p.72はじめに
本稿は『高麗葬』(1963年)、『金薬局の娘たち』(1963年)、『浜辺の村』(1965年)を取り上げて、映像分析を行うことで、1960年代の韓国映画を代表する監督たちが巫俗に関心を持った理由と、巫俗の再現の特徴を考察するものである。
巫俗は、朝鮮のシャーマニズムであり、先史時代から現代に至るまで一貫して存在する土着の信仰である。韓国社会において、植民地時代から1950年代まで巫俗を迷信として糾弾する視点が圧倒的に優勢であったが、1960年代以降には、韓国の文化政策の影響によって巫俗を文化として見る肯定的な視点が台頭した(新里、2017、pp. 98-99)。しかし、同じ時期の韓国映画、とりわけ1960年代の韓国映画における巫俗の再現は、新里が述べるやや図式的な傾向とは対照的に、より複雑な様相を呈している。
巫俗は植民地時代から現在に至るまで韓国映画において重要なテーマとなっている。製作本数からみると、1950年代までには巫俗に関する映画はわずか3本だったが、1960年代には12本、1970年代には13本、1980年代には14本、1990年代には13本、2000年から2017年までには46本が製作されるようになった(パク、2012、p. 187、キム・ジュユン、2018、pp. 11-14)。しかし、これまでの研究では1970年代以降の映画が注目されてきた一方で、それ以前の映画における巫俗を取り上げる研究はわずかである。というのも、巫俗をテーマにした韓国映画は、1970年代から国際映画祭での受賞のために、世界中の注目を集めるようになったからである。しかし、実際には、1960年代にも巫俗を扱う数本の映画がアジア映画祭[1]に出品され、賞を受けていた。例えば、『金薬局の娘たち』は1964年の11回で悲劇賞、『米』は1965年の12回で監督賞、『浜辺の村』は1966年の13回で撮影賞を受賞している。
また、多くの先行研究には、それらの巫俗を野蛮や迷信として捉え、前近代対近代という二項対立の中に位置付けようとする傾向が見られる(パク2012、イ2008、ソ2013等)。無論、それは1960年代から展開された急速な近代化に深く関係しているのだが、映像分析がほとんど欠落しているため、その結論はやや社会反映論的であり、検討する余地を残していると思われる。ポール・ウィルメンは韓国映画を考察する際に、リアリズムと主体性に重点を置いた西洋の映画理論が韓国映画、とりわけ巫俗をテーマにした映画には当てはまらないことを主張している。なぜなら、韓国映画では、聖と俗、現実と超自然の境界が、西洋映画とは異なる形で表現されるからである(Willemen, 2002, p. 172)。ウィルメンによれば、巫俗という非合理主義は永遠に到達できない、言葉にできない啓蒙の中核を有しており、神聖な部分と恐ろしい部分を、あたかも現実であると同時に不条理であるかのように、笑いと皮肉を混ぜ合わせることで非常p.73に曖昧に表現している(Willemen, 2002, p. 172)。それ故、韓国映画における巫俗のイメージは、単なる近代的価値の対蹠点ではなく、曖昧さや多義性を含むことがある。
本稿では1960年代に製作された12本の巫俗に関する映画の中でも、とりわけ『高麗葬』、『金薬局の娘たち』、『浜辺の村』を取り上げるが、その理由は以下の二つである。一つには、この3作品の監督、すなわち金綺泳、兪賢穆、金洙容は韓国映画史で欠かすことのできない映画監督であり、作品の中で独自の作家性を発揮してきた映画作家であることによる。もう一つには、3作品がともにアジア映画祭に出品されたことである。具体的には、『金薬局の娘たち』と『浜辺の村』は賞を獲得し、『高麗葬』は第十回では受賞を逃したが、最高賞を取る可能性が高いと韓国映画界から期待されたのである(映画世界、p. 43)。このように、1960年代の韓国映画の代表作だと言えるこの3作品を考察することによって、1960年代の韓国映画において巫俗がどのように再現されているかが窺えるだろう。なお、本稿では、映画における巫俗の再現をより詳細に検討するために、巫儀から、巫堂(巫女)、信者の振る舞いまで、巫俗に関連する要素を併せて論じることにする。
1.民族誌的な「自己展示」──『高麗葬』からみる巫俗の追放
『高麗葬』は、金綺泳が6年ぶりに初めて時代劇の製作に挑戦した作品である。本作は、高麗時代(918年-1392年)の山間にある寒村を舞台に、前近代的な社会で働けなくなった70歳の老人を山に捨てる風習、いわゆる「高麗葬」[2]を再現するものである。
分析に入る前に、『高麗葬』が木下恵介の『楢山節考』(1958年)のリメイクだと考えられることを述べておきたい。というのも、棄老伝説を扱う点、人工のセットで撮影を行った点、さらに息子が母親を背板に乗せた山参りの往復のシークエンス、白骨が山頂に敷き詰められたシーンなどを比較すると、二つの作品の類似性が偶然の一致によって生じたとは言いにくいからである。金綺泳は、日本と関わりが深い人だった。青少年時代に日本語を勉強し、1940年に大学入試に失敗した後、日本へ旅立ち、京都で三年間の浪人生活を送った。彼にとって、日本は慣れ親しんだ場所であり、「懐かしい郷愁」と「優越的文化」を有する場所であった(ユ、2006、p. 83)。戦後、彼は密輸品として韓国に入ってきた日本の雑誌とシナリオを通じて日本映画を理解しようと努力した。また、アジア映画祭における日韓映画の活発な交流を背景として、彼は韓国初の日本ロケ撮影の機会を得て、1961年に戦争映画『玄界灘は知っている』(1961年)を撮るために名古屋と知多半島に四十日滞在したことがあった。さらに、日本映画が上映禁止となったにもかかわらず、韓国映画人たちは密輸された脚本、書籍、雑誌を通じて日本映画を窺い知ることができたことを考慮すると、金綺泳は少なくとも『楢山節考』の原作やシナリオを見ていた可能性が高い。
とはいえ、『高麗葬』は、単なる『楢山節考』の韓国版ではない。二つの作品の間には三つの大きな違いがある。第一に、棄老伝説の扱い方の違いである。木下の『楢山節考』は、戦後の秩序回復と経済成長、貧困問題などを通じてそれらを克服できるものとして共同体精神を扱っp.74ており、孝を共同体の集団的論理の下位概念として捉えている。それに対して、『高麗葬』は、共同体を地域社会にとっての脅威または克服すべき対象として描写されており、その中で共同体の集団的論理を抑圧する秩序が存在することを強調している(イ、2008、pp. 295-296)。第二に、物語の構造の違いである。『楢山節考』が棄老伝説を中心に表すもので、宗教に近い母親の自己犠牲を主題にした物語だとすれば、『高麗葬』は残酷な運命の呪縛に苦しめられるヒーローのクリョンによる村の二つの権力集団、すなわち巫堂と十人兄弟に対する復讐劇である。第三に、民間信仰の扱い方の違いである。『楢山節考』は村人が山の神を敬う素朴な山岳信仰を扱っているのに対し、『高麗葬』は高麗葬説話にない山の神と人間との間を仲立ちする巫堂を追加し、村を支配する地位に立たせるのである。
さらに興味深いのは、巫堂が『高麗葬』の物語の展開でかなりの比重を占めるにもかかわらず、巫儀から、巫歌、巫具、祭場に至るまでの巫俗の要素に関する過剰に豊富な細部を一つ一つ描き出していることである。ここで、Chow Reyの張芸謀の『菊豆』(1990年)に関する議論が想起される。Chowは、『菊豆』における民族誌的な「自己展示」を「東洋人の東洋趣味」と呼び、それが西洋の眼差しに対抗する「戦術の顕示」であると論じている(Chow、1999、p. 257)。無論、『高麗葬』が西洋の眼差しを意識して製作されたものであるわけではない。しかし、当時韓国映画界が海外市場の進出を積極的に開拓し、とりわけアジア映画祭を利用して韓国映画の優位性を持たせる熱望を有していたこと、さらにこの映画祭は当時アジア映画産業の先頭に立つ日本によって設立され、リードされていたという背景を念頭におけば、『高麗葬』における巫俗の自己展示を再び吟味する必要があるだろう。以下では、巫儀にまつわる三つのシークエンスを取り上げ、民族誌的な収集・再現の作業であるような巫俗の表象からどのような意味合いを読み取れるのかを分析していきたい。
映画は人口問題を取り上げるテレビ番組の収録から始まる。そこでは司会者が専門家との質疑応答の中で高麗葬の風習に言及する。司会者が高麗葬を復活しようと発言したことに対して、観客のなかの一人の老婆が異議を唱え、自分の手相が百歳まで元気に生きることを予言していると述べる。かくして、高麗葬は人口問題の解決策となり得る他方で、廃止すべき風習として扱われることがこのオープニングから窺える。ここまで巫俗の表象はまだ登場しておらず、また高麗葬も必ずしも巫俗に関係していない。しかし、巫俗の表象が直接的に登場する以前に、この映画において前近代対近代という二項対立の問題が提起されているのである。
老婆の話が終わると、映画は高麗時代に入る。クレジットタイトルが山の背景に流れるとともに、杖鼓、太鼓と銅鑼の演奏が聞こえてくる。先に流れる音声が観客を巫儀に没入させ、目に映る『起源経』という原始仏典の文字が前近代的な雰囲気を漂わせている。次のシーンでは、カメラが杖鼓、太鼓と銅鑼を順次にクローズアップし、そして踊っている巫堂の足から頭へ移動する。続きのミディアムショットでは巫堂が左手に鈴を、右手に扇子を持っている姿と扇子からゆっくりと顔を出す動作が映し出される。巫堂が巫歌を唱え始めると、ミディアムショットからロングショットに切り替わる。この巫歌からこの巫儀は彼女の降神巫[3]としての巫神祭であることがよくわかる。細部から全体像を提示するカメラワークからわかるように、この巫p.75儀を観客に見せる意図は自明であろう。さらにこのことは、この後巫堂と彼女の元夫(クリョンの継父)との会話のショット(図1)からも窺える。巫儀が進行している間、元夫の嫁入り行列が近づいてくる。すると、巫堂が画面の奥深くにある枯木へ行き、元夫に向かって神樹の存在を説明する。神樹は、巫堂のセリフの通り、神の化身であり、村を見守るものである[4]。また、後述するように、神樹は物語の展開において重要な役割を果たす。元夫が彼女の話を無視すると、彼女は元夫の再婚が必ず失敗すると予言する。ここで画面上により高く位置している巫堂は、自分が家庭関係から脱出し、男を凌駕するようになったことを強調する。この時点ではまだ、巫堂は霊験を現わしていないものの、すでに強烈な存在感を誇示していると言える。
二つ目の巫儀では、巫堂が「見せる」行為を繰り返し、あたかも誰かを誘惑しているように見える。この巫儀が執り行われた背景は次のようなものであった。クリョンが十人兄弟の放った毒蛇に噛まれた後、クリョンの母が巫堂に息子の命を救おうと願い、巫堂がクリョンの亡霊を死から防ぐためにこの巫儀を行ったのである。つまりこの巫儀は、いわゆる家祭[5]なのである。巫堂は、楽工の伴奏に合わせて、火食い術、鬼に供物を供える儀礼、裂布[6]の行事を次々と披露する。ここで注目すべきは、彼女を覗き見する十人兄弟の視点から撮る巫堂の姿が、本来は「見られる対象」であるはずなのに、逆に「見せる主体」として描き出されることである。言い換えれば、十人兄弟が見る行為は、巫堂による意識的な視線の操作の結果にすぎず、彼らは受動的な立場に置かれてしまうのである。しばしばクローズアップで切り取られた彼女のひくひく痙攣する顔が十人兄弟を魅了しつつ、恐怖を与える。なぜ巫堂が恐怖を与えるかと言うと、彼女は十人兄弟が最終的にクリョンに殺されると予言しているからである。この視覚の戯れでは、彼女は、悪である十人兄弟を牽制し、ついに村を支配する地位にまで昇っていくのである。
巫堂の権威を示すのは、映画中盤にある三つ目の巫儀のシークエンスで、5分ほどのシーンである。この巫儀は、憑依儀礼であり、長年にわたる干魃を乗り越えるために行われる雨乞いである。ここで行われる自我展示の主体は、巫堂だというよりも、むしろ巫堂の体に憑依した神なのである。巫堂は、神を自分に憑依させるために、その場で少女の舌に石の針を刺し、生p.76け贄として神に捧げる。実際のところ、巫俗に関する研究や資料において人間を生け贄にすることに関する記載はなく、一般的には牛や豚などの生け贄や酒、果物、魚、肉などを供える場合が多い(金泰坤、1981、p. 414)。このような戯画化によって、巫俗=野蛮という図式が容易に成り立ってしまうだろう。さらに、巫堂がクリョンの母が山に行かなければ雨が降らないと言うと、クリョンの母はうれしそうに笑い、思わず巫楽に合わせて踊ってしまう。すると、村の人々が催眠術にかかったように、一緒に踊り始め、単なる観客から参加者へ変わってしまい、神壇の熱狂はクライマックスに達する。ここですでに成立していた巫俗=野蛮という図式の下で、参加者の熱狂=盲目的な愚行という結論が導き出されるのは当然なことだろう。
巫堂の言葉に怒りを感じ、踊っている母を止めようとするクリョンが、憑依儀礼の撹乱者であることは言うまでもない。ここまで自己完結してきた巫俗の世界が崩壊し始める。この後の展開からわかるように、クリョンは巫堂と十人兄弟を一斉に殺し、村を解放する革命者となっていく。その意味で『高麗葬』が提供している巫俗の民族誌は、年代順的で直線的な歴史の民族誌であるばかりではなく、男性英雄神話であると言えるだろう。とりわけクリョンが神聖視されていた枯れ木を切ってしまい、その木の下敷きになって巫堂も死ぬというシーンは英雄が誕生する瞬間として表されている。さらに、この瞬間にデウス・エクス・マキナのように降ってきた大雨が、村の人々を救うというシーンも、男性英雄神話を演出していると言えるだろう。
しかしながら、ここで逆説となるのは、クリョンが十人兄弟に復讐を成し遂げたのは、まさしく巫堂の予言が当たったこと、つまり巫俗の真理性を証明したことである。言い換えると、巫堂なしには、この「革命」は成功しえないのである。このことは、彼が「革命」を遂げた後には茫然しか抱えていないことからも窺える。ラストシーンでクリョンが子供に「私たちはどうやって生きていくのか」と聞かれると、彼の答えは以下のようになる。「種をまこう。教えてくれる人さえいれば何とか植えるし、それで食べていける。」この曖昧な答えが示唆するのは、クリョンが前近代社会の生産関係を覆すのではなく、むしろ相変わらず誰かに救われなければならないということである。無論、急速な近代化が進んでいるスクリーン外の韓国社会の状況を突き合わせると、ここでの「誰か」は近代化と容易に結びつけられるのだが、スクリーン上の世界では近代の表象が欠落しており、冒頭に現れた現在の時間、引いて言えば近代的な時間が映画の中で戻ってこない。言い換えると、前近代的なものとしての巫俗は、近代化を妨げるものに還元することができなくなってしまうのである。だとすれば、クリョンが起こす革命は、巫俗を消滅するというより、むしろ巫俗という前近代の亡霊を追放するものだと言えるだろう。
「東洋人の東洋趣味」という観点から論じると、『高麗葬』におけるごく自覚的な巫俗の「自己展示」、いわば韓国人の韓国趣味は、「プリミティヴへの情熱」という「文化が危機に際したおりに出現する同時進行的で同時代的な表象構造の謂い」(Chow、1999、p. 73)でありながら、それが見せてくれるのは『楢山節考』のような神聖な美しい原始世界ではなく、また『菊豆』のような封建制に抑圧された女性身体の傷痕が提示する古い国でもない。『高麗葬』が視線の操作や民族誌的な細部の描写を通じて提供した巫俗のイメージは、前近代的なかつ非科学的な巫俗を廃止すべきだという韓国社会の言説と、新興国家として「古い韓国」と決別しようとするp.77決意とともに、その迷いや逡巡を示しているのである。
2.フレームの多層化──『金薬局の娘たち』における巫俗と近代の混在
ここまで論じたように、『高麗葬』における巫俗の再現は、民族文化と伝統をめぐる韓国社会が直面する近代化問題を媒介し、前景化する民族誌的な映像を提供していると言えるが、更に金綺泳のように巫俗を通じて社会問題に目を向ける同時代の監督がもう一人いる。兪賢穆である。李英一によれば、金綺泳が現実を現実そのものとしてテーマにしたとしたら、兪賢穆映画は、現実に直面する人間の内面的葛藤、絶望と救済の深刻さを描くものだった。言い換えると、金綺泳の場合は、社会の問題であり、兪賢穆の場合は人間の問題である(李英一、1963、p. 58)。
『金薬局の娘たち』[7]は、慶尚南道海辺の小さな町統営を舞台に、李氏朝鮮末期から1930年代に至る近代の激動期に翻弄された金薬局一家の没落を描く。映画は原作を大幅に縮約し、原作での五人姉妹が四人姉妹になり、結末も異なっている。本作が中心的に扱っているのは、人間が巫俗的な運命論という不条理の中でいかに生きていくのかということである。とりわけ注目すべきは、巫俗の表象が映画内でフレームインフレームの構図の中で描き出される点である。以下では、多層化したフレームの中で捉えられる巫俗の表象をつぶさに分析していこう。
固定撮影によるショットの組み合わせで巫儀を再現する『高麗葬』とは異なり、本作では移動撮影を行い、シネマスコープの画面をより有効に活用している。映画の前半で現れる巫俗の要素は、「砒霜食べて死んだ亡霊がついて家が滅びる」という繰り返し述べられるセリフだけであるが、中盤になってから視覚的な表現が登場する。まずは機械船の初出航の無事を祈るために行われる告祀である。その機械船は、金薬局が漁場の経営困難を打開するために、多額の金を借りて買ったものである。フレームの中の前景で巫具を振り回す男巫の姿は告祀が行われることを提示する。ここでは男巫の体が画面の大半を占めており、後ろの供物を遮っている。男巫が祭壇の後ろに向かって歩くと、供物が誰かに盗まれたことに気づいた一人の船員の様子が見えてくる。ズームインするカメラは、基斗が船員に男巫にばれないように注意する瞬間で止まってしまう。最後の画面では、船首像が画面を左右の二つのフレームに分割し、男巫は左側、基斗と船員は右側のフレームに位置する。こうして、男巫の厳かな表情と基斗と船員の慌てふためいた様子が一つの画面で収められる。わずか10秒余りのワンカットで緊張感が走っている。後の流れが示すように、巫俗において供物が盗まれることは凶事が必ず起こることを意味するのである。結局海難事故が起こってしまい、それが金薬局一家崩壊の導火線となる。興味深いのは、近代が到来することを象徴する機械船と前近代の遺物である巫俗との間の緊張関係である。つまり、巫俗儀礼の禁忌を犯すことこそが海難を招くのである。言ってしまえば、近代化が金薬局一家を巫俗的な運命論から救うことができないことを暗示しているのではないかと思えてならない。兪賢穆が激動の近代世界への新たな視線で捉えたのは、まさしく信仰の危機である。ここで示されているのは、巫俗という韓国人の最も原初的な心理構造が近代化の中でいかに他者になることを強いられたか、またいかに崩壊するか、ということである。
p.78こうした近代と伝統との間の亀裂は、母ハンシル宅と巫堂とのシークエンスにおいてより明確に表現される。ハンシル宅が三女容蘭の家で娘の主人の暴行を目撃して帰宅する途中、怒りのあまりいきなり神の化身である枯木を呪うミザンセーヌから見てみよう(映画の1:17:19から1:19:30まで)。木の枝と幹が画面を分割し、ハンシル宅の狂っている様子が左側の入れ子構造になったフレームに位置している。そこでカメラが左から右へ水平に移動し、ハンシル宅が今度は右側の枯木によるフレームに収められる。彼女は枯木から木神の札を取り出しながら、神を罵倒し続ける。続くパンフォーカスのショットにおいてハンシル宅がようやくフレームから脱出し、画面の前景にむかって来る。しかし、次の瞬間には彼女がすぐ振り返って枯木に戻り、神に膝をついて許しを請う。続くショットで彼女がまた枯木のフレームに収められる。このシーンにおいて彼女は分裂した窮屈な空間の境界線を一度も越えることができず、木の枝と幹が引く格子状の線に包囲された状態に置かれている。フレームの多層化の反復による精巧なカメラワークは、ハンシル宅が逃げようとしても宿命論から逃れることできないことを暗示する。
このようなフレームの多層化は、カメラの動きだけでなく、ストーリーの面にも巧みに使われる。非理性的な巫俗の世界を同じ非理性的な狂気と悪夢に紐づけようとする。続くシークエンスでは巫堂がハンシル宅の家に雑鬼が多いため、巫儀で鬼を追い払わないと死ぬまでだとハンシル宅の運命を占う(映画の1:19:31から1:23:32まで)。占いの場面でハンシル宅による帽子、銅鑼、鈴、巫壇の上の人形の骨組みのホスアビ(かかし)を見る主観ショットを提示し、観客のハンシル宅の視点への同一化を保証する。それにより、その後の巫儀が観客にとって単なる宗教的な儀礼ではなく、あたかも催眠術のように変わってしまう。銅鑼を打つ画面と音がわれわれをこの巫儀へと導き、その中で巫堂は踊っており、体に白い布をかけられるハンシル宅は、目を閉じて、神壇の上に静かに横たわっている。カメラが巫堂の動きを追いながら、後ろに立っている容蘭の半信半疑の顔が見えてくる。すると、巫堂が生きたままの鶏の生け贄を片手に持ち、鎌を振りかぶって首を切ろうとする。すると、カメラがまた銅鑼に戻り、銅鑼の音が耳をつんざくように響く。このような編集技法によって死の瞬間の表象、すなわち視覚的な暴力が完璧に避けられるのだ。このように一連のショットの組み合わせは、巫儀そのままをカメラに収めるという記録的な映像ではない。細かいカットの連続は巫儀の継続性を撹乱することで絶えず構成されるか、あるいは遮断される。
ここまでは巫堂にカメラの焦点が当てられ、運動を牽引したが、次のショットで突如中心が容蘭へと転じる。続いて、巫堂が鶏の血をハンシル宅の体にまく場面になると、容蘭と下女は巫堂に言われた通りにハンシル宅のそばに寄り、画面中央に位置するようになる。容蘭は泣くふりをするべきだったが、突然大きな声で笑い出す。すると、ハンシル宅は不気味な笑い声で目を覚まし、容蘭に笑わないように注意する。こうして容蘭の笑い声はハンシル宅の「催眠」を解くと同時に、巫儀を前の機械船の告祀と同様に失敗させる。つまり、巫儀の失敗が凶事を招く、すなわちハンシル宅の死に直結するという論理の反復である。意味深長なことに、この二つの巫儀の失敗はいずれも容蘭と関係している。容蘭は、告祀の供物が盗まれたと聞いても、p.79全く残念に思わず、得意げに笑う。また、母のための巫儀でも、容蘭は全く真剣ではなく、むしろ巫儀を冒涜し、破壊する。彼女は最初から制度の破壊者であり、誰にも理解されず、前近代的封建社会に受け入れられず、さらに近代的価値観にさえ救われない人物であろう。彼女は、最後には狂気に追いやられるしかない。巫儀は、容蘭にとって前近代的な倫理と価値観に抵抗する、理性の価値を見出せる唯一の場だが、それにもかかわらず、その時空間では、彼女の無力さが克明に露呈するのである。
巫俗の力は、現実世界のみならず夢にも浸透している。巫儀後の夜、帰宅したハンシル宅は悪夢にうなされる(映画の1:27:21から1:28:26まで)。この悪夢の中では、巫儀、とりわけ巫堂が鶏を殺す場面が再現される。その場面では、呪文を唱える巫堂の顔がクローズアップされ、続いて楽工が銅鑼を打つ画面を映すショットが巫堂のクローズアップに繰り返して挿入される。巫堂は再び鶏を片手に持ち、鎌で首を切ろうとする。横になっているハンシル宅はあまりの怖さに白い布で頭を覆ってしまう。すると、画面には鶏の首が切られる場面がはっきりと映し出される。実際の巫儀では意識的に避けていた、死を暗示するカットがいまは完全に再現される。続くショットで、鎌を持っている人物は、巫堂から容蘭の主人へと変わり、このショットで観客はそれが夢であることに気づくのである。すると、彼が鶏の血をゆっくりまくと、横たわる人が自分から容蘭に変化し、容蘭の笑い声が流れる。ハンシル宅は大きな悲鳴をあげるが、彼女の顔の半分は影に遮られ、見えてくるのは激しく動く瞳のみである。最後にカメラは、銅鑼が打たれる様子を映し、その銅鑼の音が一層激しくなったところで、ハンシル宅はようやく悪夢から目覚める。
このシーンで銅鑼の音は非常に際立っている。アン・ジェソクは、この映画の音に言及し、その音は単純に内在的サウンドとしてだけ機能するのではなく、不幸の前兆と巫俗を象徴するという二重の意味で使われると論じている(アン、2009、p. 30)。この銅鑼の音における二重の意味は物語の全体から見ると、前近代を象徴する巫俗の世界へ導く記号であり、金薬局一家の取り返しのつかない不幸の予言を指すことは明らかである。ところが、巫儀のシーンでは事情が違う。結論から言えば、銅鑼の音は二重の意味以上の多義性と複雑性を有しているのだ。加藤幹郎によれば、「映画は物語をまことしやかに伝達する媒体ではなく、その構成要素である映像と音とが自己増殖を通じて物語をいまここに構築してゆく場そのものである」(加藤、1988、p. 204)。音声と映像の関係を見てみると、銅鑼の音は巫儀の中で一種の環境音として使われると同時に、繰り返し視覚的にも現れる。すでに触れたように、実際の巫儀では、銅鑼とその音は死の表象に隠喩的に置換されるが、悪夢の中では、恐ろしい世界の終結を告げる信号である。その音は、映像の意味作用を映像それ自体の表層から脱線させる。つまり、巫儀という連続的な空間を提示しつつ、強迫反復的なリズムや強度の変化がまたその連続性を暴力的に破壊する。それは、外部からやってくるものでありながら、全てのフレームを打ち砕く魂の奥底から響いてくる音でもある。そこには、巫俗という前近代の亡霊は永久に追放することが出来ず、いずれ戻ってくるという意味合いが込められているのである。
現実の反転にもみえるこの悪夢は、実は死の予兆である。ハンシル宅は予言の通り容蘭の主p.80人に残虐に殺害されるのである。パク・ユヒは、ハンシル宅の死を「母の敗北であり、巫堂の敗北であり、母と巫堂が信じた巫俗という前近代的価値の没落を象徴する」と捉えている(パク、2012、p. 194)。しかし、このように二分法的に割り切ることは、イデオロギーというベールを纏わせた解釈に過ぎない。このベールを剥ぎ取ると、ここで表されているものは、巫俗的な運命論に対する批判などではなく、フレームインフレームの連続によって、巫俗的な世界と現実世界が混在している状態が露呈されていることが分かるのである。端的に言えば、両者は相容れないまま表裏一体の関係をもっているのだ。
このことは、映画が原作の結末を書き直したことからも裏付けられる。原作では、金薬局が西洋医学によってがんの診断を受けた後死亡し、次女容斌が幼い妹を連れて統営を離れるという前近代の終焉を宣告する結末であるが、これに対して映画は、キリスト教に帰依した容斌が独立運動青年と結婚して金薬局とともに統営に残るという内容に変えられている。多くの研究者が指摘するように、映画の結末、とりわけラストシーンでの容斌が父のもとへ駆けつける場面で、丘の上に立つ父の姿が長く映されるショットは、伝統との断絶ではなく、「父の秩序」を再構築しながら近代化を成し遂げようとした時代精神が解釈される根拠になってきた(韓国映像資料院、2009、p. 54)。この結末が検閲を通るための戦略であれ、時代精神との妥協であれ、いずれにせよメロドラマの論理を明らかに示している。それはつまり、社会的問題がいつも家庭の中の問題であるかのようにすり替えられ、そのすり替えの分だけ、社会の変革不可能性が強調されるという論理である(加藤、1988、p. 13)。似た脈絡で、共同体の中で巫俗がどのように扱われているかを表す『高麗葬』と異なり、本作では巫俗をひとつの家庭の中に限定し、そこに民族的共同体の存在がなくなってしまうのである。
兪賢穆は、フェデリコ・フェリーニの作品から影響を大きく受けたと告白している(韓国映像資料院、2009、p. 48)。彼の映画をフェリーニの『道』(1954年)や『カビリアの夜』(1957年)などと比較して見ればわかるとおり、フェリーニは「自らの背負った運命にどうしても逆らうことができずに死んでいく、哀れで無垢な精神の犠牲者を描いて、改心による魂の再生を求める」ことで(川本、2005、p. 103)、兪賢穆は、彼自身の言葉を借りると「疎外された人間、絶望する人間、永遠な孤独の中であがく人間を極限状況でついに燃焼させ、無限に美しく昇華させようとする」のである(映画芸術、1965、p. 49)。兪賢穆にとって巫俗は善悪の判断を超える非理性的なものであり、その非理性的な不条理こそ、リアリズムが作用できる時空間を提供するのである。この不条理こそ彼の感傷の種であるかもしれない。なぜなら、運命論の根底には変わることのない過去への無力感と、既知の未来への恐怖があるからである。
3.郷土色の再生成──『浜辺の村』からみる巫俗という風景
金洙容は「韓国文芸映画のゴッドファーザー」と呼ばれるほど韓国映画史において重要な地位を占めている監督である。『浜辺の村』[8]は、彼の文芸映画の代表作であり、1953年に発表された呉永寿の短編小説を原作とし、南海にある漁村で生活する未亡人ヘスンと漁夫サンスとのp.81恋愛を扱う作品である。映画の粗筋は以下のようになる。嫁いできたばかりのヘスンの夫が船に乗って出港するが、風浪に遭い死ぬ。未亡人になったヘスンが村に住むサンスに追いかけられ、関係を結ぶ。二人は漁村から逃亡するが、行く先々でヘスンの美しい容貌が多くの男性たちを魅了してしまう。このことにやきもきしていたサンスは、あるときへスンを強奪しようとした狩人を殴り殺し、彼女の首を絞めて気絶させてしまった。サンスは薬を求めて崖から足を踏み外して死んでしまう。ヘスンは漁村に戻り、村の海女と姑は彼女を温かく迎えてくれる。
原作では巫俗の描写について「姑の家から巫堂を連れてきて巫儀を作っている間、ヘスンは歩いて、袖だけを下ろして村を抜け出して三十里山道を走ってきたのだ」という一文のみが挙げられる。それに対して、映画では金洙容は人間存在の根源的かつ土着的な内面性を表現するために、巫俗のイメージを多く登場させている。具体的には、以下の三つのシークエンスである。一つ目に村の女たちが天王堂に集まって龍神に祈りを捧げるシークエンス、二つ目に海難で亡くなったヘスンの夫の魂を救うために船上で行われる鎮魂祭のシークエンス、三つ目に亡くなった夫の霊に呼び出された未亡人チルソンネが自殺するシークエンスである。
巫俗的な要素が初めて登場するのは、村の男たちを乗せた漁船が出港する場面の後である。岸辺から村の女たちが漁船に向かって手を振って見送り、すると船に乗ったヘスンの夫が岸辺を眺めると、天王堂に向かってお辞儀をするヘスンの姿が見えてくる。このロングショットに一緒に映っているのは、天王堂とそれを取り囲む大きな松である。巫俗が村を見守る神聖なものであり、すでに村の人によって受け入れられたものであることが容易に読み取ることができる。そのあと、ひどい風が吹き荒れて稲妻が走り、雷鳴が轟くなか、村の女たちが天王堂に駆けつけ、お辞儀をしながら祈りを捧げる場面が続く。稲妻が天王堂の中にある龍神の像を照らすと、続く切り返しショットの前景でずぶ濡れになって切に祈るヘスンの姿が見え、後景でお辞儀を繰り返す村の女たちの動作が映っている。このシークエンスは、ヘスンの姑も自宅の中庭に跪き、龍神に息子の無事を祈る姿が映っている場面で終わる。人間は自然の力の前で立つ瀬がない存在であるように描かれることから、祈りは人間が神に近づき、村の安寧への願いを伝える唯一の方法だと窺える。神像と信者が構成する切り返しショットによる視線の縫合が観客に同一化を求めると同時に、その空間が常に内部的かつ自己完結的だという意味を補完するのである。
このような巫俗と人間との調和のとれた関係は、嵐で亡くなった男たちのために行う鎮魂祭においても表されている(映画の18:24から23:51まで)。鎮魂祭のシークエンスの最初のパンフォーカスショットで巫堂が大勢の人に囲まれながら、ゆっくりと船に向かって歩いていく。鎮魂祭が始まると、鈴と扇子を持って、呪文を唱える巫堂がローアングルで映し出される。ここでの巫堂は『高麗葬』での巫堂と同じ俳優が演じるゆえに、『高麗葬』における巫堂を容易に連想させる。しかし、本作の雰囲気はそれとは全く異なる。観客に恐怖を抱かせる暗い照明を用いて巫堂を映し出す『高麗葬』や『金薬局の娘たち』とは異なり、このローアングルショットで巫堂は光の強い環境で映って、彼女の顔と身体が青空と一緒に収められており、村の人々から尊敬されることがよくわかる。シネマスコープの画面で巫儀にまつわる全ての細部が取りp.82除かれ、画面を占めているのは巫堂の姿のみである。続くショットでヘスンと姑が巫堂に向かってお辞儀を繰り返す。巫堂が供物を海に投げ入れ、龍神に捧げると、夫の魂が海から取り出される。鎮魂祭が終わりに近づき、船が岸につく際に、岸辺に立っている大勢の人がその魂を迎える場面を映すパンショットが挿入される。人々が見守る中、ヘスンと姑は一歩一歩少しずつ魂を家に導いていく。カメラが焦らずこの過程を追い、二人がやっと帰ってきた魂を抱いて慟哭するハイアングルショットで終わる。そういったカメラの動き、最後の神の視点のような俯瞰視点は記録的な中立の視点だというより、むしろ家族を失って残された者と故人の霊との仲立ちとして、遺族への慰めを与える巫俗の神の視点に該当する。
原作にないチルソンネの自殺というシークエンスのうち、巫俗の表象は、大きな割合を占めている。妊娠中のチルソンネが夫の死を知った時、彼女が最初にしたのは、天王堂の前でお辞儀をして「どうやって一人で生きていくのか」と涙ながらに訴えることだった。彼女は悲しみのあまり、神を恨むようになり、制止を聞かずに松の木にかかっている木神の札を必死に引き裂く。彼女が松の木を登るショットは『金薬局の娘たち』でのハンシル宅が神を罵倒し続ける多層のフレームの構図を参考にしたように思われる。後のシーンと合わせて考えると、ここで強調されているのは、彼女が巫俗の支配から逃れられないことではなく、むしろ木神の札を引き裂くことを通じて夫を失う悲しみを発露することである。というもの、彼女は、夫が海に出る前に見た不吉な夢が、夫の死の原因だと信じているからである。出産後、狂ったようになったチルソンネはある日、木神の札を自分の体に巻きつけて、海に向かって歩き出す。チルソンネの姿を見た海女たちは、夫の魂が彼女を呼んでいると考え、彼女が夫の霊に憑依されたと言い放ち、彼女を止めようとはしない。彼女が自殺のために海に入っていく姿を描いた二つのロングショットに正面から彼女を映すフルショットが挿入され、彼女の瞳に映る決意が明らかにされる(映画の49:45から52:10まで)。流れる音楽の音量が徐々に上がって、厳粛な雰囲気が醸し出されている。彼女の体が海に飲み込まれていくとき、カメラはティルトダウンし、岸辺で水に浮かぶ彼女の靴を捉える。このように、本作では、巫俗は、漁村の人々が自然の一部として神聖視し、生と死の運命を受け入れ、それに適応していく信仰として提示されているのである。
以上の検討からわかるように、金洙容は、巫俗を表現する際に、『高麗葬』や『金薬局の娘たち』から影響を受けたことを一切隠そうとはしなかった。むしろそれらの表現を意識的に変えたように見える。『浜辺の村』は、『高麗葬』で野蛮として表現される巫俗の汚名を払い、また『金薬局の娘たち』で近代化に最も早く遭遇する浜辺の町の原初形態を表象し、原始的かつユートピア的な風景を描き出している。製作期間の差はそれほど大きくないため、このような変化が起きたのは少し唐突と思われる。先行研究を辿ると、それが二つの意味に解釈されてきたことがわかる。一つは、媒体の転移の観点からの解釈である。巫儀や巫俗に関するプロットなどの脚色およびクローズアップを避けるカメラワークは、原作の叙情的でロマンチックな雰囲気を漂わせると同時に、感傷性と扇情性という大衆的要素を強調している(キム・ジュンチョル、2004、p. 274)。言い換えると、巫俗を表現するのはより幅広い観客にアピールする戦略だったp.83と理解してもよい。
他方、多くの映画評論が本作の最大の魅力として郷土色や郷土的叙情を挙げており、郷土色の歴史的文脈に焦点を当てる解釈に注目する必要がある。19世紀末ドイツ郷土芸術に起源を持つ郷土色は、事実上日本から輸入され、植民地時代の韓国社会に持続的な影響力を行使した脈絡を持っている。朝鮮の民俗的な素材を使用し、文明発達以前の東洋の牧歌的な山河とその暮らしを自然主義的な方式で表現した朝鮮郷土色は、1960年代の急速な産業化と都市化の反作用で大衆に故郷への郷愁と懐かしさを漂わせる媒介として影響力を持続的に誇示し、その存在価値を確保していったのである(ソ、2013、p. 220)。その意味では、最も伝統的な精神文化である巫俗の自然観や霊魂観には、農村社会から高度経済成長へと急速に進む近代化の過程で生じた歪み、あるいはそうした社会を生み出した政治や社会構造に対して内省的に問いかける強い視線が内包されていると理解できるだろう。
以上のような解釈以外に、アジア映画祭にはもう一つ看過できない文脈がある。それは本作と同じく都市から遠く離れる農村や漁村を舞台にし、豊かな田園風景と心温まる人間模様、さらに民間信仰を取り上げる台湾や香港映画がほぼ同時期のアジア映画祭で注目を浴びたという出来事である。具体的には、台湾の『海辺の女たち』(1963年)など、いわゆる健康写実主義映画[9]、香港の『黑森林』(1964年)、『情人石』(1964年)、『蘭嶼之歌』(1965年)などの原住民生活を描き出す台湾ロケ撮影の映画が挙げられる[10]。そこでは浜辺、海、漁船などの牧歌的な風景がしばしば登場し、その中で民俗、民間宗教儀礼を丁寧に描き出す場面が珍しくない。例えば、『海辺の女たち』は仏教の寺院でのおみくじ、『黑森林』は台湾アミ族の豊年祭、『情人石』は龍王祭、『蘭嶼之歌』は呪術医の憑依された人を治療する祓霊儀礼を細かく表現している。このように民族的なものの観光的描写はアジア地域において新しい波を起こしたと言える。こうした背景を受け、巫俗には、「韓国的なもの」というラベルが貼られ、韓国固有民族文化として海外へ発信する文化コンテンツに転換した。この好例としては、『浜辺の村』が製作された1965年の、巫俗の招魂祭を取り上げる舞踊映画『招魂』が挙げられる。『招魂』はアジア映画祭の非劇映画部門で作品賞を受賞し、それを契機に日本主要都市で開催された韓国映画祭で上映された経緯があった(京郷新聞、1965)。その翌年の第13回アジア映画祭で撮影賞を獲得した『浜辺の村』は、韓国映画がこうした波に乗って製作した成果だと言えよう。さらに興味深いのは、『浜辺の村』と『情人石』と『海辺の女たち』は、いずれも女が出航した男を待つ物語を語っており、ナレーション、主題歌、音楽などが共通していることである。無論、『浜辺の村』は必ずしも台湾や香港映画から影響を受けたわけではないが、アジア地域において郷土色に目を向けるこうした共通的な取り組みは巫俗の表象の生成に興味深い注釈をつける事象ではないか、ということをここで提起したい。このように、巫俗という韓国人の最も土着的な民間信仰は前近代的な表象としての意味が徐々に弱まり、一つの風景として取り上げられるようになったのである。
このように、本作は巫俗を前近代的・後進的なイメージから解放させ、そこから原始的な美しさと崇高さを見出しているのである。それだけではなく、郷土色の再生成のプロセスにおけp.84る巫俗という風景では、巫俗が人間の魂を救済する機能を発揮し、生と死の境界を超え、人間界と超自然界との繋がりを求めるのである。さらにこうした風景は、国境線を越え、ほかならぬ韓国の風景になってしまうのである。
おわりに
ここまで本稿では、『高麗葬』、『金薬局の娘たち』、『浜辺の村』における巫俗のイメージを詳細に分析してきた。
金綺泳の『高麗葬』における巫俗の再現は何よりもまず民族誌的な「自己展示」である。そうした「自己展示」が示す視線の操作と過剰な細部の描写には、巫俗を戯画化しながら、逆説的に巫俗を完全に排除することに逡巡を表している。また、兪賢穆の『金薬局の娘たち』においては、物語のなかに挿入された巫俗がフレームのなかに幾度も落とし込まれ、巫俗の非理性的な側面が浮き彫りにされる。運命論が引き起こした家庭の悲劇を描くことは、伝統と近代が相容れない表裏一体の関係を強調しつつ、巫俗が急速な近代化によって周縁に追いやられることに対する無力感を示唆するのである。
一方、『高麗葬』、『金薬局の娘たち』とは異なり、金洙容の『浜辺の村』は、巫俗と人間との調和のとれた関係、人間の魂の救済する神聖的な側面を描くことで、巫俗の底流に存在する美しさと崇高さを表現している。それは、植民地時代に盛んであった朝鮮郷土色が1960年代に復活した結果であり、同時期アジア映画祭に出品された台湾や香港映画とともに生み出した牧歌的な田園風景を観光的に描写する映画を製作する新しい波と深く関わっていたのである。
このように、巫俗に内在する神秘性、宿命性、神聖性は、1960年代の韓国映画人が民族的かつ伝統的なものを求めるソースであるばかりでなく、彼らが映画的な表現や美学を模索し、韓国映画を作り上げるリソースでもある。韓国映画人が現在[11]に至るまで巫俗を再現することにこだわってきた理由はそこにあると言えるだろう。1960年代(ないしそれ以降)の韓国映画における巫俗の再現は、集団的記憶の喚起、民族と伝統をめぐる言説空間の構築に、「巫俗」の表象という韓国映画ならではのアプローチを提供することになったのである。
参考文献
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ユ・ジヒョン、2006『24年間の対話 金綺泳監督との対談集』ソン。
Notes
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[1]
欧米の国際映画祭の受賞作である『羅生門』を製作した大映社長永田雅一は、海外市場を開拓するために、1953年7月に香港、台湾、フィリピン、マライ、インドネシアの諸国へ視察旅行を行った。その成果として、東南アジア映画製作者連盟をまとめあげ、翌年第一回東南アジア映画祭が東京で開催された。1957年に「アジア映画祭」に改称され、1984年にまた「アジア太平洋映画祭」に改称された。本稿は便宜上、一貫して「アジア映画祭」と表記する。
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[2]
多くの民俗研究者が論じるように、高麗葬が韓国で存在したことを証明する実証的な証拠はない。キム・ミンハンは「敬老孝親」思想が最も高揚し、さらに法律や制度の面で敬老孝親について明確に規定された高麗時代には高麗葬という慣習が存在するわけがないと論証した(キム・ミンハン、1999、pp. 1-28)。
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[3]
降神巫とはいわゆる真正巫に属し、巫病現象を伴った入巫過程をへて成巫した巫覡である。その特徴は入巫後、巫神を奉安した神壇を設け、巫祭に際しては歌舞交霊によるエクスタシー現象を起こし、神託を語ることにある(柳、1975、p. 146)。
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[4]
ここで取り上げられている神樹は、古朝鮮の建国神話の檀君神話のモチーフである神檀樹と深く繋がっているものであり、また、神樹と結びついた天神崇拝は、韓国の民間信仰の主流となっている巫儀の原型である(金烈圭、1977、p. 21)。
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[5]
民家で家族の安寧と幸運のために行う祭儀である(金泰坤、1981、p. 354)。
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[6]
四隅が他の人によって張られた白布の中央を巫堂が銅鑼を激しく鳴らしながら胴体で裂いていく行為である。白布の意味に関しては三つの解釈がある。第一に極楽世界へ行くために道を開く意味。第二に霊魂の帰還を防ぐ防御行為の一種であり、橋を破壊することによって生者と死者の結合を決定的に分離する手段。第三に橋破壊は死から神への転換の試練(崔、1980、pp. 175-177)。
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[7]
下記のリンクからアクセスできる。https://www.youtube.com/watch?v=FLh9Lb3G8JU
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[8]
下記のリンクからアクセスできる。https://www.youtube.com/watch?v=BwbQgeavk-Y
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[9]
健康写実主義映画は政府の政策と密接に関係していた。1963年3月に中央電影事業公司社長に就任した龔弘がネオレアリズモの成功に触発され「健康写実主義」の製作方針を発表した。廖によれば、龔弘にとって健康は教化、写実は農村であり、健康写実主義は貧困や犯罪、社会の後進性などを暴露し、また人道主義を強く反映するネオレアリズモを止揚し、さらに1960年代の台湾の政治経済の発展における政治的教化活動の一環でもある。こうして、1964年に健康写実主義映画の第一作李行監督の『海辺の女たち』が上映され、翌年『海辺の女たち』より洗練されたカラー撮影、音楽、ナラティブを有する『あひるを飼う家』とともに、当時台湾語映画、武侠映画、黄梅調映画が主流だった映画市場で大成功を収めた。その後健康写実主義映画は台湾映画を代表する映画となり、1980年まで製作された(廖、1994、pp. 38-47を参照)。
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[10]
1964年11回で『海辺の女たち』は最高賞、『黑森林』は振付賞、『情人石』は美術賞を受賞した。1965年12回で『蘭嶼之歌』は撮影賞を受賞した。
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[11]
とりわけ近年公開された韓国映画『クローゼット』(2020年)とタイ・韓国合作のモキュメンタリー『女神の継承』(2021年)は、いずれも巫俗をホラー要素として扱っている点で興味深い。
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韓瑩「1960年代の韓国映画における巫俗の再現──『高麗葬』、『金薬局の娘たち』、『浜辺の村』を中心に」『Phantastopia』第2号、2023年、71-87ページ、URL : https://phantastopia.com/2/a-study-on-the-representations-of-shamanism-in-the-south-korean-films-of-the-1960s/。(2024年10月06日閲覧)