0. はじめに
本論は、ユダヤ系ドイツ人精神科医・作家アルフレート・デーブリーン(Alfred Döblin 1878-1957)による20世紀から27世紀に及ぶ人類の歩みを描いた長大な未来小説『山と海と巨人』(Berge Meere und Giganten, 1924)における、列挙法や接続詞の省略を多用した特徴的な描写と有機物・無機物の混淆する怪物および巨人表象の関係について、彼の自然哲学を踏まえつつ論じる[1]。
デーブリーンは、とりわけ『ベルリン・アレクサンダー広場』(Berlin Alexanderplatz, 1929)によりモダニズム文学の代表的作家として高い評価を確立したが、『山と海と巨人』は1970年代に入るまで文学研究の中心的対象ではなかった[2]。それでも途方もない時空間的広がりのなかで技術発展や都市文明の興亡、人間と自然の力を描き上げたこの作品は、様々な論点から多くの研究をもたらしており[3]、近年では『山と海と巨人』の中心的主題の一つとされる技術と自然の衝突についても、有機物と無機物、人間と動植物、機械と自然といった単純な二項対立では捉えられない混淆的存在の出現が注目されている。これは第一に、デーブリーンの自然哲学との関係から論じられており、ペーター・シュプレンゲルは世紀転換期の有機体論や生気論の流行から『山と海と巨人』を「有機物と無機物の接近の実験[4]」と評し、またカール・ゲルダールースは、この小説は技術と自然という二元論自体の崩壊を企図したと指摘した[5]。第二に、この未来小説内の自然対技術という単純化された二元論の溶解は、ブルーノ・ラトゥールの批評理論から分析されており、ゴットフリート・シェーンデルは作中の多様な存在を人間とその他に二分できないハイブリッドな行為体とみなし[6]、またクリストフ・ブルトマンはラトゥールに加え19世紀末の動物学者カール・アウグスト・メービウス(Karl August Möbius 1825-1908)による生態学の先駆的構想を参照することで、小説内のアクターは人間に限定されないと論じた[7]。第三の動向は環境批評であり[8]、マルクス・ヒエンはガイア理論を参照しつつデーブリーンと現代ドイツの作家フランク・シェッツィング(Frank Schätzing)と比較し、『山と海と巨人』のエコロジー思想に通じる先駆性を評価した[9]。またロバート・クライクは諸言説の混淆したテクスト内の行為体をサイボーグ的存在と評し[10]、ゲルダールースも技術と自然の融合に、古典的人間像を問い直す「批評的ポストヒューマン[11]」の先駆的形式を見出した。
これらの研究を踏まえつつ本稿は、デーブリーンの自然哲学と『山と海と巨人』における描写法および万物の混淆的存在の関係について論じる。この作家は長編作品を自然哲学および文学論と並行的に執筆しており[12]、この叙事詩の執筆期には後の自然哲学書『自然を超える自我』p.183(Das Ich über der Natur, 1927)にまとめられる論説が多数発表された[13]。そこで第1節では、諸物の「魂」を初めて論じた「自然とその魂」(„Die Natur und ihre Seelen,“ 1922)から、彼の自然観を明らかにする。第2節では、『山と海と巨人』の「献辞」(Zueignung)における、カンマや接続詞を極力排し、名詞、動詞、分詞などを連続させた特異的文体を検討するとともに、怪物の誕生における人間や動植物のみならず鉱物や熱、水、光などの並置と混合の様態を示す。第3節では人間を改造して創造された「巨人」の「器官」の役割に注目することで、物質交換に並行する「魂的」繋がりを論じる。これにより、『山と海と巨人』は有機物と無機物の境界を超える修辞的および自然哲学的な叙事詩であったことが明らかになるだろう。
1. 自然における「魂」の遍在──デーブリーンの「非神秘主義的」自然哲学
精神科医であったデーブリーンはかねてより大衆向けの科学記事を執筆していたが、第一次世界大戦後には思弁的色彩が強まり、科学知識の紹介から独自の自然哲学の表明に向かった。まずは、彼がどのように物質の「魂」を捉えていたか、「自然とその魂」から確認していこう。この自然哲学的論説でまず注目すべきは、デーブリーンが「空気の魂、水の、塩の、窒素の、酸素の魂(Luftseelen, Wasser-, Salz-, Stickstoff-, Sauerstoffseelen)[14]」(NS 7)のように、万物に「魂」を認めたことである[15]。この主張は精神科医であった彼の思弁的物活論への転向にも映るが、この「魂」は形而上的あるいは超越的実体のことではない。人間の精神現象が物理・化学的反応に依拠していると認める彼は[16]、むしろ次のように、物質の引き起こす心理的影響や物質上の反応をその「魂」と呼称したのだ。
物質は、自我といかに関係しているのか。水、カフェイン、塩、窒素、炭素は。
人は言う、それらは栄養を与え、刺激し、麻痺させると。それらは「物質」内の、精神なき類の出来事であると。この労多き争いに私は関わらない。私は、魂なき物質を知らない(Mir ist keine seellose Materie bekannt)。
私は確かに、カフェイン、水、窒素が、あらゆる化学的物体、銅、アルミニウムが、自我や動物や植物とまったく同様に、内奥で魂化(beseelt)されていると知っている。これら物質の魂(Die Seelen dieser Stoffe)は、物質の反応において、他の物質への振る舞いにおいて、それらの色、硬度、凝集状態の変化において、姿を現し、現実となる。反応の外では、魂はただ可能性や想定なのだ。(Außerhalb der Reakiton sind die Seelen nur möglich und gedacht.)(NS 8)
デーブリーンのこの「魂」は、生物学者エルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel 1834-1919)の通俗科学書『結晶の魂』(Kristallseelen, 1917)における「魂」の用法と類似する[17]。というのも両者は、人間や動物のみならず鉱物なども「魂」を持つと宣言したばかりか、この言葉を神秘的存在ではなく、事物の合法則的な反応や形態を指し示すために用いたからだ[18]。エルシオ・p.184コーネルセンは、「結局のところヘッケルは、『魂』や『精神』といった使い古びた概念を、単純な自然現象の表現、ただ化学的および物理的力の名称として用いている。それらはデーブリーンにおいて、『魂的』(„seelisch“)や『霊的』(„geistisch“)という術語に対応する[19]」と指摘する。ヘッケルにとって「魂」が、有機物と無機物における諸現象を一貫して機械論的に説明するための修辞的援用であったように、デーブリーンにとっても「魂」とは、あらゆる物体における作用や機能を捉えるための標識であった。
この自然哲学論では、「水の魂」や「酸素の魂」といった非精密科学的な表現によって──また後の『山と海と巨人』における列挙法を先取りする物質の並べ挙げによって──様々な物質の挙動や性質が説明された一方で、超自然的実体や主体的人格としての「魂」は否定された。彼は、「あらゆる感覚、意思、意識の変化は、水、熱、物質に由来せねばならない。自我や意識と呼ばれるものは、大いなる誇張なのだ」(NS 10)として、精神の非物質的かつ特別な位相を否定し、代わりに有機体を「集合魂」(NS 6)とみなす。というのも人間を含めあらゆる存在は、肉体的に様々な物質から構成されるばかりか、魂においても様々な魂の集合体であるからだ[20]。加えてこの物質的および精神的集合性は、共時的な組み合わせのみならず、通時的な連続性すなわち系統発生史によって定められる。
もちろんあらゆる種類の人々に──生物発生上(biogenetisch)、肉体においてあるように──永続的に猫の本能、魚の本能、虫の本能、単純なアメーバ本能の一群、また植物的なもの、そして真の人間の本能があるのではない。だが、これらはすべて人間の中にあり、魂はそれに基づいて見て取られなければならない。(NS 6)
「生物発生」というヘッケルの思想の根幹をなす概念と共に、現在の人間の進化上の集合性が唱えられる。人間は神の似姿のような特別な存在ではなく、共通祖先から人間に至る系譜が集合存在としてのヒトの肉体と精神を定める。そのためデーブリーンは、動植物や鉱物、気体などが物質的かつ「魂的」に構成要素となる有機体を、様々な要素から成る石に喩え、「有機体は、様々な性質の集合から形成される石の性質」(NS 11)であると述べる[21]。あらゆる存在の心身両面における複合性によって否定された個体の中心としての自我あるいは「魂」の観念に代わり、彼は「生と真実は、無名性(Anonymität)のもとのみにある」(NS 9)として、「無名」を新たな核に据える。「自然とその魂」では、超個体的な結合を求め自我を否認する例として性欲が挙げられるが[22]、人種理論家ルートヴィッヒ・フェルディナント・クラウス(Ludwig Ferdinand Clauß 1892-1974)の著作『人種と魂』(Rasse und Seele, 1926)に対する書評の草稿では、次のように無名についてより仔細に記している。
あらゆる名指すことのできる魂と形は、無名の描出であり、堆積である。(Alle benennbaren Seelen und Formungen sind Darstellungen und Ablagerungen des Anonymen.)ある地点においては、いまだ生き生きとして、完全には沈殿しない。あらゆる成ったものは不完全であり、p.185無名はそれを謎に満ちた方法で存在させる。二種類の魂があるのではなく、一方は他方での瞬間なのだ。実現に突き進み、意思や衝動、感情として生じ、行為に備えるものが、湧き出でる無名であり、蔓のように虚空を探っている。以前のもの、有機体は、この絶えず巡り倦むことの無い無名自身の過去、成果、産物であり、過ぎ去った無名なのだ。[23]
デーブリーンが「無名」について人種論に対する書評のなかで論じようと試みたのは、両者に形相を通じて理念に迫る視座が共通していたからであろう。一方でユダヤ人であった彼は過激なドイツ民族主義を警戒していたが、1920年代以降に「自我」の再評価を進めるまで、個体を様々な物質の集合体とみなすその自然哲学は国家有機体観にも親和性があった。他方でクラウスは後にナチスの党員となるが、その人種観は風土の作用を論じる点で遺伝決定論的ではなく、また彼自身も反ユダヤ主義者ではなかった[24]。両者に共通していたのは、「魂は経験の一部を表出によって見聞きできるようにする劇場を、つまり身体を有する[25]」として、「魂」であれ人種であれ[26]、物質的表面から内奥の直接測定されない本質に迫る観相学的視座である[27]。相貌から人種的傾向が読み取られたように、有機物および無機物の形態や現象を「無名」の表出とみなすデーブリーンの自然哲学は、物質における反応に神ではなく自然の力そのものとしての「魂」を読み取る観相学であった。ヘッケルはあらゆる現象が物理・化学の法則によって記述されるとして鉱物にも「魂」を認め、デーブリーンはあらゆる物質の変化や作用から、それら全てに対する「魂」の賦与に至った。万物の「魂」とは、ものの形態や反応に普遍的な原理の証明を求める一元論的世界観の命題であった。
2. 万物混淆の叙事詩──『山と海と巨人』における「献辞」と「怪物」
2.1. 「献辞」における列挙法
第2節以降では『山と海と巨人』を取り上げ、その描写とデーブリーンの自然哲学の関係を検討する。この未来小説では、叙事詩の伝統に従い小説の開始前に「途方もないもの」(BMG 7)に対する「献辞」が置かれる。しかしこれは単なる古典的様式の模倣ではなく、デーブリーンの文学論と自然哲学の実践であり、そこでは小説の具体的な筋や内容はほとんど明かされないまま、この詩人の呼びかけのみならず動植物や無機物の多様な現象が、部分的にカンマや接続詞を省略して列挙される[28]。
いま私は──君や君たちとは言いたくない──それについて話す、幾千の足と幾千の腕と幾千の頭について。吹きすさぶ風であるものについて。炎の中で燃えるもの、燃えるものと熱いものと青いものと白いものと赤いものについて。温かくて冷たく、雷光を発し、雲を積み上げ、雨を降らせ、磁石のようにあちこちへ忍び歩くもの。[…]鹿を恐れさせるものについて。流れて他の動物が飲むその血について。物質と石と気体の中に息吹き、立ち上り、溶け、結びつき、消え去る幾千の存在について。(BMG 7)[29]p.186
この韜晦な叙事詩について、デーブリーンは出版後に自ら「『山、海、巨人』への覚書」(Bemerkung zu ≪Berge Meere und Giganten≫)を発表してその意図や構造を解説しており、そこで彼は「私は自分の中に表出を求める確かな力強い力を見出し、私の本の特別な課題は、世界存在(das Weltwesen)を称えることであった[30]」と記した。「自然とその魂」では世界内に具現化する力は「無名」とされたが、この「献辞」では「暗く轟き唸る力(Die dunkle rollende tosende Gewalt)」(BMG 8)は、「君ら幾千の名前のものと無名のもの(Ihr Tausendnamigen Namenlosen)」(BMG 7)および「震え掴み揺らめく幾千の足と幾千の霊と幾千の頭(Zitternder greifender flirrender Tausendfuß Tausendgeist Tausendkopf)」(BMG 9)とも呼ばれる。『山と海と巨人』から浮かび上がるのはこの力であり、ここで「献辞」を捧げる「わたし」(BMG 7)も、作品から遊離した特権的作家ではない。というのも「献辞」における執筆時の作家の身体の細部と周囲の環境の描写は、書く行為自体をこの力に従う営みとして演出するからだ。
毎秒変化がある。私が書くここ、紙の上に、流れるインクの中に、白いガサガサいう紙の上に落ちる日光の中に。[…]私の動く手は左から右へ回り、行の終わりから左へ戻る。私は指にペンを感じる。それは神経であり、それは血に洗われる。血は指を流れ、すべての指を、手を、両手を、腕を、胸を、全肉体を、肌と筋肉と内臓を通り、すべての表面と角と窪みに流れる。多くの変化がこのここにある。そして私はただの一人、取るに足らぬ部分と空間である。私の机の上、白い布の上で三本の黄色いチューリップが萎れる。どの葉は見通せぬほど豊かだ。隣には紅白のサンザシの葉。下の方では、芝生の上にパンジーと勿忘草と菫。五月だ。私はどれだけ多くの樹と花と草が公園にあるか述べたのではない。どの葉と茎と根でも、毎秒何かが起きている。
そこで幾千の名のもの(das Tausendnamige)が働いている。そこにそれがいる。(BMG 7-8)
「献辞」において執筆行為は特別視されず、作家の身体は器官およびその運動の集合に解体され、それらは彼自身の周囲の物体と並列される。カタリナ・グレーツは、「第一に『献辞』は、物理学的・生理学的な執筆過程の意味[…]を強調した。第二にそれは、文芸作品を時空間内における書く自我のその都度の状況に還元[31]」したと指摘する。作家自身が生理学的存在となり周囲の自然と一体化することで、彼は主体的存在として世界に対置されるのではなく、その身体を通じて世界全体と結びつき、執筆自体が「幾千の名のもの」の働きの表出となるのだ。
この作家の消失と無数のものの連関は、以下『山と海と巨人』の全編に亘る名詞や動詞、分詞等の通例の文法に縛られない無制限な並列によって強調される。数多の動植物や鉱物、状況の子細な描写は、単なる辞書的な羅列ではない。オリヴァー・フェルカーは、「目録が一層長くなるにつれて文の成分は独立し、それらは独自の活力を獲得し、相互に反応し、中心に人間的主体があった秩序付けられた世界とはもはや折り合うことの困難な意味の過剰をもたらす[32]」p.187と指摘する。たしかに類似的な言葉の列挙は、それらに秩序を与える超越的語り手の不在を通じて、統一的に把握されることない無数のものの集合となる。しかしカンマや接続詞による分断なき単語同士の隣接から生じた過飽和は、それらの無数の存在の凝集状態や有機的関係を超えた溶解に向かう[33]。言葉の境が曖昧になるとき、事物も溶け合うのだ。『山と海と巨人』は人間と動物、植物、鉱物、元素、社会、地球など間のあらゆる境界の溶解と混淆を、その描写と筋において示すことになる。
2.2. 怪物の誕生
『山と海と巨人』の第6、7冊では、作中の最も壮大な技術的挑戦として、自然に対する闘争が展開される。技術者キーリン(Kylin)を中心に、アイスランドの火山を爆砕し、放出された膨大なエネルギーを電気石(Turmalin)[34]の網に蓄え、その熱でグリーンランドの氷河を溶かす壮大な計画が遂行される。だがこのエネルギーは、人々に陶酔感をもたらすのみならず、物質の急激な成長や変異を促進し、異質なもの同士を接合させ、氷床の溶解と同時に恐竜に似た怪物を産み出してしまう。
たしかにここでは、技術対自然という二項対立や科学者の傲慢に対する劫罰という典型的構図が用いられる。しかし解放された力は「形の産婆(Gebärein der Gestalten)」(BMG 481)として生物のみならず鉱物にも作用し、破壊と再形成のダイナミズムのなかでそれらを混ぜ合わせることで、有機物と無機物の境界を揺るがす。グリーンランド周辺の海の中ではあらゆる動植鉱物が以下のように一体化する。
ただ一つの呼吸する存在へと、海の森と草原は入り混じりながら成長した。魚と虫と蟹は海藻の葉と茎を切断しようと試みた。しかし草の厚みは途方もなかった。動物は押しつぶされ、その体液がしたたり、折れた茎の、濃し出された葉の白い液と混ざりあった。
グリーンランドを覆う組織には、生けるものと死せるもの、植物と動物と大地を分かつものはなかった。植物は植物の上を覆い、ゆっくりと泳ぎ跳ね回る動物を蔓で、すがりつく花で捉え、動物は一部となった。[…]動物と植物は一つになった。(BMG 485)
解放されたエネルギーは動植物と鉱物を束ねるのみならず、氷河の下に眠っていた絶滅した恐竜の化石を周囲の動植鉱物を結び付け、それをおぞましい集合体として蘇生させることで、最も鮮明に生と死の境界の超越を告げる。この怪物の描写では、一方で同化された様々な物体や器官の列挙により個体としての一体性の認識が阻害されるが、他方で鉱石や元素の擬人法ないし擬動物法と生物の擬鉱物的比喩の混淆によって、あらゆるものが生命的に蠢く。鉱物さえも硬直して非活動的なのではなく、過飽和溶液における結晶の形成のように動的なのだ[35]。怪物は、非生命的な遺骸や断片の寄せ集めでありながら、過剰なまでの生命に満ちている。この数多の有機物と無機物の──また単語や語句のシンタグマティックおよびパラディグマティックに無尽蔵な連続の──裂け目無き坩堝から、以下のように太古の化石が再び生を獲得する。p.188
白亜紀のぼろぼろの残骸が、骨と植物の欠片が再び生を見つけた。まばゆい光が見つけたものを一つに焼き固めた。椎骨、ばらばらの骨格は泥の中で氷河の水を吸い、互いに引き合った。泥からはそれらに物質が、大地、湧き上がる水、塩が流れ込み、それらを肉体として、自らを覆った。それらの中で表で変化が起こり、肉体のようになった。
あらゆる遺物と残骸の周りで大地が生き物へと膨らみ、膨れ上がった。[…]それは、かつて大地が運んだ生物のいずれでもなかった。露になった四肢、頭と骨と歯と尾と椎の周り、シダの葉と雌蕊の一部と根の切れ端の周りに、水と塩と土が集まった。しばしば、それはその時代の古い生物と似た生物に成長し、しばしば奇妙な生物は向きを変え、大地を吸い、踊った。顎と足になったのは、頭と頭蓋であった。喉は腸、眼窩は口になった。唇は虫のように蠢いた。脊柱の周りには生きた大地が流れ込み、固まった。骨の残骸から血管の網状組織があらゆる方向に広がったようで、それらは種を過飽和溶液に入れられた結晶のようだった(als wären sie Kristalle, Keimpunkte in der übersättigten Lösung)。(BMG 487-488)
この怪物は進歩主義的科学技術の破滅的産物だが、その挫折は単なる過去への回帰願望や文明批判、自然賛美ではない。というのも、「古い生命形式は見たところ問題なく予期せぬ創造的方法で新たな生命形式と混淆し、ハイブリッドな形態を形成[36]」しており、この混淆体である怪物において、有機物と無機物のみならず、異なる時代に生きた諸生物が一体化されるからだ。自然哲学的論考「自然とその魂」では、人間が共時的および通時的集合存在とされたが、未来小説において存在間の時間的距離を超えるこの怪物は、生物の系統発生史的な集合性をあらゆる物質の摂取によって文字通り具現する。集合存在への同化可能性が、存在同士の物質的および進化論的親縁性を示すのだ。デーブリーンは、後の『自然を超える自我』において栄養摂取を一種の進化論として次のように述べている。
私たちの体による食品の分解において真に摂取同化可能な栄養として残るのは、常にある生命の段階、水、ブドウ糖、アミノ酸、塩であるからだ。これら残されたものが、真に人間の「基礎」と表わされよう。どこでも何かの上にではなく、この基礎の上に、ヒトは育つのだ。それゆえ、これも進化論(eine Abstammungslehre)である。
人間がどこから来たのか知りたいのであれば、同化可能な物質を調べよ。(IN 43)
絶滅した恐竜の化石から復活する怪物は、生きているかのように描出される無数の動植鉱物を取り込むことで、無機物から原始的生命を経て複雑な組織体に至るまでの、生と死の二元論的境界を越えた由来を示唆する。怪物の存在的および修辞的集合性こそが、自然のなかの諸存在の統一性とそれらに働く力の普遍性を可視化するのだ。そして怪物の西欧への襲来によって、人間も特権的位相を否定され、自然の歩みの内に吸収されることになる。p.189
3. 巨人の創造──集合体における器官の意義
『山と海と巨人』の第8、9冊では、グリーンランドで誕生した怪物により欧州の諸都市は壊滅する。体液や血液をまき散らし、無機物か有機物かを問わず触れたものの成長を促進し、自身に同化するこの怪物の群れに対抗するため、人々は都市を地下に移転し、生物兵器として巨人の建造を開始する。だがこの闘争は、人為的技術と自然の暴力の二項的対立ではない。怪物と巨人を生み出すのはいずれも電気石の内部に蓄えられたエネルギーであり、人間と動植物や鉱物などの融合によって実現する巨人も、自然と技術の交雑したハイブリッドな存在である。
船底の上に、スコットランドの山の頂に、電気石のベールを用いて、この無秩序的存在(dieses Unwesen)が築かれた。石と幹が積み重ねられ、結びつけられた。それらが放射された炎のもとで成長すると、それら消える前に、赤熱する石炭の上に重ねるように、動物の肉体と植物と草が注ぎ込まれた。この土台に、遂に人間がもたらされた。[…]個々の形ある動植鉱物に閉じ込められていた、動物の肉体を成熟させ、だがやがて老いと死をもたらす本能の力と成長力(Die Trieb- und Wachstumskraft)が、触媒のように電気石結晶の容器から果てることなく力強く流れ出した。この地球と星々の炎の中に宿る原存在(dieses im Feuer der Erde und Gestirne hausende Urwesen)が、混じり気なく手に入った。[…]この力の途方もない破壊性が実験において明らかになった。それはあらゆる繋がりを破壊し、有機体の破壊のもとで、部分を引き出した。それは、動くものか休むものか固いものか柔らかいものであるかに無関係な炎のようだった。流れ出る刺激物質を、有機体を自ずから成長させる腺と繊維系に到達させる植物実験、そして動物実験に成功した。(BMG 514-515)
この「生きた物質から成る塔(Türme aus lebenden Stoffen)」(BMG 515)のグロテスクな建造は、「二種類の動物の結婚という原始的困難(Die uralte Schwierigkeit der Vermählung zweier Tierklassen)」(BMG 535)を乗り越える試みの成果であり、万物と人間の連合体のなかに、「原存在」からの有機体の発生として人間の系統発生史が詰め込まれる[37]。成長と死をもたらす原始的力による万物の異常成長と混淆は、基礎的な段階からの人類発達史を縮約して再現し、それらの混在を巨人の身体において具現化する途方もない実験なのだ。『山と海と巨人』において、この人間を含む集合体としての巨人の心理が描かれることはない。根源的力や身体の各部の溢れ出る生命性にもかかわらず、彼らは感覚も意識もおよそ喪失しており、個体としての主体性や自我の存在は認められないのだ[38]。万物が「魂」を有するのだから、巨人に人間を他の存在から分かつ超越的な実体としての「魂」は賦与されない。しかし彼らの精神的内面の欠如は、彼らの器官──それも相互に入れ替わり、拡張され、進化および退化し、他の生物と一体化した器官──を通じた周囲の自然との接合によって代替される。
器官を通じた自然との交わりを、未来小説の終盤で巨人の運命と共に示すのは、ロンドンの指導者でありながらおぞましい巨人と化したフランシス・デルビルである。彼は、他の生物とp.190一体化した器官を通じて、以下のように環世界に対して物量戦を展開する。
デルビルは成長することだけを考えた。[…]しばしば、彼の意識は暗くなり、石の精神がデルビルより優勢にならないように長い間中断せねばならなかった。巨大な人間に似た被造物として、デルビルはロンドンの前に身を起こした。人間の足と歯と膝を有していた。暗い褐色の毛の生えた肌。はげ落ちた肉体は、張り出しやドームのように、疣と瘤と乳房を突き出していた。釣鐘のように触手を動かす生き物が、彼の鳩尾から出ていた。腹からは、黒や灰色のとぐろを巻く蛇の肉体(schwarze und graue sich ringelnde spielende Schlangenleiber)、蠢き目を見開いた管(bewegliche augenöffnende Röhren)が生え、それらは足の周りに横たわり、彼を愛撫し、彼のために吸い、喰らった。胸の上はゆっくりと脈打っていた。蛇の肉体は小川を吸い込み、川床は干上がり、川はデルビルの体内を流れた。(BMG 591)
のたうち回る蛇が腹壁を突き破る内臓となり小川が体液となる巨人には、個体を守り、内と外の境界を成し、また両者の邂逅の媒体となるような肌はもはや存在しない。個体としての一体性は、内的な集団性のみならず、外部への開放性によって失われている。だが怪物と巨人の描写における身体の各部の列挙は、中心的自我の不在に並行するのみならず、器官が個体内の構成要素として従属的地位に留まるのではないことを示唆する。器官は非物質的意識あるいは中枢神経に奉仕する受動的な装置ではなく、むしろ周囲のあらゆる存在を取り込み、我が物とするための能動的な作用機構であり、それらの働きによって巨人は、また怪物と人間は、外界を吸収し集合体を形成するとともに、自然に介入し、その創造に加わる。
私たちの筋肉や骨と共に、闇や光や元素や私たちの魂と共に、世界存在(das Weltwesen)が考える。
私たちには器官がある、とはどういうことか。これは、私たちは放射(strahlen)するということだ。私たちは、世界に流れ込む。私たちは、霊的な世界存在の建設、存在、実在、実現に加わっている。(IN 93)
器官を他の生物で置換した無節操な人間の拡張体である巨人による無制限かつ暴力的な周囲の物質の摂取は、その内的な混淆状態と共に外部のあらゆる存在に対する連続性から、あらゆる存在の本質的相違を否定した。そのため科学文明の究極の産物である巨人は最後に、完全にかつての個としての意識を喪失し、山や海や森の中に崩れ落ち、自然の内に帰還する。しかしそれは、技術や人間の敗北ではない。たしかに人間は自然からの独立も特権的地位の獲得も実現できず、壮大な地球史の中で自然に挑み、それに飲み込まれたが、人間は「真の巨人」(BMG 630)であり、彼らも器官を通じて環世界に繋がっている。個ではなく集合であることが、有機体の「石の性質」である。無数のものの氾濫に織りなされた『山と海と巨人』において、怪物と巨人と人間はいずれも、器官による摂取と同化の連鎖を通じて根源的な力の働きを示し、無p.191数の非人間的行為体と共に自然の歩みに参与する、混成的な集合存在であった。
4. むすびに
第一次世界大戦後、あらゆるものが「魂」を有するという自然哲学を展開したデーブリーンは、未来小説において第一次世界大戦から27世紀におよぶ文明社会の興亡や自然環境の遠大な記述を通じて、無数の生物的および非生物的行為体の動的活動を描き出した。有機物か無機物かを問わず数多の存在が互いに混淆し、同化し、動的な流転のなかで絶えざる闘争と束の間の調和を繰り返す地球史のなかでは、怪物と巨人が個体同士の境界を超えて混ざり合う混沌とした集合存在であるばかりか、世界ないし地球さえもが「一つの有機体(ein Organismus)」(IN 53)なのだ。
加えて彼は、この小説においてカンマと接続詞を極力省略し、シンタグマとパラディグマの両方向において単語や語句を列挙する独自の文体を多用した。これはあらゆる物質に「魂」を賦与した彼の自然哲学を反映しつつ、怪物や巨人ひいては人間の混淆性ともに、独立したように見える存在同士の断裂無き繋がりを表した。膨大な言葉の連鎖にあふれた『山と海と巨人』は、怪物や巨人や人間と同様に集合存在であり、都市小説を凌駕した壮大な地球叙事詩であった。
[付記]
本論は日本学術振興会科学研究費助成事業(特別研究員奨励費:研究課題番号 19J14355)の研究成果の一部であり、現地調査に東京大学ドイツ・ヨーロッパ研究センター奨学助成金を受領した。p.192
参考文献
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Cornelsen, Elcio Loureiro. „Mir ist keine seellose Materie bekannt.“ Alfred Döblins ‚beseelter‘ Naturalismus. In: IADK 2017, S. 37-47.
Craig, Robert. Monsters and Other Cyborgs: The ‘Posthuman’ in Berge Meere und Giganten. In: IADK 2017, S. 243-259.
Davies, Steffan und David Midgley (Hrsg.) Internationales Alfred-Döblin-Kolloquium Cambridge 2017: Natur, Technik und das (Post-)Humane in den Schriften Alfred Döblins. (Bern: Peter Lang, 2019). (=IADK 2017)
Dollinger, Roland. Technology and Nature: From Döblin’s Berge Meere und Giganten to a Philosophy of Nature. In: Roland Dollinger, Wulf Koepke, and Heidi Thomann Tewarson (eds.) A Companion to the Works of Alfred Döblin. (Suffolk: Camden Hause, 2003), pp. 93-109.
Dürbeck, Gabriele. Agentielle Natur in Döblins Berge Meere und Giganten aus Sicht des Material Ecocriticism. In: Claudia Schmitt und Christiane Solte-Gresser (Hrsg.) Literatur und Ökologie: Neue Literatur und kulturwissenschaftliche Perspektiven. (Bielefeld: Aisthesis, 2017), S. 79-92.
Fick, Monika. Sinnenwelt und Weltseele: der psychophysische Monismus in der Literatur der Jahrhundertwende. (Tübingen: Max Niemeyer, 1993).
Gelderloos, Carl. ““Jetzt kommt das Leben”: The Technological Body in Alfred Döblin’s Berge Meere und Giganten.” German Quarterly 88.3 (2015): 291-316.
───. 3.1 Das Ich über der Natur (1927). In: Sabina Becker (Hrsg.) Döblin Handbuch: Leben – Werk – Wirkung. (Stuttgart: J. B. Metzler, 2016), S. 276-280.
───. Döblins Subjektkritik als kritischer Posthumanismus. In: IADK 2017, S. 261-273.
Grätz, Katharina. Andere Orte, anderes Wissen: Döblins Berge Meere und Giganten. In: Sabina Becker und Robert Krause (Hrsg.) Internationales Alfred-Döblin-Kolloquium Emmendingen 2007: ‚Tatsachenphantasie.‘ Alfred Döblins Poetik des Wissens im Kontext der Moderne. (Bern: Peter Lang, 2008), S. 299-319.
Haeckel, Ernst. Kristallseelen: Studien über das anorganische Leben. (Leipzig: Alfred Kroner Verlag, 1917).
Hien, Márkus. Anthropozän. Die Gaia-Hypothese und das Wissen der Naiven bei Döblin und Schätzing. In: Jörg Robert und Friederike Felicitas Günther (Hrsg.) Poetik des Wilden: Festschrift für Wolfgang Riedel. (Würzburg: Königshausen & Neumann, 2012), S. 459-485.
Loerke, Oskar. Das bisherige Werk Alfred Döblins. In: Jochen Meyer (Hrsg.) Alfred Döblin: Im Buch Zu Haus Auf der Straße. (Marbach am Necker: Deutsche Schillergesellschaft, 1998), S. 129-200.
Mitidieri, Gaetano. Wissenschaft, Technik und Medien im Werk Alfred Döblins im Kontext der europäischen Avantgarde. (Potsdam: Universität Potsdam, 2016).
Ripper, Annette. „Überlegungen zur Aneignung des Körpers und zum Aspekt der Bio-Macht in Alfred Döblins Berge Meere und Giganten.“ Musil-Forum 30 (2007), S. 194-220.
Sander, Gabriele. 4. Utopischer Roman: Berge Meere und Giganten (1924). In: Becker (Hrsg.), S. 83-92.
Schöndel, Gottfried. „Zur Abkehr von Souverän und Natur in Alfred Döblins Berge Meere und Giganten.“ Aussiger Beiträge 4 (2010), S. 67-78.
Sprengel, Peter. Künstliche Welten und Fluten des Lebens oder: Futurismus in Berlin. Paul Scheerbart und Alfred Döblin. In: Hartmut Eggert, Erhard Schütz und Peter Sprengel (Hrsg.) Faszination des Organischen: Konjunkturen einer Kategorie der Moderne. (München: iudicium 1995), S. 73-101.
Völker, Oliver. Die Erde – ausbuchstabiert: Alfred Döblins Berge Meere und Giganten. In: IADK 2017, S. 199-212.
佐藤恵子『ヘッケルと進化論の夢 一元論、エコロジー、系統樹』工作舎、2015年。
ガブリエーレ・シュトゥンプ(長谷川晴生訳)「陶酔と制御 アルフレート・デーブリーン『山と海と巨人』における技術」鍛冶哲郎、竹峰義和編著『陶酔とテクノロジーの美学 ドイツ文化の諸相1900-1933』青弓社、2014年、65-81頁。
福元圭太『賦霊の自然哲学 フェヒナー、ヘッケル、ドリーシュ』九州大学出版会、2020年。
Notes
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[1]
Alfred Döblin. Berge Meere und Giganten. Hrsg. von Gabriel Sander. (Düsseldorf: Walter Verlag, 2006). 以下BMGと略記し、本文中に略号と頁数のみを記す。
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[2]
Gabriele Sander. 4. Utopischer Roman: Berge Meere und Giganten (1924). In: Sabina Becker (Hrsg.) Döblin Handbuch: Leben – Werk – Wirkung. (Stuttgart: J. B. Metzler, 2016), S. 83-92, hier S. 89.
-
[3]
『山と海と巨人』とデーブリーンの自然哲学を論じた代表的研究としては、Roland Dollinger. Technology and Nature: From Döblin’s Berge Meere und Giganten to a Philosophy of Nature. In: Roland Dollinger, Wulf Koepke, and Heidi Thomann Tewarson (eds.) A Companion to the Works of Alfred Döblin. (Suffolk: Camden Hause, 2003), pp. 93-109; Gaetano Mitidieri. Wissenschaft, Technik und Medien im Werk Alfred Döblins im Kontext der europäischen Avantgarde. (Potsdam: Universität Potsdam, 2016). Steffan Davies und David Midgley (Hrsg.) Internationales Alfred-Döblin-Kolloquium Cambridge 2017: Natur, Technik und das (Post-)Humane in den Schriften Alfred Döblins. (Bern: Peter Lang, 2019). (=IADK 2017)
-
[4]
Peter Sprengel. Künstliche Welten und Fluten des Lebens oder: Futurismus in Berlin. Paul Scheerbart und Alfred Döblin. In: Hartmut Eggert, Erhard Schütz und Peter Sprengel (Hrsg.) Faszination des Organischen: Konjunkturen einer Kategorie der Moderne. (München: iudicium 1995), S. 73-101, hier S. 86. Vgl. Annette Ripper. „Überlegungen zur Aneignung des Körpers und zum Aspekt der Bio-Macht in Alfred Döblins Berge Meere und Giganten.“ Musil-Forum 30 (2007), S. 194-220.
-
[5]
Carl Gelderloos. ““Jetzt kommt das Leben”: The Technological Body in Alfred Döblin’s Berge Meere und Giganten.” German Quarterly3 (2015): 291-316.
-
[6]
Gottfried Schöndel. „Zur Abkehr von Souverän und Natur in Alfred Döblins Berge Meere und Giganten.“ Aussiger Beiträge 4 (2010), S. 67-78.
-
[7]
Christof Bultmann. Monströse Massen: Zur Ökologie in Alfred Döblins Berge Meere und Giganten. In: Stefan Keppler-Tasaki (Hrsg.) Internationales Alfred-Döblin-Kolloquium Berlin 2011: Massen und Medien bei Alfred Döblin. (Bern: Peter Lang: 2014), S. 127-148.
-
[8]
Gabriele Dürbeck. Agentielle Natur in Döblins Berge Meere und Giganten aus Sicht des Material Ecocriticism. In: Claudia Schmitt und Christiane Solte-Gresser (Hrsg.) Literatur und Ökologie: Neue Literatur und kulturwissenschaftliche Perspektiven. (Bielefeld: Aisthesis, 2017), S. 79-92.
-
[9]
Márkus Hien. Anthropozän: Die Gaia-Hypothese und das Wissen der Naiven bei Döblin und Schätzing. In: Jörg Robert und Friederike Felicitas Günther (Hrsg.) Poetik des Wilden: Festschrift für Wolfgang Riedel. (Würzburg: Königshausen & Neumann, 2012), S. 459-485.
-
[10]
Robert Craig. Monsters and Other Cyborgs: The ‘Posthuman’ in Berge Meere und Giganten. In: IADK 2017, S. 243-259.
-
[11]
Carl Gelderloos. Döblins Subjektkritik als kritischer Posthumanismus. In: IADK 2017, S. 261-273.
-
[12]
Oskar Loerke. Das bisherige Werk Alfred Döblins. In: Jochen Meyer (Hrsg.) Alfred Döblin: Im Buch Zu Haus Auf der Straße. (Marbach am Necker: Deutsche Schillergesellschaft, 1998), S. 129-200.
-
[13]
Alfred Döblin. Das Ich über der Natur. (Berlin: S. Fischer, 1928). 以下INと略記し、本文中に略号と頁数のみを記載する。
-
[14]
Alfred Döblin. „Die Natur und ihre Seelen.“ Der neue Merkur 6 (1922), S. 5-14, hier S. 11. 以下NSと略記し、本文中に略号と頁数のみを記載する。
-
[15]
「自然とその魂」において「デーブリーンは自然の全魂性(Allbeseeltheit)の命題を初めて一貫的に表明した」とされる。Elcio Loureiro Cornelsen. „Mir ist keine seellose Materie bekannt.“ Alfred Döblins ‚beseelter‘ Naturalismus. In: IADK 2017, S. 37-47, hier S. 44.
-
[16]
デーブリーンは、化学物質やホルモンによる精神の変化にも触れている。「腺分泌物(Drüsenabsonderung)の変調や排出のもとで、自我が苦しみ、喜んでいる。性腺の発達による魂の作用、ある量の腺の移植と切除による魂に対する算出可能な作用が知られている」(NS 8)。
-
[17]
Ernst Haeckel. Kristallseelen: Studien über das anorganische Leben. (Leipzig: Alfred Kroner Verlag, 1917).
-
[18]
佐藤恵子『ヘッケルと進化論の夢 一元論、エコロジー、系統樹』工作舎、2015年、358-373頁。福元圭太『賦霊の自然哲学 フェヒナー、ヘッケル、ドリーシュ』九州大学出版会、2020年、292-297頁。
-
[19]
Cornelsen, S. 43.
-
[20]
「動物や植物が絶えず水や空気、塩、気体の混淆物を取り入れ、彼らの空気や水、化学的物体、また熱、これら物質の運動、電気ではないものは何一つないように、動植物はそれらによって魂化(beseelt)されている。[…]水は大いなる力である。私たちは水の中で生きており、肉体は大部分が水からなる。」(NS7)
-
[21]
デーブリーンの所謂「ベルリン綱領」において、次のような一節がある。「作家のヘゲモニーは破られねばならない。自己否定の熱狂が十分に推し進められることはない。あるいは、放棄の熱狂が。私は私ではなく、通りであり、街灯であり、あれこれの出来事であり、それ以上ではない。それが、私が石の様式(den steinern Stil)と呼ぶものである。」Alfred Döblin. An Romanautoren und ihre Kritiker. In: Schriften zu Ästhetik, Poetik und Literatur. Hrsg. von Erich Kleinschmidt. (Olten: Walter Verlag, 1989), S. 119-122, hier S. 122.
-
[22]
NS, S. 13.
-
[23]
Alfred Döblin. Rasse und Seele. (Deutsches Literatur Archiv Marbach). この文章は『自然を超える自我』第二章の末尾においておよそ反復されている。IN, S. 180.
-
[24]
クラウスはユダヤ系女性を助手に雇用したために後にナチスを追われており、人種主義者ではあったが、反ユダヤ主義者とは断定されない。
-
[25]
Ludwig Clauß. Rasse und Seele: Eine Einführung in den Sinn der leiblichen Gestalt. (München: Lehmann, 1926), S. 124.
-
[26]
公表された書評では、デーブリーンは「私は、フェルキッシュなこと(das Völkische)はこの本で一歩前進し、魂的なこと(Das Seelische)は行進したと思う。これはほぼまったく反ユダヤ主義ではない。魂の様式と習慣的振舞いを表すために、『人種』以外の視点が選ばれるだろう」と記しており、「人種」に代わる「魂」を提唱しているが、観相学的手法自体は棄却していない。Alfred Döblin. Rasse und Seele. In: Kleine Schriften Ⅲ. Hrsg. von Anthony W. Riley. (Zürich und Düsseldorf: Walter Verlag, 1999), S. 35-41, hier S. 41.
-
[27]
モニカ・フィックは世紀転換期の一元論の特徴の一つとして「『観相学的世界観』(die >physiognomische Weltanschauung<)──物理的な表面を魂の具現として読み解く試み」を挙げた。Monika Fick. Sinnenwelt und Weltseele: der psychophysische Monismus in der Literatur der Jahrhundertwende. (Tübingen: Max Niemeyer, 1993), S. 65. フィックは、精神物理学的一元論における精神現象には物質現象が、また物質現象には精神的質が並行するとの「等価思考(Äquivalenzdenken)」(S. 73)から、物質に注目することで精神を解明することも可能に違いないという論理が導かれた、と述べる。
-
[28]
同時代の芸術運動である、未来派や表現主義との関係が認められる。ガブリエーレ・シュトゥンプ(長谷川晴生訳)「陶酔と制御 アルフレート・デーブリーン『山と海と巨人』における技術」鍛冶哲郎、竹峰義和編著『陶酔とテクノロジーの美学 ドイツ文化の諸相1900-1933』青弓社、2014年、65-81頁、73頁。
-
[29]
長くなるが、拙訳の説明のため、この部分の原文を引用する。Jetzt spreche ich – ich will nicht du und ihr sagen – von ihm, dem Tausendfuß Tausendarm Tausendkopf. Dem, was schwirrender Wind ist. Was im Feuer brennt, dem Züngelnden Heißen Bläulichen Weißen Roten. Was kalt und warm ist, blitzt, Wolken häuft, Wasser heruntergießt, magnetisch hin- und herschleicht.[…]Von dem, was dem Reh Furcht macht. Von seinem Blut, das fließt und das das andere Tier trinkt. Von dem Tausendwesen, das in den Stoffen Steinen Gasen haucht, raucht, sich löst, verbindet, verweht. 日本語訳では、独語原文のカンマや接続詞の省略箇所については助詞「と」で結び(例:„dem Tausendfuß Tausendarm Tausendkopf“ →「幾千の足を持つものと幾千の腕を持つものと幾千の頭を持つもの」)、カンマによる列挙は読点でつないだ(例:„haucht, raucht, sich löst, verbindet, verweht“ →「息吹き、立ち上り、溶け、結びつき、消え去る」)。
-
[30]
Alfred Döblin. Bemerkungen zu ≪Berge Meere und Giganten≫. In: Schriften zu Leben und Werk. Hrsg. von Erich Kleinschmidt. (Olten: Walter Verlag, 1986), S. 49-60, hier S. 54.
-
[31]
Katharina Grätz. Andere Orte, anderes Wissen: Döblins Berge Meere und Giganten. In: Sabina Becker und Robert Krause (Hrsg.) Internationales Alfred-Döblin-Kolloquium Emmendingen 2007: ‚Tatsachenphantasie.‘ Alfred Döblins Poetik des Wissens im Kontext der Moderne. (Bern: Peter Lang, 2008), S. 299-319, hier S. 316.
-
[32]
Oliver Völker. Die Erde – ausbuchstabiert: Alfred Döblins Berge Meere und Giganten. In: IADK 2017, S. 199-212, hier S. 206.
-
[33]
「パラタクシスおよび個人的主体の脱強調は、個々の肉体の境界と線的物語的な統辞の確かな輪郭を裂く成長あるいは生(Leben)の無制限な原理に、ぴったりと類似する。」Gelderloos, “Jetzt kommt das Leben,” p. 300. 斜体原文。
-
[34]
BMG, S. 408-409.
-
[35]
Vgl. Dürbeck, S. 88.
-
[36]
Dürbeck, S. 88.
-
[37]
「エネルギーと鉱物、植物と動物、人間と技術を包含し、互いに混ぜ合わせるバイオテクノロジー的ハイブリッドは、具象的像において人間におけるあらゆる発生史的進化段階の現存を統合するようである。」Mitidieri, S. 824.
-
[38]
「骨を育て脳を広げる成長(Das knochentreibende gehirnweitende Wachstum)は、ゆっくりと減免と休憩とともに行われても、常に塔人間の意識を危うくした」(BMG 517)ために、巨人は完成に近づくにつれて、「精神と人間存在(ihren Geist und ihr Menschwesen)を放棄し、単なる増殖と成長に眠り込むところであった」(BMG 517)。
この記事を引用する
相馬尚之「万物混淆の叙事詩──デーブリーン『山と海と巨人』における怪物および巨人と列挙法」『Phantastopia』第2号、2023年、182-198ページ、URL : https://phantastopia.com/2/epic-of-mixture-of-all-things/。(2024年11月21日閲覧)