p.17417世紀フランス思想史にとって、1685年のナント勅令廃止前夜における歴史問題の浮上は大きな意義をもつ。この思潮を徴しづける出来事として、新旧両教会の理論家たちが繰り広げたカルヴァン派の歴史をめぐる論争や、サン・モール会士ジャン・マビヨン『文書の形式について』(1681年)による文献学的批判の方法の確立が挙げられる[1]。これらの動向は、歴史叙述における論証のあり方を根本的に問い直すものであった。その過程では、論証の根拠となる歴史的事実の取り扱いについても、内容と形式の両面から、再検討がなされた。本稿は、当時のフランス教会における随一の権威であり、また王権の近傍に位置した司教ボシュエの一著作から、上記の動向と一定の関わりをもつ箇所を取り上げ、このカトリック思想家の歴史をめぐる思考を同時代的言説のうちに再定位するための手がかりを得ることを目的とする。
1681年初出のボシュエ『普遍史論』は、はじめルイ14世王太子の教育のために計画された。著作全体を貫く企図は、カトリック教会の正統性を、その歴史的事実としての永続性によって証明し、そのうえで、やがて教え子が担うことになる(はずだった[2])世俗権力をその枠組みのうちに位置づけることである。また、著作全体の冒頭にあたる一文に「たとえ歴史が他の者たちには無益であったとしても、王侯には歴史を読ませなくてはなりません」とあるとおり[3]、第一に想定される読者は、あくまで良き君主へと教導されるべき王太子そのひとである。その意味で、『普遍史論』は、論争的な著作というよりも、むしろ教育的な性格を色濃く持つ著作というべきである。他方で、すでに述べた同時代的言説の中にあって、カトリック教会の正統性を説得的に示すためには、少なからず論争的な内容に踏み込む必要があった。
とくに「宗教の筋道」と題された第2部については、異教徒や異端による異説をとりあげ、それを反駁する論争的な箇所を多く指摘することができる。第2部におけるこうした論争的性格の表出は、議論の組み立てから説明されうる。すなわち、カトリック教会とその教義の永続性を示し、それを「永続という奇跡」、「神の導きの普遍性の紛れもない証言」として称揚することがボシュエの企図であるとして[4]、しかしその「永続性」とは、こと論証の場においては、本性上、変化という事実の否定というように否定的にしか確保されえないものであるから、必然的に、弁護の側は、変化を主張する異説を取り上げたうえでそれを反駁するという構成を取ることになる。
たとえば、第27章「宗教の筋道、そして聖書の各巻がもつ関係についての一般的考察」に見られる次の一節で、ボシュエは、マルコ、マタイ、ヨハネの三つの福音書をルカの福音書から派生した変造書であるとするマルキオンやマニの異説を取り上げたうえで、それを次のように斥ける。
p.175しかし、彼らは一体その説にどういう証拠(preuves)を与えたというのでしょう。これは単に錯覚によるものであって、実定的な事実といえば皆無です。彼らはその理由として、彼らの感性に反するものは必ずや使徒以外によってでっち上げられたものであるはずだということだけをあげ、またその証拠としては、まさにひとがそれを以て彼らに異議を唱えるところの臆見、あまりに突飛で、どうみても気の触れた意見であるために、どうしたらそんなものが人間の精神のうちに入り込むことができるのかすらもわからないような臆見を言い立てるのです。しかしながら、教会の良き信仰を責め立てようとするなら、彼らは教会のそれとは異なる原本か、何か確実な証拠を手に入れなければならなかったでしょう(Mais certainement pour accuser la bonne foi de l’Église, il fallait avoir en main des originaux différents des siens, ou quelque preuve constant)[5]。
ここでのボシュエの反駁は、裁判における挙証責任のモデルに対応する。つまり、すでに伝統として確立された信仰に異議を唱える以上、「確実な証拠」となりうる「実定的な事実」を提出する義務を負っているのは、「控訴人」である異端の側であって、伝統を支持する「弁護人」の側ではない。一般的には17世紀後半の神学論争全体について、また個別的にはボシュエの立論について、その構成の法廷的な性格はこれまでも指摘されてきた[6]。
事実、この章においては、「証言(témoignage)」という法廷的な性格をもつ語彙が、鍵語の役割を担う。ボシュエにとって、聖書の存在理由は、「証言」という機能から説明されるものである。キリスト教徒の信仰は、聖書に記録される奇跡によって支えられているが、それははじめ「聖なる真実を証す感知可能な証拠」として、古代のヘブライ人によって目撃された[7]。ただし、そうした奇跡を後世のわれわれが信仰のよすがとしうるのは、ひとえにそれが聖書の中に記録されているからである。それゆえ、ボシュエは次のように述べる。「神は、自身の唯一性と全能の証言として奇跡をなしました。その記憶を留めおくために、奇跡を時の秩序に従って証言する記録を偉人たちの手に託すよりも、正しいやり方があったでしょうか」[8]。
信仰を支えるものとして、二重の「証言」がある。第一に、その「唯一性」と「全能」の「証言」として神がヘブライ人に与えた奇跡があり、第二に、その奇跡の「証言」としての聖書がある。キリスト教徒にとって第一の「証言」の有効性は疑いを容れない。同様に、第二の「証言」である聖書についても、そこに疑義の余地があると直截的に言うことは難しい。ただし、世紀初頭以来、発展の一途をたどり、ボシュエ自身が旧来のスコラ神学に対するその優位を認めるまでに至った当時の「実証神学」と[9]、その方法としての「批判(critique)」の対象範囲は、この時期には、すでに教父学の範疇を超えて、聖書のテクストそれ自体にまで拡がりつつあった。すでに引いた異教徒に対する反駁も、古代の論争の再説というよりもむしろ、こうした同時代的状況の中にある記述として読まれるべきであろう。実際、ここで取り上げる第27章には、文献学的観点からの聖書の正統性の擁護としても読まれうる箇所が散見される。なかでも、明白にその観点に依拠する一節を引用しよう。
p.176聖アウグスティヌスならびにその他の教父は、われわれはいかなる信用によって、世俗の書物を特定の時代、特定の作者に帰すのかと問うています。その誰もが、ただちに、書物はそれぞれがある特定の時代の法、慣習、史実との間に結ぶ関係、特定の作者や時代の性格を刻み込まれた文体によって、またそれらすべて以上に、公に認められた信用(foi publique)と確固たる伝統(tradition constante)によって、それとして認証されるのだと答えています。こうした物事すべてが、聖書[の正統性]を証明し、その時代を判定し、その作者を指し示すために結集するのです。そして、宗教がそうした物事をその全体において保存していればいるほど、我々が保存する伝統はますます議論の余地のないものであるのです[10]。
この引用について、二つの点を確認しておきたい。第一に、アウグスティヌスら古代の教父にとっては「世俗の書物」に関するものでしかなかった考証の方法を、ボシュエそのひとが聖書に適用していること。第二に、考証のための公準が、いわば二階建ての構造を持つものとして提示されていること。第一の点に関しては、すなわち新たに形成された文献批判という「方法」が聖書にまで及びつつあったという、すでに述べた時代状況を想起すれば、さしあたり不足はない。ここでは、「事実」と「証拠」をめぐる考察を進めるために、第二の点に注目したい。
ボシュエによれば、キリスト教世界における伝統的古事学は、二つの水準の事実を「信用(foi)」として認めてきた[11]。低次の水準に属する事実として、ある時代に特有の法・慣習・史実との関係を示す記述内容と文体的特徴が、そして高次の水準に属する事実として、「公に認められた信用」と「確固たる伝統」があげられている。「公に認められた信用」と訳出したfoi publiqueは、法廷的な語彙体系においては「公証」を意味する。公証人のサインを伴う法的文書の正当性を敢えて疑うものは、明白な根拠を提出する責任を負う。書物についても、たとえば同時代の信用ある人物が、ある作品を特定の著者に帰している場合、その言明に異議を唱えるには、その背景にある特別な事情を説明しなければならない[12]。引用後半の聖書に関する記述においては、著者である使徒自身の信頼性と、古代より聖書を受け継いできた数多の権威ある教父たち、そして他ならぬカトリック教会の「確固たる伝統」が、この「信用」の内容と考えられる。
ボシュエは「信用」と「伝統」を、記述内容や文体的特徴よりも高次の公準としていた。このような公準の階層的構造は、テクストの批判的研究によって得られる諸事実を振りわける機能をもつ。すなわち、聖書に関する「公に認められた信用」とカトリック教会不易の「伝統」に適する限りで、諸事実は、信仰を支える「証拠」たりえるのである。翻って、この高次の公準に準拠しない事実、ジャン゠ルイ・カンタンの表現を借りるならば、「証拠を構成しない事実──あるいは、より正確に、証明するべき事柄を証明しない事実」について[13]、ボシュエはこれを「瑣事(minuties)」として取り合わない。
循環論法、より強くいうなら、傲岸な理路と映るだろうか。しかし、一定の筋は通っている。そもそもボシュエにとって、カトリック教会の永続性は、「議論の余地のない(incontestable)」事実であり、単純明瞭な「真理」である。というよりむしろ、「真理」とは定義上、単純かつ明p.177白で詮議不能なものであり、その最大の例の一つこそが、カトリック教会の永続性であるというべきか。かといって、異説が正当であると認められる余地が残されていないわけではない。見かけ上はカトリック教義の伝統に反するかに思われた主張が、しかし実際にはそれと合致していることさえ示されれば、その説は教会の伝統と統一性のうちに、いわば解消されうるからである。
あまりに自明であるためにかえって見えにくくなりかねないが、定義に立ち返れば、「証拠」あるいは「証言」がそう呼ばれるのは、それらが「真理」と関係をもつ限りのことである[14]。その意味で、「虚偽の証言」ないし「あるものが虚偽の証言をした証拠」などの用例は考えられるとしても、「虚偽」それ自体と関係をもつ「証言」、「証拠」なるものは語義矛盾である。キリスト教徒にとって、「真理」とは神の言葉それ以外に、まして「世(monde)」[15]の事柄のうちにはなおのこと、まずありえないのだから、上記の条件を満たす対象のみをボシュエが「証拠」、「証言」と認めるのも、畢竟、当然の成り行きであると言わねばなるまい。換言すれば、通常そう考えられるように、事実性の公準によって認証された「証拠」や「証言」の集積が「真理」への接近を許すのではなく、その反対に、確実かつ不動の「真理」の側が「事実」を照らしそれを「証拠」や「証言」としてわれわれに再び呈示しなおすのが、ボシュエの「正統的な」思考ということができるだろう。
ボシュエが、奇跡を一次的な証言、聖書を二次的な証言とみなしたことについてはすでに述べた。さらに進んで、この「証言」という性格こそが、旧約と新約の性質上の差異を規定するとボシュエはいう。ボシュエはまず、旧約聖書に収まる諸巻の成立年代におおきな隔たりがあるのに対し、新約聖書に収まる諸巻は、「使徒の時代に属するものが全て」であることに注意を促す。二次的な証言であるふたつの聖書におけるこの成立過程の差異は、一次的な証言としての奇跡の背後にある神の意図の差異に対応する。まず神は、「感覚に縛られた民の不信仰を説き伏せるために[…]聖なる真実を証す感知可能な証拠を度々あらたに示」した。長い広がりをもつこの期間に与えられた奇跡を証言するのが、旧約聖書である。対して、新約聖書の神は、奇跡によって人間に真理を開示するために、もはや長い期間を必要としない。イエス・キリストこそが「完全」にして「無欠」の証人であるからである。そして十全な「証拠」が提出された以上、以後教会は、「使徒によって書かれたものと、使徒がその権威によって承認したもの」だけを「神によって吹き込まれたもの」とみなせばよい。「イエス・キリストの証言と、イエス・キリスト自身がその復活の証人としたものたちの証言で、キリスト教会にとっては十分」であるのだから[16]。
つまり、実のところ、ボシュエにとって「裁判」は完全に「閉廷」している。神の手になるこの世界の秩序は、すでに十全なかたちで「立証」され、「判決」は明白かつ確然と下されたのであって、そこに付け加えられるべき「証拠」は何ひとつ残っていない。批判的テクスト研究は、この認識上の組み立ての範囲にその働きを限定される。福音以後、もはや新たな「証拠」が認められる余地はないのだから、この新しい「方法」に期待されるのは、すでに十全な形でそれとして認められた「証拠」を改めて呈示することである。
p.178後年のボシュエは、「モーの鷲」の異名とともに、苛烈な論争家としていまなお記憶される。なるほど彼が多くの論争に参加し、ときに彼のいう「瑣事」をめぐってさえ争ったことは、端的な歴史的事実として認められる。しかし、これまで示してきたように、少なくとも原理の水準では、ボシュエにとって、教義をめぐる「裁判」はその可能性から挫かれている[17]。「宗教の連続」を示す第2部の末尾近く、その第一の読者である王太子に言い聞かせるように、ボシュエはいう。
そうして、神慮は不変の様態において完了しています(se terminent par un état immuable)。[…]これこそ、現にあなたの眼前に要約されました宗教の筋道(la suite de la religion mise en abrégé devant vos yeux)が教えることです。時によって、その筋道はあなたを永遠へと導きます。すべての神の思し召のうちに、あなたは確然とした秩序を見、またその民の永続のうちに目にも明らかな証拠を見るのです(Vous voyez un ordre constant dans tous les desseins de Dieu, et une marque visible de sa puissance dans la durée perpétuelle de son peuple)[18]。
十全に立証された世界は、不変の様態のうちに停止する。信仰を弁護するものに、それゆえ、新たに論証を企てる必要はなく、単にそこにある永続性を呈示すればよい、そしてまた、良き信をもつものは、その「目にも明らかな印(marque visible)」を「見る」ことで十分である。スコラ的思弁に実証研究を優先させるボシュエの態度は、法的な構成をもつ議論にそれが有用である点には還元されず、むしろ、それより深い水準にあるこの「完了」の認識に由来しているのではないか。こう考えるとき、「論争」の一語が呼び寄せる鋭利にして敵対的なイメージの彼方に、また別のボシュエの顔が垣間見られるようにも思われる。
Notes
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[1]
この時期の歴史問題をめぐる思想史的状況ついて、以下に多くを学んだ。野沢協、「補巻解説」、『ピエール・ベール著作集』、補巻、法政大学出版局、2004年。
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[2]
ルイ14世王太子ルイ・ド・フランスは、1711年4月14日、ルイ14世より4年早く逝去し、ついに即位はしなかった。
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[3]
Bossuet, Discours sur l’histoire universelle[1681], Œuvres complètes, éd. F. Lachats, Paris, Louis Vivès, 1864, t. XXIV, p. 260. 以下、ボシュエからの引用はこの版に依拠し、OCと略記したうえで、巻数と頁数を指示する。
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[4]
「つねに攻撃され、しかし決して揺らぐことのないカトリック教会は、永続という奇跡なのであり、また神の導きの不変性の紛れもない証言なのです」。 OC, t. XXIV, p. 536.
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[5]
OC, t. XXIV, p. 542.
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[6]
法廷的な議論構成に関して、17世紀の神学論争一般については以下を参照した。Jacques Le Brun, Le Pur amour, de Platon à Lacan, Paris, Seuil, 2002, p. 11. また、塩川徹也、『虹と秘蹟 パスカル〈見えないもの〉の認識』、岩波書店、1993年、179頁。とくにボシュエの立論については以下を参照した。Anne Régent-Susini, Bossuet et la rhétorique de l’autorité, Paris, Honoré champion, 2011, p. 134 ; Jean-Louis Quantin, « Bossuet et érudition en son temps », Gérald Ferryrolles et al., Bossuet. Le verbe et l’histoire (1704-2004), Paris, Honoré Champion, 2006, p. 89. 付言すれば、当時の神学論争に加わる理論家たちにとって、不可避の公準であった「批判」の方法自体が、法的な書類という意味での「文書(texte)」を対象として練り上げられたものであった。その集大成というべきマビヨン『文書の形式について』で取り扱われるのも、文字で記録された書類一般ではなく、この限定された意味での「文書」である。
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[7]
OC., t. XXIV, p. 539.
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[8]
OC., t. XXIV, p. 536.
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[9]
ボシュエは、教授資格取得直前の学生に宛てた1675年の手紙で、大学で学ぶスコラ的思弁はあくまで予備課程に属するものと考え、今後は原資料の実証研究に勤しむことを勧めている。Quantin, art. cit., p. 67-68.
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[10]
OC, t. XXIV, p. 540.
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[11]
もちろん、foiは宗教的な「信(徳)」の意味を第一に想定するべき語である。しかしここでは、アウグスティヌスら古代教父の議論は「世俗の書物」についてのものであることを鑑みて、非限定的な「信用」という訳語を選択した。併せて、註7を参照。
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[12]
以下を参照した。塩川、前掲書、p. 183。
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[13]
Quantin, art. cit., p. 89.
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[14]
『フュルティエール辞典』(初版1690年版)によれば、「証拠(preuve)」とは、「ある事柄が真実であることを説得したり、知らせるために用いられる手段(Moyen dont on se sert pour persuader, pour faire connaître qu’une chose est véritable)」であり、また「ある事柄の真実を示す表徴や印(des signes, des marques de la vérité de quelque chose)」である。なお、本稿では、言語表現としての「証拠(preuve)」について考察するため、「証拠」と「証言(témoignage)」の区別は措くこととする。
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[15]
「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行なっている業は悪いと証しているからだ」(ヨハネ7.7)。新共同訳から引用した。この箇所は、「真理への憎しみについて」と題された、1666年4月11日の説教の冒頭に、ボシュエ自身による以下の仏訳を付して引かれている。« Le monde ne peut point vous haït, et il me haït, parce que je rends témoignage de lui que ses œuvres sont mauvaises. », Sur la haine de la vérité, Œuvres oratoires, éd. Ch. Urbain et E. Levesque (révision de l’ancienne édition J. Lebarq), Paris, Desclée de Brouwer, p. 137.
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[16]
OC, t. XXIV, p. 539.
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[17]
この「原理」と「実践」の乖離について、前出のカンタンは次のように簡潔にまとめている。「時にボシュエは、義務感ゆえに、敵対者に答えるべく[瑣事について]論じもした。[…]しかし彼は、決まってうんざりし、そうした「瑣事」を一掃して終いにするのだ」。Quantin,. art.cit., p. 89.
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[18]
OC, t. XXIV, p. 569.
この記事を引用する
伊藤連「十全に立証された世界──ボシュエ『普遍史論』第2部における論証と呈示」『Phantastopia』第1号、2022年、173-179ページ、URL : https://phantastopia.com/1/bossuet-dhu-demontrer-et-montrer/。(2024年12月03日閲覧)