p.24はじめに
無名の職人の手になる日用の雑器に「用の美」を見出し、1920年代に「民芸」概念を提唱した柳宗悦(1889 – 1961)は、『美の法門』(1949年)以降の晩年の著作では、浄土門を中心とする仏教思想によって自身の民芸理論を基礎づけ、総括する「仏教美学」の構築に取り組み、現世に「美の浄土」を築くという、信仰と美の一体となった理想の探究を続けた。
柳は、仏教の信仰者として民芸に浄土思想の具現を見た訳ではない。反対に、決して説明し尽くしえぬリアリティとして彼に対して現れていたのは、民芸品の美そのものである。元々キリスト教神秘主義やウィリアム・ブレイクを研究した柳は、民芸運動初期にはキリスト教からも様々な言葉や事例を借りつつ民芸の説明を試みている。その後の彼が浄土思想に傾倒していくのは、「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」という『歎異抄』の言葉に象徴されるような他力的救済の思想が、凡夫たる工人の作る器物に芸術家の作品をも凌駕する美が宿ってしまうという民芸美の逆説を、最も正面から説明しうると思われたからにほかならない。
この意味で、柳が書き続けた膨大な民芸論は、民芸世界の探求であると同時に、民芸のリアリティに言葉を与えうるような語彙それ自体の探求でもある。とりわけ「仏教美学」においては、仏教の伝統的語彙の、民芸を語りうるものへの拡張が試みられている[1]。本稿は、柳の仏教美学を、浄土思想によって民芸にいかなる説明が与えられたかではなく、反対に、民芸との出会いが、柳において浄土思想にいかなる変容の契機を与えたかという観点から分析する。中でも本稿が考察するのは、そこにおける反復、および伝統の問題である。ウィリアム・スティールが詳しく論じているように、民芸の発見は、ラスキン、モリスやフェノロサ、岡倉天心を含む、洋の東西を往復する一連の反近代主義的工芸論の中にあり、その意味で、近代の反省的知によって眼差された、前近代的伝統の再評価という文脈から切り離し得ない[2]。民芸美は伝統美であり、代々にわたって営まれてきた生活と経験の無数の反復に支えられた美であると柳は言う。では、伝統なるもののリアリティや、その継承可能性という問題について、仏教の語彙はいかに語りうるのだろうか。柳は、とりわけ称名念仏の反復という浄土信仰の実践を手がかりに、この問題を考えていたように思われる。第一節では、柳の浄土思想論の集大成とされる『南無阿弥陀仏』を取り上げ、念仏の反復をめぐる柳の議論を検討する。第二節では、柳への影響の強い鈴木大拙の念仏論と比較することで、柳の議論の独自性を考察する。最後に第三節では、伝統の継承をめぐる彼の最晩年の展開を、その茶道論と「無碍心」の概念に注目しつつ追いかけたい。
p.251. 念仏が念仏する──柳の浄土思想論と民芸論のインターフェース
『工芸の道』(1928年)において「工芸の道を、美の宗教における他力道と言い得ないだろうか」と提案するなど、柳は民芸運動初期からすでに民芸と浄土思想を結びつける発想を提示している[3]。しかし、この発想が単なるアナロジーを超えた展開を遂げるのには、終戦以降の著作を待たなければならない。彼自身の回想によれば、転換点となったのは1948年に偶然読み返した『大無量寿経』における阿弥陀の第四願の発見だった。「たとひ、われ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ」という誓願のうちに、美醜の二元性を超越した浄土というヴィジョンを得た彼は、それを拙い作品も拙いままに美しくなってしまうという民芸の不思議をぴたりと言い当てるものと捉えた。直ちに論考「美の法門」を執筆した彼は、この「無有好醜の願」について「この一言があるからには、之によって美の一宗が建てられてよい」と書きつける[4]。その後、最晩年に至るまでの彼の著述は、『美の法門』(1949年)『無有好醜の願』(1957年)『美の浄土』(1960年)『法と美』(1961年)という、いわゆる仏教美学四部作に結実した。
しかし本節で注目するのはこれらの著作ではなく、並行して進められた柳の浄土思想研究の集大成とされる、『南無阿弥陀仏』(1955年)である。「南無阿弥陀仏」という六字の名号の意味を、浄土系諸宗の「宗派の争いからは自由になって[5]」説き明かすことを主題とする同書は、民芸を直接に扱った著作ではない。だが、「因縁」と題されたその序論部分では、民芸運動がいかにして彼の浄土思想研究の「因縁」となったのかが語られ、仏教美学の骨格が短くまとめられている[6]。すなわち民芸を扱う序論的な「因縁」と、浄土思想それ自体を扱う本論とからなる本書は、彼において民芸と浄土思想がいかなる出会いを果たしているかを俯瞰する上で格好の観測点を提供しているのである。
初めに、「因縁」に登場する、民芸と浄土思想の接点を印す比喩に注目しよう。
凡夫たる工人たちからどうして成仏している品物が生れてくるのか。仕事を見ていると、そこには心と手との数限りない反復があることが分る。有難いことにこの繰返しは才能の差異を消滅させる。下手でも下手でなくなる。この繰返しで品物は浄土につれてゆかれる。この働きこそは、念々の念仏と同じ不思議を生む。なぜならこれで自己を離れ自己を越える。あるいは自己が、働きそのものに乗り移るといってもよい。自分であって自分でなくなる。この繰返しの動作と念々の称名とは、似ないようで大に似たところがある。称名には「我」が入ってはなるまい。工人の働きにも「我」が残ってはならぬ。この「我」を去らしむるものは、多念であり反復である。
考えると工人たちは識らずして称名をしながら仕事をしているともいえる。焼物師が轆轤を何回も何回も廻すその音は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏といっている音である。そのほかのことではあるまい。反復という称名がなくなると、工人たちは、もとの凡夫に止まる。何ものをも美しくは作れない。〔…〕美しい民芸品は、下品成仏のまがいもなく生きp.26た実証である[7]。
すなわち、職人たちの手技の無数の反復こそ、我執なき境位を自然と生み出すものであり、浄土思想の説く念仏と接近するものであると柳はいう。中見によれば、職人の反復的身体動作が念仏的だという視点は、柳の著作において1926年頃にまで遡るものであり、木喰仏の研究から得たものだが、その後は戦後に至るまでほとんど現れない[8]。とすれば、上の描写は、仏教美学というプロジェクトの前景化に合わせて再び呼び出されたものと言えるだろう。焼物師の轆轤から南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏が上がるイメージのうちに、柳は、民芸制作と浄土信仰の収斂する「美の法門」の境域を幻視している。
『南無阿弥陀仏』本論に進もう。彼の議論の大きな特徴は、法然や親鸞に加え、一遍を浄土門における最重要の人物として評価する点にある。彼によれば「一遍は今日まで極めて不遇であって、彼に関する著述は寥々たる有様である[9]」が、実際には法然、親鸞、一遍は一つの人格の連続的な発展として捉えるべきであり、日本の浄土思想は一遍にその最終到達点、成熟地点を見るという。こうした一遍評価のポイントは何か。柳が強調するのは、たとえば一遍の残した次の一節である。
されば念々の称名は念仏が念仏を申すなり。しかるを我れよく心得、我れよく念仏申して往生せんと思うは、自力我執が失せざるなり[10]。
文意を補うため、一遍の法語集からもう一つ引用する。
又云、決定往生の信たらずとて、人ごとに歎くは、いわれなき事なり。凡夫のこころには決定なし。決定は名号なり。しかれば決定往生の信たらずとも、口にまかせて称せば往生すべし。是故に往生は心によらず、名号によりて往生するなり[11]。
すなわち一遍によれば、阿弥陀は自分を極楽往生させてくださるに違いないという信心が定まっているかどうかに悩む必要などなく、ただ名号を称えるだけで良い。むしろ、名号を唱えるという行為そのものに往生があるというのである。これは、「念仏が念仏する」とも、「南無阿弥陀仏が往生する」とも表現される事態にほかならない。柳はこれを、法然や親鸞と対比する。たとえば親鸞においては、「真実の信心は、かならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」すなわち信心が定まるところには名号を唱えるという行が自ずと伴うが、名号を唱えることには必ずしも信心が伴わないとされ、他力のはたらきそのものとしての信心の重要性が強調される[12]。それに対し柳は、「何かを信ずるとする限り、信じられるものと、信ずる己れとが向い合う。畢竟信ずる誰かがある限りは、人がまだ残るではないか[13]」と厳しく疑う。そして、むしろ念仏を唱えるという言語行為それ自体に往生を見る一遍に、浄土思想の究極の帰結を見てとるのである。
p.27親鸞の如く一切が阿弥陀仏から来るのではなく、阿弥陀もまた南無の機と一体となることで、即ち六字となることで、始めて彼自らを完くするのである。それ故この一体において、人のみならず弥陀もまた消え去って、ただ六字の名号のみが活きるのである。それ故にこそこれを「独一の名号」と呼んだのである。名号には念ずる人も、念ぜられる仏もないのである。「しかれば、名号が名号を聞くなり」と一遍は述べる。六字の意味はこれ以上には行けぬ。彼は念仏門最後の思索者であった[14]。
さらに柳は、一遍の次の消息文を紹介し、これを「時宗第一の法語」、あるいは「誠に念仏の要旨をこれ以上に言い尽くすことは出来ぬ[15]」と評している。
南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、この外にまた示すべき安心もなし。〔…〕かように打ち上げ打ち上げ称うれば、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角の道理もなし。善悪の境界みな浄土也。外に求むべからず、厭うべからず。よろず生きとし活けるもの、山川草木、ふく風、立つ浪の音までも、念仏ならずということなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候わば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがいはからずして、本願に任せて念仏し給うべし。念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがう事なし[16]。
一遍において、念仏は「念仏が念仏する」という、行者の自我や内面を伴わない純粋な行為性、活動性の相において捉えられる。そのとき他力救済は人間ばかりが与るものではなくなり、草木や風、波の音に至るまで、自然と生命の一切の営みが念仏になるのである。
こうした思想には、万物は本来的に悟っているという天台本覚思想との類縁性はもちろん、『一遍聖絵』に描かれる山岳霊場での修行なども併せ、密教や山岳修験との色濃い関連性も指摘されている[17]。また柳と同時期から一遍に注目した唐木順三は、法然や親鸞にはほとんど見られない自然の無常への感受性と「美的理念」が、一遍には顕著であることに注目している[18]。それゆえ一遍を法然や親鸞の思想を極限まで推し進めた人物とする見方自体には、ある程度留保が必要だろう。だが、柳が一遍に惹きつけられたのは、浄土思想の内的論理の観点だけではなく、むしろ端的に自身の仏教美学の理念と根底的に通じる、非人間中心主義的な念仏観をそこに看取したからでもあったように思われる。というのは、上の消息文の言葉は、「因縁」の小文に掲げられている、浄土思想を人間的な信心を超えて物の世界へと拡張し、普遍化しようとする柳の仏教美学の意向とよく重なるからである。
今までは宗教といえば人間の心のみを相手に説かれたのである。信心といえば人間の抱く信心であり、救いといえば人間の救いなのである。〔…〕 だが、浄土教の真理には、実はもっと普遍的なものがあるのである。人間界にのみ適応し得る原理ではなく、済度は一切に渡る済度である。それは信の領域だけの教えではなく、美の分野にもあて嵌まる原理なのp.28である。人のみではなく、実に「物」にも適応されるべき真理なのである。〔…〕 浄土教は信から更に美へと広まるべきである。それは美学の一つの原理でもなければならぬ[19]。
個人の信という問題を突き抜けた地点に、柳はいわば非信心中心主義的な救済の原理を、「美」の名のもとに探っていた。そのことが、差し当たり民芸とは切り離されて論じられる『南無阿弥陀仏』本論の一遍評価とも共振しているように思われる。
とはいえ以上から、柳は一遍的な念仏観を民芸の作り手の身体的反復に適用したと結論するのは拙速である。彼の論じる一遍において、念仏の「反復」はほとんど強調されないからである。そしてここに、「因縁」の章と『南無阿弥陀仏』本論との微かな緊張関係を見出すことができる。本論中の「一念多念」の章で彼は、念仏は数多く唱えなければならないとする立場(多念)を法然に、信心が定まるならば念仏は一度限りで十分であって爾後の多念は仏への報恩感謝の行であるとする立場(一念)を親鸞に、そして回数に囚われずただ唱えるという境地を説く立場(一念即多念、一多不二)を一遍に当てている[20]。これらは観点の違いに過ぎず、実生活では、いずれにせよ「念仏に明け念仏に暮れるのが信者の生涯」であり、「称名は念々の称名でなければなるまい[21]。」それでも、一遍の念仏とは一念多念が数の問題でなくなる「一期一会の念仏」であり、「常に新な一念の相続」でなければならないと柳は述べている[22]。
一方で、民芸制作の情景に念仏を見るという、先に引用した「因縁」の箇所では柳は何か別のことを示唆している。すなわち、「反復という称名がなくなると、工人たちは、もとの凡夫に止まる」のである。「反復という称名」という、さりげなく書きつけられた表現の異様さに注目しよう。称名念仏の反復は重要かという「一念多念」の章の議論に対し、「反復という称名」を文字通りに取るならば、それが含意するのは称名の反復とは厳密には区別される、「反復が称名である」という事態である。すなわち反復に先立って称名があるのではなく、反復において行為は称名となる。反復は、ここで他力救済に欠かせない条件になっている。
すなわち、数の問題ではなく「ただ唱える」ということを最終的に強調する『南無阿弥陀仏』本論に対し、「因縁」における浄土思想と民芸の接続では、反復的行為それ自体の効果が注目され、それに基づくメタファーがレトリックの要となっている。ではここに見られる一見僅かな齟齬を、いかに捉えるべきだろうか。その検討にあたり、次節では鈴木大拙のテクストへと迂回する。反復行為の効果という観点から念仏を捉える発想は柳の独創ではなく、鈴木が1933年の英文著作を翻訳した『禅と念仏の心理学的基礎』(1937年)において、むしろより細やかな仕方で語られているからである。一般に、柳の仏教理解には鈴木大拙のそれと通じ合う点が多く見られる。次節では、鈴木との比較を通して、民芸という視点が浄土思想に対するいかなる捉え方を可能にし得たのかをより詳細に検討する。
p.292. 反復と他力──鈴木大拙との比較
2-1. 鈴木の場合
柳が「父親にかわる人[23]」と告白していたという鈴木大拙との緊密な関係は、長きに渡って柳に影響を与えた。学習院高等科在学時、彼はアメリカ滞在を終えたばかりの鈴木大拙に英語を学んでおり、この時期に彼からスウェーデンボルグを紹介されたことが、柳のブレイク研究に大きく裨益している[24]ほか、自身の関心が東洋美術に向かう第一次世界大戦中の時期より、柳は鈴木の仕事に導かれて仏教を精力的に学んでいる[25]。また『日本的霊性』以降の鈴木の妙好人研究を受けて自身も妙好人に取り組むなど、柳の浄土思想理解における鈴木の影響も顕著である。しかし、柳が鈴木の議論を明示的に参照する箇所の少なさも手伝い、伝記的事実への言及と比べ、両者の思想の理論的な比較検討は決して多くない。たとえば中見は、晩年の柳と鈴木の宗教思想がほとんど相似形をなすこと、しかし両者の比較研究はほとんど行われてこなかったことを指摘しつつ、両者の差異を民衆観および近代観の観点から検討している[26]。また佐藤は、柳と鈴木の思考方法の次元での差異を、晩年の柳の変節と併せて論じている[27]。しかしいずれにおいても、浄土思想理解における柳と鈴木の立ち入った比較は行われていない[28]。
では鈴木は、念仏をどのように捉えたのか。彼の念仏論の展開を辿るため、まずは彼が念仏の独自の解釈に取り組んだ、『禅と念仏の心理学的基礎』(1937年)を参照しよう。書名にも示されているように、本書で彼は、宗門内部の教学論理によってではなく、心理学的、および神秘主義的観点から、禅や念仏の意義の説明を試みている。そこで彼は、なぜ名号が「私は阿弥陀に帰依します」といった分かりやすい表現に翻訳されることなく、「南無阿弥陀仏」という呪術的響きを保ったまま中国や日本に残ったのかを問い、次のように論じている。
その理由は、名号自体の中に包まれている魔術的効果に求むべきではなくして、名号の反復から自ら発生し来る心理的効果に求むべきである。何か解し得べき意味の存する間は、常にその意味に纏わる観念および感情の無限なる連続が生ずる。さすれば心は、論理的組成に従事するか、又は想像と連想の網細工に没入して、収拾すべからざるにいたる。之に反して無意味な音が単に反復せられる時は、心はそこに停りて、脇途にさまよい出ずべき機会をもたぬことになる[29]。
名号が翻訳されないのは、理解可能な言語が引き起こしてしまう、意味作用の無際限の連鎖を断ち切るためである。無意味な音の反復の効果により、心は諸々の思考に散らばった平常の状態を離脱する。だがそこで起こるのは、ただの思考停止といった催眠的状態に留まるものではない。むしろそれは、行者の自己の底そのものを破るような変容であると鈴木は主張する。
彼〔行者〕は遂に如何にしてその然るかを自覚することなくして、いつの間にか、彼はもはや彼自身ではなくなる、又、彼は名号と共なる存在でもない。只在るものは名号だけでp.30在る。この時、彼は名号で、名号は彼である。絶対一元の存在と謂ってもよい[30]。
名号の反復はこうして、日常の自己意識の根底にはたらく「未だ意識と名のつくものが働き出ない以前のもの、即ち根本空とでもいうべきもの、「無意識」の世界とでもいうべきもの」を誘い出すのである[31]。その状態からやがて目覚めた行者は、自分のうちに新たな思念が生じていることを発見する。「それは名号である。弥陀の本願に対する信である、往生の自覚である。斯くの如く、絶対的同一性のまっただ中から跳り出ることが出来たという事実──即ち心理的体験は、「南無阿弥陀仏」を称えたということで特徴づけられているのである[32]。」反復の効果において念仏を捉える柳の視点は、ここに明確に先取りされている。だがそれだけでなく、鈴木は反復の心理学的効果が、「絶対一元の存在」の宗教的経験の次元へと一挙に反転し、信心の起こりへと結実する次第を描いていたと言えるだろう。
1940年代になると、鈴木はこの反転の内実を見極めるべく、言葉を尽くしていく。その浄土思想研究の集大成とされる『浄土系思想論』(1942年)では、彼が『金剛般若経』から引き出したいわゆる「即非の論理」が、浄土思想の読解に応用される。浄土門では自力によって悟りへと縦に真っ直ぐ進むのではなく、むしろ他力のはたらきで娑婆から浄土へといわば横ざまに跳ぶ(「横超」)ということが起こると親鸞は説いたが、この「横超」の観念を、鈴木は「即非の論理」で読み解くのである。
横超論理は、般若の即非論理である。〔…〕 願力は信心で、信心は願力でなくてはならぬ。如来は自らを否定して願力となり、この願力が信心となって自らに戻って来て、如来の如来たる所以が完うせられる。「如来は如来にあらず、即ち是れ如来なり」の般若の即非論理がここで成立する[33]。
直後に述べられるように、これは「願力がそのままで信心であり、信心がそのままで願力であるという意味ではない。」むしろ、阿弥陀と行者、あるいは浄土と穢土という絶対的に隔たったものが、融合することなく「回互的に」接続することを意味する。そして、「弥陀の名号は浄土と穢土とを非連続的に連続させる。弥陀招喚の声を聞くことは、即ちその名号を称することである[34]」というように、この逆説の場所こそが名号にほかならない。
浄土や弥陀というものの外に名号があるのでない。名号は直ちに弥陀であり浄土である。浄土は場処で、弥陀は人格で、後者が前者の主宰だという考えは、娑婆からの類推論理にすぎぬ。その実際は、名と法とが一つで、法と土とがまた一つなのである。それ故、名号の功力が吾等の一念の上に現れる時、それは直ちに浄土往生で見弥陀である。即ち名号と浄土と弥陀とは一串に串通せられて自己同一性の上に立つことになる。ここに名号の不可思議がある。鉄を変じて金となし、娑婆を転じて浄土となすところの不可思議がある[35]。
p.31こうして鈴木は、浄土とはこの世(穢土)から区別された彼方にある死後の世界などではなく、宗教的経験においてこの世と逆説的に相即するものであり、名号においてこそその転換が果たされるという見方を打ち出している。ここで注目すべきは、上の引用における「一念」の強調からも分かるように、「即非の論理」を介して捉えられた名号の意義が、1930年代の鈴木が注目していた反復の心理学的効果から、はっきりと切り離されていることである。『浄土系思想論』の末尾では、彼は名号の意義の理解をめぐる「発展の三段階」を次のようにまとめている。
第一は歴史的である。ここには名号を呪文的に見た傾向もないとは云えぬ。が、第二に入るに及んで、称名行には心理学的効果を目的としているようなものがある。第三に転じて来ると、名号と弥陀、名と法とが、即是的につながると同時に、他面、法又は弥陀が、機又は凡夫と即非的に回互するので、南無阿弥陀仏の不可思議性が、その最も効果的な意義で受け取られるようになる[36]。
反復の心理学的効果から「絶対一元の存在」へという『禅と念仏の心理学的基礎』の議論は、ここでいう第二から第三の段階への転回をなぞるものであった。それに対し『浄土系思想論』では、第三段階における名号理解の純化が推し進められる。名号はただ我執なき心理状態を喚起するのではなく、むしろ名号においてこそ、自我と宗教的一者とが逆説的に出会う。両著作間で変化しているのは、念仏の反復の意義づけである。「称名を繰返し念々相続せしめて、心理的に或る状態に入らんとする」のは、『浄土系思想論』では、あくまで第二段階におけるあり方に過ぎない[37]。心理学的にはそうした反復の効果を「全然無いものと見るわけには行かぬ」ものの、第三の最終段階である「形而上学的立場」から見れば、念仏の反復はもはや二次的である[38]。むしろ、「この称名には多念があるべきでない。唯々一念の正念──南無阿弥陀仏──があればそれでよいわけである。名号を執持して心におく要はない。「阿弥陀仏を称念せむこと若しくは一日…七日」などと云う必要はない。〔…〕それにも拘らず、執持と云い、十声と云うような文字が他力の論議に出て来るのは、第二段階の痕跡に外ならぬと思う」と鈴木は言う[39]。最終段階において強調されるのはむしろ、禅の一喝にも似た、一念による跳躍である。「「南無阿弥陀仏!」ですべてが雲散霧消せぬといけない。そんな称名でないといけない」のである[40]。
ある種の逆説的な決断主義さえ漂わせるこうした念仏観は、さらにその傾向を強めつつ『日本的霊性』の霊性論へと流れ込んでいく。そこでは、「善悪是非をすべて断ち切って、一切時中の行動が即ち六字の名号となるとき、それが一心の念仏行、一切行の念仏というものになる」という境地に、「霊性的直覚そのものから見た念仏」が認められることになる[41]。鈴木が同書において、上海事変中の日本兵が念仏を唱えながら敵陣へと切り込んだという「念仏突貫」のエピソードを好意的に紹介しているのも、こうした念仏観の、時代の制約を受けつつ生まれた一帰結に他ならないだろう[42]。
p.322-2. 柳の場合
では、柳はどうだったのか。浄土思想の最良の体現者としての妙好人への注目、禅宗の自力門と浄土系の他力門が出発点は違えど最終的な境地においては収斂するという発想、そして、二元論に縛られた西洋思想に対し、日本は仏教的な不二の思想において独自性を発揮するという文化論など、柳の仏教観には鈴木と共通する発想が数多い[43]。鈴木が主に親鸞との格闘を通して『浄土系思想論』を書き上げたのに対し、柳は一遍をもって浄土思想の到達点とした点は二人の差異として一応指摘可能である。とはいえ、実際には鈴木は一遍の価値を柳以前から強調しており、この点においても柳が鈴木と根本的に異なるとは言い難い[44]。
二人の差異はむしろ、柳が浄土思想と民芸を結びつける際に現れるように思われる。前節で論じたように、『南無阿弥陀仏』の序章では、轆轤を回す工人の仕事が「反復という念仏」と呼ばれていた。反復こそが凡夫を他力的に救済する。ここに、柳の諸論の中で、浄土思想が民芸と明示的に重ねられる時にのみ浮かび上がるポイントがある。ではこの救済の力とは何なのか。「工芸に於ける自力道と他力道」においては、それは「自然」と名指されている。
なぜ他力の道が易しいか。なぜそこに美しい作が却って多いのか。作品を産ましめるものは己れを越えた他の力であって、自らの力ではないからである。自己の作為が器物を左右するのではない。自然がそれを加護して了うのである。〔…〕作者を工人と呼ぶよりも、彼等を助ける自然を工人と呼ぶ方が至当である[45]。
柳は、「自然」という語を、しばしば互いに密接に結びつく様々な意味で用いるため、まずはそれらの意味が基本的に出揃う「工芸の美」に依拠して整理しておきたい[46]。「自然」とはまず、土地の風土から与えられる工芸の材料であり、「天然」である[47]。だがそれだけでなく、機械と対比された手工は、外的に制御された機械では決して再現し得ない繊細さを生み出すのであり、そこに柳は「自然」の力を見る[48]。「自然」はまた、いかなる「意識の作為や知恵の加工」もなく、個性に頼ることもない、無心のままの素直な物づくりの謂でもある[49]。さらに、手工には、「雑器の美」での表現を借りれば「長き年と多くの汗と、限りなき繰返しが齎らす技術の完成」がある[50]。すなわち、多数かつ絶え間ない反復を通じて初めて可能になるような、完全には意識化されえない自由な技術の発露がある。それは、「反復が自由に転じ、単調が創造に移る」熟練のうちにはたらく「自然」である[51]。最後に、こうした熟練は、一工人の生涯を通した反復のみの所産ではない。その背景には、幾世代にも渡る、「伝統」というさらに大きな反復がある。それは個々の技法の継承であるだけでなく、土地ごとに異なる天然の素材との交渉の集積でもあり、日用の雑器と、東西や寒暖の風土に育まれる人間の性格とによって営まれた生活の蓄積でもある。その中で結晶化する、ある必然性を備えた型、パターン、作法、方法に頼ることで、工人は一個人のみでは作り得ないようなものを生み出す。このとき工人を支える力をも、柳は「自然」と呼んでいる。
本稿の関心から注目すべきは、最後に挙げた「伝統」と「自然」の概念的交差である。もとp.33よりこの「自然」は、言及こそされないが明らかに、親鸞的な「自然法爾」のイメージを含むものであっただろう。だが「仏教美学」の構築を進めるにつれ、柳は「自然」を次第により明示的に、浄土思想的語彙に置き換えて語るようになる。たとえば民芸運動初期の段階では、柳は次のように説いていた。
よき作を守護するものは、長い長い歴史の背景である。今日まで積み重ねられた伝統の力である。そこにはあの驚くべき幾億年の自然の経過が潜み、そうして幾百代の人間の労作の堆積があるのである。私たちは単独に活きているのではなく、歴史の過去を負うて生きているのである。〔…〕伝統への無視は自殺に過ぎない。反抗と自由とを混同させてはならない。〔…〕あの念仏宗が「異安心」を戒める心の必然さを想う。伝統の偉大は自然自らの力が働くことによる。超我の力がその根底たることによる。これにもまさる工芸の基礎があろうか[52]。
民芸は器物の世界における凡夫救済であるというモチーフ自体は、柳の民芸論に一貫して見られるとはいえ、初期の著作においては、このモチーフはあくまで他力思想と民芸美のアナロジーの指摘として現れるにすぎない。上の引用においても、「異安心」というとりわけ浄土真宗に用いられる言葉が引き合いに出されてはいるものの、それは伝統や正統の重要性の一例という以上の意味を与えられてはいない。
ところが、約20年後に書かれた『美の法門』(1949年)になると、伝統をめぐる柳の語りは、浄土思想の語りと渾然一体となって展開されるのである。
かく考えると伝統というようなことが、下根の者にはどんなに有難いことか。伝統は一人立ちが出来ない者を助けてくれる。それは大きな安全な船にも等しい。そのお陰で小さな人間も大きな海原を乗り切ることが出来る。伝統は個人の脆さを救ってくれる。実にこの世の多くの美しいものが、美しくなる力なくして成ったことを想い起さねばならない。かかる場合、救いは人々自らの資格に依ったのではない。彼等以上のものが仕事をしているのである。そこに匿れた仏の計らいがあるのである。
之を想うと、人が美しいものを作るというが、そうではなく仏自らが美しく作っているのである。否、美しくすることが仏たることなのである。美しさとは仏が仏に成ることである。それは仏が仏に向かってなす行いである。それ故仏と仏との仕事なのである。念仏は、人が仏を念ずるとか、仏が人を念ずるとか言うが、真実には仏が仏を念じているのである。一遍上人の言葉を借りれば、「念仏が念仏する」のである。「名号が名号を聞く」のである[53]。
一言で言えば、伝統の中で作ることは、「念仏が念仏する」ことである。大海原を渡る大船は、衆生を救済する阿弥陀の本願力について一般に用いられるメタファーである。「伝統」の語からp.34美を経由して一遍の念仏論へと切れ目なく展開するこうしたテクストにおいて、民芸論と浄土思想論のいわばハイブリッド化は最大限に推し進められている。
ここには、柳が民芸とは独立して浄土思想を論じる際には現れない、一つの浄土思想が語られている。すなわち、人間がそれぞれの風土の中で重ねてきた反復的実践こそが、凡夫を救済する「仏」の力として機能するのである。そこでは反復が、まさに鈴木大拙の描いた、仏と行者の逆説的に接合する名号として機能しているように思われる。工人が手仕事を反復するとき、その反復行為において自らを反復しているのはまさに伝統だからである。個人による反復はやがて性格を反転させ、反復しつつある伝統のはたらきそのものになる。そこに柳は、個人を超えた美の実現を見る。すなわち物づくりをする人間の営みを救済するのは、個人の自力でも、絶対者でも、高貴な宗教心や一度限りの神秘的体験でもなく、いたって地上的な、人と人、人と環境の間に累々と営まれる実践である。柳のレトリックにおいて、「反復という称名」はこうして伝統という他力と接続する。それは、多念の意義を心理的なものに過ぎないと評価した1940年代の鈴木大拙には、決して見られなかった展開である。
しかし、伝統の反復にこそ救済があるという議論は、それだけでは甚だ不十分だろう。言うまでもなく、柳が高く評価した日本や朝鮮各地の民芸の「伝統」は、社会の近代化と産業の機械化の波の中で、初めから危機に瀕したものとして「発見」されたものに他ならない。その限りで、伝統が伝統として取り上げられる時、そこには常にその継承可能性が非自明化した時代状況が影を落としている。生活環境の全面的な変容の中で、伝統を反復するとは一体いかなる意味なのか、柳は問わざるを得なかったはずである。これは当然、個々の技法や習慣の保存と継承の問題とも関わるが、柳はより原理的な次元においても、反復の問題を考察していたように思われる。それは、柳が自らの民芸美学それ自体を、留保つきながら、ある種の伝統の反復という観点から捉えていたからである。次節では、茶道の伝統をめぐる柳の議論を取り上げ、伝統の反復の問題を考察する。
3. 無碍心を反復する──柳の茶道批判をめぐって
朝鮮の焼き物との出会いをきっかけに民芸美に開眼した柳は、同じ朝鮮の無銘の雑器を茶器として取り立てた初期の茶人たちに強く関心を寄せ、「民芸の価値が最初に最も深く認められたのは、茶道に於てである」と述べている[54]。柳の理解では、茶道は何よりもまず、美しい道具や器を選び、それを実際に用いることでその「用に発し生活に根ざした美しさ」を味わう「工芸の美学」であり、またその営みを型や礼への結晶化を通して宗教的に昇華させる「美の法境」である[55]。逆に言えば、彼の民芸理論とは「あの尊敬すべき茶祖の美に対する理解を再び復興しよう」とするものにほかならなかった[56]。だが、彼は同時代の茶道に対しては極めて批判的でもあった。「「茶」の病い」(1950年)では、現代の茶は茶器を箱書でしか見ておらず、茶礼は硬直しており、家元制度は審美眼を弱らせているといった激烈な抗議を行なっている。さらに最晩年には『茶の改革』(1958年)を著し、民芸館では新たな茶会の形式を実験するなど、批判p.35に留まらない問題提起を続けた。熊倉功夫は「かつて朝鮮問題や沖縄問題のときに見せた、果敢に論争の現場へ身を投じてゆく柳の姿勢は、戦後にあってはこの茶の改革に最もよく表出したように思える[57]」と評しているが、日本の帝国主義政策に反対して朝鮮や沖縄のローカルな伝統を敢然と擁護した戦前と比べ、茶道界の慣習を積極的に打破しようとした戦後の彼の振る舞いはより説明を要するだろう。いかなる伝統理解が、このような関与を可能にしたのか。
柳が茶道批判にあたって持ち出すのは、茶道の起源である。村田珠光、武野紹鴎といった茶祖たちの功績は、単に茶器の良い趣味を示したことにあるのではない。むしろ根本的に重要なのは、彼らが「茶器ならざるものから茶器を選んだ」という事実である[58]。
茶祖は茶道で物を見たのではない。見たから茶道が起きたのである。このことで如何に後世の茶人たちとは違うであろう。茶道で物を眺めれば、既にじかに見るのとは違う。このことを多くの人々は気付かない。〔…〕「茶」はものをじかに見よと常々教える。「茶」で見よと教えてはいない[59]。
「茶祖の驚くべき業績は、器物に新な歴史を興したことである[60]」とも指摘する柳はここで、茶道の美意識とは一つの制度であり、かつ制度を創設する行為は設立された制度の内部からは見えなくなるという事情を考察している。一度成立した茶道は、その後、例えば「遠州好み」といった美の基準を確立していくだろう[61]。だがその結果、一見無価値のありふれたものに最良の美が見出されるという茶道の起源にある逆説は、「この器は…だから良い」といった「茶道で物を眺める」順接的判断によって忘却されてしまうのである。
これに対し、柳によれば、茶祖たちの見方とは「じかに見る」ことであり、分析や知識、概念や既成の尺度を介在させずに対象に触れる、「直観」であった[62]。それはいわば見るものと見られるものの相即する経験であると同時に、茶祖たちが見たことによって大名物と呼ばれる茶器が生まれたように、「見ることと創ることはここで一枚である[63]」という創造行為でもある。それゆえ柳の茶道批判は、現代の茶道がこうした直観を失い、固定化した因習に堕しているという形で展開する。茶人は、美しい器物を見、それを活かす作法や茶室を生み出した茶祖たちの創造的な直観をこそ反復しなければならない。そこで彼は、現代人の手元にある茶器ならざるものから新たに茶器を自由に取り入れるべきであると説き、またそれに必然的に伴う、現代の生活様式の変化に応じた大胆な茶会の変革を次々と構想した[64]。そして、珈琲での茶会や椅子に座っての茶会といったそれらの奇抜な提案は、「伝統への反逆でも破壊でもなく、真の意味の継承」であり、むしろ「今日の茶人たちは却って茶の正しい継承者ではないと思われてならぬ」とまで主張したのである[65]。
直観の称揚は独りよがりな主観といかに区別しうるのだろうか。柳は作為の不自然さと創造の必然さという区別を立て、直観の自由さとは主観の作為にしばられた単なる思いつきや工夫ではなく、何ものにも滞らぬ「無碍心」であるとする[66]。すなわち、私を離れ、無碍心に入った自由人であることこそ、伝統の生き生きとした継承の条件である。直観、およびその核心とp.36しての無碍心は、過去の死んだ反復でもなく、過去からの暴力的な断絶でもない、常に創造的に変化することで命脈を保つ伝統という概念を可能にするものとして、柳の議論において機能していることになる。
しかし注意しなければならないのは、無碍心という概念が、柳が他の問題を論じる際にもほとんど遍在的に現れることである。たとえば彼によれば、民芸のものの見方とは「立場を絶した自由境」であり、優れた民芸を産む「朝鮮人の物を作る時の心」もまた「自在心」である[67]。言うまでもなく、この理想は仏教から引き出されたものである。阿弥陀の「無有好醜の顔」に彼が見た「不二の美」も、一遍の念仏論に見た「ただ念仏する」という「ただ」の境地も、最晩年に提唱した、あらゆる価値の二元性を超脱する「無対辞文化」も、いずれもがこうした無碍心の理想を核としている。死の前年に執筆された「美とは何か」では、彼は自身の美学の到達点を要約して、「自在心」すなわち「不二心」すなわち「無碍心」がある姿を取って現れるときに、人はそこに美を感じるのだと述べる[68]。民芸品の美に言葉を与えるという柳が生涯を賭したプロジェクトは、こうして仏教的な無碍の理念を要とする一連の議論に行き着いたのである。
松井健のように、柳の晩年の展開について「美と信の問題を〔…〕ひとつの緊密に織り合わされた、宗教と美の「統一理論」にまで編み上げた」と評することはたしかに可能だろう[69]。だがその到達点において、民芸を支える反復と伝統の概念は、いかなる位置を与えられているだろうか。茶道の伝統を論じる柳の身振りにもう一度注目してみよう。そこで柳の視点は、絶えず茶道の固有性ではなく、美や伝統一般へと滑っていくことが観察できる。たとえば彼は、「「茶」も伝統の道の一つであるが、真の伝統は、ただ、反復することではなく、活きたものであるから、おのずから創造を伴うべきであって、これがないと、真に伝統を継承する所以とはならぬ[70]」と述べる。茶道の起源にあるものも、一般に伝統の継承に必要なものも、柳によれば無碍心である。その結果、茶道の継承を考えることは、いつの間にか伝統の継承一般を考えることと等しくなってしまう。無碍心の強調は、かえって個々の伝統の反復や継承の問題そのものを消滅させているように思われるのである。
もちろん、工芸文化の興隆を切望した柳は、伝統のより個別的で具体的な相についても考察を残している。たとえば「伝統の形成」と題された1958年の小文は、デンマークの工芸運動を新しい伝統の創造として引き合いに出しつつ、伝統の発展には意匠家、企業家、製作者、販売者、消費者、批評家といった様々な人々の相互協力が必要であることを、極めて現実的な視点から述べている[71]。ところが茶道論では、道具商や家元は一方的な批判の対象となり、無碍心による改革の必要がくり返し説かれる。そこで個別の論点は常に、直観の重要性という一般論へと回収されてしまう。たしかに直観は、制度化し硬直した伝統を問いただす契機として一般に機能するだろう。だがそれにはまず、いかにして無碍の自由に至り得るかが問題になる。伝統は硬直した慣習の墨守に陥らず、自在で創造的な継承を経るべきだとしても、他方ではそうした自在心を与えるものとしてこそ伝統の価値は語られていたはずである。無碍心という概念は、何か空回りを起こしていると言わざるを得ない。
p.37最後に、問題の端緒は茶祖という起源を持ち出す柳の身振り自体にあることを指摘しておこう。起源に直観を措定し、それを現在において復興することは、言いかえれば時間を飛び越えて起源と一体化することである。こうした身振りが時間からの解脱を意味することを、彼は明確に認識している。
いつも新鮮な「茶」に帰ることが、古に帰る所以である。それゆえ「茶」は日に日に新たな茶でなければならぬ。それは新しさを追うことではなく、時間に囚われぬ永劫の今に活くる意味である。古を尊ぶのは、その古に、いつも新たなものがあるからであって、只、古さに戻るとか、古さを繰返すとかいうことではない。古今を貫く、「今の茶」を体得することに外ならない。「古の茶」は「今の茶」を意味することに於てのみ尊い。このことさえ解れば、「茶」は常に創造のただ中の「茶」となろう[72]。
古に帰ることはすなわち「永劫の今」に帰ることである。過去から現在へという水平的な流れは、「永劫の今」という垂直的な時間の、いわば非連続の連続として把握され直している。「永遠の今の自己限定」という西田幾多郎の思想をも思わせるこの論理は、民芸美学は単なる中世への復古主義であるとの謗りへの反論として、すでに『工芸の道』においても登場するものであり、その限りでは柳の一貫性を示すものでもある[73]。過去をそのまま再現しようとする復古主義を否定し、「「古の茶」は「今の茶」を意味することに於てのみ尊い」という立場へと向かうこと。しかしその中間では、過去が現在へと活かされ、そうした反復が反復されて伝統が形成されていくという反復それ自体の創造的なリアリティ、およびそのプロセスへの参与可能性といった問題が、語り尽くされずに残っていたのではないだろうか。
おわりに
柳の「仏教美学」は、単なる美学の浄土思想化ではなく、むしろ民芸のリアリティとの突き合わせを通じて、浄土思想の説明語彙や論理を拡張する試みでもあった。それを通して彼は、宗学上の議論や神秘主義的経験の論理の外部において、ある風土のうちに住まい、諸々の道具や器具と共に生活を営む人間の、個々の身体から代々の伝統までの様々なレベルにおける無数の反復という歴史的現実それ自体のうちに念仏を認め、また他力的衆生救済の可能性を求めたのである。だがそこで見出された反復の現実性は、無碍の自由というもう一つの仏教的観念の非歴史性、あるいは脱歴史性によって、容易にかき消されてしまう不安定なものでもあった。反復によって人々を支えつつ、硬直することなく絶えず変化していくという逆説を含んだ「伝統」の理想は、仏教的概念によっては取り押さえられず、柳のテクストにおいて問いとして残されたように思われる。
柳自身は物に即して考える、バランス感覚と直観を重視した人であり、自身の著作がこのように抽象的に理論化され、自身の明示的に述べていない結論を引き出されることを嫌ったかもp.38しれない。本稿の試みは、ここでは参照できなかった柳の幅広い仕事と具体的に突き合わせつつ、検討していく必要があるだろう。
参考文献
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───「工藝の協團に關する一提案」同、47-60頁。
───『工藝の道』同、61-282頁。
───『茶の改革』柳宗悦全集第17巻、筑摩書房、1982年、5-146頁。
───「民藝と茶道」同、172-92頁。
───『茶道を想ふ』同、193-208頁。
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───「美の法門」柳宗悦全集第18巻、筑摩書房、1982年、6-26頁。
───「工藝に於ける自力道と他力道」同、30-7頁。
───「自力と他力」同、44-63頁。
───「美の宗教」同、64-76頁。
───「傳統の價値について」同、178-85頁。
───「無謬の道」同、186-99頁。
───「傳統の形成」同、200-03頁。
───『法と美』同、285-333頁。
───『美の浄土』同、237-68頁。
───「美とは何か」同、544-58頁。
───『南無阿弥陀佛』柳宗悦全集第19巻、筑摩書房、1982年、5-200頁。
───『民藝とは何か』講談社学術文庫、2006年。
Notes
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[1]
松井健は、プリミティヴ・アートの世界的な定着や、民芸として扱われる品物の地域的拡大を踏まえつつ、仏教美学の普遍性をより一般的な「宗教美学」の観点から問い直すことを提案している(松井健『民藝の擁護』第6章「民藝の普遍性をめぐって」)。また加藤尚武は、民芸を端的に「自然との根源的な出会い」という普遍性において捉えた上で、こうした工芸のあり方は「特殊な信仰の形態としての他力信仰よりも幅が広く、浄土信仰は失われるかもしれないが、だからといって、柳が民芸のなかに見出した美が失われるとは思えない」と評している(加藤「ハイデガーの技術論と柳宗悦の民芸論」333頁)。本稿も彼らに同意するが、そもそも柳の意図は、仏教的信仰に支えられた民芸を論じることではなく、民芸を語りうるものへと仏教の見方を普遍化することであったように思われる。たとえば彼は、コプトやインカの伝統的な織物の世界をも、品々の「悉皆成仏」する「美の浄土」と呼んでいる(柳「美の浄土」248頁)。ここには、特殊的なもので一般的なものを包摂しようとするという転倒ではなく、むしろ特殊なものとしての仏教的語彙それ自体に介入する実践を見るべきだろう。
-
[2]
スティール「東は西、西は東───反近代主義と民芸の発見」を参照。
-
[3]
柳『工藝の道』82頁。なお、引用文や本文中に言及する書名については、旧字体や旧仮名遣いを、新字体、新仮名遣いに改めた。以下、同じ。
-
[4]
柳『美の法門』6頁。
-
[5]
柳『南無阿弥陀佛』17頁。
-
[6]
ただし正確には、この著作には「序」「趣旨」「因縁」という序論的性格を持つ小文が三つあり、このうち民芸との関わりを説明しているのは「因縁」のみである。
-
[7]
柳『南無阿弥陀佛』29頁。強調は引用者。
-
[8]
中見『柳宗悦』260-1頁。
-
[9]
柳『南無阿弥陀佛』17頁。
-
[10]
柳『南無阿弥陀佛』17頁。
-
[11]
一遍『播州法語集』二十、一遍上人全集155-6頁。
-
[12]
親鸞『教行信証』信巻、親鸞全集第一巻、170頁。ただし柳の読解は、信心に含まれる自力的な主体性を強調しすぎる嫌いがある。たとえばトマス・カスリスは、他力思想の徹底という親鸞の哲学的プログラムが、いかにして信心すなわち法身なりという思想にまで帰結するのかを、親鸞の諸概念を翻訳しつつ関与的に読解している(Kasulis, Engaging Japanese Philosophy, pp.184-208)。
-
[13]
柳『南無阿弥陀佛』156頁。
-
[14]
同、103頁。
-
[15]
同、182頁。
-
[16]
同、182頁。強調は引用者。原文は、「興願僧都、念仏の安心を尋(ね)申されけるに、書(き)てしめしたまふ御返事」一遍上人全集、220-2頁。
-
[17]
梅谷繁樹「解説」一遍上人全集、322-24頁。
-
[18]
唐木順三『無常』263-84頁。
-
[19]
柳『南無阿弥陀佛』29-30頁。
-
[20]
同、126頁。
-
[21]
同、44頁。
-
[22]
同、125頁。
-
[23]
阿満『柳宗悦』99頁。
-
[24]
中見『柳宗悦』48-50頁。
-
[25]
同、94頁。
-
[26]
中見「柳宗悦と鈴木大拙」。また、中見『柳宗悦』254-55頁も参照。
-
[27]
佐藤「柳宗悦と鈴木大拙の分水嶺」を参照。
-
[28]
ただし中見は、柳と鈴木の民衆観の差異の由来として、前者が自力と他力を明確に区別し、他力道を民衆に相応しい易行としたのに対し、後者は他力の困難さや、他力を可能にする自力の不可欠性を認めるといった「重層的」理解をしていたことを簡潔に指摘している(中見「柳宗悦と鈴木大拙」53-4頁)。
-
[29]
鈴木『禪と念佛の心理學的基礎』329頁。
-
[30]
同、345頁。
-
[31]
同、345頁。
-
[32]
同、345頁。
-
[33]
同、236頁。
-
[34]
同、312頁。
-
[35]
同、318頁。強調は原著者。
-
[36]
同、347頁。
-
[37]
同、339頁。
-
[38]
同、345頁。
-
[39]
同、345-6頁。強調は原著者。
-
[40]
同、333頁。
-
[41]
鈴木『日本的霊性』163頁。
-
[42]
同、193-4頁。
-
[43]
柳と鈴木の共通性の全般的整理は、中見『柳宗悦』316頁注6を参照。
-
[44]
『禪の諸問題』(1941年)では、鈴木は称名念仏の理解の深まりは「一遍に至り始めて最も直截簡明に神秘的心理の消息を伝える」と評価している。鈴木の一遍に対する言及は、法然や親鸞、妙好人などと比べてはるかに少ない。しかし末村正代によれば、「鈴木の〔浄土思想〕理解の根底には、1920年代に受容された名号と機法一体によって特徴づけられる一遍の思想が影響していると考えられる」という(末村「鈴木大拙の名号観」120頁)。
-
[45]
柳「工藝に於ける自力道と他力道」36頁。
-
[46]
以下の整理にあたっては、本多「柳宗悦の仏教美学」47-53頁を参考にした。本多は、柳の「自然」には「天然」、および意識の介在しない行為やなめらかな動きという二つの意味があるが、それらの根底には常に、世界を根底から支えている聖なる存在または次元としての自然という第三の意味が忍ばされているとしている。
-
[47]
柳『工藝の道』86-7頁。
-
[48]
同、87頁。
-
[49]
同、86頁。
-
[50]
柳「雑器の美」22頁。
-
[51]
柳『工藝の道』88頁。
-
[52]
柳『工藝の道』115頁。
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[53]
柳『美の法門』19頁。
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[54]
柳『茶の改革』21頁。「民藝と茶道」180頁。
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[55]
柳「茶道を想ふ」204-07頁。なお、茶道と民芸、および仕掛け人としての千利休と柳宗悦を、それぞれの運動の政治経済的背景を含めて比較した議論として、松井健『民藝の擁護』第五章「利休と宗悦、茶と民藝」を参照。
-
[56]
柳『民藝とは何か』52頁。
-
[57]
熊倉「解説 柳宗悦と茶」637-8頁。
-
[58]
柳「民藝と茶道」184頁。
-
[59]
柳「茶道を想ふ」11頁。
-
[60]
同、197頁。
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[61]
柳はとりわけ小堀遠州や遠州好みと言われる品々をくり返し批判したほか、千利休に対してもその評価は留保つきであった。『茶の改革』114-23頁を参照。
-
[62]
柳『茶の改革』14-5頁。
-
[63]
同、14-5頁、「茶道を想ふ」194-5頁。
-
[64]
たとえば柳は、茶室に椅子と机を導入すること、抹茶だけでなく番茶や紅茶、珈琲での茶礼を起こすこと、小座敷より大きな茶室を作ることなどを提案している(『茶の改革』56-7頁)。また民藝館では、大広間で椅子を用いた茶会や、珈琲での茶会を実際に開催している。これらの茶会の形式や使用された道具類の詳細は、水尾『評伝 柳宗悦』386-396頁を参照。
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[65]
柳『茶の改革』57頁。
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[66]
同、70頁。
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[67]
柳『工藝の道』67頁、「無謬の道」188頁。
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[68]
柳「美とは何か」545-46頁。
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[69]
松井『民藝の擁護』58頁。
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[70]
柳『茶の改革』69頁。
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[71]
柳「傳統の形成」201-3頁。
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[72]
柳『茶の改革』70頁。
-
[73]
柳『工藝の道』95頁。
この記事を引用する
上田有輝「反復という称名──柳宗悦の仏教美学における反復と伝統の問題」『Phantastopia』第1号、2022年、23-44ページ、URL : https://phantastopia.com/1/nenbutsu-as-repetition/。(2024年12月12日閲覧)