p.200はじめに──エネルギー論としてのバタイユ
試みに、バタイユをある種のエネルギー論として読んでみたい。バタイユはときにその著作においてエネルギー概念を用いていた。たとえば『内的体験』の第3部「刑苦の前歴」では、物理学者ポール・ランジュヴァンの粒子に関する議論を参照しつつ、「交流(communication)」をエネルギーの伝染作用として説明している[1]。バタイユはそこで、「存在はどこにもない」というテーゼを打ち出し、存在が個別的に存在することはせず、あくまで「相対的単純性」として、複合的にしか存在していないことを示す[2]。つまりそこに在るのは、ただエネルギーが流動的に漂い、ときに集団としての性格を、ひとつの強度として示すような水平的世界である。
世界の様相をエネルギー流ととらえるこの観方をさらに先鋭化した著作が『全般経済学』であると言える。というのも、『全般経済学』は「何か代償を得ることなく、ただ惜しみもなくエネルギーを──富を──分け与える」太陽が[3]、「地球上にエネルギーの過剰をもたらす」こと [4]、また、「一個の生命体は生を保証する操作[…]に必要な分量よりも多くの分量のエネルギーを保有している」[5]ことを原則とし、つねに超過する余剰のエネルギーをどう消費するかを論じる、ある種のエネルギー論だからである。
とりわけそこで「戦争は大惨事という仕方での超過エネルギーの消費とみなされる」ことは [6]、──現実的な問題をあまりにも捨象しているきらいがあるとはいえ──余剰をも有用性に回収しようとする資本主義とは別の仕方で思考しようとしている点は注目に値する。こうした、地球を単なる生命圏としてのみとらえるのではなく、余剰のエネルギーを人間が操作しうる圏域ととらえ、浪費や奢侈を忌む「呪いを取り除くのは人間次第なのだ、人間だけにかかっているのだ」と訴えるバタイユの姿勢は[7]、「精神圏(noosphere)」と呼ばれる概念に通ずる。精神圏とは、テイヤール・ド・シャルダンやヴラジーミル・ヴェルナツキーによって提唱された概念で、生物圏の新たな段階であり、その進化の原動は人間の精神エネルギーにあるとされる[8]。したがって精神圏は、人類が地球の地質や生態系に与える影響を考慮する人新世の思想の先駆けとも言われる。バタイユをエネルギー論的に読むことは、こうした精神圏、人新世の思想にも通ずる点で、現代性も帯びてくるのである。
バタイユのエコノミーに着目した研究は、デリダやハーバーマス、ボードリヤールによる古典的な議論をはじめとして、贈与論に関する考察など、無数に存在する。だがエコノミーをことエネルギーという観点から考える研究はけっして多くはない。強いて言うなら、バタイユのエネルギー論的側面は、フロイトのリビドー論から派生するリオタールによるリビドー経済をp.201経て、ドゥルーズ+ガタリのリビドー唯物論へと回収されていったと見ることができるかもしれない。だがいずれにせよ、その過程で徐々にバタイユの論じたエネルギー経済は希釈されてゆく。
しかし他方で、ドゥルーズ+ガタリ的な発想からバタイユに立ち戻ってエネルギーの側面に着目する人物もいる。それこそが「加速主義の父」ニック・ランドであり、その点においてランドの議論は一考に値する。以下に見るように、ランドのバタイユ論には近年のランドの加速主義的な思想に結びつく側面があり、バタイユのエネルギーエコノミーからの派生を考えるわれわれとしても興味深い。だがそこにはある種の「普遍主義」という偏見が宿る。それを批判し、エコノミーをほかの理路へと導いてくれる人物として、ここでは気鋭の哲学者ユク・ホイを取り上げたい。
ランドからホイを介してバタイユからエネルギー経済を立ち上げる手立てを考えること。これを本稿の差し当たっての目標とする。加えて副次的に、様々な意味でアクチュアリティを帯びる両思想家のアプローチを介することで、「いま」バタイユを読む意味も探ってみたい。
1. スケール化不可能な「迷宮」──ニック・ランド『絶望への渇望』から
バタイユのエネルギー論的な側面に着目しており、──良くも悪くも──現代性を帯びた人物として、ニック・ランドが挙げられる。ランドといえば、資本主義システムを加速度的にドライヴさせる「加速主義の父」、啓蒙主義に抗して反民主主義を唱える新反動主義者として名高いが、それ以前、1987年から1998年までは大学講師としてアカデミックなキャリアを積んでいた。その時期の集大成として上梓された単著がバタイユに捧げられており、それこそが『絶滅への渇望 ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』(1992年)である。
まず注目したいのは、その第2章「太陽の呪い」である。そこでランドは、バタイユの全般経済学の特異な点を熱力学と比較する。熱力学第二法則は、閉鎖系、つまり外部とエネルギーや粒子の授受を行える系では、つねにエントロピー(乱雑さ)が増加すると宣言するものである。反対に、開放系、つまり外部とのエネルギーや粒子の交換がある系では、エントロピーが増大するとはかぎらない。言うまでもなく、生物は外部からエネルギーや物質を取り込むのだから、熱力学的に見れば開放系である。だから無秩序がその外へと「輸出」されうる開放系の枠内にある生命は、閉鎖系を局所的につくり出すことでのみ、秩序を増大させることができる。だが、内部でそうした局所化が生じる空間は、熱力学モデルにおいては主題化されていないとランドはいう[9]。
これとは対照的に、局所化が生じる空間そのものについて思考した人物として、ランドはバタイユを挙げる。こうした空間に関するバタイユの思考の内実は、「迷宮」という語でまとめられ、第10章で語られることになるが、先立って第2章では、空間そのものについて思考する、その思考の枠組みについて整理される。
ランドはまず、一見すると「全般」経済と「制限」経済のちがいは、開放系と閉鎖系のちがp.202いと解したくなるかもしれないが、バタイユが設定したのはそうした空間の差異ではないのだと主張する。そうではなく、バタイユが思考したのは空間そのものについてなのである。すなわち、バタイユが描いたのは、「全般的であったり局所的であったりするような何らかの理解可能性を備えた「内容」というよりも、相対的な孤立化の能力であり、制限の能力そのものなのである」[10]。
いささか分かりにくいかもしれないが、これは全般経済学の大原則、つまり、地上では惜しみなく浪費する太陽をエネルギー源とするため、つねに過剰なエネルギーが溢れているという大原則を考慮すればそう難しいことではない。この原則に則れば、そもそも地上は開放系として開かれているのだから、剰余はマルクス主義が考えるように労働が産み出す価値ではない。すなわち、閉鎖系がまず在って、そのなかでエントロピーが増大して余剰が発生し、それが都度開放・放出されるのではないのだ。そうではなく、むしろ開放系がまず在って、都度閉鎖・孤立化するのである。これをまとめてランドは以下のように言う。
熱力学第二法則が具体的に普遍化されるのを妨げている準自律的な領土は、──バタイユ自身がこの言葉を使っているのだが──何らかの「組成」の条件なのではなく、それ自体が組成そのものなのである。換言すれば組成とは、[空間の「なかでの」ではなく]空間「の」実在的な差異化と同時に生じるものなのだ[11]。
諸存在の組成は、空間のなかで個別的に把握できるようなものではなく、均一に広がる空間のなかで、いわば粒子たちがたまたま集まってコロイドを作り上げるように、その都度差異化されて集合をつくりあげる、ひとつの強度のようなものなのである。
こうした「組成」で世界をとらえる仕方が、「迷宮」という用語で示される。確認しておけば、内部で局所化が生じる空間そのものを考える思想に結びつく主題が「迷宮」とまとめられていたのだった。では「迷宮」とは何か。ランドは以下のように述べる。
迷宮とは、特権的なスケールの肯定的な不可能性に他ならない。それは様々なスケールを横断する還元不可能な細部の回帰であると同時に、スケールが移行するさいの還元不能な相違の回帰である。複雑な異質性は焦点の精密化によって抑制されるものではなく、単純性や自律性や初等性に接近するものでもない。「存在はどこにもない」[12]。
われわれは通常、存在を「時間」や「空間」といった何らかのスケールのなかで把握する。いつどこにこれが在った、というふうに。「迷宮」はそのような特権的なスケールが不可能になる場にほかならない。
だから「迷宮」のなかに存するものは、「単純性」や「自律性」によって個別的にとらえることはできない。それらはあくまで、複雑性を保ったまま、マクロからミクロへ、ミクロからマクロへというスケールを横断しているように見せかけて、その実、寄せては返す波のように、p.203ただ突発的な集合を形成しては離散してゆく。その構造は、どんな見かけのスケールでも──その実スケールは無いのだが──自己相似的であるという意味でフラクタル的であり、形を一時的に保っては不定形に戻ることを繰り返すという意味で再帰的である。こうした空間はだから、パラメータで位置座標を特定しうるような固定的な場ではなく、流動的にうごめく、水のなかのような水平的世界、モナド的世界なのである。
普段自らが在ると思い込んでいる個別的な場から、諸相が再帰的に現れるのみであるとみなされる全体のなかの複合的な場へのこのパラダイムチェンジは、「生産」に関するエコノミーに関しても言える。すなわち、過剰性に関する理論の不在によって開かれるマルクス主義に抗して、バタイユの太陽経済は過剰性を前提とすることで、つまり、「生産」を人間的な所産ではなく、つねに溢れる余剰の局所化・孤立化の能力としてとらえることで、それが空間の差異化と同時に生じるものと考えるのである。
諸相のエコノミーを、こうした再帰的な構造のなかで偶然的に隆起する世界としてとらえる観方は、流動的な消費をさらに加速させ、テクノロジーを用いてリバタリアン的に資本主義を絶えず脱領土化する昨今のランドの思想に通ずるものがある。だが、いやだからこそ、ランドは反啓蒙主義を掲げる。浪費を有用性へ、第二の生産性へと理性的に回収しようとする資本主義の枠組みは加速されることで突破されようとするのだ。そして何より、人間がそうしたスケールの不可能な場のなかで偶然的に隆起した高い強度でしかないのだからこそ、そこに倫理が生じず、反啓蒙的・新反動主義的になるのだろう。
以上のような、エネルギー流的に世界を読み換えるランドのバタイユ解釈は、その独自のエコノミーによって、もはや資本主義のオルタナティブを想像することすら不可能であるという「資本主義リアリズム」に抗する隘路を垣間見させる点では有効である。だがランドがその後推し進める、惑星規模の人工知能としての資本という考え方やビットコインやブロックチェーンなどの現代テクノロジーに基づくトランスヒューマニズム的立場は、あらゆる文化的相対性がサイバネティックな機械に包含されるある種の「普遍主義」と批判される向きもある[13]。
こうした批判を展開し、普遍主義に抗して種々の多様性を主張するのが、ほかならぬユク・ホイである。そこでランドとは別の回路も探るため、ユク・ホイの議論を見てみよう。
2. 「断片化」する精神圏──ユク・ホイ『再帰性と偶然性』から
ユク・ホイは『再帰性と偶然性』(2019年)のなかで、機械論と生気論の二元論の調停を経てサイバネティクス(機械的有機体論)が台頭する一般システム理論の歴史をふまえ、カント以来哲学することの条件であった有機的なものがもはや有効ではなくなったとして、哲学することの新たな条件を求める。そこでは導入として、論じられるべき問題が以下のように整理される。
われわれが論証しようとしているのは、もろもろのデジタル機械が惑星規模で「有機的なp.204ものになろうとしている」という見解や、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンが「オメガ点」や「精神圏的反省の終点」と呼ぶものを視野に収めながら、有機的なものという概念を改めて取り上げる必要があるということ、そして哲学することの条件に新たな光をあてる必要があるということである[14]。
こうした目配せの下、ホイはデジタル機械の惑星規模の有機化のような、つまりテクノロジーの発展が技術的特異点、シンギュラリティ(singularity)に収斂するというような単一的(singular)・西洋中心主義的なテクノロジー史観に抵抗する。それに対しホイは、人類が長い歴史のなかで生み出してきた技術の多様性を訴えるのである。
注目すべきは、こうした趣旨の下で、ホイが精神圏に着目している点である。特異なのは、ホイがテイヤールの唱える精神圏と、その果てに到達する終点──テイヤールはそれを〈オメガ点〉と呼ぶ──を、シンギュラリティのような現代テクノロジーのひとつの収斂として考えている点である。テイヤールは〈オメガ点〉において統合的な高次の人格が生じるとしているが[15]、ホイはこれに、人工知能が達するであろう「全知の一つの超知能」の実現を重ねているのである[16]。
だが、単一的なテクノロジー普遍主義を批判するホイは、この超脳としての単独的な精神圏とは別の解釈を求める。すなわち、精神圏を断片化し、いわば精神圏を複数的に考える道を模索するのである。
精神圏は無機的なものであり有機的なものになろうとしているがゆえに断片化可能(fragmentable)である。[…]精神圏に対してはかかるシステムの一つの超克としての精神多様性のために抗議しなければならないが、精神多様性もまたその物質的な支えとして技術多様性を要求する[17]。
こうしてホイは精神圏を多元化し、「精神多様性」、そしてそれを支える「宇宙技芸」の必要性を訴える。ホイは以上のような筋道で技術多様性の哲学を打ち立てるが、具体的にこれに応答することは「哲学の宿題」とされる[18]。
筆者としても、この「宿題」にここで解答することは叶わないが、ひとつ指摘できるとすれば、精神圏の終点を複数的に分割するホイの視点は、そもそもテイヤールの精神圏にも備わっていたということがある。テイヤールはたしかに、〈オメガ点〉においてある種の全体化が起こるとしているが、しかしその実、〈オメガ点〉は多数の群れの集合から成るとも述べている。
〈オメガ点〉は構造的に、その究極な原理において見る場合、多数の小さな中心群から成る一つの系の中央部で放射状に広がる別個の大きな中心にほかならない。全体の人格化と全体を構成する個々の分子の人格化が、最高度に独立した結合の焦点(必然的に独立しているその焦点を、これからは〈オメガ点〉と名づけることにする)の作用によって、混じりp.205合うことなく、しかも同時に、それぞれの極限に達するような集団、──これが、思考する粒子の集団に集団という概念を理論の上で徹底的に適用してみた場合に現れてくる唯一の姿である[19]。
ここに見られるように、〈オメガ点〉において個々の分子は、たしかに全体的に人格化されているが、しかし同時に「混じり合うことなく」、個別的に複数化しているのである。
その個々の集団において各々が「極限に達する」〈オメガ点〉の在りようはだから、ホイの言う精神圏の「断片化」のひとつのかたちである、と解することもできよう。だが、もしその各々が同一の全体的な特異点を目指しているのだとすれば、それはホイの批判する「普遍主義」に回収されてしまう。
しかしわれわれとしては、そうした普遍化へと収斂せずに複数化する組成をすでに見ている。ランドの言うバタイユ的「迷宮」がそれである。このスケール化不可能な空間そのものを、精神圏の新たな断片化のかたちとして見ることができるのではないか。そうすることで、改めてエネルギーの流転するこの圏域において、もはや普遍化は不可能なほどに水平化し、その都度多様な「技芸」が立ち上がってくるような、新たなエコノミーが考えられるのではないだろうか。
おわりに
ホイの問題意識をふまえ、有機的なものを哲学の条件とすることが失効した現代において、精神圏をテイヤールとは異なる形で、すなわちランドの言うような「迷宮」として断片化すること、そのような回路に、バタイユをエネルギー論的に読む理路が見出せるのではないか。取り留めのない結論をそれでもまとめれば、そのように謂えるだろう。
とはいえ、そのための素地を整えるにはさらなる議論が必要である。朧げな展望を努めて言えば、ひとつには、ホイによる精神圏を、ランドの「迷宮」的に断片化する回路は、バタイユの唱える「不定形の共同体」を再解釈させると考えられる。バタイユは、国家権力や秘密結社、教会などの形ある共同体に抗して、「望みうるかぎり最も形態の緩い共同体、不定形ですらある共同体を想像することができる」と述べた[20]。「不定形の共同体」には様々な解釈がありうるが、それを「迷宮」として、すなわちスケール化不可能なエネルギー渦巻く組成そのものとして読み替えることで、有形の共同体を解体した、水平的なエネルギーエコノミーのなかで新たな政治的システム──しかしそこに「政治」というスケールはない──を構築できるのではないか。つまり、精神圏におけるエコノミーは、まず真っ先に資本主義からの退路となるような政治制度を想定させるわけだが、それが人間個人や社会集団といった見かけのスケールにも、いわば一旦おとりのようにして適合されるのが「迷宮」の特異な点だと、これまでの検討で言えるはずだ。そうした政治や社会、集団、個人といったパラメータがあくまで束の間の強度として現れ、水平性に帰するシステムが「迷宮」の特権的な点であって、バタイユ的エネルギーp.206エコノミーのアナーキーさもそこに存するはずである。
またそもそも、バタイユが「水」の表象を用いて描く世界は、そのようなポテンシャルを兼ね備えている。すなわち、「水の中の水」のような内在性の世界[21]、ニーチェ的「大洋」[22]、「太陽と/いっしょになった海」といった[23]、「水」の世界をある種の郷愁として、しかし世界の根本としてひそかに措定するバタイユの姿勢は、そうしたエネルギー一元論的な世界への不可能な──言うまでもなく、あくまでそれが「不可能」であるところが肝要であるわけだが──「交流(communication)」こそが、ほんとうにはそもそも先に在るはずだという、憧憬としての観方の転換を示唆しているのではないか。こうした転換は、そもそも初めから在ったはずの──セクシャリティや、ホイの提示する技術多様性や精神多様性なども視野に入れた──多様な在り方を潜在的に認める点で、「いま」に見合った政治システムのかたちでもあるのではないか。そうした展望も踏まえたあらたな「不定形の共同体」について模索してゆくこと、それを今後の課題としたい。
参考文献
バタイユのテクストのうち、全集(Georges Bataille, Œuvres complètes, Paris, Gallimard, 12 vol., 1970-1988)に収められたものは、略号O.C.につづけて巻数を示す。
Georges Bataille, L’Expérience intérieure [1943], O.C., t. Ⅴ (1973)(『内的体験』、出口裕弘訳、平凡社、1998年).
───, Mémorandum [1945], O.C., t. Ⅵ (1973)(『ニーチェ覚書』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2012年).
───, La Part maudite [1949], O.C., t. Ⅶ (1976)(『呪われた部分 全般経済学試論・蕩尽』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2018年).
───, L’Érotisme [1957], O.C. t. Ⅹ (1987)(『エロティシズム』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2004年).
───, Théorie de la religion [1974], O.C., t. Ⅶ(『宗教の理論』湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫、2002年).
Nick Land, The Thirst for Annihilation : Georges Bataille and Virulent Nihilism, London, Routledge, 1992(ニック・ランド『絶滅への渇望 ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』五井健太郎訳、河出書房新社、2022年).
Pierre Teilhard de Chardin, Le Phénomène Humain, Paris, Seuil, 1956(テイヤール・ド・シャルダン『現象としての人間[新装]』美田稔訳、みすず書房、2011年).
Yuk Hui, On the Unhappy Consciousness of Neoreactionaries, e-flux Journal, April, 2017. https://www.e-flux.com/journal/81/125815/on-the-unhappy-consciousness-of-neoreactionaries/
───, Recursivity and Contingency, Lanham, Rowman & Littlefield, 2019(ユク・ホイ『再帰性と偶然性』原島大輔訳、青土社、2022年).
石野慶一郎「バタイユと粒子 ジョルジュ・バタイユにおける科学の位置づけについて」『Phantastopia』第1号、Phantastopia編集委員会、180-186頁、2022年。
乗松享平「グローバリズムの外部より、地球の外部を想像するほうがたやすい 「e-flux」とロシア宇宙主義」『現代思想』第49巻、青土社、165-175頁、2021年。
Notes
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[1]
Georges Bataille, L’Expérience intérieure [1943], in Œuvres complètes, Paris, Gallimard, 12 vol., 1970-1988, t.Ⅴ (1973), 111(『内的体験』、出口裕弘訳、平凡社、1998年、221頁). 以下、バタイユの全集はO.C. と略記し、巻数と頁数のみを記す。以下外国語図書を引用する場合、翻訳は既訳を参考に筆者が行い、日本語訳がある場合は該当箇所を併記する。なお、ランジュヴァンの議論とバタイユにおける粒子に関する詳細は以下を参照。石野慶一郎「バタイユと粒子 ジョルジュ・バタイユにおける科学の位置づけについて」『Phantastopia』第1号、Phantastopia編集委員会、180-186頁、2022年。
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[2]
Georges Bataille, L’Expérience intérieur, cit., p. 98(『内的体験』、前掲書、196頁). 傍点強調はバタイユによる。以下特に断りがなければ傍点強調は原著者によるものである。
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[3]
Georges Bataille, La Part maudite [1949], O.C., t. Ⅶ (1976), p. 35(『呪われた部分 全般経済学試論・蕩尽』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2018年、41頁).
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[4]
Ibid., p. 36(同上書、42頁).
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[5]
Ibid., p. 34(同上書、39頁). […]は筆者による省略を示す。以下同様。
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[6]
Ibid., p. 31(同上書、34頁).
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[7]
Ibid., p. 47(同上書、62頁).
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[8]
以下で検討するユク・ホイによる精神圏についての議論も含めた精神圏概念の受容に関しては以下を参照。乗松享平「グローバリズムの外部より、地球の外部を想像するほうがたやすい 「e-flux」とロシア宇宙主義」『現代思想』第49巻、青土社、165-175頁。
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[9]
Nick Land, The Thirst for Annihilation : Georges Bataille and Virulent Nihilism, London, Routledge, 1992, p. 34(ニック・ランド『絶滅への渇望 ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』五井健太郎訳、河出書房新社、2022年、110頁).
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[10]
Ibid., p. 34(同上書、111頁).
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[11]
Ibid., p. 34(同上書、111頁).[]内は訳者による補足を示す。
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[12]
Ibid., p. 115(同上書、298頁). 前者の傍点強調はランドにより、後者の強調はバタイユによる。最後のバタイユの言葉の出典は以下。Georges Bataille, L’Expérience intérieure,op. cit., p. 98(『内的体験』、前掲書、196頁).
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[13]
これについては以下を参照。Yuk Hui,On the Unhappy Consciousness of Neoreactionaries, e-flux Journal, April, 2017. https://www.e-flux.com/journal/81/125815/on-the-unhappy-consciousness-of-neoreactionaries/
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[14]
Yuk Hui, Recursivity and Contingency, Lanham, Rowman & Littlefield, 2019, p. 2(ユク・ホイ『再帰性と偶然性』原島大輔訳、青土社、2022年、24-25頁).
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[15]
Pierre Teilhard de Chardin, Le Phénomène Humain, Paris, Seuil, 1956, p. 288(テイヤール・ド・シャルダン『現象としての人間[新装]』美田稔訳、みすず書房、2011年、310頁).
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[16]
Yuk Hui, Recursivity and Contingency, op. cit., p. 248(ユク・ホイ『再帰性と偶然性』、前掲書、320頁).
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[17]
Ibid., p. 264(同上書、340-341頁).
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[18]
Ibid., p. 278(同上書、358頁).
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[19]
Pierre Teilhard de Chardin, Le Phénomène Humain, op. cit., p. 292(『現象としての人間』、前掲書、315頁).
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[20]
Georges Bataille, Mémorandum [1945], O.C., t. Ⅵ (1973), p. 251-252(『ニーチェ覚書』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2012年、136頁).
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[21]
Georges Bataille, Théorie de la religion [1974], O.C., t. Ⅶ, p. 292(『宗教の理論』湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫、2002年、23頁).
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[22]
Georges Bataille, Mémorandum, O.C., t.Ⅵ, p. 251-252(『ニーチェ覚書』、前掲書、163頁).
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[23]
Georges Bataille, L’Érotisme [1957], O.C. t. Ⅹ (1987), p. 30(『エロティシズム』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2004年、42-43頁).
この記事を引用する
石野慶一郎「バタイユから考えるエネルギーエコノミー──ニック・ランドとユク・ホイを手がかりに」『Phantastopia』第2号、2023年、199-208ページ、URL : https://phantastopia.com/2/energy-economy-bataille/。(2024年10月06日閲覧)