東京大学大学院表象文化論コースWebジャーナル
東京大学大学院表象文化論コース
Webジャーナル
論文

戦後の『旗本退屈男』におけるバロック性について

藤田奈比古

p.1371. バロックと歌舞伎

1-1 問題設定とバロックについて

時代劇という映画ジャンルを定義しようとするとき、「江戸時代以前つまり前近代の日本を舞台または題材とした映画」という内容(題材)に即したものがまず上げられる。しかしこの定義はしばしば有効性を失う。題材の「時代」を基準とする限り、明治大正が舞台の映画はどうなのか、といった疑問に対して明確な答えを与えることは困難であるし、不毛な議論に終始するだろう。

他方で、明治時代が舞台の任侠映画であれ、大正時代を描いた戦争映画であれ、それらが個々に異なるジャンルとして理解されていても、そこにはしばしば時代劇的なものが息づいているように思われる。時代劇においては、どれだけ本物らしさを装ったところで虚構であることが制作者と観客との間で共有され、映画内の世界が徹頭徹尾人工的なものであることを原則的に隠し立てしない。制作の過程によってこうしたあり方が特徴付けられるものであることを、あるシンポジウムにおける映画監督中島貞夫の発言は示唆する。

時代劇というのは、すべてを、すべての被写体を作っていかなきゃいかん。これは現代劇と全く異なる作業が、時代劇の場合、かなりたくさん付与される。つまり、時代劇というのは、現在、背景もなければ、人物も存在してないし、何一つ被写体としては存在していないわけですね。[1]

現代との連続性をことさらに示すような例外的な場合を除くと、実在する場所でロケーション撮影がなされたとしても、現在(すなわち撮影公開時)の世界とは異なるものであることが様々な手段で示される。

美術セット、衣裳、俳優の身体および脚本、構図、編集、音響などのあらゆる角度から時代劇の人工性は視聴覚的に組織される。本論文は、こうした時代劇映画の本質的要素を考えるために、極度に人工性を主張しながら大衆的な支持を集めた『旗本退屈男』シリーズを対象とし、その演出における特徴がバロック的であることを明らかにする。歌舞伎に由来してバロック的な諸要素が育まれていったことを詳らかにし、すぐれて紋切り型のシリーズとして知られてきた『旗本退屈男』が様々な趣向で彩られながらバロック性を展開し、それが演出を方向付けていることを論じる。

バロックという語は厳密な定義を拒むが、ここではさしあたって、河竹登志夫が『続比較演p.138劇学』(1974年)で歌舞伎に見出した本質的要素を名指すために使用した意味で用いる。

バロック的演劇はことごとくその(引用者注:古典主義)反極にあると思えばいいわけで、[・・・]感覚的官能的、フィクションだらけで時も場所もでたらめに変わり、主人公も雑多で筋も変化に富む、上品な美でなく卑俗でケバケバしく、血の惨劇やエロチシズムを好む、したがって反道徳反秩序的で体制側からは害悪視されがちである、題材は古典もあるが現代社会庶民感覚から手あたりしだいに拾いあげる。[2]

これに加えて、河竹はより具体的に、作劇における偶然性(メロドラマにも引き継がれ、映画やテレビドラマにも流れ込むことが指摘される)および時代錯誤、神仏、精霊や秘薬、魔法など超自然的なものの活躍、悲劇と喜劇の混交、最終的なハッピーエンド、人物の独白、傍白の頻用、剣戟や踊りなどによるスペクタクル性を歌舞伎とバロック演劇の共通点として指摘している[3]

河竹のこうした議論は、しかし、本人が指摘するように、歴史的経緯すなわち16世紀からの南欧を中心とした対抗宗教革命と骨がらみであるバロック概念を濫用しているのではないかという反論を当然招くだろう。河竹は、「ある文化様式をさす一般用語として、他の時代や国やジャンルにもひろく適用される概念である」とするが[4]、のちに心身二元論に基づく人間理解に依拠して、演劇における古典主義とバロックを双極的に対立する互いに相補的な理念として捉えて普遍化し、歌舞伎のバロック性という言説の基盤を与えようとした[5]。バロックを普遍的な文化のあり方として捉えるという点では、根拠が異なるもののエウヘニオ・ドールスが『バロック論』(仏語版1935年、邦訳1968年)で確立した見解と河竹は共通している。

しかし河竹の議論は、歌舞伎とバロック演劇の対応関係についての具体的な洞察を説得力豊かに展開しているのに対して、理論的な枠組みの根拠とりわけ演劇と人間一般についての二元論的な図式に関していえばあまりに単純であり、断定的に本質主義的かつ一面的と言わざるを得ない。

また、古典的なものの存在を前提とした議論に関していえば、グスタフ・ルネ=ホッケが『迷宮としての世界』(1957年、邦訳1966年)で精緻に理論化し、「包括的な意味において」「ヨーロッパの精神史に適用」した[6]マニエリスムの概念がバロックと対立する。本論ではこの議論の是非に立ち入ることは避けつつも、ルネ=ホッケが「豊富すぎるがゆえの困惑」として退けた[7]ドールスのバロック理解すなわち、地域や時代を問わずに繰り返し現れる文化様式である「常数」としてバロックを捉える方法[8]をさしあたって参照することで、河竹の議論を補いつつ、河竹が歌舞伎に見出した範囲でバロック的なものあるいはバロック性についてやや限定的に捉える。

『バロック論』において「東洋」についての言及が乏しく、示唆に留まる点も多いためドールスのバロック理解を非ヨーロッパ地域に適応するには慎重な検討が必要である。そこで、谷川渥が美学の生成と存立の基盤という角度でドールスを読解したうえで[9]『江戸のバロック』p.139において提示した、厳密な様式の規定を避けながら「歴史的常数として溢出してくるバロック的なものを感得する」こと[10]を通じて作品分析を行う。

1-2 シリーズ全体におけるバロック性

本節ではあくまでも戦後に限ってだが『旗本退屈男』シリーズ全体を概観して共通するバロック的な性質を指摘し、それが歌舞伎から継承、発展されたものであることを明らかにする。より具体的な分析は第2節以降でおこなう。

原作『旗本退屈男』は「捕物帖」という大衆小説の形式をとっており、映画はそれに準じている。毎回主人公は事件にまきこまれ謎解きをし、解決する。あらましは次のようになる。元禄年間、主人公早乙女主水之介さおとめもんどのすけは「直参旗本じきさんはたもと」の身分でありながら無役のため仕事はないに等しい。妹の菊路きくじとその恋人霧島京弥きりしまきょうや、身の回りを世話する用人などに囲まれて何不自由なく暮らしているものの、卓越した剣技も豪胆さも太平の世に持て余し退屈し「退屈のお殿様」などと呼ばれている。毎回、主水之介が退屈しのぎに江戸市中をぶらつく、あるいは京都やその他各地を物見遊山していると事件に巻き込まれる。お供の者や協力者に情報収集をさせながら事件の核心に迫り、最後は「諸羽流正眼崩もろはりゅうせいがんくずしの構え」の剣術で悪人たちを斬って事件を解決する。

原則全ての作品に共通するバロック的な性質として、次の点が指摘できる。まず、いわゆるご都合主義的に進行する筋立ては偶然性に依拠するところが大きい。そして、残酷表現あるいは殺しの場面として、「捕物帖」の形式上、毎回悪人による殺人がなされるが、多くの場合若い女性が被害者であり、流血する遺体の映像をともなう。多種多様な残酷表現に慣れ親しむ21世紀の観客からしたら本物らしいむごたらしさという点では極めて穏当な表現といえるものが多いが、第3節で述べるように過剰な場合もみられる。さらに、大多数の時代劇につきものの剣戟(チャンバラ)に加えて歌や踊り、奇術などのスペクタクルが必ずといって良いほど終盤に用意され、物語の展開を停滞させつつ視聴覚的な刺激を観客に与える。その際に色鮮やかな照明や劇中劇的なパフォーマンスがなされる派手な舞台など、人工性がしばしば強調される。

さて、視覚的に本作を特徴付けているのは、派手というよりもはや金襴緞子といった形容がふさわしい主水之介の衣裳と、三日月の傷を額につけ、剣戟すなわちチャンバラを華麗に見せつける大柄な市川右太衛門の存在感であり、『旗本退屈男』についての言説はこの点に注意を払ってきた。

市川右太衛門が語るように、原作では主水之介の衣裳は「黒羽二重くろはぶたえを着流しの、素足に意気な雪駄ばき」とあり[11]、決して奇抜なものではなかった。それでは地味すぎると右太衛門らは判断し、第一作から衣裳を派手にし、回を重ねるたびに華やかになっていったという[12]。主水之介はシーンが変わるたびに着替え、日本画家甲斐庄楠音かいのしょうただおと(1894-1978)が手がけた着物が開陳されていく。

何不自由なく恵まれながら周囲の者を巻き込んで退屈しのぎに事件を解決する設定も含めて、『旗本退屈男』のあり方を橋本治は「通俗の極致」とした。橋本の議論をまとめると、チャンバラ映画は、近代の日本の男すなわち「大人」が、自身の社会的、生理的、物質的欲望をかかえp.140ながら生き方を学ぶ「人生の教科書」として歴史的に存在したが、それを成り立たせていたのが「通俗」であった[13]。ゆえに、『旗本退屈男』はそうしたチャンバラ映画の極めつけとしてみてよい。出雲まろうは「キャンプ」の価値観で『旗本退屈男』をみなおし、その派手なクライマックスと「着流しファッションショー」がキャンプ精神をくすぐるとしている[14]。殺陣についてまとまった論考を出している小川順子なおこは、右太衛門の殺陣の基本が「日本舞踊」であり、劇中のショー(既にスペクタクルとして指摘している)とチャンバラが製作側および当時の観客にとって等価であったことをまとめている[15]

出雲および小川の『旗本退屈男』論はいずれも河竹が指摘した意味でのバロック性への着目といえるが、出雲は『旗本退屈男』を「時代劇のバロック」と一言述べているものの、キャンプの観点に議論を集中したためバロック性に関して掘り下げてはいない。

出雲が着目した衣裳について議論する前に、主人公早乙女主水之介の顔の造形を中心に着目し、それがどのように歌舞伎を参照しているかを明らかにしよう。

1-3 歌舞伎に由来する主人公の造形

市川右太衛門は歌舞伎役者から映画界に進んだが、映画において歌舞伎に由来する要素を取り込むことに抵抗を示さず、そのことについても積極的に語っている。同世代で同じように歌舞伎の門閥制度下で大成できないことから映画界に活路を見いだし、時代劇スターとしてキャリアを積んだ片岡千恵蔵は映画と歌舞伎の差異に対してより敏感で、押し殺すような台詞回しやいわゆる汚れ役もいとわないリアリティの追求などから歌舞伎的なものを映画に持ち込むことに対して慎重だった。両者を比べると右太衛門の歌舞伎への態度が理解できるだろう。サイレント時代においても、片岡千恵蔵は山中貞雄に通じる伊丹万作や稲垣浩らのモダンとされた時代劇を製作および主演し、殺陣以外の魅力を打ち出した。他方で、右太衛門は歌舞伎の舞踊を生涯愛し、『旗本退屈男』においても、後述するように鬘や衣裳に関して歌舞伎を参考にしたことを明言している。片岡千恵蔵が歌舞伎舞踊を得意とせず、映画で踊ることがほぼ皆無であったことを考えると、この両者の違いから浮かび上がるのは、市川右太衛門における歌舞伎的なものの温存がまず第一に舞踊を中心として据えられていたことであろう。

橋本治は早乙女主水之介の外見について詳細に述べている。一つは髪型についてであり、主水之介が旗本にもかかわらず、浪人の髪型「むしり」をしていることに着目し、時代劇映画が歌舞伎から独立するためには浪人に注目する必要があった、という示唆に富んだ指摘とともに、主水之介が成熟した男性でありながら浪人的なモラトリアムすなわち青年のイメージをまとっていると述べる。そして、額の三日月型の傷については、弁天小僧(『青砥稿花紅彩画あおとぞうしはなのにしきえ』)との共通点を指摘し、性的規範の攪乱を見て取っている[16]。他方で額の傷について市川右太衛門は、歌舞伎『時今也桔梗旗揚ときはいまききょうのはたあげ』の武智光秀(明智光秀)や『伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ』の仁木弾正にっきだんじょうの傷を模倣したと述べており[17]、橋本の解釈とは異なるが、いずれも三日月の傷を「賊」の徴としてみなす点では共通している。なお右太衛門によると、シリーズが進むごとにこの傷は大きくなっていった[18]

p.141かつらについて右太衛門は「燕手えんで」と呼ばれるやはり武智光秀、仁木弾正のような実悪[19]の髪型を採用し、徐々にアレンジを加えていったと述べている。髷の大きさや形は威圧感を帯び、月代を剃らず伸ばした髪は不逞を誇示するため、こうした髪型は歌舞伎における悪人の記号となる。同時に、異なる複数の参照源をもつことで多層的に、女装した犯罪者、反逆の武将、国盗りを画策する悪人といった連想を可能にしている。右太衛門の人物造形が卓越しているのは、歌舞伎の世界で悪に属していた魅力を取り込んで正義と善の人である早乙女主水之介の外見を構築した点である。この点に、ドールスがバロックの本質的要素として上げた「多極性」つまり矛盾する要素の共存[20]を見いだすことができる。

出雲は、殿中においても早乙女主水之介が着流しで通すという「ムホン気」(出雲はキャンプの態度として肯定している)と、映画全体が着流しファッションショーの観を呈している面白さの一方で、結局のところ主水之介は体制維持に従事しているに過ぎないとした。

ファッション革命を行う「自由」「奔放」の人、主水之介は、しかし、“本来のニッポン人”という虚妄には平気で支配されているのである。[・・・]『退屈男』シリーズは回を重ねるごとに、早乙女主水之介のドン・ファン化とともに、アジア的/異国的なものを劣等化することに力を注いでいったように見える。[・・・]革命的な着流し姿は、けっきょくただの「番犬ファッション」であったわけなのだ。[21]

富士田元彦も戦前と比較して戦後の『旗本退屈男』が体制の守護者として振る舞うことに苦言を呈している[22]。このような早乙女主水之介像は、上述した不逞な「賊」のイメージと相反しているようにみえ、時に反逆的でありながら体制的でもあるという矛盾をきたす。しかも主水之介の反逆とは、「天下御免の着流し」すなわち豪華絢爛な着流しスタイルをいかなる場面—たとえ将軍の面前であれ—でも貫くためのものに過ぎないともいえる。

矛盾する要素を抱え込みながら感覚的な刺激が求められ、同時に物語の進行に都合の良いような設定が導入される。出雲が指摘するような「異国人」の主題も、エキゾチシズムを導入することで、観客にとって見慣れない刺激と、物語上の謎の発生源として異国の集団とその拠点(清国曲馬団の演芸場や長崎出島など)を機能させる側面がある。しかし同時に、それがあまりに馴染みのない対象で理解不可能な存在であれば、観客にとって異国人は他者として映り、娯楽として映画を消費する妨げとなる。そのため『旗本退屈男』に登場する異国人とその風習、振る舞い、空間はエキゾチシズムとして了解可能なものでなければならなかった。したがって、第3節において詳細に述べるが、ほぼ例外なく異国人の頭目は異国人を装った日本人の悪党であることで、他の時代劇との差異が帳消しされ、退屈男によるお馴染みのチャンバラによって彼らは成敗される。

p.1422. 演出と衣裳の関係

2-1 演出

『旗本退屈男』における衣裳の占める役割が、時代劇のみならず一般的な映画のあり方とかなり異なることは既に述べた。きらびやかな着物を観客に見せるということは、しかし、市川右太衛門がただ頻繁に着替えをする、というのみならず、衣裳の柄を考慮して演出すなわち具体的な身体運用やカメラワークがなされていることを示す。

衣裳に注意を払わない観客であれば、主水之介はただの「派手な男」として認識され、次第に慣れてしまう(退屈する)だろう。だが、本シリーズでは衣裳に関心が向くように様々な要素が組織されている。

まず、出雲および小川をはじめよく語られてきた早乙女主水之介の着替えについてだが、両者が整理したものに『謎の怪人屋敷』および『謎の伏魔殿』について新たに確認した次項を加えると、次のようになった(図1)。いずれも白黒スタンダードサイズである。

(図1)[23]
西暦 タイトル 衣裳転換
1938年 宝の山に入る退屈男 3回
1952年 江戸城罷り通る 11回
1954年 謎の怪人屋敷 7(6)回
1955年 謎の伏魔殿 7(5)回
1955年 謎の決闘状 7回
1956年 謎の幽霊船 8回
1957年 謎の紅蓮塔 7回
1957年 謎の蛇姫屋敷 13回
1958年 旗本退屈男 11回
1959年 謎の南蛮太鼓 10回
1959年 謎の大文字 12回
1960年 謎の幽霊島 9回
1960年 謎の暗殺隊 10回
1961年 謎の七色御殿 11回
1962年 謎の珊瑚屋敷 11回
1963年 謎の竜神岬 11回

p.143小川はどちらの映画についても、着替えの回数を『謎の怪人屋敷』9回、『謎の伏魔殿』9回としているが、本論の調べでは両者ともに7回だった。また、カラー以降の作品には無い演出として、同じ着物を2回着ることがそれぞれの映画で確認された。『謎の怪人屋敷』では4枚目と6枚目の着物が同じで、『謎の伏魔殿』では1枚目と4枚目、3枚目と5枚目が同じである。

このことは、カラーになって『旗本退屈男』の衣裳はより派手になり着替えが増えた、というこれまでに知られていた事実[24]を裏付ける。

市川右太衛門は映画製作における技術変化を常に歓迎してきた。これはサイレントからトーキーへの激変を経験したスター俳優としては珍しいことであるが、白黒からカラーへの転換は、衣裳を見せるという点に則していえば観客の『旗本退屈男』受容体験の次元を変えた。おそらくそれに準じて、次のような演出がみられるようになった。

まず原則として、主水之介の着物では、具象的な柄が描かれていることが多いが、全体がアシンメトリックな意匠のとき、柄は上前(着物の左側)に配置されていることが多い。それをふまえてのことと思われるが、特に衣裳を着替えた直後のショットでは、体の左側にカメラが置かれ、右太衛門と着物の柄を写すショットが非常に多い。

柄については、出雲が植物の曲線が多いことに着目し「バロック的植物曲線」と指摘している[25]。しかしこれはバロック文様よりもむしろ和服に伝統的な唐草文様との関連で理解すべきように思われる。曲線は、植物だけでなく波文も多い。また植物でも曲線的なものだけでなく直線的な竹や笹を描いたいわゆる竹文(清浄、誠直の記号)の凝ったものも複数回みられる。

着物の柄を活かした身振りとカメラワークについて、いくつかの例をあげる。『謎の南蛮太鼓』では、小花が線状に何本も弧を描く柄の着物を主水之介が着ているが、その曲線を観客に見せるようにして両腕をひろげる動作がある。また、『謎の伏魔殿』では、竹がびっしりと描かれ縞模様のようになっている着物を着て主水之介が野点のだてに出ているシーンでは、主水之介は草の上に寝転がり、腰から下の縞の直線性が強調される構図で登場する。

こうした傾向が顕著なのは『謎の七色御殿』であり、総柄よりも絵画的な柄が多いためか、主水之介が座って会話するシーンでは、切り返しショットの反復は避けられ、カットが変わるたびに主水之介の正面、背中(特に帯が見えるように配慮されていると思われる)、側面が写され、着物の柄が余すところなく見えるようにカメラワークが構成されている。

『謎の南蛮太鼓』では他にも、なぜ主水之介が着替えることができたのか理解できない着替えすら見られる。品川沖の船上に主水之介は京弥らと悪人の一味を追いつめる。そこで清国曲技を将軍に見せる場で将軍暗殺が企てられていることに気づき、岸に戻って陸路を馬で駈ける。この間、海の場面に合っている青地に魚の図が描かれた奇抜な着物を主水之介は着ていた。曲技の会場で主水之介は姿を現し陰謀を暴くが、そのときには白地に植物の曲線(唐草模様を拡大したようなもの)が大胆に描かれた着物に着替えている。

『謎の蛇姫屋敷』では、右太衛門の衣裳を見せるためだけに挿入されたショットが一つ存在する。江戸を出て安芸国に向かうことを示すために挿入されているのだが、数秒の間画面中央に位置する主水之介がカメラに向かって真っ直ぐ数歩歩いてくる。主水之介の衣裳はその前後p.144のシーンと異なっている。

2-2 衣裳

市川右太衛門の衣裳への強い執着およびその意向が強く反映されたであろうスター中心の撮影体制をふまえると、こうした演出が市川右太衛門の主導によって現場で進められた可能性は十分ある。佐々木康は、『旗本退屈男』シリーズに限らず右太衛門には「好きに演じてもらう」ことを優先し、右太衛門の意見で脚本と異なるカメラ位置に変えたことを証言している[26]

だが、『旗本退屈男』の演出における衣裳の果たした役割は、スター中心の映画製作の歴史的な例証にとどまらない。右太衛門は佐藤忠男のインタビューで当時の製作体制を次のように回顧している。

右太衛門 京都の呉服屋さんでも担当してくれた所は三ヵ所ぐらいあったんです。そこへ、三枚か四枚ぐらいずつやって、大体、十二、三枚着ましたからね。[・・・]ですから例えば、盆と正月に二作品撮るということに決まると、一作品目を撮り終えるとすぐまた衣裳の打ち合せです。
佐藤 衣裳の!
右太衛門 内容は別なんですよ(笑)。
もう大体はわかりますからね[・・・]それでまた甲斐庄さんに話して見てもらう。大体、枚数はわかっていますからね。屋敷で着る場合、出掛ける場合、暴れる場合、それに大名屋敷に乗り込むときとか、そういういろんな場を入れて柄をね。それに、盆と正月と。夏の場合はちょっと白っぽくてあっさりしたもの、お正月の場合はちょっとこってりとして。ですから済んだらすぐ打ち合せですよ。これをもう、半年後に出さなければいけないでしょ。だから撮影にしたって盆のものを撮ってしまった後、ほかのものも撮っていますが、正月ものは少なくとも一〇月か一一月頃には入りますので、衣裳はそれまでに作っておかないと間に合わない。
二、三ヶ月かかって染めて仕立て上げて、きちっとでき上がるともうすぐ撮影だとことになるんです。[・・・]ですから本を読んでからあつらえていたのでは間に合わないわけで[27](傍点筆者)

驚くべきことに『旗本退屈男』シリーズにおいては、衣裳は「本」つまり脚本に先んじて決定されていた。こうした製作状況は筆者の調べた範囲で時代劇映画に限っていえば類例のないことであり、映画の「内容」を早乙女主水之介の外見的なイメージが先導することがプリプロダクションの段階から始まっていたのだ。

単に早乙女主水之介を目立たせるためなら、これほど衣裳に資源を投入する必要はなかった。例えば同じ東映の大川橋蔵主演『若さま侍捕物帖』シリーズは『旗本退屈男』とよく似た特権的な主人公による捕物帖であるが、主人公若さまの衣裳は他の人物との差異を生む程度にはきp.145らびやかであったり色が目立ったりするものの、一本の映画を通じて3、4回着替える程度で、なおかつ絵画的な柄などが施されていることは皆無で、模様のパターンで染められた着物を若さまは着ている。

『旗本退屈男』シリーズにおいてこれほど衣裳に資源が投入され、さらに演出を規定させるほどの位置が与えられたことは、いくつかの点から説明できるだろう。まず、このシリーズにおいて衣裳が決定的に重要で本質的な要素であることが製作者に理解されていた。多額の金銭をかけて製作されているために映画を見て観客が満足を得るとしたら、早乙女主水之介の豪華な衣裳は、高価であることを示すことにより観客に満足を与えていたと考えられる。早乙女主水之介はおよそ常に画面の中心に位置し、観客の注視を浴び続けるため、彼が豪華な衣裳を着ることは、シーン毎に変わるセットや、共演する出演者に予算をかけるよりも持続的かつ鮮やかに贅沢な気持を観客に味わわせることができ、製作会社の戦略上有効だったと推測される。

そして主水之介の衣裳こそ、反復と差異を通じて観客が快楽を得る装置に他ならない。出雲によると、『旗本退屈男』のなかで主水之介は平均11回着替えている[28]。着物への観客の認識が精緻であればあるほど、一着一着の意匠の違いが鮮やかに感得され、場面の雰囲気や主水之介の行動と着物の柄や色との関係を味わい快楽が得られる。市川右太衛門に「映画と同じものを作らせ、着ております」という手紙を送ったファン[29]は、一本の映画の中でも着物の変化に目をこらし、さらにシリーズの新作に触れるたびにそれまでの作中の着物を想起したに違いない。

3. クライマックス

3-1 退屈男のショーマンシップ

ここで、『旗本退屈男』において最もバロック的な要素が重なりあうクライマックスの剣戟シーンについてショーとの関係を中心に具体的に分析する。ここで一旦「ショー」を、剣戟とは異なる歌や踊りといったスペクタクルを意味する語とする。小川順子は『旗本退屈男』の殺陣がショーに等しいと指摘し、それぞれの作品におけるチャンバラと、歌や踊りがおこなわれるショーの尺数について調べている[30]。スタンディッシュは同様の論旨でさらに踏み込んで論じ、『旗本退屈男』だけでなく『水戸黄門』(月形龍之介主演)、『遠山の金さん』(片岡千恵蔵主演)、『銭形平次』(長谷川一夫主演)などの続き物(serial format)の捕物帖形式の時代劇映画では、謎解きよりもスターの演技とりわけ殺陣に観客の快楽があったことをふまえ、剣戟シーンがプロットの直線的な進行に介入し、物語の結末に向けて劇的頂点をつくりながら男性俳優がその技量をみせる演目(performative ‘numbers’)として機能すると述べている。それによって剣戟の残酷さは可能な限り取り除かれるというのである[31]

これだけではしかし、まだ剣戟とショーの関係について明らかとはいえない。剣戟がショーに等しいとしたら、闘争としての性格や暴力性の後景化と、観客にとって非日常的な身体運用、画面を満たす運動、リズムの追求がなされていると考えられる。言い換えれば闘争性および暴力性の隠蔽と、軽やかさに通じる運動感覚の構成であり、そういった事態こそチャンバラの様p.146式化といえる。

本論が特に注目するのは佐々木康(1908-1999)が監督した作品である。佐々木は戦前から松竹大船撮影所で現代映画を監督しており、歌謡曲を劇中で使うプレイバックと呼ばれる手法を得意とし、歌謡映画で成功を収めた(『そよかぜ』を1945年に監督し、劇中歌「リンゴの唄」は敗戦直後爆発的にヒットした)。1953年から東映で時代劇映画を監督し始め、手堅い演出と早撮りでプログラムピクチャーの量産体制において松田定次に次ぐ有力な位置を占めた。佐々木の作家的な側面についてはこれまで論考はほとんどなく[32]、歌謡映画が得意な職人監督の一人として理解されてきた。本論では、あくまで『旗本退屈男』に限るものの、佐々木の特徴として、(1)劇中歌の多用、(2)色鮮やかで人工的(不自然)な照明の愛好、(3)巨大で平板なセットの使用、(4)(1)~(3)のもとでの派手なショーの展開の四点を指摘しておく。こうした特徴は毎回のクライマックスで、ショーとチャンバラの場面において繰り返し発揮され、『旗本退屈男』のバロック性を構成する。

『謎の蛇姫屋敷』(1957)、『謎の南蛮太鼓』(1959)、『謎の幽霊島』(1960)、『謎の七色御殿』(1961)はいずれも佐々木康が監督しており、小川によると他の退屈男作品と比べショーが長く占めている[33]。レビューを専門とした松竹歌劇団が主にショーを担っており、『謎の南蛮太鼓』ではサーカス団(山根グランドサーカス)も曲技を見せる。これらによるショーがクライマックスに配置されており、悪人が居並ぶなかで展開され、最後の剣戟シーンに接続される。またその前に主水之介や他の人物たちが鑑賞する形で短い尺で挿入されることも多い。

同じ東映製作でも、時代劇によるミュージカルを試みた沢島忠の監督作品では美空ひばりや江利チエミなどの主要な役者が歌や踊りをこなしショーを展開する。パフォーマンスの内容は物語の脈絡と関わり、例えば歌詞が歌い手の感情を語る、または置かれた状況と何らかの意味作用を持つ。こうしたショーとは異なって、『旗本退屈男』のショーでは物語との関係が希薄なパフォーマンスがもっぱら演じられる。典型的なのは座敷での芸妓の舞踊や、御殿での女中の群舞であり、ほぼ例外なく物語の進行を一旦停滞させる。しかも佐々木の『旗本退屈男』では同じ歌が何度も使い回される。こうしたショーの性質はテレビが普及していなかった当時の社会で映像メディアの娯楽体験として貴重だった、という事情を考慮しても、『旗本退屈男』シリーズ全体にある種の贅沢さと弛緩した感じを帯びさせている。

ただし、パフォーマンスの内容はそうであっても、例えば『謎の南蛮太鼓』での幕府転覆を目論む集団による「清国曲技」や、『謎の幽霊船』(松田定次監督、1956年)の琉球(風)の舞踊などは、それが異国的であることを示すことで、先述したようなエキゾチシズムによる観客の興味の喚起と「謎」の雰囲気を醸し出すため、必ずしも物語の内容から孤立しているわけではない。また、特に佐々木作品で顕著だが、ショーは万城目正や山田栄一などが作曲したゆったりとした曲調にあわせた踊りが披露されることが多い。このことは、物語の停滞と連動して観客の運動感覚を規則的かつ緩慢なものに整え、その後に続く市川右太衛門得意の剣戟の動きの速さやダイナミズムを引き立てる効果を持つ。主水之介がショーの主体となっている場合もしばしばあるが、それについては後述する。

p.147ショーから剣戟へは次のように接続される。『謎の伏魔殿』、『謎の蛇姫屋敷』、『謎の暗殺隊』では主水之介がパフォーマンスの主体として、敵に気づかれないように潜り込んでおり、悪党たちの面前で面を付けて舞を舞ったのちに、正体を顕す。

『謎の伏魔殿』(渡辺邦男監督)では主水之介が能『葵上』「枕の段」の後半約1分少々だがシテ六条御息所の生霊を演じる。京都を舞台としており、主水之介は葵祭を冒頭で見物するが、『葵上』は葵祭との関わりで物語との関連性を持つ[34]。「枕の段」が終わり、シテが舞台の隅に移動して衣裳を替えているときに、悪役の山室幽斎(進藤英太郎)に「何者だ!」と問われ、主水之介は哄笑しながら衣裳を脱ぎ、山室らが京都所司代と結託して異国船を襲撃し財宝を奪ったことを暴く。能舞台の下に財宝は隠されており、主水之介が大喝して勢いよく足踏みすると床板が外れてそれが明らかになるが、実にバロック的な取って付けた設定である。舞台の上の主水之介を敵方の侍が抜刀して取り囲み、音楽の調子が変わって剣戟が始まる。白黒スタンダードサイズの本作では、能舞台が橋がかりまで含めて標準的にしつらえてあるため、空間設計に奇異な印象は与えない。

佐々木康が監督した『謎の蛇姫屋敷』では安芸の宮島(厳島)に新築された老中柳沢吉保(山形勲)の屋敷に将軍綱吉が招かれた状況でショーがはじまる。和装をした大阪松竹少女歌劇団による和洋折衷の群舞ののちに、階段状の舞台装置最上段に置かれた巨大な壺が半分に割れて主水之介が登場し、将軍の前で連獅子のような歌舞伎舞踊風の踊りを見せる。音楽はオーケストラによる、東洋的な旋律とラテン音楽的なリズムの組み合わせで踊りと同期するが、折衷した様式がちぐはぐな印象を与える。主水之介が踊り始めると照明が変わり、緑、赤、黄の三色に変化する。将軍暗殺を企てる柳沢吉保らの陰謀を阻止するために主水之介は踊りを止めるが、ここでも将軍暗殺の手段は天井から忍び込ませた毒蛇(異国から仕入れたコブラ)という奇妙かつ不合理なもので毒蛇は見るからに作り物である。主水之介は小柄を投げてこれを仕留め、名乗りを上げ、陰謀を暴露する。主水之介が踊りを止めると照明も色調のないいわゆる地明かりだけになり、一転した静寂のなかで名乗りと長セリフが大音量で述べられ、やや厳粛な雰囲気となる。

『謎の暗殺隊』(松田定次監督)では、やはり将軍綱吉暗殺を謀る尾張藩主徳川邦宗(山村聰)が綱吉を名古屋城内の御殿に招き、座敷に設けた舞台で綱吉に舞うよう願い出る。能『春日龍神かすがりゅうじん』の龍神のかぶり物をした装飾的な衣裳で舞楽風の舞を綱吉(実は主水之介)が舞う。邦宗が作らせた仕掛けで舞台は舞の途中で倒壊し、綱吉は絶命したと邦宗が宣言すると、哄笑が聞こえ、舞台の残骸から主水之介が現れ、衣裳を引き抜いて「天下御免の向こう傷」の名乗りを上げる。

これらは、主水之介が悪玉たちを出し抜いてショーに紛れ込み、舞台(とその残骸)から現れて敵の度肝を抜く、という共通した劇的状況から剣戟に突入している。松羽目物まつばめもの[35]とその変種および能(『葵上』)を主水之介がやや切迫したテンポ感で演じ、それを中断し、名乗りと陰謀を暴露する長セリフが続く。

劇的状況とはいえ、このシリーズの筋の展開を知っている観客にとっては毎度お馴染みの流p.148れであるため、視覚的表現の追求はその趣向、すなわち設定の奇抜さやショーのきらびやかさ、セットの豪壮さなどに向かったのだろう。『謎の伏魔殿』では標準的な能舞台(ただし床下に財宝が隠されているバロック的仕様)だったのが、『謎の蛇姫屋敷』では厳島神社の建築に準じた朱塗りの舞台空間となり、15段ほどのひな壇がそびえ立つ。『謎の暗殺隊』では、巨大な箱形の座敷に、大きな神楽殿のような舞台が設けられた。それが倒壊した残骸も、檜皮葺の屋根が座敷にめり込み類例のない空間を作り上げている。撮影川崎新太郎によるカメラは[36]、あおり気味にこの空間を切り取り、奥行きだけでなく御殿と舞台の高さを表現し、舞台の屋根の上に主水之介が立つときに天上的な感覚をもたらす。なお、照明は一貫して陰影の少ない東映時代劇らしいものとなっている。

この推移から、視覚表現とりわけ空間設計におけるバロック的な拡散傾向が、白黒スタンダードサイズからカラー・ワイドスクリーンへの変化と連動したこともうかがえるだろう。ショーの舞台は巨大化することが原則となり、監督が佐々木康の場合は横長の広さが強調され、その反面で画面は極めて平板になるが人工的な照明が視覚的刺激を補う。松田定次の場合は桁外れに大きい御殿に奥行きや高さまでもが与えられる。

3-2 退屈男がショーを中断する場合

主水之介が「出演」しない場合は、ショーは主水之介によって中断される。ショーを眺めて悦に入っていた悪人たちは、ショーが唐突に中断され、主水之介が現れることで慌てふためく。場面の急転もすぐれてバロック的な要素として把握されるが、既に述べたようにショーは右太衛門の剣戟と比べると画面の運動という点で緩慢であり、カメラワークの点でも比較的長回しで舞台の全体を撮る傾向が強いため、撮影、編集の面でも剣戟との間で大きな変化が生じることが多い。

『謎の幽霊島』は長崎の出島が舞台で、没落した戦国大名宇喜多氏の末裔(月形龍之介)が清国人伴夢斎を装い、九州の大名に密貿易で得たアヘンを売って幕府転覆を企てている。アヘン取引ののちに悪人たちは出島の洋館で茜太夫(勝浦千浪。なお松竹少女歌劇団出身)の南蛮奇術を楽しむ。舞台上、一座の踊り(松竹少女歌劇団による群舞)の途中で長崎くんちの「龍踊じゃおどり」が始まり、龍と龍の卵が現れる。くんちの龍の卵にしては巨大なのだが、スポットライトが当たる中でそれが花弁の形に割れて主水之介が哄笑とともに姿を現す。哄笑の瞬間、卵を照らすライトが変色し、人工的な色と卵の質感が不気味さを高める。主水之介はアヘンを燃やすことを宣言し、アヘンに火をつける。主水之介は襲いかかる敵を拳で退け、再び哄笑し、伴夢斎の陰謀を大名たちに暴露する。長崎奉行(進藤英太郎)の号令で剣戟が始まり、結末まで続く。ショーから剣戟に直線的に進行せず、一度襲いかかる敵を主水之介が退けてセリフを続けるというやりとりが挟まっている。

『謎の南蛮太鼓』では、江戸で将軍綱吉に「清国曲技」(実際のサーカス団による曲芸)が披露される。清国人を装う由比同雪(山形勲)と老中酒井忠勝(進藤英太郎)は結託して特別仕立ての芝居小屋で曲技の上演中に将軍暗殺をもくろんでいる。主水之介はそれを阻止し、姿をp.149現して名乗ると、その場の悪人たちの正体を暴き、陰謀の謎を解く。ショーが続く間は歌が流れ、赤、緑、黄の照明が使われ、将軍暗殺の危機をあおるかのようにやや短いショットが連続していたのが、ここで急に静寂のなかでセリフが語られ、長回しで画面上の動きが一気に小さくなるため、チャンバラを期待する観客は焦らされる。

二本の映画はともに、冒頭タイトルバックでショーが流れる。『謎の南蛮太鼓』では白昼江戸の広小路(実際は京都御所の横で撮影)に現れた清国曲技団の行進が、曲芸をしながら華々しい様子で進む。『謎の幽霊島』では終盤に観客が聞くことになる歌が流れ、暗めの舞台で南蛮奇術が人工的な照明で照らされながら繰り広げられる。いずれも正月(1月9日)公開作品で、祝祭的な雰囲気に観客を冒頭から巻き込もうという意図があったのだろう。

場面の滑らかでない転換、統一的な流れの欠如は、バロック的なものとして理解できるだろうが、しかし、必ずしも『旗本退屈男』が常にそうであるわけではない。中川信夫が監督した『謎の珊瑚屋敷』ではショー(清国人の奇術)、奇術を利用した主水之介の出現、謎解き(長いセリフ)、剣戟という一連の流れが滑らかに構成されている。剣戟に入ると激しい音楽が始まるとはいえ、ショーにおいて特別な照明や舞台、音響効果などは用意されず、広い座敷に奇術道具が置かれ、剣戟に至るまで空間および照明に変化はない。陰謀に巻き込まれた若い娘おしま(北沢典子)が内面的な葛藤の末に、父親の過去の罪を明かすという『旗本退屈男』には極めて珍しい心理的な場面が謎解きに含まれていることもあり、『謎の珊瑚屋敷』はバロック性が希薄で、『旗本退屈男』シリーズの作品らしからぬ印象を与える。なお、本作は1月23日に公開され正月興行の一角を占めていた。中川信夫は過去に『旗本退屈男 唐人街の鬼』(1951)を撮っており、このシリーズの骨法を知らなかったとは思われない。だが『謎の珊瑚屋敷』は全体の肌理の統一感、脇役の丁寧な人物描写、主水之介に執着する好敵手(東千代之介。最後の剣戟で仲間に加わって戦う)の存在、派手なショーの不在などの理由から、定型から外れ、シリーズにおける演出の振れ幅を知ることができる。

3-3 『旗本退屈男 謎の七色御殿』

『謎の珊瑚屋敷』の対極にあるような、バロック性の極致あるいはショーが作品全体を覆い尽くしているような様相を呈しているものとして『謎の七色御殿』があげられる。本作は、佐々木康が監督し、絶好のロケーションに支えられ、悪趣味に陥るほど派手な趣味、場面の統一感の欠如、同じ歌の反復的な使用、さらに怪奇趣味といった佐々木康が手がける『旗本退屈男』の傾向がよく現れている。

物語は次のようになる。伊豆の神社月照宮は将軍綱吉の次男義丸君が預けられており「葵の宮」として知られ、将軍嫡男鶴丸君(山城新伍)と義丸君(菅貫太郎)の対面が予定されている。しかし月照宮に仕える巫女が一人ずつ殺される事件が発生し、訪れていた早乙女主水之介が謎を解く。実は神官宗像寛山(月形龍之介)の陰謀で二十年前に義丸君は寛山の息子とすり替えられ、本当の義丸君は殺されていたのだった。対面の日、寛山の息がかかった郷士たちにより鶴丸君の輿に矢が射られるが、主水之介が手を回したため輿に鶴丸君はおらず、主水之介p.150は陰謀を明るみにし、寛山の手勢と斬り合う。月照宮に通じる洞窟を鶴丸君は進んでおり、寛山の手下が襲うが、駆けつけた主水之介によって寛山、偽の義丸君もろとも成敗され、真相が究明される。月照宮のあたり一帯に平和が戻り、主水之介と一行は江戸へ帰る。

本作のロケーションについて佐々木康は次のように回想している。

ロケーションが大成功だったのが昭和36年封切の『旗本退屈男 謎の七色御殿』だ。時代劇で悪の巣窟と言えばお寺ということになっているが、この作品では神社にした。神社の巫女の白い着物に赤い袴という衣裳がカラー映画に合うと考えたからだ。[37]

巫女の紅白の服装が着想源となり構想されたことについては後ほど掘り下げる。佐々木は神社でロケーションをしたと述べているが、しかしこれは誤りで、撮影が行われたのは現広島県尾道市の生口島いくちしまにある耕三寺こうさんじという寺院だった。1930年代に実業家耕三寺耕三こうさんじこうぞうが造営を始めた新しい寺で、東照宮陽明門や室生寺五重塔、平等院鳳凰堂などの著名な寺社建築を模倣した堂塔が立ち並んでいる。実物よりもダウンスケールしているものも多いが、意匠を忠実に模倣のうえ全体に色彩や金銀の着色がより鮮やかに施され、建築様式や年代も様々な建物が伽藍に所狭しと並ぶ金ぴかでまがい物の寺といえる。現在も「西の日光」と呼ばれており、佐々木が神社として錯誤していたのも無理はない。なお、本作で神社に寺院を見立てているが、鶴丸君の参詣行列が現れるシーンでは京都下鴨神社で撮られたと思われる鳥居と参道がロケーション撮影されており、また神社の社殿をセット撮影で補っている。

この徹底してアナクロニズムで俗悪なまでに燦然たるロケ地を得たとき、時代考証など度外視でひたすらバロック的に絢爛豪華な視覚性を追求する『旗本退屈男』は最大限の輝きをみせる。

本作におけるショーは、主水之介らと出逢った旅の芸人こまどり姉妹の歌「夕焼け三味線」と、地元の郷士民吉を演じる村田英雄(演歌歌手。のちに任侠映画に多く出演)による歌「山にかかる夕陽」である。道中の山道や、街の辻、田舎道などで歌われ、舞台や演芸場での踊りその他の娯楽提供という状況とは異なるシーンで、歌を聴かせることが主眼となっている。どちらの歌手も船村徹の作曲による歌を繰り返し歌い、民謡風のペーソスと人情味を醸し出すが、しつこく感じられるほど反復するのは佐々木らしいといえる。

佐々木の『旗本退屈男』につきもののエキゾチシズム溢れる終盤での歌と踊りや奇術などのショーは見られない。将軍綱吉嫡男鶴丸君の参詣行列はスペクタクルといえなくもないが、佐々木が手がけた本シリーズで見られるパフォーマンスと比べると物語において果たす役割が大きく、ショーとしての独立性が確保されていない。これはやはり佐々木が監督した『謎の大文字』で京都を舞台にした大規模な騒乱が描かれる分ショーを欠いていることと似ている。つまり、視覚的刺激の増殖を好き放題にはできないという予算規模の問題も当然あっただろうが、『旗本退屈男』におけるバロック的なものの追求は、どこまでも過剰になされるわけではなく、佐々木康の作品であっても一定の基準で統御されているのである。『謎の大文字』において大規模なp.151合戦シーンがショーを代替しているのと同様に、『謎の七色御殿』ではけばけばしい寺社の空間で巫女たちが動き回り、主水之介、幕府の侍、寛山ら一派が剣戟を繰り広げることによって虚構性の高い非日常的な設定での視覚的快楽の生成というショーの機能が担われている。

本作は多くのバロック的な主題をちりばめることで、観客の興味をひき、「謎」を醸成しているが、それが過剰で不気味さをも生んでいる。まず、将軍の息子暗殺という大きな事件が秘密裏になされ、二十年が経過しているという大がかりな陰謀は、歌舞伎が好む子供のすり替えや生き別れのきょうだいといった主題の系列に属する。そしてそれが引き起こす不穏な事態として、若い女性──観客の視覚に強く訴える紅白の衣裳を着た──巫女たちが犠牲になっていくが、月照宮で主水之介と話していた巫女がいきなり弓矢で射殺される場面は、不合理さと唐突さという点でバロック的なだけでなく、男性中心主義的かつメロドラマ的でもある。巫女たちは偽の義丸君に性的に奉仕させられており、純潔(白)と血(紅)という連想を可能にする服装と相乗してエロチシズムと嗜虐性に対しても本作は開かれている。こうした陰惨な状況に色彩豊かで奔放な図柄の着流し姿の主水之介が乗り込むことで、巫女や神官、黒覆面または粗末な服装の郷士たちとの差異が主水之介の超越性に寄与し、劇的な進行を支える。

陰惨な状況と陰謀の打破にあたり、秘薬が役割を果たすこともバロック性の点で重要である。剣戟の前のシークエンスで、義丸君かどうかを識別するために、主水之介は生得的な肩の痣を衆目環視のもとで見せるよう要求する。偽義丸君と寛山は自信満々に痣を見せつける。主水之介は驚いて、誤りを認めて切腹を申し出るが、相手が油断した隙に痣が精巧に描かれた偽物であることを、主水之介は幕府御殿医了庵(小沢栄太郎。寛山の陰謀に気づいて殺された)から受け取った秘薬によって明らかにする。

一旦敗北を認めて切腹を申し出、自らの末期の水で真実を明らかにする、という馬鹿馬鹿しいほど迂遠な展開はしかし、切腹をするように見せかける芝居じみた大げさなふるまいと、秘薬を溶かした柄杓の水を勢いよくかける素早さ、右太衛門の圧倒的な表情によって見事なバロック的アクションとなっている。

主水之介は剣戟の末、月照宮の裏手の洞窟で寛山と偽義丸を成敗する。巨大に造形された洞窟は一見してセットとわかる質感だが、緑色の照明がセットの人工感を高めている。そこで悪人を倒した後に主水之介は鍾乳石のような岩に固まった義丸君の遺体(しかも赤児である)を鶴丸君と共に発見する。この遺体は具象的に映像化されておらず、赤児のいわゆる御くるみが氷付けにされたような形で、「地中に埋めた遺体が地下に浸みだして固まったのだろう」と主水之介は推測する。

ここでは「謎」つまり不可解さが追求された結果、死の汚穢おわいに至り、華やかで輝かしい『旗本退屈男』の世界とは異質なものが噴き出している。既に述べたようにエキゾチシズムを採用することで本シリーズは了解可能な範囲で「謎」を映像化し得たが、『謎の七色御殿』では怪奇性に向かった結果おぞましいものが画面に招来されたのだ。

p.152

以上の議論から、本論では時代劇映画『旗本退屈男』におけるバロック的なものが、まず市川右太衛門によって歌舞伎を参照源として基盤に据えられ、戦後のカラー・ワイドスクリーンの導入を経て衣裳の比重の増加と、ショーの発達を軸に展開してきたことを明らかにした。バロック性に奉仕するエキゾチシズムと怪奇性の追求という二つの方向性は、はからずも『旗本退屈男』最後の作品となった『謎の竜神岬』(1963)において、清国人の絡んだ密貿易、天刑病すなわちハンセン病の患者を装った者たちによる騒乱という主題において統一されるように思われる。それについて本論は問題を提起するにとどめる。

60年代に入ると時代劇映画は、『旗本退屈男』に顕著にみられるバロック性をそぎ落とし、本物らしさの追求を進めていく。その中で映画全体の興行的な退潮を受けて、『旗本退屈男』シリーズは1963年に終了し、時代劇の急速な衰退を印付けた。人気シリーズはその後テレビドラマへと製作の場を移したが、安定した人気を持つ捕物帖として市川右太衛門の実子北大路欣也主演でも後に製作されたものの、映画におけるほどの派手な視聴覚性つまり本論が述べてきたバロック性を実現することはできなかった。

本論の冒頭で引用した発言に続いて中島は、テレビ放送用の時代劇制作では情報量が少ないため被写体作りが楽であることを述べた[38]。『旗本退屈男』に見られるバロック性とは、それが映画であることをこれ見よがしに誇示するものであったのだ。

Notes

  1. [1]

    第1回京都映画祭「国際シンポジウム──時代劇と世界映画」山根貞男監修、京都映画祭実行委員会、1999年、32頁。なおシンポジウム参加者は中島に加えて山根貞男、デイヴィッド・ボードウェル、エドワード・ヤン、マルコ・ミュレール、ティエリー・ジェス、蓮實重彦、加藤幹郎。

  2. [2]

    河竹『続比較演劇学』南窓社、1974年、193頁。

  3. [3]

    同上、159-179頁。

  4. [4]

    同上、136頁。なお、バロックに内在する宗教的要素に関して、藤井康生は演劇だけでなくより広くバロック時代に見られるヴァニティー(ヴァニタスつまり現世のはかなさ)の主題が歌舞伎にも見られるという点で、宗教的側面を補って河竹の議論を発展させる見通しを主張している(藤井康生「バロックと歌舞伎」関西外国語大学研究論集、2004年)。

  5. [5]

    河竹登志夫『演劇概論』東京大学出版会、1978年、73-77頁。

  6. [6]

    グスタフ・ルネ=ホッケ『迷宮としての世界──マニエリスム美術 上』種村季弘、矢川澄子訳、岩波文庫、2010年、28頁。

  7. [7]

    同上、26頁。

  8. [8]

    エウヘニオ・ドールス『バロック論』神吉敬三訳、美術出版社、1991年、79-145頁。なお本論で参照した訳書は、1963年出版(初版1943年)のスペイン語版を底本とする。

  9. [9]

    谷川渥『美のバロキスム 芸術学講義』武蔵野美術大学出版局、2006年、200-235頁。

  10. [10]

    谷川渥「江戸のバロックへ──書誌学的に」『江戸のバロック』河出書房新社、2015年、11頁。

  11. [11]

    佐々木味津三『旗本退屈男』文春文庫、2011年、13頁。

  12. [12]

    市川右太右衛門『旗本退屈男まかり通る』東京新聞出版局、1992年、69頁。

  13. [13]

    橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店、1986年、45-68頁。

  14. [14]

    出雲まろう『チャンバラ・クイーン』パンドラ、2002年、109頁。

  15. [15]

    小川順子『「殺陣」という文化』世界思想社、2007年、172-204頁。

  16. [16]

    橋本、前掲書、64-65頁。

  17. [17]

    市川右太衛門「「退屈男」二十三本の思い出」『時代映画』1958年8月号、15-16頁。光秀の傷は主君小田春永につけられたもの。

  18. [18]

    市川、1999年、68頁。

  19. [19]

    「現実的な悪人の役。敵役の中でも最も重い役で、容貌魁偉、傲岸不遜、冷血かつ残酷で、悪の華ともいうべき美学をもつ役である」(「実悪」『新版 歌舞伎事典』平凡社、2000年、220頁)

  20. [20]

    ドールス、前掲書、124-125頁。

  21. [21]

    出雲、前掲書、117-120頁。

  22. [22]

    富士田元彦『さらば長脇差──時代劇論』東京書房社、1971年、63-64頁。

  23. [23]

    出雲前掲書102頁および小川前掲書195頁を参照した。

  24. [24]

    小川、前掲書、194頁。

  25. [25]

    出雲、前掲書、111頁。「バロック的植物曲線とゴールドとの取り合わせは、バブル経済最盛期のファッション界の大御所ヴェルサーチェの作品すら彷彿とさせる」と述べている。

  26. [26]

    佐々木康「カチンコ人生」佐々木康、円尾敏郎編『楽天楽観 映画監督佐々木康』ワイズ出版、2003年、164-165頁。

  27. [27]

    市川右太衛門、佐藤忠男「時代劇スターひと筋」『トーキーの時代 講座日本映画3』岩波書店、1986年、210-211頁。

  28. [28]

    出雲前掲書、102頁。

  29. [29]

    市川前掲書、155頁。

  30. [30]

    小川前掲書、197-200頁。

  31. [31]

    Isolde Standish, A New History of Japanese Cinema: A Century of Narrative Film, New York, Continuum International Publishing Group, 2005, p.274.

  32. [32]

    佐々木康の著述および関係者の証言を集めた『楽天楽観 映画監督佐々木康』(佐々木康著、円尾敏郎ら編、ワイズ出版、2003年)は記録としては充実しているが佐々木の演出に関する議論は十分とは言えない。

  33. [33]

    小川前掲書、195-196頁。

  34. [34]

    『源氏物語』中、葵祭における葵上との牛車をめぐる争いで六条御息所が傷つき、葵上への怨みで生霊となって現れる場面を素材に『葵上』は構成されている。

  35. [35]

    能および狂言を元にした歌舞伎の演目を指す。

  36. [36]

    松田、川崎に加えて脚本家比佐芳武はそれぞれ東映京都撮影所で「天皇」と呼ばれていた。(春日太一『あかんやつら東映京都撮影所血風録』文藝春秋、68頁)。

  37. [37]

    佐々木康「カチンコ人生」、佐々木康、円尾敏郎編『楽天楽観 映画監督佐々木康』ワイズ出版、2003年、163頁。

  38. [38]

    中島、前掲書、33頁。

この記事を引用する

藤田奈比古「戦後の『旗本退屈男』におけるバロック性について」『Phantastopia』第1号、2022年、136-155ページ、URL : https://phantastopia.com/1/the-baroque-elements-in-hatamototaikutsuotoko/。(2024年11月21日閲覧)

執筆者

藤田奈比古
FUJITA Nahiko

博士課程。日本の時代劇映画を対象とし、形式と内容に関する分析、作り手(監督、脚本家、製作者、スター俳優等)、歌舞伎等の芸能や文学との関係、社会的文脈等を総合した包括的なジャンル理解と貫戦史の検討。
論文:「戦後日本における伝統芸能のアダプテーション──内田吐夢の『暴れん坊街道』を中心に」『映像学』105巻、2021年
口頭発表:「松竹の残酷時代劇──1960年代の松竹京都撮影所作品を中心に」第47回日本映像学会、2021年6月5日

英語要旨

The Baroque Elements in Postwar Bored Hatamoto

FUJITA Nahiko

This paper deals with the  jidaigeki film series Bored Hatamoto (Hatamoto Taikutsu Otoko”) produced in the 1950s and 60s. Utaemon Ichikawa, one of the most famous jidaigeki stars, had starred in the series for about 30 years, and we show the development of the baroque style in the series.

The film series is known for the gorgeous costumes of Mondonosuke, the main character played by Ichikawa, the rapidly changing story and the showy atmosphere.

First, in order to consider such features, we point out the baroqueness in Bored Hatamoto’s narrative patterns and character development. By reviewing Ichikawa’s retrospection and show that that derives from Kabuki, we refer to Toshio Kawatake’s research which argues the resemblance between Kabuki and baroque theater in Europe.

Second, we scrutinize the function of costumes in the films by analyzing the shots.

In the process of producing these films, costumes were designed before scriptwriting. We will discuss that costume designs determined Ichikawa’s performance and the composition of scenes in some cases and that gave characteristic visual patterns to the series.

Third, we will call the spectacle sequences composed of dancing and singing a “show”, and then we sort such sequences into a number of patterns by discussing the relationship between the shows and sword fighting scenes in the climax of the films.

From that perspective, we focus on the characteristics of the film director Yasushi Sasaki who directed 10 films of the series. We clarify how prominently showy Sasaki’s style is and its strong tendency toward baroque pursuing the visual and absurd.

We discuss the set designs and lack of unity of the narrative in Bored Hatamoto: The Cave of the Vampire Bats (1961), directed by Sasaki, as a case study. We regard this film as an extremely baroque one in the series discussing that various baroque motifs give many sequences splendid, mysterious, exaggerated and even uncanny atmosphere effectively.

Phantastopia 1
掲載号
『Phantastopia』第1号
2022.03.08発行