p.1570. はじめに
本論文は、19世紀末から戦間期における液体結晶(以下、液晶)研究に対する一元論思想の影響を踏まえつつ、あらゆる物質に対する魂の賦与を自然科学からの逸脱にとどまらない一元論的世界観と自然科学の調停の試みとして論じる。
世紀転換期に液晶に関する研究は初めて大きく進展し[1]、特にドイツ人物理学者オットー・レーマン(Otto Lehmann 1855-1922)は液晶の分類と理論化に努めた。だが彼の関心は新たな結晶学の領域の確立にもこの新物質の工業的利用の道筋の開拓にもなく、1906年以降には液晶と生命現象の比較を通じて、鉱物と低次の生命体すなわち無機物と有機物の境界を探る試みに没頭した。液晶の精密な観察と分類から矛盾するようにも響く鉱物生命論への先駆者自身の転向は、液晶史の中心的な争点とは言えないものの[2]、何よりも生物学者エルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel 1834-1919)との関係から捉えられる。レーマンの伝記を記した化学者ハンス・ケルカーと電気工学者ペーター・クノルは、ヘッケルとレーマンの文通等を踏まえつつ、一元論思想の影響下に鉱物と生命体の架橋可能性を示す物質として液晶が注目されたと論じた[3]。同時にレーマンの成果が老ヘッケルに遺作『結晶の魂』(Kristallseelen, 1917)の執筆を促したことは、思想史家佐藤恵子らによって指摘されている[4]。
ただしレーマンが液晶について生きているように見えると留保したのに対し、ヘッケルはそれを有機物と無機物の中間存在の実在的証左とした点に大きな相違がある。化学者デイヴィッド・ダンマーとティム・スラッキンは、前者の慎重さを評価する一方で後者の性急さを疑問視し[5]、またメディア論研究者トマス・ブラントシュテッターは、レーマンは液晶の生命的な現象に生気論に抗う機械論モデルを求めたのに対し、一元論者ヘッケルは液晶を真の生命と結びつけ、その世界観の証拠として用いたと論じた[6]。しかしこれらの研究は、両者の液晶論を一元論的世界観の思弁的傾向とみなしたために、一元論自体からその論理上の帰結として細胞や原子の魂が要請される過程を論じてこなかった。液晶および万物の魂の構想は、自然科学を離れた神秘的な物活論ではなく、20世紀初めの一元論の流行と同時代の進化論と原子論に依拠した機械論的パラダイムとの合一の試みとして捉え直される必要がある。
そのため本論では、まず第一章において世紀転換期の液晶研究を踏まえつつ、レーマンの液晶生命論と一元論思想への接近を示す。続いて第二章ではあらゆる物質への魂の拡張から、自然科学的における原子論と一元論の関係を検討する。ヘッケルの徹底した機械論化は超越的魂を放逐したが、微細な原子への感覚の賦与という還元主義の反転に至った。これに対しレーマp.158ンは科学の方法上の有用性を評価したが、その試みは原子自体の仮説化を伴った。第三章では当時の哲学者のヘッケル批判を踏まえ、原子の魂がいかに一元論の必然的帰結とみなされたか明らかにする。結晶や原子の魂という一見撞着的主張は、老生物学者の実証主義的自然科学から自然哲学への転落にとどまらない、精密科学の時代における精神と物質の統一を目指す一元論の原理上の矛盾の表出であり、この物理主義の徹底による汎心論の招来は今なお繰り返されているのだ。
1. 液晶の生命論──オットー・レーマンと一元論的世界観
物質の三形態──固体、液体、気体──の各状態では、原子や分子が異なった秩序を成す。例えば固体では構成粒子間に規則的秩序が維持されるが、液体では粒子間の結びつきが弱いためにその配置は変動し易く、気体ではより無秩序に粒子が動き回る[7]。しかしこの三相に厳密に分類されない中間的性質を有する物質も存在しており、分子が配向性を保つものの運動可能なために固体と液体の両方の性質を示す液晶はその典型例と言える[8]。だが結晶格子理論はおろか原子の実在さえ未確定な世紀転換期には[9]、液晶研究は多くの混乱に直面することになる。
近代化学史上の液晶研究の躍進は、オーストリアの植物学者フリードリッヒ・ライニッツァー(Friedrich Reinitzer 1857-1927)に始まる。コレステロールの抽出実験に取り組んでいた彼は、1888年に安息香酸コレステリルに二重の融点と発色現象を観察した[10]。その解明を委ねられたレーマンは、結晶化顕微鏡(Kristallisations-Mikroskop)あるいは熱顕微鏡(Heiz-Mikroskope)と呼ばれる偏向器や加熱装置を備えた特製の顕微鏡を用いて試料を観察し、濁った液体が光学的異方性を持つことを発見した。
液晶は、レーマン自身が論文「流れる結晶について」(„Über fliessende Kristalle,“ 1889)の冒頭で「流れる結晶!それ自体矛盾ではないのか[11]」と述べた通り、既存の物質の三形態の概念を揺さぶる発見であった。そこで彼は原子の実在と結晶の格子構造を前提に、液体でありながら結晶の特性を持つ物質の観察と分類を進め[12]、1904年に『液体結晶と一般的な分子転位及び凝集状態変化における結晶の可塑性』(Flüssige Kristalle sowie Plastizität von Kristallen im allgemeinen, molekulare Umlagerungen und Aggregatzustandsänderungen)を刊行した[13]。この多くの図版を含む大著は前期レーマンの集大成であり、当時確認されていた様々な液晶物質を包括的にまとめ上げ顕微鏡観察の結果を精密に描写した点において、大きな先駆的な意義を有した。
しかしレーマンは、1906年に開催された第78回ドイツ自然研究者医者会議における講演「液晶と生命論[14]」(„Flüssige Kristalle und Theorien des Lebens“)を契機に、結晶学の領域を離れていく。彼は鉱物と生物の関係について、ヘッケルの影響を通じて「既に1872年から取り組んでいた[15]」と述懐するが、この問題を積極的に論じ始めたのは会議以降であり、ケルカーは「この発表が、レーマンの科学人生における転換点であった[16]」と指摘する。以後レーマンは液晶と生命の関係を巡る思弁的論述に傾倒し、翌年には流体結晶という矛盾さえ越え、生命と鉱物を結びつける扇動的な題名を持つ科学入門書『生きているように見える結晶』(Die scheinbar p.159lebenden Kristalle, 1907)を刊行した。
レーマン自身の言葉から、彼の生命論を辿ってみよう。この書物でレーマンは、自身と架空の化学者ミュラー(Müller)、結晶学者シュルツェ(Schulze)の対話形式により、液晶研究の成果のみならず生命論を解説した。冒頭ではミュラーとシュルツェの会話から、化学の常識に反するとして液晶に対する懐疑が表明されるが、そこでレーマンは、ミュラーを通じて詩人・自然研究者ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann wolfgang von Goethe 1749-1832)とヘッケルの著作を挙げる[17]。いささか唐突な『ファウスト』第二部(Faust: der Tragödie zweiter Teil, 1932)への言及は、ドイツの文化的伝統とゲーテを敬愛したヘッケルへの接近をうかがわせるものの、この参照は後にレーマン自身が「ゲーテは結晶と生物の親近性の仮定を、『ファウスト』第二部におけるホムンクルスの結晶化を取り入れることで嘲弄した[18]」と記しているように、必ずしも好意的なものではない。ゲーテが揶揄した鉱物からの生命誕生の可能性は、有機物と無機物の二元論を否定するヘッケルの一元論的世界観に従い、文学ではなく科学において再構築されねばならない。そこで液晶の示す生命的振る舞いは、鉱物にも特異な生命力を認める空想ではなく、有機体の生命現象に対する機械的法則の支配の証拠となる。
液晶と有機体の関係は、主に『生きているように見える結晶』の終盤の対話において論じられる。溶液内の液晶相の様々な形状や挙動を自己分裂や運動等の生物的現象と比較するレーマンに、液晶を最低次の生物とみなすのかとミュラーは問う。これに対し彼はヘッケルに言及しつつ、生命現象の心身二元論的理解自体を批判する。例えばミミズを切断した場合には魂は分割され、あるいは接ぎ木では、異種の魂が混合するのだろうか[19]。レーマンは物質と魂あるいは鉱物と生物という二元論的分類自体を否定し、原子に依拠した統一的説明に向かう。
もっともレーマンは原子の実在を肯定するが、素朴な唯物主義者でない。というのも第一に、彼は「原子は、私たち自身の自我の鏡像に過ぎない[20]」が、それが無ければ「無限に多くの新たな言葉を考え出さねばならないでしょう[21]」として、思惟経済の下に原子論を支持するからだ。そしてレーマンの特殊性は第二に、「いわば物体が原子からなるかのように(a l s o b)自然現象が進行すると限定することで、幻想の赴くままこのごく小さな不可視の霊(Dämonen)のもとに、一種の最低次の生命を思い描くことが許されるのです[22]」として、魂なき物質とされる原子に生命を認める点にある。
ここでレーマンは、文字通りに物質が生きていると主張したのではない。反対に彼は、「あらゆる物質は生きている[…]というヘッケルの一元論的理解[23]」──成長や生殖、意識といった生物に特異的とされる諸現象が物理・化学的反応から生じる以上、無機物における同様の現象も低次の生命作用と言えるのではないかという主張──に依拠する。確かに個々の原子に意識的な生命現象を確認することはできないが、ガルヴァーニ電流による筋肉の収縮や、切断された心筋の食塩水内での拍動の継続が示すように、そもそも意識の有無と刺激に対する反応の有無は同一ではない[24]。生命現象は物質に依拠し、それらの多くは有機体から切り離されても持続しうる化学反応なのだ。もし生物の成長が魂ではなく原子から説明できるのであれば、反対に同様のメカニズムに従う液晶の成長的現象は、その魂の析出といえるのではないか。佐藤p.160は、ヘッケルの魂について以下のように述べる。
ゼーレといえば、人間の感情(感覚)、意思、思考など、高度に発達した中枢神経系の機能がもたらす現象(心的作用や心的現象ともいえる)を想定していた。だが進化の階段を下れば、下等な動物、植物、単細胞生物にまでその由来を探ることができる。つまり、究極的には、細胞を構成する無機物から成る原形質(プラズマ)の物理・化学的な性質にその原因があるとされる。そのため細胞にもゼーレがあるという表現も用いられる。[…]まさに非物質的で超自然的な「生命力」と捉えられかねないこの概念を、ヘッケルは一元論的に、つまり物理化学的に説明可能な自然物として位置づけようとしたのである[25]。
ヘッケルの一元論思想は、有機物と無機物の質的な相違を元より否定し生命現象の機械的解明を試みたために、反対に植物や結晶に見られる現象にも魂という表現を用いた。もちろん、類似した現象が観察されることと、それが共通の原理に従っていることは同一ではない。レーマン自身、ヘッケルの死後においてさえ鉱物と生物における現象の同一性の解明は将来の生理学の可能性と留保した[26]。だが彼は、その主張の大胆さでヘッケルと相違はあったものの、生命現象を物理・化学的法則に基づいて機械的に説明する科学観を共有しており、液晶と生命の連続性は一元論に従った科学的前提であった。彼は、液晶研究の一元論的意義について次のように述べる。
一元論の支持者は満足気に宣言するでしょう、私たちは結晶と生物の間の橋が必ず発見されるに違いないと予言し、そして新発見が我らの理論の輝かしい証明となるのだ、と。二元論の支持者は反対しないでしょう。というのも結晶と液晶の間には連続的な移行があることは、問題の物は本当の生命ではなく、見かけ上の生命を有するにすぎないと示すからです。液晶は私たちの理論の正しさの素晴らしい証拠です。というのもそれにより、これまで生命現象として理解されてきた多くのことが、純粋に物理的化学的働きに基づくことが示されるからです[27]。
生きているように見える結晶というレーマンの撞着的書名は自然哲学的な印象をもたらすが、むしろ彼は液晶を通じて、有機体の諸現象が無機物と同一の物理・化学的法則に従うことを唱えた。加えて彼は、「生きているように見える(scheinbar lebend)」と強調することで、液晶の生命論は依然として表面上の類推から導かれていることを明示した。しかし一元論は、その一致の背後に根源的な統一性を要請する。生物と結晶の諸反応が真に同一の原理に従う現象ならば、あらゆる生命的現象が機械的であるのと同時に、鉱物の振る舞いは低次であれ本物の生命現象として把握されねばならないのではないか。魂を物質に縛り付ける故に、物質に魂を認めねばならない。この一元論の緊張は、液晶のみならず細胞や原子の魂としてより大胆に展開されることになる。
p.1612. 自然科学における一元論の(不)徹底──原子の魂と「かのように」の哲学
2.1. ヘッケルの『結晶の魂』における万物の魂
前節ではレーマンに対するヘッケルの影響を示したが、その影響は一方向的ではなく、両者は相互参照を通じて科学的正統性と一元論思想の保証を試みた[28]。そして液晶研究と一元論の邂逅は、ヘッケルにも「悪名高い[29]」遺作をもたらした。
最晩年のヘッケルの通俗科学書『結晶の魂』には、その書名が示す通りレーマンの液晶研究の成果がふんだんに取り込まれた[30]。『結晶の魂』も、『ファウスト』第二部におけるホムンクルスの創造を冒頭に掲げるが、これは詩人への皮肉ではない。ヘッケルの理解では、ゲーテの考えは彼の一元論的世界観と矛盾するものではなく、むしろその卓越した自然観察と詩的な想像力による成果を科学的に証明し直すことが課題となる。ヘッケルの一元論においては結晶と生物の相違は初めから存在せず、ブラントシュテッターが「レーマンの結晶のエルンスト・ヘッケルによる横領は、視覚化により生起した生命性の印象が、生物のモデルではなく真の生きた実在としての結晶の認識にいかに到達したかを示す[31]」と述べたように、もはやように見えることは問題とされなくなる。
先述の通りヘッケルは、結晶にも特別な生命力を認めたのではなく、反対に無機物も有機物も物理・化学的法則に従うと主張した。鉱物にも生物にも同様の現象が確認され、それらは同一の原理に支配される以上、どちらも生きているのだ。ヘッケルは『結晶の魂』の第一章「クリスタロティーク(Kristallotik)」において、レーマンの研究を数多参照したうえで、結晶の生命について次のようにまとめる。
Ⅰ. あらゆる結晶は、確固とした固体結晶(Sterrokristalle)も流体的な液体結晶(Rheokristalle)も、成長し発達する限りにおいて、生きている(l e b e n d i g)[…]Ⅱ. 分子の運動(B e w e g u n g)と、それと結びついた結晶化する物質の感覚(F ü h l u n g)は、以前は目的論的「生命力」を認められた最低次の生物の「生命現象」と原理上は違いがない。Ⅲ. あらゆる(広義の)無機的および有機的「生命行動」は、物理学および化学の根本的な法則に、遂には一元論的実体法則に、還元することができる[32]。
確かにヘッケルのあらゆる現象に物理・化学的法則の有効性を強調する姿勢は、当時の機械論的生物学の潮流に適合しており、また観察される運動への着目は、同時代の実証主義的な行動科学の興隆とも重なり合う。だが彼の一元論は、有機物と無機物の間の表面上の類似に留まらない実体上の同一性を前提としており、更にその究極因を原子そのものに組み込むために、還元主義的生理学からも観測可能な現象のみを扱う行動科学からも離反する。結晶の形状変化と生命体の成長が同一の原理から生じる以上、結晶は成長する──すなわち結晶は魂を有する──という主張は、その見かけの一致に対する修辞的技巧にとどまらず[33]、原因自体の内在化による感情や意識の還元主義的研究の反転から生じるのだ。
p.162ヘッケルは原子の魂を、物質自体の感覚から説明する。彼は無機物と有機体の相違を否定するために、結晶の生命的現象と並び、生物の特殊な形態の出現や成長現象が結晶といかに類似しているかを例示する。放散虫は単細胞生物とはいえ生命体であることは確かであるが、ではその特異的な形態はどのように誕生するのか。彼はこれを、細胞自体の「平衡感覚(G l e i c h h e i t s g e f ü h l)[34]」や「造形的距離感覚(das p l a s t i s c h e D i s t a n z g e f ü h l )[35]」に帰する。感覚とそれに応じた反応はヒトやサルのような高次の生物のみの特質ではなく、単細胞生物においては物質に内在する感覚に従って幾何学的構造が形成されるのだ。ヘッケルにとっては美的な形態こそが「放散虫の細胞魂(die Z e l l s e e l e d e r S t r a h l i n g e)[36]」の働きの表出であった。科学史家のオラフ・ブライトバッハは「ヘッケルの魂の定義においては、放散虫骨格の対称性はその魂の証明書[37]」として、以下のように述べる。
1917年に、精神(Geist)とはヘッケルにとって感受と運動(Rezeption und Bewegung)であった。彼は、さらに魂(die Seele)でもあるこの精神の質を、記述可能な反応としてのみ捉えた。例えば感受性や他の物への反応、運動を示すものは全て[…]生きていた(beseelt)。物質は常に動いており、その運動において絶えず何かに反応中であるという事実は、ヘッケルによれば本質の全魂性(die Allbeseeltheit des Naturalen)を示している[38]。
ヘッケルの世界観では、物質は運動する限り生きており、そして運動をもたらす感覚は物質自体に宿る。確かに細胞あるいは原子自体に感覚を賦与すれば、放散虫や結晶の対称的かつ規則的形成は、外部から生命力や神霊を導入することなく、その要素から機械的に導くことができる。彼は運動と感覚を実体の二つの属性とし、運動に関する学問が力学(Mechanik)ならば物質の感覚の学問はプシヒョマティーク(Psychomatik)であると定め[39]、「ここで私たちの意味のプシヒョマティークのみが、万物の『魂化』(Beseelung)の認識が[…]『実体』の本質について真の洞察を拓く[40]」として、数量化される力の根源的な原因について、次のように述べる。
確かに化学は何よりも秤によって、無数の結合を成す原子と分子の重さを数的に確定するに違いない。ところがその結合の原因については、化学親和力については、プシヒョマティーク的な解釈でのみ説明される。接触時の快不快の感覚(Das Gefühl von Lust oder Unlust)、「元素の愛と憎しみ」(エンペドクレス)が、原子と分子の運動を直接的に引き起こす、真の究極の原因である[41]。
ヘッケルは、自然科学において数量化される様々な力の究極的な動因を解き明かすプシヒョマティークを提起した。確かに自然科学においては根源的な原因の解明は保留される場合があり、例えば物理学者アイザック・ニュートン(Isaac Newton 1642-1727)は、重力の諸法則を導き古典力学に決定的な成果をもたらしたものの、その起源自体を解明したのではない。彼にとp.163って重要なのは、重力の根本的な原因や本質ではなく、その作用を普遍的な数式として記述することであった。科学のこのような不完全性に対するヘッケルの不満足自体は、必ずしも不当ではないだろう。しかし化学親和力のそもそもの原因を物質や原子の快不快の感覚に帰す主張は、根本原因への執着というよりは、ほとんど同語反復である。愛憎等の感情について神経への刺激やホルモンの数量的変化に依拠した説明を試みた実証主義的生物学が、原子の水準において反転し、感覚を所与のものとして内在化しているのだ。物質そのものに感覚を認めることで、原子から高次の生命体に至る引力と斥力を機械的かつ統一的に説明できる可能性が提供されるとしても、ヘッケルの「結晶も有機物も、あらゆるものが生きているのだ[42]」とする万物の魂の思想は、因果論と機械論への固執から生じたとしても極めて思弁的な解法であった。
2.2. 一元論的世界観から「かのように」の哲学へ──レーマンによる原子の仮説化
ヘッケルの万物への魂の賦与は必ずしも彼個人の異端の学説ではなく、スイスの心理学者アウグスト・フォレル(August Forel 1848-1931)も次のように述べている。
一言でいえば、 「物理的もの」なき「精神的もの」(„Psychisches“ ohne „Physisches“)は存在しない。もし私たちが「非-わたし」(„Nicht-ich“)を内観できるのであったら、同じく「精神的もの」なき「物理的もの」も存在しないということを必ずや気がついたあろう。その形而上学的一元論はさらに、エネルギーなき物質も物質なきエネルギーも存在しないように、「魂なきもの」(„Unbeseeltes“)はこの世界には決して存在しない、と主張するのだ[43]。
だがフォレルも形而上学的と留保したように、それが一元論の帰結であるとしても、精密科学においては原子の魂のような主張は許容され難い。そのためレーマンは、ヘッケルの死の翌年に公表した論文「分子物理学のなかの『かのように』」(„Das „Als-Ob“ in Molekularphysik,“ 1919)において、哲学者ハンス・ファイヒンガー(Hans Vaihinger 1852-1933)のかのようにの哲学を参照することで、科学の機能の再検討を試みた。
『生きているように見える結晶』において思惟経済的に原子論を支持したレーマンは、ヘッケルを念頭に物質の諸法則に従わない魂を想定する二元論を採らないのであれば、「あらゆる物質に、すなわち原子にさえ魂を認めるしかない[44]」と述べる。もちろんこれでも原子の本質には未解決な点が残り、それ以上還元不可能な最小の単位が何か、という問いは明かされていない。しかしレーマンは、ここで究極の原因や実体の解明に固執せず、「自然現象の本質に対する問いは認められない[45]」としてその探究を断念してしまう。
ここで重要なのは、科学の限界を容認することで却って方法上の価値を強調することである。原子論の意義は、原子の実在の証明よりも、それによって結晶学を含む自然科学の諸分野において数多の説明が可能になることにある。レーマンは原子論やヘッケルの思想を明確に否定していないが、それらを一種の「喩え話(Gleichnis)[46]」とみなす。実体の正体は究極的には未解明に留まるのだ。だが彼は原子の存在をかのようにの哲学から肯定することで、その基礎に虚p.164構性を認めつつも科学の実用上の益を得る。
私たちが自身の自我の性質に従って生きている存在(beseelte Wesen)とみなす原子によって引き起こされたかのように自然現象が経過する、と唱える策は、大抵は困難を乗り越えるのに役立つばかりか、一元論的、二元論的学説あるいはどの教義を受け入れるかについて、完全な自由を認めるのだ[47]。
レーマンは原子の実在を──また原子の魂を──実験的実証ではなく、かのようにの哲学から肯定した。ブラントシュテッターは、「真実の正誤からではなく虚構の有用性、すなわちそれ自体矛盾しているが成功する操作を可能とする『意図的に誤った表象』(≫bewußtfalschen Vorstellungen≪)に左右される、やり方としての科学[48]」がかのようにの哲学により示されたと指摘する。彼はヘッケルに反旗を翻したわけではないとしても、一元論的確信に依拠した実体の探究を徹底せず、原子の存在とそこに宿る感覚の説明上の便益を正当化するにとどまった。全現象の機械論的説明を目指したヘッケルが、究極的な実在と因果関係の探究に囚われ、根源的な物質そのものに感覚を賦与し実証的生物学を反転させたのに対し、レーマンは実体の根底にかのようにの哲学を差し込むことで、自然科学を道具的有用性から捉え直したのだ。
それでもレーマンは、原子の魂による説明そのものの無効を訴えてはいない。確かに生命体と万物の魂の同一視に対する彼の反応は、ヘッケルの大胆さからの距離を示している。液晶を有機物と無機物の間の失われた環の実証的証拠とし、この生きているように見える結晶からその系統を遡り原子の魂を導くヘッケルの世界観は、精密科学にとってはあまりに突飛であった。だが彼は、原子に魂を認めることの有用性自体は否定していない。むしろレーマンは、かのようにの哲学により原子の実在自体を仮定化し、原子論とその物質面に並行する魂を仮説の水準で等置することで、二元論の否定が原子の魂に到達する論理を保持したのだ。
3. 原子の魂の必然性
3.1. 一元論の帰結──アディッケスのヘッケル批判と評価
これまでは一元論的世界観に傾倒した自然科学者による原子に魂が宿るとする奇妙な主張を検討してきたが、いかなる論理において一元論は原子の魂を導くのか明らかにするために、本節では同時期の哲学者らによる一元論に関する議論に目を向けたい。
まずは同時代の哲学者エーリッヒ・アディッケス(Erich Adickes 1866-1928)による『カント対ヘッケル』(Kant contra Haeckel, 1901)から、物質と精神の並行を唱える一元論が、物質の還元主義的分析に伴い精神自体の原子論化に直面し、原理上の帰結として万物の魂を導く過程を確認しよう。彼は、ヘッケルは一元論を唱えたが実際には物質から精神の説明を試みた唯物論者とみなし、引力や親和力の究極因における精密科学の反転を以下のように批判する。
p.165いまや問題なのは運動をもたらす動く物質と力だけではない。それと並び、今は内的状態、心理的要素(p s y c h i s c h e E l e m e n t e)がある。たしかにそれらは物質と結びついてはいるが、量的に決定可能な運動および静止状態とは全く異なる。唯物主義的なヘッケルが後者から導こうとしたものが、ここでは第一のものとして、根源的に、物質と同時に所与のものとして登場しているのだ[49]。
確かにヘッケルの説明は、心理的現象を説明するための物質に対する心的性質の賦与に陥っており、これでは実際には何も解明されていない。しかしアディッケスは、「ヘッケルが全魂化(Allbeseelung)の思想を真面目に考えていたならば、彼は、不当にもそうであると主張していた、現代のスピノザ主義者になっていたかもしれない[50]」と、原子の魂を老機械論者の錯誤や矛盾ではなく、むしろ一元論の正嫡とみなす。
なぜ万物の魂が招来されるのか。アディッケスは正統な一元論として並行説を採用し、物質と精神は分裂した二つの存在ではなく同一の実体の二面であるとする。精神物理学者グスタフ・フェヒナー(Gustav Fechner 1801-1887)の比喩を用いれば、円弧は外側から見れば凹面であるが内側からは凸面であり、人間には常に実体の一面のみが表れる[51]。そのため実体の本質は不可知であり、また全く異質な属性である物質から精神を説明することも不可能である[52]。だがアディッケスは、一元論的実体の追究を断念しても、その二属性である物質と精神の研究の不可能を唱えたのではない。そして並行説においては、両者の直接的な相互関係は否定されるが、物質あるところ常に精神も存在するため、物質が分子や元素に還元される限り、精神も同様に原子論的遡行を余儀なくされる。
そして、物体界において複雑なものが簡単なものから構築されることが、精神界においても当てはまるだろうことが想定される。[…]心理的なものの元素(Elementen des Psychschen)が本当に存在するのか否か、誰も確かに知ることはできない。[…]その存在を認めることで少なくとも意識現象の原理的な説明可能性をもたらすか、あるいは、あらゆる推論と説明を諦め個々の意識過程に関し相互作用説を認めるかである。だが、すると亀裂が宇宙を貫き、二つの分かれた世界に分離してしまう[53]。
ヘッケルの『結晶の魂』は、自然科学の数量化と客観化の潮流の中では、自然哲学への頽落であった。しかし物的一元論でも精神と物質の相互作用説でもなく並行説を採る場合には、物理現象に対応する精神現象が存在しなければならない。自然科学の発展、すなわち複雑な有機体の分子や原子への還元と進化論による無機物からの高等生命体の発生が立証される場合、その物質に並行する精神の還元と進化が理論上は要請されるのだ。そのためアディッケスは、一元論者には「ただ一つの救済、全魂化(die Allbeseelung)[54]」があると訴えた。結晶や細胞、原子の魂は、一元論という前提と物体の自然科学的説明から導出される、物質と精神の相補性の帰結であった。
p.1663.2. 物理的原子論から心理的原子論へ
万物の魂の構想は、実証的精密科学からの逸脱ではあるが、同時に自然科学の成果を取り込んだ一元論の論理上の要請であった。独文学者モニカ・フィックは世紀転換期の一元論について、「端緒より並行仮説は、『唯物主義的』自然科学と精神の要請の間の妥協を可能とし、その点で時代の中心的な欲求に対応した。両者を和解させようという努力が一元論を造り、これが決定的な点において並行論的な見方と表現方法を取り込んだ[55]」と指摘する。一元論が万物への魂の賦与に至る過程を、同時期に心身問題を広範に整理した哲学者ルートヴィッヒ・ブッセ(Ludwig Busse 1862-1907)の『精神と肉体、魂と身体』(Geist und Körper, Seele und Leib, 1903)から再度検討したい。ブッセは、物質と精神の並行説と全魂説の連関について以下のように述べる。
神経及び脳の変化をそれと結びついた心理現象の確かな原因と認めず、また心理現象を全く原因もなく無から生じるとみなさないならば、それを他の先行し原因となる心理的過程と結びつけるよりない[…]。またこの過程も、そこから同じことが通用する心理的原因を有していなければならない。そのため並行論的考えの帰結は必然的に、あらゆる物質過程に例外なく心理的内面を想定し、また精神的存在が全自然を貫いて間断なく結びつくことに向かう。全魂説(die Theorie der Allbeseelung)はそのような、それ無しでは精神物理学的並行説が考えられず、それにより並行説が成立し、崩壊する理論なのだ。[56]
物理現象からの心理現象の説明が否定される以上、心理自体もその起源に向かい途方もない系統を辿ることを余儀なくされ、結果として微小な精神の源に至る。ブッセは「全魂化を並行説の帰結とみなし、そのために普遍的並行説(den universallen Parallelismus)を支持する[57]」学者の一人にアディッケスを挙げ、またヘッケルも同様の説を唱えたとする[58]。しかし彼はその立場の不可能性も説く。というのも、精神と物質の二面を持つような実体の本質は理解できないままであり、「実在論的一元論的並行論は、実際には二元論に嵌ったままである[59]」からだ。これを回避するため上位の実体を排して肉体と精神の同一を主張することもできるが、フェヒナーの弧の例であればいかに薄い幅の線であろうとも凹凸の二面を有しておりそれらは同一ではない以上これも成立しない。もし両者の同一性を強弁すれば、それは精神とは物質の運動であると主張する唯物主義とおよそ等しい[60]。そのため実在論的一元論的並行論は、「一元論的ではない、一元論と二元論の不可能な結合を示している[61]」として、退けられねばならない。
だがこの原理的不可能性よりも全魂説と自然科学の関係において重要なのは、ブッセが「精神物理学的並行論の徹底は、多元的かつ機械的心理学(eine pluralistische und mechanistische Psychologie)をもたらす[62]」と指摘したことである。機械論的自然科学は、物質を物理化学的に還元して説明することを目指し、例えば結晶を原子や分子の規則的な配列、生物を無数の分子の集合体と捉えた。そのため並行論者が物質的原子論を認めつつ、同時に精神的なものは物質的なものと不可分であり両者が並行すると主張する場合、精神も同様のモデルに従わねばならなp.167い。ブッセは魂が不可分な統一体ではなく、何らかの精神素の凝集とみなされることについて、以下のように述べる。
魂が、外的な観察においては肉体として現れる実在の内面であるならば、それは肉体の基礎特性を反復せねばならない。魂さえ、実体的統一体や不可分な統一的存在ではなく、多量の心理的な原成分、構成されたもの、「プシヒョーム(P s y c h o m e n)」ないし「プシヒョーゼ(P s y c h o s e n)」の集合体でなければならない。心理的な原子論(Eine psychische Atomistik)が、物理的な領域にある原子論と並ぶ。肉体的な生命現象が物質的な原成分の相互作用から生じるように、精神的な生命の現象も、プシヒョームの、感覚と表象と感情の合法則的な結合と絡み合いから生じる。統一的かつ実質的本質ではなく、あらゆる魂的状態の総体が、いわゆる魂なのだ。この多元的な心理学(diese pluralelistische Seelenlehre)は、並行論の不可避的結論である[63]。
ここにヘッケルのプシヒョマティークの、魂の学と同時に部分の学としての特性が示される[64]。彼の万物の魂の構想は、奇異に映る物質自体への感覚の内在化にもかかわらず、機械論的自然科学の成果に従う物質の部分化と不可分であった[65]。精神と物質の相補性を前提とする一元論という出発点は、原子や分子の凝集が結晶となるように、人間の高次の精神作用を原子自体の感覚に起因する引力と斥力の集合的表出として説明する可能性を拓いた。もはや精神の不可分な統一性は存在せず、人間の肉体が無数の細胞の集合であるように、その精神は無数の精神素の集合なのだ。心理学の原子論化の基礎となるべき原子の魂あるいは魂の原子は、その見かけ上の逸脱性にもかかわらず、自然科学の成果に従う全領域の徹底的な機械論化の試みの一元論的産物であった。
4. むすびに
一元論的世界観を奉じた自然科学者達は、科学法則に従わない超越的な存在や力を否定しつつ物質と精神の関係の解明を試み、液晶や原子の魂という相反するように見える主張に至った。ヘッケルは無機物と有機物の境を否定し魂を無機物にも用いたが、これは修辞的反転にとどまらず、原子への感覚の賦与において還元主義的科学の方向性の逆転を伴った。レーマンは科学の重心を究極的実体の探究から方法論的有効性に移すことでその重要性を評価したが、原子の実在自体さえ仮説化することで原子の魂による説明の可能性を保った。彼らの原子の魂および心理の原子論化の主張は単なる自然哲学への転落ではなく、原子論と進化論という自然科学の成果に基づいて、一元論をより広範な領域を包み込む世界観として構築し直す試みであった。
確かにヘッケルやレーマンの構想は20世紀初めにおいても過度に思弁的であったが、自然科学の進展に伴う論理上の帰結としての万物の魂の要請は、現代でも未だに否定されていない。21世紀の初めから英米圏の哲学を中心に、物理主義を乗り越える可能性として「汎心論の時なp.168らぬ復興[66]」が生じており、哲学者ゲイレン・ストローソンはもはや生命の無機物からの創発は疑い得ないとしつつも[67]、「真の物理主義者は少なくとも微心論(mycropsychism)を支持しなければならない。あらゆる具体的なものは物理的で、あらゆる物理的なものは物理的究極から成り、また経験が具体的実在の一部ならば、微心論は『最良の説明への推論』というよりは、唯一の合理的立場であるようだ[68]」と説く。跳躍を否定する以上生命は物的にも心的にも無機物と連続し、精密科学が物質的素材を解明するほどに、精神も原子論的素材化を余儀なくされるのだ。
液晶の生命論は、世紀転換期の液晶研究を土台に、無機物と同様の法則から生命現象を説明する機械論的生物学の鋭鋒として煽情的に展開された。しかし実証主義的自然科学における物質なき精神の否定は、同時に一元論の不可避的推論としての精神なき物質の否定から、万物への魂の賦与と魂の原子論化を引き起こす。原子の魂という撞着的主張は、超越的存在の否定や原子論といった自然科学的枠組を維持しつつ、精神と物質の相補性を理論化する苦闘の結晶であった。
Notes
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[1]
液晶の歴史については、以下を参照。田中芳雄、米谷芳枝「液晶 研究と応用の歴史」『有機合成化学協会誌』38.10 (1980): 986-997. Peter J. Collings. Liquid Crystals: Nature’s Delicate Phase of Matter. (Bristol: Adam Hilger, 1990). デイヴィッド・ダンマー、ティム・スラッキン『液晶の歴史』鳥山和久訳、朝日新聞出版、2011年。
-
[2]
Thomas Geelhaar, Klaus Griesar, and Bernd Reckmann. “125 Years of Liquid Crystals: a Scientific Revolution in the Home.” Angewandte Chemie International Edition 52.34 (2013): 8798-8809. Michel Mitov. “Liquid‐Crystal Science from 1888 to 1922: Building a Revolution.” ChemPhysChem 15.7 (2014): 1245-1250.
-
[3]
Peter M. Knoll und Hans Kelker. Otto Lehmann: Erforscher der flüssigen Kristalle: eine Biographie mit Briefen an Otto Lehmann. (Ettlingen: Knoll und Frankfurt: Kelker, 1988), S. 96-104.
-
[4]
佐藤恵子『ヘッケルと進化論の夢――一元論、エコロジー、系統樹』工作舎、2015年、358-373頁。福元圭太『賦霊の自然哲学――フェヒナー、ヘッケル、ドリーシュ』九州大学出版会、2020年、292-297頁。
-
[5]
ダンマー、スラッキン、215-224頁。
-
[6]
Thomas Brandstetter. “Lebhafte Kristalle: Zur Funktion von Bildern im Vitalismusstreit um 1900.” Rheinsprung 11 Zeitschrift für Bildkritik 2 (2011): 112-129.
-
[7]
池田龍一「固体と液体の中間相──概説」『化学と教育』64.5 (2016)、212頁。
-
[8]
Collings, pp. 8-9.
-
[9]
物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマン(Ludwig Boltzmann 1844-1906)とエルンスト・マッハ(Ernst Mach 1838-1916)による原子の実在を巡る激論は、前者の自殺にさえ至ったが、1905年には物理学者アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein 1879-1955)がブラウン運動から原子の存在を示し、物理学者マックス・フォン・ラウエ(Max von Laue 1879-1960)は1912年にX線回折により結晶構造を確認した。
-
[10]
Friedrich Reinitzer. “Beiträge zur Kenntniss des Cholesterins.” Monatshefte für Chemie 9 (1888): 421-441.
-
[11]
Otto Lehmann. “Über fliessende Krystalle.” Zeitschrift für Physikalische Chemie 4. 1 (1889), S. 462.
-
[12]
ダンマー、スラッキン、48-50, 54-55頁。
-
[13]
Otto Lehmann. Flüssige Kristalle: sowie Plastizität von Kristallen im allgemeinen, molekulare Umlagerungen und Aggregatzustandsänderungen. (Leipzig: W. Engelmann, 1904).
-
[14]
Otto Lehmann. Flüssige Kristalle und die Theorien des Lebens. (Leipzig: J. A. Barth, 1908).
-
[15]
Otto Lehmann. “Das „Als-Ob“ in Molekularphysik.” Annalen der Philosophie 1.1 (1919), S. 204. 以下AOと略記。
-
[16]
Hans Kelker. “Survey of the Early History of Liquid Crystals.” Molecular Crystals and Liquid Crystals 165.1 (1988), p. 38.
-
[17]
Otto Lehmann. Die scheinbar lebenden Kristalle: Anleitung zur Demonstration ihrer Eigenschaften sowie ihrer Beziehungen zu anderen flüssigen und zu den festen Kristallen in Form eines Dreigesprächs. (Esslingen und München: J. F. Schreiber 1907), S. 2. 以下slKと略記。
-
[18]
Otto Lehmann. Flüssige Kristalle und ihr scheinbares Leben. (Leipzig: Leopold Voss, 1921), S. 10.
-
[19]
slK, S. 58-60.
-
[20]
slK, S. 61.
-
[21]
slK, S. 62.
-
[22]
slK, S. 62. 強調原文。本論では原文の分かち書きを太字とし、別途注釈の無い場合、以下強調原文とのみ記す。
-
[23]
slK, S. 62. 強調原文。
-
[24]
AO, S. 226.
-
[25]
佐藤、252頁。
-
[26]
Lehmann, Flüssige Kristalle und ihr scheinbares Leben, S. 68.
-
[27]
slK, S. 64.
-
[28]
Knoll und Kelker, S. 99-103.
-
[29]
Kelker, p. 6.
-
[30]
佐藤、366-369頁。
-
[31]
Brandstetter, S. 114.
-
[32]
Ernst Haeckel. Kristallseelen: Studien über das anorganische Leben. (Leipzig: Alfred Kroner Verlag, 1917), S. 38. 強調原文。以下KSと略記。
-
[33]
佐藤は、「あえて新旧の用法をもつ不思議系の言葉を入れて大衆の関心を誘うというヘッケル独特のアピール精神」を認める。佐藤、377-378頁。
-
[34]
KS, S. 63. 強調原文。
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[35]
KS, S. 76. 強調原文。
-
[36]
KS, S. 61. 強調原文。
-
[37]
Olaf Breidbach. Anschauliche Naturforschungen: Bemerkungen zu Ernst Haeckels Studien über die Kristallseelen. In: Christiane Stahl und Alfred-Ehrhardt-Stiftung (Hg.) Lebendiger Kristall: Die Kristallefotografie der Neuen Sachlichkeit zwischen Ästhetik, Weltanschauung und Wissenschaft. (Ostfildern-Ruit: Hatje Cantz Verlag, 2004), S, 32.
-
[38]
Ibid., S. 28.
-
[39]
KS, S. 92.
-
[40]
S, 94.
-
[41]
KS, S, 94.
-
[42]
KS, S. ⅤⅢ. 強調原文。
-
[43]
August Forel. Der Hypnotismus oder die Suggestion und Psychotherapie. 8. und 9. Aufl. (Stuttgart: Ferdinand Enke, 1919), S. 16. 強調原文。
-
[44]
AO, S. 219. 強調原文。
-
[45]
AO, S. 225. 強調原文。Cf. Otto Lehmann. “Die Frage nach dem Wesen der Naturerscheinungen.” Naturwissenschaftliche Rundschau 4.5 (1889), S. 56.
-
[46]
AO, S. 228.
-
[47]
AO, S. 230. 強調原文。
-
[48]
Brandstetter, S. 117. またブラントシュテッターは、イギリス物理学の伝統を指摘している。S. 116.
-
[49]
Erich Adickes. Kant contra Haeckel: für den Entwicklungsgedanken gegen naturwissenschaftlichen Dogmatismus. (Berlin: Reuther & Reichard, 1906), S. 78. 強調原文。
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[50]
Ibid., S. 79.
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[51]
Ibid., S. 83. Cf. Gustav Theodor Fechner. Elemente der Psychophysik. 1. Teil. (Leipzig: Breitkopf und Härtel, 1860), S. 2-3.
-
[52]
Adickes, S. 85.
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[53]
Ibid., S. 89.
-
[54]
Ibid., S. 85. 強調原文。
-
[55]
Monika Fick. Sinnenwelt und Weltseele: der psychophysische Monismus in der Literatur der Jahrhundertwende. (Tübingen: Max Niemeyer, 1993), S. 50.
-
[56]
Ludwig Busse. Geist und Körper, Seele und Leib. (Leipzig: Dürr’schen Buchhandlung, 1903), S. 88. 強調原文。
-
[57]
Ibid., S. 99. また「並行説を全魂化の理論(die Theorie der Allbeseelung)と結びつける必要性を強調」(99-100)した代表的学者として、哲学者ハインリッヒ・リッケルト、心理学者ウィリアム・ジェイムズ、エドゥアルト・フォン・ハルトマン、エヴァルト・ヘーリング、物理学者マッハらを挙げている。Ibid., S. 99-101.
-
[58]
Ibid., S. 99, 107, 271. ただしヘッケルには、精神を物質から説明する唯物主義的傾向を指摘している。
-
[59]
Ibid., S. 133. 強調原文。
-
[60]
Ibid., S. 138-140.
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[61]
Ibid., S. 142.
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[62]
Ibid., S. 322.
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[63]
Ibid., S, 323. 強調原文。
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[64]
ヘッケルが全物質に宿る感覚としたプシヒョームについて、佐藤は「心や精神を表す『プシヒョ』に、魂や部分を表す『オーム、オーマ』をつけて造語されている」とする。佐藤、380頁。「感覚や意識は『原子に宿る魂』(Psychom[a])に帰せられる」福元、292頁。
-
[65]
フィックは「全魂化の原則は、自然の完全な機械化と同様に、その帰結である」とする。Fick, S. 49.
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[66]
浅野光紀「物理学と汎心主義」『哲學』135 (2015), 26頁。
-
[67]
Galen Strawson. Realistic Monism: Why Physicalism Entails Panpsychism. In: Real Materialism and Other Essays. (Oxford: Clarendon Press, 2008), pp. 54-74. ストローソンは、真の物理主義とは「宇宙におけるあらゆる実在的かつ具体的現象は、物理的であるとする見方」(53)と定め、そのため現象的な意識は確かに実在する以上、物理的とであると唱える。また彼は「根本的な意味において宇宙には一種類の素材しかないという『一元論的』考え」(56)を採用している。ゲイレン・ストローソン(大厩諒訳)「実在論的な一元論──なぜ物理主義は汎心論を含意するのか」『現代思想』48.8 (2020): 55-85.
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[68]
Ibid., p. 71. 強調原文。原文のイタリック体に傍点を付した。ストローソンは、ある素材は微心を持つが他の素材は持たない場合も可能としつつも、少なくとも本論文では「微心論は汎心論である」(71)と述べる。
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相馬尚之「結晶の生命から万物の魂へ──世紀転換期ドイツにおける液晶研究からの一元論的世界観の析出」『Phantastopia』第1号、2022年、156-172ページ、URL : https://phantastopia.com/1/life-of-crystals/。(2024年10月30日閲覧)