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論文

ミシェル・セールの個体化論と有機体〈ヘルメス〉から

中山義達

p.210はじめに

石であれ、花であれ、獣であれ、人であれ、これらはすべて学知によって探究されうるものであると同時に、日常的に知覚される物でもあり、対象(objet)である。そうだとすれば、これらのあいだに存在論的な区別を設ける所以などないのではないか。ミシェル・セール(Michel Serres, 1930-2019)が『干渉』(1972年)第二章において提示しようとした理論は、あらゆる物質的な存在者を対象として、その存立の様相を一元的に記述することを試みる自然哲学であった。

しかし、生命はどうか。生物と非生物とのあいだにいかなる境界も認めないことが直感的には困難であるならば、問うべきは、生物という対象が非生物とどのように同じで、どのように異なるのかということではないか。いいかえれば、問題は、生物が物であり、しかしたんなる物ではないとはどういうことか、ということである。

本稿は、『干渉』第二章で展開されるミシェル・セールの対象をめぐる理論を学知の対象の成立と個物の個体化とを統合的に扱うことを試みるものとして再構成したうえで、この理論をもって先の問いに取り組むと、セール自身の有機体概念をとおしてその限界が立ち現れることになるという逆説的な帰結を示すものである。

まずは、『干渉』第二章における対象をめぐる理論を情報理論の導入の観点から再構成する。それから、質料形相論という語をもってそこで展開される個体化論と個体概念の内実をやはり情報理論とのかかわりから明らかにし、この理論が、客観性を主観性に先立たせる、認識論的かつ存在論的なものであることを示す。そのうえで、セール自身の有機体概念が生物という対象の理解に際して一定の実りをもたらすと同時に、『干渉』では扱いきれないものを要請することになる展開をたどってゆくことにしたい[1]

1.    自然的な対象の認識

セールは次のように問いを立てる。「この宇宙のなかに客観的に存在しているものは何か」、いいかえれば、「経験=実験可能な(expérimentable)諸対象とは何か」と[2]。「経験=実験可能な諸対象とは百科学が自ら知覚できる対象にほかならない[3]」のだから、客観的に存在しているものとはまずもって学知の対象(objet scientifique)であり、彼はここで、学知の対象として存在しうるものはどのようなものかと問うているのである。

ここでセールが求める学知の対象は、主観に依存しない仕方で、客観的な仕方で存在するのp.211でなければならない。「干渉(interférence)は相互準拠(inter-référence)と読まなければならない[4]」というセールの断言にしたがうならば、『干渉』第二章の「客観的な干渉(L’interférence objective)」という表題は、「対象の相互準拠」と理解される。主観という準拠なしに、諸対象が相互に準拠して、それら自身によって客観的に存在しうるような理論の構築が、セールの目的である。「事物そのものに還らなければならない[5]」のだ。

ここでセールが退けようとしているのは、彼が「新新科学的精神の哲学」を標榜していることからも推察されるとおり、直接的にはガストン・バシュラールの「新科学的精神」における学知の対象のあり方である[6]。そこでは、学知の対象は主観に依存する。「物理学者は、蜂の巣から今とってきたばかりの蜜蝋を研究することはない[7]」と述べるバシュラールにおいて、例えば蜜蝋が学知の対象となるためにはそれが自然のままであってはならず、人為的な方法的操作を経て純化されなければならない。学知の対象としての蜜蝋はもはや、「それが集められた花の香りを少しもとどめていない。その代わり、それを純粋なものにした配慮の証拠を身につけている[8]」。作為的経験と呼ばれるこの配慮があってはじめて蜜蝋は学知の対象として実現される。金森修が「技術・工学的反実在論」と呼んだバシュラールの科学認識論において[9]、学知の対象が成立するのは人間主体による事物に対する対象化の操作がなされるかぎりにおいてであり、それは自然的な対象(objet naturel)とは区別されるのである。

バシュラールとともにフランス科学認識論を代表する哲学者ジョルジュ・カンギレムもまた、自然的な対象と学知の対象とを峻別する。結晶という対象を例にとって彼は次のように述べる。

結晶は所与の対象である。結晶科学においてたとえ地球の歴史や鉱物の歴史をも考慮に入れねばならないとしても、その歴史の時間自体がすでにそこに与えられた対象なのである。だから、結晶状の対象は、獲得すべき知の対象としてそれを捉える学知に比べると、その言説からは独立なままにとどまっている。ゆえに人はそれを自然的な対象というのである。もちろん、このような自然的な対象は、それについてなされたすべての言説の外では、学知の対象ではない[10]

ある結晶は、それが形成されてきた歴史をそれ自身のうちにもっており、その歴史をわれわれに対して一挙に現前させる自然的な所与の対象である。しかし結晶学が明らかにしようとするのはその歴史そのものではなく、結晶類型を定義する諸結晶に共通の結晶構造等である。自然的な対象は、個々の事物がはらむ歴史を排除し非時間性を志向する学知にとっては、その対象ではない。それは学知の産出する言説のなかには居場所をもたない。カンギレムにおいても、自然的な対象と学知の対象とは決して同じものではないのである。

セールはこの二人に反旗を翻す。彼にとっての課題は第一に、「自然的な対象は学知の対象である」という言明が可能になる仕方で科学認識論を構築することである。個々の自然的な対象が、主体による介入なしに客観的に存在する学知の対象ともなるのでなければならないのだ。

争点となるのは、カンギレムによって排除された歴史である。「学知とは、歴史ではなくまたp.212歴史をもたない対象についての学知である[11]」と述べる彼に反して、学知は、個々の事物の歴史をも対象とすることができなければならない。

このような問題に対してセールは、具体的には固体を、より具体的には蜜蝋を範となる対象として論述を進めていく[12]

セールによれば、固体は変形しうるものだが流体ほどには変形しやすくなく、先行の変形を保存し、新たな変形に抵抗する。「〔固体は〕残存物と痕跡の場であり、あらゆる固体は記念碑、すなわち証人、情報の貯蔵庫である[13]」。『省察』のデカルトの眼前にあった蜜蝋は、蜜蜂が集めた蜜の味を保ち、花の香りを放つ。巣箱の形を保存し、表面に傷を負ったままである。この蜜蝋は、他の諸事物とのかかわりのなかで得たさまざまな情報を保存している[14]。「諸事物は相互に情報を与え合って(s’entre-informent)[15]」おり、固体は情報を自らにおいて保存し、また失うのである。

このように理解される固体において、個々の固体がもつ歴史とは、何らかの仕方で読み取り可能な情報の記録であり、あるいは情報の保存と消失の継起である。今ここにある一片の蜜蝋は、それが他の諸事物と相互に情報を与え合ってきた形跡をそれ自身のうえに保存している。『干渉』においては、それこそが固体がもつ個別的な歴史にほかならない。

固体の歴史は、セールによって二つに区別される。この区分は、デカルトが蜜蝋を火に近づけ溶かしてしまったという『省察』で記述される経験、そしてそれをめぐるバシュラールの議論から引き出される[16]

デカルトの経験──蜜蝋を火に近づける──、バシュラールが「曖昧な経験」とよんだものは、実際、ひとつの歴史である。ひとつには語られる歴史という意味においてである。すなわち、完全に予見不可能な出来事の継起、規定の手続きではなく語り、あれこれの実験を行う理由の不在、規制するものとしての理論ではなく結果として生じる理論である。もうひとつには、人によって書かれる歴史、さらにいえば、蜜蝋のうえに書かれる歴史という意味においてである。この曖昧な経験の過程で、蜜蝋はひとつの情報を受けとる。しかしまた、この情報が予測もできないほどに変わりやすいものであるから、この解読を試みるなどということは、デカルトにはまったく思いもよらないことである[17]

一方の「書かれる歴史」は、「規定の手続き」を経て対象化された蜜蝋に刻まれたものであり、人間によって書かれた人為的な情報の保存と消失の継起である。もう一方は、デカルトが感官をとおして把握した蜜蝋の香り、色、形、硬さなどであり、蜜蝋を火に近づけるやいなや失われると同時に、デカルトは、蜜蝋は溶けるという新たな情報を受けとる。この歴史は、デカルトにとって──バシュラールにとってもまた──、学知の対象とはなりえないほど移ろいやすい。この決して安定してはいない情報の保存と消失の継起とが、ここで問題とすべき「語られる歴史」である。

セールは、固体が歴史をもつということがまずもってもたらす事態を先に挙げたカンギレムp.213に近しい態度で指摘しつつ、自らの議論の展開を正当化してもいる。「固体が歴史をもつ。これは第一の、決定的な教訓である。なぜなら、自然の対象が歴史的であるやいなや、それは精密科学の手を逃れるからである[18]」。この一節はむしろ、それ自体歴史をもつ固体を範として論を進めるセールの選択を支えている。というのも、この歴史をもつ固体をそのまま学知の対象とすることは、セールがここで取り組む問題の解決にほかならないのだから。いいかえれば、「自然的な対象は学知の対象である」という主張が可能となるためには、すなわち、学知の対象の成立に際して主観が排除されるためには、学知は、語られる歴史をも対象とすることができなければならないのである。

セールの問いをあらためて定式化し直すならば、次のようになるだろう。すなわち、個々の固体に刻まれた語られる歴史を客観的に存在せしめることはいかにして可能か、と。彼が構築する理論がこの問いに対して可能であると答えうるということを理解するためには、ひとたびセールのテクストから離れて、彼が導入する情報理論に目を向けなければならない。なぜなら、歴史の内実が情報という語によって形づくられているのだとすれば、なすべきは情報を客観的なものとして示すことであり、ここでセールは、コミュニケーションと情報という情報理論に由来する二つの概念を駆使してこの課題に取り組むからである。

クロード・シャノンは、記念碑的な論文「コミュニケーションの数学的理論」(以下MTCと略記)において、情報を定量的に扱うことを可能にする情報理論の基礎を築いた。この理論において、コミュニケーションはメッセージをある地点から別の地点へと伝達することとされるが、ここで伝達・共有されるメッセージは、「可能なメッセージの集合のなかから選ばれたものである[19]」。例えば英語でコミュニケーションを行うときに発信されるあるメッセージは、アルファベットと空白と諸記号の可能な組み合わせの集合から選び出されるものと理解される。

メッセージの伝達が工学的な観点から取り扱われるとき、その意味は無視されなければならない。ワレン・ウィーバーの言葉を借りれば、意味的に重要なメッセージとそうではないメッセージに関して、「情報に対する今の視点からすれば、二つのメッセージはまったく等価であるということがありうる[20]」。メッセージの意味を考慮せずそれを形式的に扱うことで、物理理論としての情報理論によって、コミュニケーションが客観的なものとしてのメッセージの伝達として、客観的に存在するものとして扱われることが可能になるのである。

では、情報とは何か。『干渉』のセールがこの概念を定義することはないが、セールは明らかに情報理論を哲学へと導入しており、ここでの情報概念の内実を理解するためにはやはり情報理論を参照すべきだろう。

情報理論に関してセールの主要な参照項となるレオン・ブリユアンによれば、情報が数学的理論によって扱われるためには、やはり人間的な意味や価値を考慮してはならない。そうすることによってはじめて、「情報の定量的な定義が可能になり、情報を物理的に測定可能な量として取り扱うことが可能になる[21]」。

情報の定量的な定義は確率に基づいてなされる。すなわち、情報はあるメッセージが選び出される確率(生起確率)の関数として定義される。生起確率が大きい事象について情報量は小p.214さな値を示し、生起確率が小さい事象について情報量は大きな値を示す。情報は、あるメッセージが生起したときの不確実性の減少という観点から定量化されるのである[22]

このように確率に基づいて定義される情報は、エントロピーという物理量によって表される。エントロピーは、きわめて単純化していえばある物理系の乱雑さの度合いを示すものである。「乱雑さは秩序の観点から定義してよい。つまり乱雑さとは秩序の不在である[23]」ならば、エントロピーの増大は秩序の度合いの減少であり、あるいは無秩序の度合いの増大である。

エントロピーは、個々の分子の振る舞いを度外視する確率論的、統計的な観点に立脚したものであるから、確率に基づいて定量化される情報の観点からすれば、「エントロピーは実際の構造に関する情報の不足を表す尺度である[24]」。よってエントロピーは、系の微視的配置の不確実性の度合いとして解釈されることになる。

したがって、ある系について情報を得ることはエントロピーを減少させることであり、逆にいえば、情報を得ると負のエントロピーすなわちネゲントロピーが増大する。情報はネゲントロピーによって表され、それは「ネゲントロピーに変化させることができる[25]」。エントロピーは乱雑さの度合いであり、乱雑さは秩序の不在であったのだから、ネゲントロピーの増大は無秩序さの度合いの減少であり、情報を得ること、情報量の増大はいまや、秩序の度合いの増大として理解することができる。

したがってわれわれは、情報という概念を非常に広く秩序として理解する。当然それは、情報理論に立脚するかぎりにおいて意味や価値が排除された形式的なものである。この形式的な秩序としての情報は、誰にとっても同じという意味で観測者に依存しない主観を排したものである。いまや、客観的な情報とそのやりとりとしてのコミュニケーションとが考えられるようになるのだ。

セールに立ち戻ろう。もろもろの事物は相互に情報を与え合い、固体は自らのうえに情報を保存する。コミュニケーションと情報を以上のように理解するならば、固体に刻印された語られる歴史としてのもろもろの痕跡を情報とみなすことによって、主観とは無関係な情報の保存と対象間のコミュニケーションの観点から、自然的な対象を理解することが可能になる。先に示したように、情報理論における情報概念は意味を排除されており、観測者に依存しない定量的で形式的な秩序である。蜜蝋は情報をもつメッセージの受信者であり、保存者であり、また発信者でもある。それは花や蜜蜂からもたらされた情報を受信し、また保存し、それをデカルトに向けて発信する。事物に刻まれた痕跡としての情報は、「何らかのコミュニケーションの流れによって輸送される構造の痕跡[26]」であり、形式的な秩序としての情報概念とその伝達を思考するMTCの導入によって、主観に依存することのない情報とそのやりとりが存在するということが理解できるようになる。この情報は形式的なものであり、すなわち客観的なものであるがゆえに、偶発的な出来事によって刻印される情報の保存と消失の継起としての語られる歴史もまた、経験=実験可能な、誰にとっても同じという意味で客観的なものとして思考可能なものとなるのである。

このとき、情報が学知によって認識される客観的なものであるならば、事物の歴史を書きあp.215げる情報を諸対象から出発して引き剥がしていくことが認識するということになる。アンヌ・クラエが適切にも述べているように、「形式的構造は主体よりもむしろ対象の性質[27]」なのだ。学知によって探求される不変の構造は、あとで示すように、それが形式的な秩序であるという点でここでは情報と同一視されるものであり、主体のうちにあるのではなく、人間の手によって対象のうえに書き込まれるだけでもない。ルボヌカ・ビジリナマがいうように、「セールにおいて、この情報こそが認識すべきものであり、唯一認識可能なものなのである[28]」。

いまや、あるがままの事物、自然的な対象が、それと同時に学知の対象でもあるものとして存在するようになる。このような対象の存立において主観は必要ない。情報理論の導入は、対象同士のコミュニケーションと、それによって伝達・共有される情報の対象における保存と消失の継起を客観的なものとして理解することを可能にし、情報によって形づくられる事物の歴史そのものを学知の対象として認識することを可能にする。固体という対象はもはや主観とは無関係に、客観的に存在しうる。「固体による情報の保存は、客観的な情報の可能性とその対象から対象への伝達可能性とを基礎づけている[29]」のであり、対象におけるコミュニケーションと情報の保存によって、われわれは事物そのものへと還ることができるのである。

対象間のコミュニケーションと対象における情報の保存によって、あるがままの対象が学知の対象として客観的に存在することが可能となり、自然的な対象が学知の対象となるならば、コミュニケーションと情報の保存は、『干渉』において存在論的な原理ともなる。セールは、あるがままの対象の存立の条件としてのコミュニケーションと情報の保存の対から出発して、質料形相論というやや古風な語のもとで独自の個体化論を展開していく。コミュニケーションと情報の二概念を基軸としたセールの個体化論を、節を改めて検討することにしよう。

2.    個体化と個体

前節では、情報理論的な思惟の導入によって、自然的な対象と学知の対象とが前者において一致するようになる展開をたどってきた。これはあるがままの対象、日常的に知覚される個々の事物であり、それでいて主観に依存せず客観的に存在する学知の対象でもある。では、このような対象はいかにして存在するようになるのか。

ふたたび蜜蝋を例にとろう。ある養蜂場から採取された一片の蜜蝋は、花や蜜蜂、巣箱から伝達されたメッセージのもつ情報を保存しており、それ自身の歴史、「語られる歴史」をもっている。この蜜蝋は、他のもろもろの蜜蝋とは異なる個別性をもった個物である。これがまさしくこの蜜蝋であるようにするものとは何か。いいかえれば、この個物を個体化するものとは何か。

『干渉』のセールは、アリストテレス的な伝統のうえで、個体化を質料と形相の結合として説明し、個体を形質結合体であるとする質料形相論を組み立てる。「任意の対象は質料形相論的なモデルである[30]」と述べるセールはすでに対象と個体を同一視しているが、個体は質料と形相の二つによって形成され、「個体化はたいていの場合、あるモデルのうえでの多数の形相の層のp.216共存によって理解される[31]」。

ここでモデルと呼ばれているのは、端的に述べれば、形式的かつ抽象的な構造が実現されたものである。構造は、セールにおいて次のように定義される。

構造とは、意味作用が定められていない操作的な集合であり〔……〕、内容が特定されていない任意の数の要素と性質が特定されていない有限の数の関係とをまとめたものである〔強調原文〕[32]

このように定義される構造においては、要素も関係も特定されていないのだから、やはり意味は見出されない。構造とは形式的なものなのである。セールの構造主義において、「〔構造は〕隠された意味論をまったくもっていない。つまり、真の秩序とは形式的な概念そのものの秩序なのである[33]」。構造もまた、情報と同様に、形式的な秩序として理解される。

形式的な秩序としてのある構造に関して、「一定の仕方で、要素の内容や関係の性質が特定されると仮定するならば、この構造のひとつのモデル(パラダイム)が得られる[34]」。あるモデルは、ある構造を具体的な意味をもつものとして実現する。モデルは意味で満たされた構造であり、逆に構造は、それが見出される具体的な諸モデルすべてにとっての形式的な類比物となる。

『干渉』において、対象が質料形相論的なモデルであり、「個別的な現実の対象がそのようなものであるのは、抽象的な構造を押し当てた結果である[35]」ならば、形相と対象との関係は構造とモデルとの関係と同形であり、そうだとすれば、ひるがえって、形相もまた形式的な秩序である。このことは次の一文から明らかであろう。「形相が具体的な意味を、あるいはそもそも意味一般を獲得するのは、それが質料形相論的なモデルにおいて質料と結合することによってのみである[36]」。形相はそれ自身では意味をもたない形式的なものであり、それは形質結合体としての対象において実現されるのである。

このことが指し示しているのは、形相は情報でもあるということである。多数の形相の層の対象における共存としての個体化は、次のようにもいいかえられる。すなわち、「個体化とは〔……〕、情報を受け取り保存する仕方であり、形を与えられそれを与えられ続ける仕方(une manière d’être et rester informé)である[37]」。情報(information)とは、文字どおり形を与えるものなのだ。

蜜蜂や花、巣箱といった諸対象とのコミュニケーションをとおしてメッセージを受け取り、情報を保存する一片の蜜蝋において、それが受信したメッセージのもつ情報のひとつひとつが形相である。蜜蝋における「語られる歴史」は、それが個体化されてきた歴史なのだ。先に、諸対象は相互に情報を与え合うと述べたが、このことは、諸個体は互いに個体化し合うといいかえることができるのである。

質料形相論のもう一方の極である質料は「特異な形相と結合する純粋な可能性[38]」である。それは形相と結合し対象として実現されるが、それ自身は可能的なものにとどまる。「裸の質料は遠い極限──それもおそらくは空虚な極限──としてしか考えられない[39]」。他方で、対象に情報を見出しそれを抽出することが認識であるならば、質料は学知にとっても絶えず遠ざかp.217るものである。「質料はもはや地平線として、つまり過ぎ去った課題もしくは終わりのない課題としてしか考えられない[40]」のである。

このように、対象相互のコミュニケーションをとおして伝達・共有されるメッセージがもつ情報の保存による個体化は、先に引いたように「形を与えられ続ける仕方」でもあり、個体とは幾重にも情報が刻み込まれた「重ね書きされた羊皮紙[41]」である。個体、対象は、絶えざるコミュニケーションのうちにあるならば、個体化され続ける。

また、個体に刻み込まれた情報は永遠に保存されるわけではない。情報の保存には期限があり、保存されていた情報は失われうる。デカルトの蜜蝋は溶けるときにそれがもっていた情報を失ったのであった。個体のうえで、情報は常に書き込まれ、保存され、消失しているのである。

歴史とは情報の保存と消失の継起である。個体が情報を保存し、そして失うならば、個体とはもはや歴史そのものである。事物がもつ語られる歴史は、いまや個体そのものとして考えられるようになるのだ。『干渉』のセールにおいて、個体とはつねに、いわば歴史的個体であり、それは書きかえられ続ける歴史であり、情報と結びつきまた解かれる個体化の過程のうちにあり、こういってよければ個体化的なものである。

このように個体化が理論化されるのならば、もろもろの個体すなわち対象はコミュニケーションによる網目を形成していると考えることができるだろう。「諸事物は相互に絶えざる連続的な対話をしている」のであり、「世界はある情報の発信者、保存者、受信者である諸対象の総体として存在する」とセールは述べるが[42]、情報とコミュニケーションから個体化論を構成することは、世界を諸対象からなるコミュニケーションの網目として考えることに帰着する。ここでは、主体が、われわれの主観的な経験が先にあるのではない。そうではなくて、まずは対象がコミュニケーションとともにある。世界は、「客観的な諸関係によって運動している安定した(保存される)網目[43]」なのである。

情報とコミュニケーションによって、セールはアリストテレス以来の質料形相論を書きかえる。情報は、一方で学知によって探究される構造であり、客観的な情報とそのやりとりの可能性が担保されることによって、自然的な対象と学知の対象とが前者において一致する。他方で情報は形相として、質料と結びつくことで個体化をなす。情報は認識論的かつ存在論的な概念であり、個体化と科学的認識とは互いに逆向きの運動として統合的に理解されるようになる。学知の対象は日常的な経験世界における知覚の対象であり、そしてそれはそのまま個々の事物であり、個体なのである。

セールはたしかに、対象の相互準拠の理論を構築しているということができるだろう。諸対象、諸個体は相互に情報を与え合うことによって形成され、形成され続ける。ここでは主体と対象の分割はあくまで暫定的なものであり、人間と非人間の区別はきわめて不鮮明なものとなる[44]。人間にはいかなる存在論的な特権性もない。ときに主体となり認識し思考するわれわれもまずはひとつの対象である。そして、学知の対象が自然的な対象であり、個別的な事物である以上、対象がなければわれわれの経験もない。ふたたびクラエの言葉を借りれば、「私はある。p.218世界の諸事物のあいだのひとつの事物として、それらの縁に触れながら。ゆえに私は考える[45]」のである。

「超越論的領野は客観的なものに向かう[46]」。セールのこの言明が言い表しているのは、学知の対象、われわれによって日常的に知覚される自然的な対象、それから存在者たる個体とがすべて同じものであり、客観的なもの(l’objectif)からなる網目としての世界が、主体としてのわれわれの経験に先立って存在するということにほかならない。情報理論の言葉で語られるこの対象をめぐる理論は、コミュニケーションと情報の二つの概念を介して認識論と存在論とを架橋し、客観的かつ真に存在するものとしての対象から出発して、それが絶えず生成し続けることを記述する、何よりもまず事物の理論である。セールは、主観性の優先性を徹底的に転覆させ、客観性の哲学を構築するのである。

3.    有機体と個体性

客観的な情報とコミュニケーションによって組み立てられる『干渉』第二章の対象をめぐる理論において、生物個体もまたコミュニケーションの網目の結節点をなすひとつの対象である。このとき、生物は非生物といかにして異なり、またその差異によって何が説明されるようになるのか。本節では、セールの有機体概念を検討しこの問いに答えると同時に、このことをとおして立ち現れる『干渉』の限界を明らかにする。

有機体概念の検討に入る前に問題を明確にしておきたい。ジャック・モノー『偶然と必然』についての書評的論文である「生命、情報、第二法則」において、セールはやや奇妙にも思える振る舞いを見せる。モノーは、生物の特性として特に合目的性、不変性、形態形成の自律性の三点を挙げ、それらに加えて補足的に生物のもつ情報量の莫大さに言及するのだが[47]、セールは、『偶然と必然』を熱力学と情報理論の立場から肯定的に再構成していく過程で、この生物の情報量にことさらに着目するのである。

モノーは生物を「ふしぎな対象(objet étrange)」と呼ぶ。セールは、この「ふしぎな」という形容詞を「ありそうにない(improbable)」と読みかえる。「ありそうにない」という語は、「判断する主体とは無関係の、厳密で普遍的な」意味を、定量的で客観的な意味をもち、つまりは「これらの奇跡の確率を計算すればきわめてゼロに近い数が得られる」ということを意味する。「ふしぎな対象」としての生物はその存在が客観的にみて奇跡であるかのような存在なのだ[48]

ある事象のもつ情報量はその生起確率にもとづいて定義されるのであった。だから、生物という対象の出現が与える情報量は、そうではない非生命的な対象のそれに比して莫大に大きくなる。生物はネゲントロピーの高レベルにあり、それは第二法則のもとで無秩序へと流れる世界に浮かぶネゲントロピーの島である。

セールはまず、生物を非生物から区別する基準をこの情報量の大きさに求める。生物のもつ情報量は「技術的な意味での大数で表現される」ものであり、「この大数が特異な判断の閾をまさしくしるしづけている」[49]。ここから、次のような大胆にも思える言明が現れる。「生命が認p.219識不可能だといいうるのは量ないし計数によってである。神秘、奇跡としての神秘はただ数のうちにある[50]」。セールは、生命を情報量の莫大さに還元するような身振りさえみせるのである。

『干渉』の個体が歴史的個体であるならば、高度に複雑な秩序を体現する生物が、この個体化論の枠組みのなかでその情報量によって特徴づけられるのは当然のようにも思える。しかし、生物の合目的性や不変性について、それを打ち出す生物学者に与しながらも積極的には何も付け加えず、情報理論に依拠しつつ哲学の立場から生物の情報量を強調することはやはり奇異にも映る。セールはなぜそうするのか。そうすることによって生物についてどのような新たな理解が得られるのか。

このような観点から、セールが独自の有機体概念を提出する『分布』(1977年)所収の論文「暗騒音──言語の起源」に目を向けよう。「有機体はひとつの系である[51]」という一文からはじまるこの論文でセールは、有機体を、呼吸器系、循環器系、自律神経系等々のもろもろの系からなるひとつの系として記述する。有機体は、複数の系がそのもとで統合されるひとつの系であり、入れ子になった複数の系のひとつの系である。

この前提のうえでセールは次のように問いを立てる。有機体の内部では、統合のさまざまなレベルで膨大な量の化学反応が生じているが、「熱力学的かつ情報的な観点からすれば、これらの運動や変化は不可避的に暗騒音(bruit de fond)を発生させる[52]」。有機体内部での分子などのあいだのもろもろの反応を情報理論の観点からみればそれはコミュニケーションである。シャノンにしたがえば雑音(bruit)は送信された信号に加わるすべての変化であり[53]、コミュニケーションには、理想的な場合を除いて必ず雑音がともなう。有機体内部の分子数を考慮すれば、そのコミュニケーションの数は天文学的な尺度で表されるほどに膨大なものとなり、それにともなう雑音もまた膨大なものとなるだろう。それにもかかわらず、この膨大な雑音が当の有機体であるわれわれにほとんど知覚されないのはなぜなのか。

この問いに回答を与えるのは、雑音は観測点に応じてコミュニケーションにとっての障害ともなり情報ともなるという事実である。ある系において生じた雑音は、より上位の、それを包摂する系においては雑音ではなく情報として受け取られることになる。信号を変化させる雑音はコミュニケーションを行う複数の項とそれらの関係からなる回路の外部からやってくるものだが、ある系の雑音を含み込む上位の系において雑音は決して回路の外部にはなく、雑音はもはや雑音ではなくなるのである。このことを言い表して、セールは次のように述べる。

有機体のあるレベルは情報を動員し、暗騒音を生産する。入れ子状の系列のなかで、次のレベルは前のレベルで放出された情報-暗騒音の対を一般的には受信し、操作し、統合し、次のレベルへと発信する[54]

もろもろの系は、下位のレベルで発生する情報と雑音をともに受けとる。発信された情報と雑音の対における雑音はもはや雑音ではなくなり、それは情報に付け加わって次のレベルにおいp.220て受信されることになる。有機体では、統合の諸段階を昇るにつれて雑音が情報に転換する。それゆえにセールは、有機体を「雑音の整流器」と表現するのである[55]

要するに、あるレベルでの雑音は次のレベルでの情報であり、有機体は、入れ子の諸段階において雑音を整流し情報を増幅させていく装置である。ある系とより下位の系のあいだで生じるコミュニケーションは、下位の系における情報-雑音の対が整流された情報と、このコミュニケーションにともなう雑音からなる情報-雑音の対のやりとりである。このようなコミュニケーションの蓄積である有機体において発生する雑音は、反応の天文学的な数によって膨大なものであり、したがって有機体が最終的に整流する雑音もまた膨大であり、それがもつ情報量もまた莫大なものとなる。

複数の系の統合の最終段階である有機体そのものにとって、自らの内部で生じた雑音はほぼすべて整流されたうえで、ひとつ下位のレベルと有機体そのもののレベルとのコミュニケーションにおける情報-雑音の対として最終的には知覚されることになる。だから有機体内の膨大な雑音は知覚されないのだ。

複数の系のひとつの系としての有機体をめぐるここでの議論は、『干渉』の個体化論と齟齬するものではない。「私を存在論的にひとつの結晶、ひとつの植物、あの動物、また世界の秩序から区別するものは何もない[56]」と述べるセールにとって、生きた有機体もまた他のすべての対象と同様にひとつの対象であり、有機体が雑音の整流器となるのは他と同様の個体化の帰結である。有機体が情報を増大させる機械であることは、他の諸対象との量的な差異だけを指し示しており、それゆえに生物と非生物とは質的に区別されるものではないのだ。

ただ、他の諸対象とは異なり、有機体は雑音の整流器であることによって天文学的な尺度で表される情報を産出することができる。あるいは、入れ子になった複数の系を統合するひとつの系としての有機体の機構を雑音の整流器として理解することで、その情報量の莫大さが理解できるようになる。セールが情報量を生物の特質として強調する理由は、『干渉』における対象をめぐる理論からみると、ここに見出される。

さて、有機体をこのように理解することから、生物という対象について二つの帰結を引き出すことができる。順にみていくことにしよう。

繰り返しになるが、入れ子状のもろもろの系の統合の最終的な段階を画す最後の系は、有機体そのもののレベルである。情報を増大させる雑音の整流すなわちコミュニケーションは、ひとつの系としての有機体がさらなる整流をなすより上位の系をもたないがために、有機体そのもののレベルとひとつ下位のレベルとのあいだで行われるのが最後である。この最後の整流において、情報-雑音の対はどうなるのか。つまり、有機体にとって、この最後の対はどのようなものとして知覚されるのであろうか。

セールによれば、この最後の対は快感-苦痛という対となる。有機体が最終的に知覚するのは、基本的には体内で発生した情報と雑音とであるが、これは哲学では伝統的に内部感覚(sens interne)と呼ばれてきたものである。内部感覚は文字どおり感覚であり、大きく快感と苦痛に分けられる。有機体という装置は、「われわれが快感と苦痛という二つの大きなカテゴリーに統p.221合する諸信号を知覚する[57]」のである。

この最終的な対について、セールはそれが「情報-暗騒音という本来は物理的な対の最終的な翻訳[58]」であると述べているが、これが「翻訳」と呼ばれるのは、縣も指摘しているように、最下位の情報-雑音の対から最上位の快感-苦痛の対にいたるまでの整流の諸段階がすべて言語の機能によって貫かれているという理解による[59]。統合の各レベルにおける情報のやりとりと雑音の発生が論じられるかぎりにおいて、もろもろの整流はコミュニケーションとして理解されうることはすでに述べたが、言語の機能もまたコミュニケーションにほかならない。分子のレベルで物理的には理解可能な情報の授受が生じており、それは徐々に統合の諸段階を昇りながら、有機体そのもののレベルにおいて快感ないし苦痛として出力される。ここで雑音の整流器としての有機体は、その内部の諸レベルにおける情報-雑音の対を段階的に整流し、最終的に快感-苦痛の対へと「翻訳」する装置として再解釈されることになる。

言語の機能についてさらに述べれば、それは伝達されるメッセージがそのコミュニケーションの当事者にとって有意味であるようなコミュニケーションである。ここでのコミュニケーションはもちろん定量的に扱われることが可能だが、メッセージが意味をもつことそれ自体が妨げられるわけではない。

この翻訳は、定量的な物理量にすぎない情報が当の有機体にとっての意味をもつ感覚として出力されるということを示している。最終的に出力された内部感覚が意味をもつことを否定することは困難だろう。情報-雑音という形式的なものが、当の有機体にとって意味を備えたものとして立ち現れるようになるのであり、これは雑音の整流器としての有機体に固有の機能である。

したがって、有機体は次のように定式化される。「意味をもたないという条件のもとにおいてしか扱えないシャノンの対に、ついには意味を与えることになる高度に複雑な装置である[60]」。雑音の整流器としての有機体、われわれの身体は、「雑音と情報から出発して言語活動を生産する装置」であり、そこでは、「途方もないざわめきが、一連の整流器によって意味へと変わる」のだ[61]

有機体は、自身が当事者ではないコミュニケーションについて、ブリユアンによってそこから排除された「価値」を与え直すことになる。快感-苦痛の対は、誤りをはらみながらも、有機体の生存にとってそれぞれ正負の価値をもつのだから。内部でのコミュニケーションが恒常的であるかぎり、すなわち有機体が生きているかぎり、それは情報-雑音という形式的なものを価値づけし続けるのである。

他方で、雑音の整流器として莫大な情報量をもつものという有機体の特質は、ある問題の解決に資するものでもある。それは、情報と熱力学由来のエントロピーとを関連づけるときの、両者のオーダーのちがいである。情報理論で扱うエントロピーと、熱力学においてマクロな運動を産出する熱機関を扱うときのエントロピーとは、その大きさの尺度が著しく異なる。セールによれば、「〔両者は〕同一の尺度上にのっていなかった。十のマイナス十六乗という桁外れの係数がこの二つを区別していた[62]」。一般に、情報理論における情報のエントロピーは、熱力p.222学によって扱われるエネルギーと関連するエントロピーに比べて非常に小さい。両者のこの差異が、情報とエネルギーとを同一の俎上にのせることを阻んでおり、セールにとってこれらを結びつけることは喫緊の課題であった。

たしかに、情報を表す物理量としてエントロピーが適切であることには相違なく、情報理論はこのオーダーのちがいを無視することによって発展してきた。しかし、情報が結果的にマクロの運動を産出することがありえ、また、巨視的な運動が情報をもたらすことがあるというのは奇異に映る。

雑音の整流器である有機体はこの隔たりを埋める。膨大な数のコミュニケーションにともなう途方もない雑音を段階的に整流し、情報を増大させていくこの機械が示す桁外れの情報量が、情報とエネルギーの尺度のちがいを克服するのである。有機体ではエネルギーの収支と情報の収支とが近しくなり、情報のエントロピーが巨視的な運動をなすエネルギーのエントロピーに接近し、両者は有機体を介して比較可能なものとなる。個体化の帰結として、雑音の整流器として存在する有機体は、いまや、かつては比較不可能であった情報とエネルギーとを接近させる媒介者であることが明らかになる。

別のところでセールは、「人間が用いる音声や文字と人間の仕事とのあいだでは、語の正確で量的な意味において釣り合いが取れていない[63]」と述べているが、この釣り合いは、人間が有機体であることによってとられることができる。「生物学的有機組織は文字を巨視的なエネルギーに翻訳する巨大機械であると定義することができる[64]」のだ。有機体は、文字とエネルギーの媒介者なのである。

してみると、「言語活動」を行い価値を判断する生物は、「生息環境(biotope)の全般的な支配をなす[65]」ということができる。コミュニケーションの網目のひとつの結節点である生物個体は内外との関係を価値づけし、それに基づいて、何らかの目的のもとで環境を整序する。これが可能なのは、生物が情報量を増幅させる雑音の整流器であり、そのことによってエントロピーの尺度の釣り合いをとる媒介者だからである。価値を判断し目的をもつこと、目的を巨視的な仕事として出力すること、この両者を架橋する役割は、媒介者としての生物によってしか果たされることができないのだ。

生物という対象と非生命的な対象との差異は以上のように捉えられる。情報とコミュニケーションを基軸とする個体化論から出発すると、一方で生物は情報と雑音という形式的なものに意味を与える装置であり、情報と意味とを接続する。他方でそれは、その莫大な情報量によって情報の尺度と巨視的な仕事の尺度とを媒介する。これらはいずれも、非生命的な対象が果たすことのできない機能である。このことによって生物は、自身の価値に基づいて自らの環境を物理的に整序することができるのだ。これらは、『干渉』の個体化論の枠組みのなかで生物をみるときに得られる見解にほかならない。

しかし、雑音の整流器としての有機体という概念は、『干渉』の個体化論の枠組みのなかでは扱いきれないものを導き入れることになる。どういうことか。

「意味を産出する装置」であると同時に「文字とエネルギーの媒介者」である有機体は、それp.223ゆえに、非生物とは質的に異なる地位に立つ。質的にと述べたのは、もはや生物は「情報量の莫大さ」のみによって特徴づけられるものではないからだ。生命の特異性は、『干渉』において展開された形式性の思考に対する意味や価値の次元に位置づけられる。生物は、自身が受けとる情報という形式的なものに意味を与え、価値づけするのであり、生きているかぎりにおいてそうし続けるのである。

有機体をこのように理解することが可能であるためには、生物個体が、つねに、意味づけし価値づけするひとつの主観として存在するのでなければならない。生物は恒常的な主観性をもたなければならず、意味がそれにとっての意味であり、価値がそれにとっての価値であるところの「それ」として、一性(unité)を保持していなければならないのである。カンギレムについて記された次の言葉はセールにも当てはまる。すなわち、「有機体によって産出される意味作用は有機体の一性に由来する」のであり、「有機体の一性が意味づけをする」のである[66]

しかし、『干渉』における歴史的個体はその恒常的な一性が保証されていない。いいかえれば、そこには個体性の問いが存在しないのである。

このことは第一に、歴史的個体が個体化的なものであること、他の諸個体との絶えざるコミュニケーションのうちにあって、形相との結合と分離を繰り返し個体化し続けるものであることによる。この個体化論においては、有機体が複数の系を統合するひとつの系として画されずに、無限に続く入れ子となる可能性すら閉ざされていない。有機体がひとつ系として、すなわちひとつの個体としてあり続けることが、理論的には保証されないのである。

第二に、対象の網目が重層性をもつことによる。『干渉』においては、網目の結節点が対象であり、個体である。ここでは、個体はどこに網目を見るかに応じていくらでも見出されることになり、例えば個人間の関係に視点を据えれば個人が個体となるが、個人の身体に視点を据えればその内部においてコミュニケーションを行うより微小な項が個体として認められることになる。ここから帰結するのはきわめて放縦な相対主義であり、ここでは個体性を認めるべきは有機体か、それとも細胞かというような議論すら起こりえない。個体性をどこに認めるかという議論自体が意味をもたないのである。

客観性が主観性に先立つ対象の網目としての世界を打ち建てようとする『干渉』の理論では、「暗騒音」における有機体の記述によって要請される有機体の恒常的な個体性、一性を思考することができない。生きているかぎり、意味がそれにとっての意味であり、価値がそれにとっての価値であるところの「それ」としてひとつのものでなければならない生物個体は、歴史的個体の概念では思考されえないものであり、『干渉』のなかに居場所をもたないのである。

おわりに

『干渉』で構築される対象をめぐる理論は、対象を主観との相関の軛から解き放ち、それら自身の相互準拠によって客観的に存在させる点ですぐれた着想を示しているといえるだろう。主観に依存しない情報とコミュニケーションの二概念を駆使することで、学知の対象と自然的なp.224対象とが後者において一致し、かつ個体化までを一元的に理解できるようになる。

この観点からセールの有機体概念をみるとき、生物という対象は非生物と連続的でありかつ莫大な量の情報をもつものとして捉えられるようになる。このような有機体の機構の理解は、生物に、形式的なものに意味を与えるもの、そして生息環境を自身の価値に基づいて物理的に整序するものという特異な地位を与えることになる。しかし、セールの有機体概念そのものによって要請される有機体の恒常的な一性は、『干渉』の理論を突き崩す。

縣は、有機体の入れ子構造が無限に続くことを押し留め、系の極限を形作るものとしての生命を示唆していた[67]。これはおそらく正しいが、そうだとすれば、情報とコミュニケーションからなる対象の相互準拠としての個体化は廃棄され、別の個体化論を導くのではないか。

今、さらに先へと進むことはできない。セールの生命概念を明らかにし、個体化論の行方を見定めるには、『発生』(1982年)以降の展開の仔細な検討を俟たなければならないだろう。

参考文献

セールの著作と略号

Michel Serres, Hermès I. La communication, Paris, Éditions de Minuit, 1969〔『コミュニケーション ヘルメスI』豊田彰・青木研二訳、法政大学出版局、1985年〕. (H1)

───, Hermès II. L’interférence, Paris, Éditions de Minuit, 1972〔『干渉 ヘルメスII』豊田彰訳、法政大学出版局、1985年〕. (H2)

───, Hermès III. La traduction, Paris, Éditions de Minuit, 1974〔『翻訳 ヘルメスIII』豊田彰・輪田裕訳、法政大学出版局、1990年〕. (H3)

───, Hermès IV. La distribution, Paris, Éditions de Minuite, 1977〔『分布 ヘルメスIV』豊田彰訳、法政大学出版局、1990年〕. (H4)

 

その他の著作

Henri Atlan, « On a Formal Definition of Organization », Journal of Theoretical Biology, vol. 45, 1974, pp. 295-304.

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Georges Canguilhem, Œuvres complètes, tome III: Écrits d’histoire des sciences et d’épistémologie, textes édités, introduits et annotés par Camille Limoge, Paris, Vrin, 2019.

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縣由衣子「ミシェル・セールの初期思想 『干渉』の読解を通じて」『文化交流研究』第7号、2012年、21-47頁。

───「ミシェル・セールにおける雑音と有機体」『文化交流研究』第8号、2013年、17-32頁。

金森修『バシュラール 科学と詩』講談社、1996年。

清水高志『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』白水社、2013年。

ルネ・デカルト『省察』山田弘明訳、ちくま学芸文庫、2006年。

Notes

  1. [1]

    『干渉』については比較的先行研究が多いが、特に以下がある。Anne Crahay, Michel Serres : la mutation du cogito. Genèse du transcendantal objectif, Brussels, De Boeck Wasmael, 1982. 清水高志『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』白水社、2013年。前者は、認識論的かつ存在論的なセールの構造主義を初期の〈ヘルメス〉シリーズの読解から再構成するが、セールによる情報理論の導入とそれによる形式性の思考のより具体的な諸相には踏み込まない。後者は、抽象的な項と関係の思考として『干渉』の質料形相論を読解するが、従来の科学認識論や個体化論に対するセールの位置づけに関する目配せがやや不足している感がある。有機体概念については、管見のかぎり以下がこれを扱った唯一のものである。縣由衣子「ミシェル・セールにおける雑音と有機体」『文化交流研究』第8号、2013年、17-32頁。ここでは特に言語の観点からセールに有機体概念が論じられるが、ここで情報理論が果たす役割と、先行のより一般的な議論との関係については詳論されない。

  2. [2]

    H2, p. 68. 〔59頁。〕 以下、セールの著作からの引用にかぎって邦訳の頁数のみを〔〕内に示す。略号は参考文献一覧を参照。

  3. [3]

    ibid. 〔同頁。〕

  4. [4]

    ibid., p. 157. 〔147頁。〕

  5. [5]

    ibid., p. 69. 〔69頁。〕

  6. [6]

    「新新科学的精神の哲学」についてはとりわけ以下を参照。縣由衣子「ミシェル・セールの初期思想 『干渉』の読解を通じて」『文化交流研究』第7号、2012年、21-47頁。

  7. [7]

     Gaston Bachelard, Le nouvel esprit scientifique [1934], Paris, PUF, 1999, p. 173.

  8. [8]

    ibid.

  9. [9]

    金森修『バシュラール 科学と詩』講談社、1996年、75頁。

  10. [10]

    Georges Canguilhem, Œuvres complètes, tome Ⅲ : écrits d’histoire des sciences et d’épistémologie, textes édités, introduits et annotés par Camille Limoge, Paris, Vrin, 2019, p. 264.

  11. [11]

    ibid.

  12. [12]

    セールが同時代までの科学を流体の科学と診断し、そこには固体の居場所がないと述べることと、ここでなされる、固体に範をとりそれを学知の対象としようとする試みとの密接な関連は論点となりうるが、紙幅の都合上ここでは踏み込まない。

  13. [13]

    H2, p. 79. 〔70頁。〕

  14. [14]

    ルネ・デカルト『省察』山田弘明訳、ちくま学芸文庫、2006年、51-57頁。

  15. [15]

    H2, p. 15. 〔8頁。〕

  16. [16]

    Bachelard, Le nouvel esprit scientifique, p. 171-177.

  17. [17]

    H2, p. 73. 〔64頁。〕

  18. [18]

    ibid., p. 73. 〔64頁。〕

  19. [19]

    Claude Shannon and Warren Weaver, The Mathematical Theory of Communication [1949], Urbana, The University of Illinois Press, 1963, p. 31.

  20. [20]

    ibid., p. 8.

  21. [21]

    Léon Brillouin, La science et la théorie de l’information, Paris, Masson, 1959, p. VIII.

  22. [22]

    Cf. Luciano Floroidi, Information : A Very Short Introduction, Oxford, Oxford University Press, 2010, p. 42.

  23. [23]

    James Gleick, The Information: A History, A Theory, A Flood, New York, Pantheon Books, 2011, p. 327.

  24. [24]

    Brillouin, La science et la théorie de l’information, p. 155.

  25. [25]

    ibid., p. 179.

  26. [26]

    H2, p. 94. 〔85頁。〕

  27. [27]

    Crahay, Michel Serres, p. 26.

  28. [28]

    Gilbert Ruboneka Bigirinama, La méthode structurale et ses enjeux en sciences selon Michel Serres, Mauritius, Éditions universitaires européenes, 2018, p. 49.

  29. [29]

    H2, p. 96. 〔88頁。〕

  30. [30]

    ibid., p. 113. 〔103頁。〕

  31. [31]

    ibid. 〔同頁。〕

  32. [32]

    H1, p. 32. 〔27頁。〕Cf., Nicolas Bourbaki, « L’architecture de la mathématique », dans Les grand courants de la pensée mathématique, François Le Lionnais (éd.), Paris, Caihers du Sud, 1948, pp. 35-47.

  33. [33]

    H1, p. 32. 〔27頁。〕

  34. [34]

    ibid. 〔同頁。〕

  35. [35]

    H2, p. 112. 〔102頁。〕

  36. [36]

    ibid. 〔同頁。〕

  37. [37]

    ibid., p. 104. 〔95頁。〕

  38. [38]

    ibid., p. 111. 〔101頁。〕

  39. [39]

    ibid., p. 120. 〔110頁。〕

  40. [40]

    ibid., p. 120-121. 〔111頁。〕

  41. [41]

    ibid., p. 103. 〔94頁。〕

  42. [42]

    ibid., p. 108-109. 〔99-100頁。〕

  43. [43]

    ibid., p. 110. 〔100頁。〕

  44. [44]

    Cf., Jane Bennett and William Connolly, « The Crumpled Handkerchief », in Time and History in Deleuze and Serres, Bernd Herzogranth (ed.), London, Continuum, 2012.

  45. [45]

    Crahay, Michel Serres, p. 20.

  46. [46]

    H2, p. 99. 〔90頁。〕

  47. [47]

    Jacques Monod, Le hasard et la nécessité : essai sur la philosophie naturelle de la biologie moderne, Paris, Seuil, 1970, pp. 17-33.

  48. [48]

    H3, p. 45-46. 〔50頁。〕

  49. [49]

    ibid., p. 51. 〔56頁。〕

  50. [50]

    ibid. 〔57頁。〕

  51. [51]

    H4, p. 259. 〔356頁。〕

  52. [52]

    ibid., p. 264. 〔363頁。〕

  53. [53]

    Claude Shannon and Warren Weaver, The Mathematical Theory of Communication, p. 8

  54. [54]

    H4, p. 265. 〔365頁。〕

  55. [55]

    ibid., p. 266. 〔367頁。〕 セールは以下を参照し、散布度という情報理論由来の概念から議論を組み立てているが、ここではセール自身の論述にのみしたがう。Henri Atlan, « On a Formal Definition of Organization », Journal of Theoretical Biology, vol. 45, 1974, pp. 295-304.

  56. [56]

    H4, p. 271. 〔374頁。〕

  57. [57]

    ibid., p. 266. 〔366頁。〕

  58. [58]

    ibid. 〔同頁。〕

  59. [59]

    縣「ミシェル・セールにおける雑音と有機体」、26-27頁。

  60. [60]

    H4, p. 267. 〔367頁。〕

  61. [61]

    ibid., pp. 267-268. 〔367-369頁。〕

  62. [62]

    ibid., p. 269. 〔370頁。〕

  63. [63]

    H3, p. 89. 〔113頁。〕

  64. [64]

    ibid., p. 90. 〔114頁。〕

  65. [65]

    ibid. 〔同頁。〕

  66. [66]

    Guillhaume Le Blanc, Canguilhem et la vie humaine [2002], Paris, PUF, 2010, p. 51.

  67. [67]

    縣「ミシェル・セールにおける雑音と有機体」、31頁。

この記事を引用する

中山義達「ミシェル・セールの個体化論と有機体──〈ヘルメス〉から」『Phantastopia』第2号、2023年、209-228ページ、URL : https://phantastopia.com/2/individuation-and-organism-of-michel-serres/。(2024年03月01日閲覧)

執筆者

中山義達
NAKAYAMA Yoshitatsu

博士課程。フランス思想史。特に17-18世紀フランスの哲学および生命科学(医学、生理学、博物学)の歴史を研究している。併行して、フランス現代哲学、エピステモロジーの読解を進めている。

英語要旨

Michel Serres’ Theory of Individuation and Organism

NAKAYAMA Yoshitatsu

The purpose of this study is to reconstruct the ontological and epistemological theory of the object in the work of the French philosopher Michel Serres (1930-2019) and to reveal the limit of this theory from the perspective of the living being. First of all, we clarify how Serres makes it possible to liberate the object from its correlation with subject by introducing the mathematical theory of communication (MTC) to philosophy in L’Interférence (1972). Secondly, we elucidate how Serres constructed his theory of individuation with the notion of information in MTC. By identifying the form and the structure with information as formal order, Serres connects the object and the individual, ultimately elaborating a theory that unifies ontology and epistemology. We then examine the concept of organism as developed in Serres’ article « Bruit de fond » in La Distribution (1977), based on the theory of individuation in L’Interférence. In this article, Serres explains the character of the living being by immense quantity of information that it embraces. However, Serres’ concept of organism requires the unity of an organism that is not guaranteed by his theory of individuation for preserving the singularity of the living being which is derived from this article and expresses a fundamental paradox within his own theory. To conclude, L’Interférence grounds the independent existence of objects in their own mutual communications from which subjectivity is excluded. The concepts of communication and information make it possible to explain the independent existence of the object and integrate scientific knowledge and individuation into one theory. In these terms, we can understand how an organism containing immense information can behave differently from non-living beings. Nevertheless, the permanent unity of the organism required by the understanding in « Bruit de fond » forces paradoxically Serres to abandon the theory about the object in L’Interférence as an ontological theory of individuation.

Phantastopia 2
掲載号
『Phantastopia』第2号
2023.03.27発行