さゆえにかえって不気味なものに見えてしまうはずだ。マンガ的なキャラクター化を介することでしりあがりが実現したのは、悪意でも神秘でもない単なる現象としての放射能のイメージに、それでもなお絶えず不安を読み込んでしまう原発事故以降の私たちの姿を重ね合わせることではなかったか。そしてこの挑戦を支えているのは、ときに無邪気で、ときに不気味なものとして現れうるイメージのアンビバレンスに他ならない。

おわりに

山本昭宏は、戦後日本における原子力イメージの歴史を追った著書の冒頭で、手塚治虫による1枚の風刺漫画を引いている。1985年の「手塚治虫漫画四〇年展」のために描かれたというこの作品には、漁民たちの抗議によって追い立てられ涙を流すアトムの姿が描かれていた[28]。50年代から60年代にかけて新たな科学技術を象徴するヒーローとして受け入れられたアトムは、ここでは危険な原子力ロボットとして追放されてしまう。この風刺漫画ではアトムの体から放射性降下物と思われる黒い粉が落ちてきているものの、アトムのイメージ自体はかつてと変わらないものだ。イメージは変わっていない。変わったのはイメージに読み込まれる意味である。この風刺漫画は、同じものであるはずのキャラクターイメージが、時代の変化とともに異なる意味を持ちうることを示している。これは決してアトムだけの問題ではないはずだ。イメージの意味をあらかじめ一義的に確定することはできないのだから。しりあがりの作品は、このようなイメージの不確かさを逆手にとることで、事故後の原発と共に生きていくほかない私たちの不確かなリアリティを描いていた。

このように考えるなら、本稿冒頭で取り上げた、処理水の広報におけるトリチウムのキャラクター化は、二重の意味で失敗していたと言わなければならない。すなわち第一に、安全性をPRするという明確な立場のもとにキャラクターイメージを用いることが、印象操作的だと受け止められたという点において。そして第二に、そもそもかわいらしいキャラクター的イメージを用いれば安全性を印象付けることができると考えた点において。アトムに起こった反転のように、ゆるキャラ的なイメージがいつも見る者に安心感を与えるとは限らない。広報物に登場した緑のキャラクターもまた、例えばじっと見続けているうちに、どこか不気味なものに見え始めるかもしれない。イメージは、送り手がコントロールしきれるものではない。イメージを介したコミュケーションはいつでも、この厄介さから出発するほかないのだろう。

参考文献

しりあがり寿『あの日からのマンガ』エンターブレイン、2011年。

しりあがり寿『あの日からの憂鬱』エンターブレイン、2015年。

竜田一人『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』1-3巻、講談社、2014-2015年。

中沢啓治『はだしのゲン』1-10巻(kindle版)汐文社、2015年。

萩尾望都『新装版 萩尾望都作品集 なのはな』小学館、2016年。

 

Jaqueline Berndt “The Intercultural Challenge of the “Mangaesque”: Reorienting Manga Studies after 3/11”, Jaqueline Berndt / Bettina Kümmerling-Meibauer (eds.), Manga’s Cultural Crossroads, Routledge: New York, 2013, pp. 65-84.

Mary Knighton, “The Sloppy Realities of 3.11 in Shiriagari Kotobuki’s Manga しりあがり寿がマンガで描く3.11のぞんざいな現実”, The Asia-Pacific Journal: Japan Focus, 11(26), 2013 (https://apjjf.org/2014/11/26/Mary-Knighton/4140/article.html).

小川崇/山本孝興「「トリチウム」をゆるキャラ化? 復興庁、批判受け削除」朝日新聞デジタル、2021年4月14日(https://www.asahi.com/articles/ASP4G74WCP4GUTIL03F.html)。

加治屋健司「情動はいかに作動するか 「はだしのゲン」における視覚のポリティクス」ジャクリーヌ・ベルント編『世界のコミックスとコミックスの世界 グローバルなマンガ研究の可能性を開くために』京都精華大学国際マンガ研究センター、2010年、221-238頁。

中尾麻伊香『核の誘惑 戦前日本の科学文化と「原子力ユートピア」の出現』勁草書房、2015年。

福間良明「「原爆マンガ」のメディア史」吉村和真/福間良明編『「はだしのゲン」がいた風景 マンガ・戦争・記憶』梓出版社、2006年、10-58頁。

山本昭宏『核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』中公新書、2015年。

吉村和真「『はだしのゲン』のインパクト マンガの残酷描写をめぐる表現史的一考察」吉村和真/福間良明編『「はだしのゲン」がいた風景 マンガ・戦争・記憶』梓出版社、2006年、246-293頁。

「ALPS処理水の処分等についての会見」首相官邸、2021年4月13日(https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2021/0413_2kaiken.html)。

「処理水ポータルサイト」東京電力(https://www.tepco.co.jp/decommission/progress/watertreatment/)。

「避難区域の変遷について-解説-」福島県(https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/cat01-more.html)。

「平成23年東北地方太平洋沖地震による被害状況即報(四半期に1回更新)」福島県(https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/shinsai-higaijokyo.html)。

 

Notes

  1. [1]

    日本における「核/原子力」に対するイメージの変遷については、近年、包括的な研究成果が発表されている。戦前期については中尾麻伊香『核の誘惑 戦前日本の科学文化と「原子力ユートピア」の出現』(勁草書房、2015年)が、戦後については山本昭宏『核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』(中公新書、2015年)が詳しい。

  2. [2]

    政府決定をめぐる当時の菅総理大臣による会見の内容は、首相官邸HPから見ることができる(「ALPS処理水の処分等についての会見」首相官邸、2021年4月13日、https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2021/0413_2kaiken.html)。

  3. [3]

    出来事の概要については、以下を参照。小川崇/山本孝興「「トリチウム」をゆるキャラ化 ? 復興庁、批判受け削除」朝日新聞デジタル、2021年4月14日(https://www.asahi.com/articles/ASP4G74WCP4GUTIL03F.html)。

  4. [4]

    東京電力によるポータルサイトでは、水素の仲間であるトリチウムから放出される放射線は弱く人体への影響は低いとされること、処理水の放出にあたってはその濃度を国の安全規制やWHO の飲料水水質ガイドラインの基準よりも十分低くなるまで希釈することなどが説明されている(「処理水ポータルサイト」東京電力、https://www.tepco.co.jp/decommission/progress/watertreatment/)。

  5. [5]

    山本、前掲書。

  6. [6]

    福島第一原発事故とマンガにおける原子力表象との関係を扱った論文として、Jaqueline Berndt “The Intercultural Challenge of the “Mangaesque”: Reorienting Manga Studies after 3/11”(Jaqueline Berndt / Bettina Kümmerling-Meibauer (eds.), Manga’s Cultural Crossroads, Routledge: New York, 2013, pp. 65-84)が挙げられる。主に作品と社会との関係に注目したものだが、本稿の関心からも示唆に富む。

  7. [7]

    本作の連載と作品受容の経過については、以下を参照。福間良明「「原爆マンガ」のメディア史」吉村和真/福間良明編『「はだしのゲン」がいた風景 マンガ・戦争・記憶』梓出版社、2006年、10-58頁。

  8. [8]

    本作の残酷描写をマンガ表現の歴史のなかに位置づける試みとして、以下を参照。吉村和真「『はだしのゲン』のインパクト マンガの残酷描写をめぐる表現史的一考察」吉村和真/福間良明編『「はだしのゲン」がいた風景 マンガ・戦争・記憶』梓出版社、2006年、246-293頁。

  9. [9]

    中沢啓治『はだしのゲン(1) 青麦ゲン登場の巻』(kindle版)汐文社、2015年、250-252頁。

  10. [10]

    同前、253-255頁。

  11. [11]

    加治屋健司「情動はいかに作動するか 「はだしのゲン」における視覚のポリティクス」ジャクリーヌ・ベルント編『世界のコミックスとコミックスの世界 グローバルなマンガ研究の可能性を開くために』京都精華大学国際マンガ研究センター、2010年、228頁。

  12. [12]

    同前、236頁。

  13. [13]

    中沢啓治『はだしのゲン(2) 麦はふまれるの巻』(kindle版)汐文社、2015年、46-55頁。

  14. [14]

    同前、60頁。

  15. [15]

    影響をイメージしにくいことは、それが小さいことを意味しない。事故の直後から原発の周辺地域には避難指示が出され、多くの住民が故郷を追われた。事故から10年以上が経過した2022年8月30日現在でも、双葉町、富岡町、大熊町、浪江町、葛尾村、南相馬市、飯舘村の一部地域に「帰還困難区域」が残されており、3万人ほどが避難を続けているという。「避難区域の変遷について-解説-」福島県(https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/cat01-more.html)。「平成23年東北地方太平洋沖地震による被害状況即報(四半期に1回更新)」福島県(https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/shinsai-higaijokyo.html)。

  16. [16]

    竜田一人『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』1-3巻、講談社、2014-2015年。

  17. [17]

    萩尾望都『新装版 萩尾望都作品集 なのはな』小学館、2016年、33-64頁。

  18. [18]

    同前、65-96頁。

  19. [19]

    同前、97-128頁。

  20. [20]

    中尾、前掲書、335頁。

  21. [21]

    萩尾、前掲書、64頁。

  22. [22]

    中尾、前掲書、331頁。

  23. [23]

    しりあがり寿『あの日からのマンガ』エンターブレイン、2011年。

  24. [24]

    しりあがり寿『あの日からの憂鬱』KADOKAWA、2015年。

  25. [25]

    しりあがり、前掲書、2011年、57-72頁。

  26. [26]

    Mary Knighton, “The Sloppy Realities of 3.11 in Shiriagari Kotobuki’s Manga しりあがり寿がマンガで描く3.11のぞんざいな現実”, The Asia-Pacific Journal: Japan Focus, 11(26), 2013, p. 19(https://apjjf.org/2014/11/26/Mary-Knighton/4140/article.html).

  27. [27]

    Ibid., p. 21.

  28. [28]

    山本、前掲書、i-ii頁。

この記事を引用する

陰山涼「マンガにおける原子力のビジュアルイメージ」『Phantastopia』第2号、2023年、112-121ページ、URL : https://phantastopia.com/2/nuclear-energy-in-manga/。(2024年03月29日閲覧)

執筆者

陰山涼
KAGEYAMA Ryo

博士課程。主に1920年代以降の日本におけるマンガ表現の歴史について、科学技術のイメージとのかかわりに注目しながら研究しています。
【主な業績】
「田河水泡「人造人間」におけるキャラクターの「内面」と「暴走」」、『マンガ研究』vol. 28、2022年、pp. 30-59。
「戦前・戦時下の日本マンガにおける飛行機」、『Phantastopia』第1号、2022年、pp. 77-95。
「二一世紀のイソップ  『デルポイへの道』における寓意・模倣・宿命」、『ユリイカ』第54巻第13号、青土社、2022年、pp. 214-223。

https://ryokageyama.com/

Phantastopia 2
掲載号
『Phantastopia』第2号
2023.03.27発行